酷く静かだった。 幸村はじっと身じろぎせず、ただ一点を見つめていた。ただひたすらに。 何かを信じているかのように。何かを決意したかのように。 佐助はその幸村の見つめる一点が何処なのかよく分からなかった。ただ少し暗いこの部屋の天井辺りを見ているのだと言う事しか分からなかった。しかし見ているのは天井ではないのかもしれない。そう。もっと遠くの。 佐助はうっすらと気付いていた。 主が何を決意し、何をしようとしているのかを。 ある秋の日 「行かなければ、」 ぽつり、と幸村は呟いた。 佐助は何を言うわけでもなく、ただ幸村を見つめ続けた。ただ佐助のその視線はその先は言ってはいけない、とでも言いた気に少し強いものだった。しかしそんな佐助の視線も今は意味が無い。 幸村は、佐助を見ていなかったからだ。 「行かなければ」 今度ははっきりと幸村は呟いた。 「…駄目だ。旦那」 言い聞かせるように佐助は言った。その声は普段、佐助を知っている者が聞けば驚くほど硬く、低かった。 「み首を曝しておくわけにはいかない」 「旦那、」 佐助の声色はやはり酷く、ひどく、硬かった。 そして佐助が幸村に言い聞かせるように語尾を強めて名を呼ぶのも、普段は無いに等しい。佐助は幸村の部下だ。そして幸村は佐助の主だ。 しかし、今は。 「六条河原、に」 「旦那!!」 佐助が声を荒げた。静かな上田城の一室にその声は驚くほどの声量を持っていた。しかしその声にのろりと幸村が視線を向けるだけで、その佐助の声の、行動の意味が良く分かっていないようだった。 その目は幾度の戦に決して怯むことなく挑んでいった、猛将の目に違いなかったが、何処か酷く不安定に揺れている。 佐助はその主の姿に怯むことなく、正気を湛えた強い目で幸村に言い聞かせるように言った。 「旦那、六条河原には行けない。無理だ。…今はただでさえ監視が付いてる。今、旦那もどうなるか分からない状況になっている事を忘れてちゃいけない」 佐助はちらりと庭の方を見た。忍び。それは酷く優秀な忍びなのか、巧妙に姿を木陰に隠しながらチラチラとこちらを伺っている。それを気付ける事が出来るのは佐助が優秀な忍びである事の証明に他ならなかった。恐らく真田忍隊の中でここまで見抜けているのは長である佐助のみだ。 少なくともその忍びは3人は潜んでいる。間違いなく徳川の監視の忍びだ。 天下分け目の関ヶ原の戦い。 その戦いに西軍は、負けた。 上田で幸村が援軍の足止めの為に奮戦したにも関わらず。米沢で上杉軍が東北の東軍勢力を押さえたのにも関わらず。 関ヶ原での相次ぐ味方武将の裏切り、離反。佐助が聞くに最後はもう西軍は総崩れに近い状況で敗戦を余儀なくされたのだという。 軍師、島左近は討死。 そして石田三成は。 「しかし三成殿の、み首が、さらされ、て。…行かなければ」 幸村の視線は遥か遠くを見つめていた。まるで京の六条河原を見ているようだった。否、確かにその眼は信濃から遥か京を見ていた。佐助は確信した。 幸村は見ている。石田三成の首、が晒されている、その六条河原を。 「…旦那、」 兼続は上杉家の為に家康側に付くという。 佐助は兼続を援護するつもりは無かったが、妥当な判断だ。生き残るには、上杉の民と兵を背負う彼にはその選択肢しか残されていない。 情に厚く、義を重んじる彼には、上杉を見捨てる事は出来ない。 ならばこの真田家はどうなるのだろうか。 …ならば幸村はどうなる? 武田家を失ってからというもの、真田家は様々な有力武家に仕えてきた。その上、智将であり秀吉に“比興之者”と言わしめた昌幸が当主だ。 家康は真田家を信用はすまい。ただでさえ彼の息子の関ヶ原到着を大幅に遅らせるという恥をかかせたのだ。真田家は。 家康の腹心、忠勝の娘を娶った信之が何処まで家康に掛け合う事が出来るか。 昌幸も幸村も打首は免れそうだが、それ以上の待遇を期待出来ないだろうというのは佐助が放った部下の忍びの言葉だ。 流罪あたりが妥当だろう。 佐助は静かに思った。 「旦那、とにかく今は大人しくしていないと」 今、三成の首を取り戻してどうなる。 石田の旦那はもう死んだ。あれはただの人であったモノだ。 そんな言葉を佐助は必死で喉の奥で飲み込み潰した。 いくら百戦錬磨の幸村であっても、幾つもの死体の上に立ってきた者であっても。 友情を誓い、あれだけの結束を誇った者の首だ。それが無常に晒されている。 死して幾日かをへて。その姿は、恐らく。 