【!】S6-9「青い楽園」後のお話です。ネタバレにご注意ください。
手紙の書きだしはいつもDearにすべきかどうか。そんな些細な事に5分を費やす。 『やぁ、久しぶり。僕は元気だ。君はどうだろうか。僕の方は相変わらずだ。何も変わらない』 結局書きだしはいつも無難。手紙に使う紙はいつも粗悪な紙質のレターセット。それでもこの近辺の中で一番いいものを扱う店で――しかしこのレターセットも何故か日によって価格が変わるのだが――散々吟味して購入した。この界隈に居を構えた頃に近くを散策しているうちに偶然見つけたのだ、と誰に聞かれたわけでもないのにジェーンはそう思っているが、実の所、周辺を散策しながら、途中からレター探しにかなり意識を割いていた。つまりはそういうことでしかない。 彼女に送る手紙は専らこのレターセットを使用する。そして10枚5種類入りのその中でもシンプルで気品のある柄を選んで使う。彼女に送って失礼が無いようなものを。結局いつも同じ柄になってしまうのは仕方ないことだが、いわば彼女の所に届くこの手紙はその男――パトリック・ジェーンのチェックを2回もかいくぐっていることになる。 時間だけはある。どれだけレターセットを選ぶのに時間を費やそうが、書きだしにどの言葉を選ぶかに時間をかけようが、そんなものは些細なものだ。メキシコのこの地でのジェーンの日々は至って穏やかだった。2年前に比べれば酷く恐ろしく。あまりに平らかで。神経をとがらせ、表面上は平静を繕い飄々としながら内心では目をぎらつかせ、R・Jの首をこの手で絞め殺す事を考えながら生きていたあの頃と比べれば。はるかに。 しかしながらここは天国では無い。平安のみでもない。何故ならここはメキシコだ。深夜は気軽に歩くべく場所ではなく、道端にはいかにもという風貌のバイヤーらしき男もいる。この地で見かける欧米人は明らかに何か後ろ暗いものがありそうな者ばかりだ。それがもちろんジェーンも、だが。いかにも金のない様子を見せながら、伸ばした無精髭に3回洗濯しただけで裾がごわごわになってしまうシャツを着て、むやみな争い事を避けて通す。それが今のジェーンの生き方だ。今のジェーンの姿を見れば、過去に様々な修羅場を共に駆け抜けてきたあのチームのメンバーは目を剥いてそして笑うのだろう。 だがそれは想像だ。ここでジェーンは英語を話す機会は殆どないし、確かにここは静かではあるが、彼は少し寡黙になった。そんな毎日がここがメキシコであることを容赦なく突き付けてくると、美しい海とどこか癖のあるぬるいミルクティーの組みあわせにジェーンは思う。 ここは楽園に近いが決して楽園では無い、と。 ――貴方が?柄もののシャツ?しかも洗濯をしたらすぐにゴワゴワになるようなシャツを?まさか。 不意に思い浮かんだのは、その大きな目を更にまた少し大きくしてから、整った眉を少し下げながら口角を少し上げて、笑みを殺そうとして失敗して、隠すことをほんの少し諦めて言う彼女の――紛うことなく今ジェーンが手紙を書いている相手――テレサ・リズボンの表情だった。声まで浮かんで、ジェーンは心の中で『酷いなぁ』と返事をする。勿論リズボンの言葉も想像なら、ジェーンの返事も想像でしかない。その言葉を聞いて少し肩を竦める、そのタフな精神とは対照的な華奢な身体のラインも、ジェーンの脳内で完結し、先は無い。 酷く現実に引き戻され、知らずに浮かんでいた笑みを気を取り直すように引き締めて、ジェーンは続きを書く。 『この前送ったタカラガイは気にいって貰えただろうか。随分見事な大きさだったので驚かせたかもしれない。けれど少しでもこの地の海の美しさを君に届けることができていればいいと思う。本当にこの海は美しい。朝の中の輝く地平も、日中の縁がきらめく水面も、夕焼けに照らされて燃える見事な色合いも。とても。とても平和だ』 つい先日、送ったその貝はジェーンの片手に余る程の大きさで、日課の浜辺の散歩の途中で偶然見つけたものだった。欠けた所のない、完璧なその形と、加工されていないにも関わらず見事な光沢を持った色にジェーンは迷わずそれを送る事を決めた。相手など考える間もなく一人しか浮かばなかった。彼女しかいなかった。 本当は。ジェーンは痛いほど、そして実に正確に理解していた。連絡をこうしてとり続ける事で及ぶリスクのほどを。1週間と間をおかずに送る手紙や、貝殻を詰めた小さな小包、サーカスの仲間を経由して送ることで生じるリスクの程度を。伊達に長く捜査機関に身を置いてたわけではない。 ――僕は大丈夫だ。さよならだ、リズボン。 あの日ジェーンはあの墓地の外れでリズボンの留守番電話にその言葉を残した。本当は安全を弄するのであれば電話であっても連絡をすべきではなかった。あの状況でリズボンの携帯電話がFBIに押収されないはずではなかったのだから。 それでもあの時――FBIに足止めをされてR・Jとの待ち合わせ場所に間に合わないか、よもやここまでか、と思ったあの瞬間に、行って、と他の誰でもなく、そう言ったのはリズボンだった。あの瞬間、どう転ぼうと――ジェーンが勝つにしてもR・Jが勝つにしても――何処かでもう二人の道は交わらないと何処かで予感していた。ジェーンがR・Jをこの手で殺すと公言して憚らなかった最初から、リズボンがジェーンの執念に一定の理解を示す様になってから、CBIが解散され権力の庇護がいよいよ無くなったと確信した時から。二人は言葉に出さずとも頭の片隅にそのことは置いていた。 さよならだ。留守録に吹き込んだあの言葉、それは本心だった。あの時ジェーンは全ての繋がりを断つつもりでそのままカリフォルニアから――アメリカから出た。あの時はそれをするしかないと思っていた。事実そうだった。何処かで帰りたいという懐かしさにも似た気持ちを抱えながら、今もそうだ、アメリカに戻る事が出来ないからここにいることが確かな証左だった。 それでも「さよなら」は無理だったのだ。確かにジェーンにとって、それは無理な事だった。 あの墓地での出来事からこの地にジェーンが辿りつくまでに各地を巡って1か月。こここそ安全だとリサーチを重ね、ふらりとやってきた異邦人として現地の人間と顔見知りになり、徐々に地盤を固め、ようやくアパートを借りるまでにさらにプラス1か月。ジェーンは正しく慎重に周到に事を運び――もちろんメキシコとアメリカ間の犯罪人引き渡し協定を踏まえてのことだが――ここの地で、外国人が多く泊まるホテルのポーターとも懇意にし、街中の情報通の人間からは定期的に情報を買い、郵便局での情報収集もほとんど毎日欠かさないまでになった。 そうしてスペイン語の辞典を眺めながら、酷く穏やかな日々を過ごすうちに――今まで想像さえできなかった復讐から解放された日々の中で――どうしても我慢できなかったのだ。英語に飢えていたという事もある、あるが。 そしてジェーンはペンをとった。 ジェーンが幼い頃を過ごしたサーカス団を経由してその手紙はリズボンに渡される。サーカス団の定住地をもたない暮らし方は捜査機関のマークを逃れるし、加えて元CBI捜査官、現警察署長との接点などゼロにしか見えないからだ。案の定、ジェーンは定期的に手紙を――それはかなりの頻度になりつつあるが、ジェーンはそれをこの暮らしの中の穏やかさのせいにしている――送っているのにも関わらず、FBIに追跡された気配は未だない。 しかしリズボンからの返事はジェーンに届く事は無い。 手紙は返さないでほしい、と折に触れてジェーンが手紙の中で書いているからだ。長年捜査官としてやってきた優秀な彼女の事だ、ジェーンのそう言う所の意味も重々承知している。メキシコからアメリカに入る手紙の追跡リスクと、アメリカ国内から出ていく郵便物の追跡リスクを勘案すれば、リズボンが返事を書くのは例えサーカス団経由だとしてもリスクが大きすぎる。 彼女から直接情報を得る事が出来ない代わりに、サーカス団の仲間からちらりと教えてもらった情報ではリズボンはワシントン州の田舎の警察所長をやっているらしい。CBI閉鎖に伴い、再就職先を探していた彼女はいくつかの捜査機関から声がかかったようだったが、最終的にそこに落ち着いたようだ。R・J事件はそれだけ世間の注目とCBIの名前を全国に知らしめてしまったということだ。人の多い場所で働くには彼女の周囲は騒がしくなり過ぎる。彼女にとっては住み慣れたであろう、カリフォルニアの住居も疾うに引き払い、暖炉のある家で独り暮らし。恋人はいないようだ、と聞いてもいないのに教えられた。 彼女が署長をしている警察署のある地名を聞いてジェーンは思った。そこは酷く長閑ではあるだろう。優秀な捜査官たる彼女の能力をもてあます程度には。 だが、彼女がそのことについてどう思っているのかを聞けはしない。やはりあの日から彼女からの手紙はおろか、声さえ聴いていないのだから。その道を選んだのはジェーンなのだから。 だからリズボンがきっとジェーンに言うであろう『安全を考えれば、貴方はもう私に手紙を送ってこない方がいいわ』というジェーンを純粋に心配しているだけの、しかしジェーンにとっては酷く苦い言葉も聞かずにすんでいるのだが。 *** そんなある日のことだった。その日もいつも通りの時間に起き、暖かい紅茶を飲み、そして海辺を散歩し、サーカス団あて、最終目的地ワシントン州への手紙を出そうといつもの店に出向いたところ、何時もと違う言葉をかけられたのだ。 『手紙が来てるよ』 『手紙?僕に?』 『アンタ以外に誰がいるんだい?』 こんなことは初めてだった。サーカス団の仲間かとも思ったが、そちらの手紙は安全を期するために、ポーターや、港の知り合いや、街の子供、その都度、次の手紙の送付先をジェーンは指定していた。少なくともこの店で受け取ることにはしていない。 『いや、そうだね。当たり前のことを聞いたね、すまない』 一つの予感が、あった。 まさかと思う気持ちと同じくらい、どこかで絶対にそうだと確信している自分にジェーンは気が付いていた。 『…ありがとう、手間をかけたね』 ジェーンは恰幅の良い女性にチップを渡す。勿論、自分あてに手紙がきたことを誰にも言わないでくれと言うその意図は十分に通じただろう。表面では何時もの表情を崩しはしなかった。……はずだが、慌ててポケットから出した紙幣を広げて枚数を数える事にジェーンは思い至らず、後で渡しすぎたことを知るのだが、今のジェーンにとってはそんなことは些細なことだった。 目の前の白い封筒。それは気取りずぎることなく、かと言って安くなく、きわめて実用的で、しかし品のあるその封筒からジェーンの視線は外れることはない。 にんまりと渡された紙幣に口元を僅かに緩めたその表情を背に受けて、しかしそれに気をかけることなく、ジェーンは日課の海辺の店に行くことを当然にやめて、家路を急いだ。 ――ハイ、名前は書かないでおくわね。きっと貴方は分かってくれるでしょうから。 「…」 予想は当たったが、その文字を見るとジェーンは息をのまずにはいられなかった。 その筆跡を見間違えるはずは無い。封筒の宛名には『パトリック・ジェーン様』という一言。家路を知らず早足になっている中で確認したその文字の筆跡。封筒を裏返せども、隅から隅まで見ても差出人の名前は無い。 ――久しぶり、と書くのは違和感があるわね。いつも手紙をありがとう。 ジェーンはその文字をじっと見た。焦るように、早く読み進めろ、と急かす自分と、彼女の言葉を早々に取り込んでしまう事を酷く勿体ないと感じる自分をジェーンは知る。 は、と短く息を吐いてジェーンは一旦顔を上げる。開けたままの窓からはメキシコ特有の高度の高い日差しと、熱風と、騒がしげな雑音と、雑多な街並みと静かな青空が入り込んでくる。 ジェーンは再び視線を落とす。続きはリズボンの近況と、嘗てのCBI時代の仲間が今どうしているか、ワシントン州は平和で、夜はゆっくり暖炉の前で本を読める事。そんな彼女の日常が、ジェーンが今まで近況を綴ってきたお礼のように静かに綴られている。人づてではない彼女自身からの言葉。ジェーンは速読気味の自分を諌めるように意識してゆっくり読む。 ――貴方にこの手紙を送るべきか。私は悩みました。だって貴方もそれを望んではいないだろうと分かっていたからです。けれど私はこの手紙を送る事にしました。 2枚目の便箋に入る頃になると、少しばかりかしこまった調子でそんな言葉がつづられていた。ジェーンはこの手紙の確信が近づいていることを知る。よもや近況のためだけに、いかなる時も思慮深いリズボンが手紙を送って来るとはどうしても思えなかったからだ。 しかしながら巧い言い回しだとジェーンは手紙を見つめながら思った。直接的に『貴方が手紙に返事を寄越さないように言っていたからです』などと書けばそれだけで、ジェーンが手紙を出していること、それをリズボンが受け取っていること、懇意にしていることが芋蔓式に明らかになる。それはもしも今もジェーンを追っている捜査当局に見つかってしまえば、言い逃れが難しく、容易に不用意な情報を漏らしかねない。手紙を送るというリスクを敢えておかす中でリズボンが最大の注意をはらっていることが感じられる。 ――貴方からの手紙を読んでいて、綴られる景色に日々の穏やかさを感じます。私には、貴方にとってその日々が必要なのだと心から思えます。貴方が生きるために。貴方はあの日から走ってきた。走っていないようにみせかけて、誰よりも走っていたのだと、私は敢えて言おうと思います。貴方は癒されていい。もう癒されて過ごすべきだと思います。私は今は身の丈にあった生活をしています。私は貴方にこれを伝えたかった。これは私の我侭です。貴方の手紙を楽しみにしている事も。本音を言えばカリフォルニアの美しい海とあの気候が少しばかり恋しい気もします。この州は寒いので余計にそう思うのかもしれません。冬の海は鈍色をして、空は時に泣きそうな色をしています。けれど雪景色はあまりに白く、目を奪われます。この地はカリフォルニアとは、あの日々とは確かに違うけれど、しかしその違いを私は嫌だとは思ったことはありません。最後に、貝をありがとう。黙っておくつもりだったけれど、実は私のデスクの上に飾っています。 それが手紙の最後であることを確認したジェーンは、ああ、と小さく息を零した。手紙の最後には「また」とも「さようなら」とも書いていなかった。それが酷く彼女らしいと思えた。 山ほど騙してきた。例え傷つける意図など一つとして無かったとしても。しかし検挙率と引き換えにしてキャリアを傷付けたこともあった。それを彼女は誰のせいにもせずに自分の監督不行き届きだと何度も言って、自分の努力でカバーをしてきた。そうしてブレイク結社のせいとはいえ、CBIは解散し、結局リズボンは失職した。彼女の本来の力をもってすればもっといい引き抜き先はあってしかるべきであったのに、彼女は今やワシントン州の片田舎の警察署長だ。今までの出来事で騒ぎを避けたい各種機関から倦厭されたのではないかと容易に推測できたが、彼女はやはり、決してそれを言わない事もジェーンには分かっていた。その上で何も気にするなと彼女は敢えて手紙を出すことでジェーンに伝えてきた。もう手紙を送るなとも決して書かない。全てをジェーンにゆだねている。 会いたい。ジェーンは思った。 ジェーンは今まで決して輪郭をもたせていなかった感情に、今、言葉をつけた。 手紙を持ったまま、ジェーンは顔をあげる。先までと変わらず外からは微かな雑踏、空は青く、風は生ぬるく、陽は煌めいている。 確かにここは楽園だった。確かにジェーンにとって楽園だった。追うべき仇はいない。敵の正体を見極めるために策を弄する必要もなく、無実の人間がやみくもな狂気に腹を裂かれることもない。気候は暖かく、時間には追われず、何をしなければならないでもなく、浅い眠りに悩む頻度もぐっと減った。 しかし、違う、とどこかで何かが囁いている。今まで聞かない振りをしていた自分の声が囁く。 ――ここは楽園に近いが決して楽園では無い。此処には彼女がいないだろう、と。 *** それは恐らくしかるべきタイミングでしかるべき出来事だったのだろうと、運命など微塵も信じていないジェーンは思う。 キャリアと人生に迷っている一人の女性旅行者。アボット捜査官の登場。どこかで楽園の秘密が暴かれる居心地の悪い予感がしながらも、しかしそれは箱のふたを閉めていたような閉塞の終わりの予感でもあった。 そして決定打とも言えた瞬間は。 ――リズボン。 朝の陽ざしの中、輪郭が陽の中に融けてかろうじてブルネットと分かる背中に本当に言いかけそうになったその瞬間だった。 寝起きだからこそ、そう思ってしまったのだと言うには――あまりにもジェーンははっきりと認識してしまった。キム、後にフィッシャー捜査官と分かるその女性と簡単にリズボンを見間違えてしまった事に、ジェーンはいよいよ彼女を希求している事を認めないではいられなくなった。否、むしろ今まで認めず誤魔化してきたことに小さな切欠が重なってとうとう誤魔化しきれなくなったのだった。 そうなればジェーンにとってもう何も迷う必要はなかった。安穏の中で使うことを少しばかりやめていた、時に人からサイキックとさえ呼ばれるその能力を最大限に生かせばいい。 「条件がある」 そう、譲れない条件が。紙ナプキンの中に書き連ねた条件の中でもとびきり一番、絶対に譲れないものが。 「リズボンと僕を組ませろ。そんなに難しい条件じゃないはずだ」 ――そして彼は楽園に似た、しかし楽園ではないここから足を踏み出した。 白と青の境界線 -fin- |