己の主人の受ける衝撃を図るだけも、佐助は戦慄を覚えた。 「いや、行かなければ、」 幸村が立ち上がった。 「旦那!」 佐助はとっさに幸村を引き止めていた。幸村を制するために取ったその腕を掴む手に力が無意識にこもった。 「行かせない。行くなら本気で止める。…どんな手を使っても」 佐助は幸村にわざと見えるように、大型手裏剣をちらりと覗かせた。 それは部下が主に取るべき行動ではなかった。 しかし幸村が幼い頃から幸村にしか仕えてこなかった、幸村しか主と認めていなかった佐助だからこそ、出来る行動だった。幼馴染に近い待遇で共に過ごしてきた佐助にしか許されない行動だった。 幸村を絶対に、失うわけにはいかない。 佐助にはそれしか無かった。 義の世など本当は如何でも良かった。 三成と兼続、その友情があの長篠での地獄のような体験を癒すならそれで良かった。 幸村が幸せになるなら其れで良かった。 その穏やかに笑う姿を幸村の一番近くで見ていられるなら其れで良かった。 そう。 佐助は知っていた。石田三成が幸村に友情以上の感情を抱いていた事も。最初から気付いていた。 幸村を見つめる目が。佐助の持つ感情と同じだったからだ。 だからこそ。 「如何していかせてくれない?佐助…」 幸村は俯いて小さく言った。“いく”、とは『行く』なのか『逝く』なのか。 「もう全ては終わった事だ、旦那。旦那だってわかっているはずだ。大将である意味。そして敗北した後、敵軍総大将がどんな扱いを受けるか。旦那はそうやって敵軍の総大将を討ち取ってきた。旦那、…知ってるはずだ」 びくり、と幸村の肩が大きく震えた。 どれだけ酷な事を幸村に言っているか、知っている。 けれど今は戦国。石田三成は西軍総大将。そして西軍は負けた。 目を背けてはいけない過去と事実が此処にある。 幸村は佐助に腕を掴まれながら、体から力を抜いた。 うつむく瞳は黒髪に隠されて良くは見えない。 「如何してこうなったのか、分からない」 幸村の声は小さかった。 「うん」 「もし上田がもっと関ヶ原の近くにあれば、間に合ったかもしれない」 「うん」 「もっと根回しをしておけば、誰も三成殿を裏切らなかったかもしれない」 「うん」 「兼続殿の背負う国と民が無ければ、敵対しなかったかもしれない」 「うん」 「もう、戻れない?」 「……うん。」 「如何して何時も大切なものほど容易く失ってしまう…?」 消え入りそうな声はまだ幸村が幼かった頃によく似ていた。 「…ねぇ、旦那は沢山失ったけど、本当に全部失った?」 佐助のその声に幸村は顔を上げた。 「旦那はまだ生きてる。あの日々は戻ってこなくとも、記憶からは誰も奪えない」 「佐助…」 幸村は佐助を見ていた。 天井ではなく、京ではなく、佐助を見ていた。 「こーんな優秀な忍びがまだ旦那の傍に居るじゃない?」 最後は佐助は茶化して言った。幸村の瞳が驚いたように開かれた。 「佐助。まだ私に仕えるつもり、なのか?私は敗戦の将だ。佐助、お前は優秀な忍びだ。他にもっと…」 「はーい、ちょっとタンマー」 佐助は幸村の背を抱いた。 佐助の耳元で幸村が息を小さく飲んだ。 「超優秀な忍びの俺様は…真田幸村にしか仕えない。絶対に」 無意識に声に力が篭った。 無意識に幸村の背に回した腕に力が篭った。 「佐助、」 震える声を佐助は聞かなかったフリをした。 「絶対に失わないものが此処にあるよ、旦那」 「佐助…」 肩越しに揺れる黒髪を撫でて、佐助は思う。その想いを伝えることなく彼岸の向こうに逝ってしまった、あの佐和山の主を。冷静な振りをしながら、燃え上がるほどの慕情を幸村に抱き続けた、あの男を。 (……石田の旦那、別にアンタの代わりになろうだなんて思っちゃいないよ。それはアンタにしか出来ない) だから。 如何してこうも世界は皆に厳しく、皆に優しく、哀しいのか。 上に上り詰めるたびに守るものが増えていく。しがらみが絡みつく。どうしようもない選択を迫られる事が続く。 幸村はそれらを抱える人間と絆を深めすぎた。幸村には守るべき家名があったが、それは既に信之に託された。 幸村に残されたのは、命と猛将たらしめる槍と、佐助だ。 佐助には何も無い。守るべき家名も名誉も。ただ一つ在れば良い。たった一人の主があればいい。それだけでどんな状況でも生きていける。 想いを伝えきれずに逝った男を思いながら、友情を捨て国に生きるしかない男を思いながら。 佐助は“幸村しかいない”自分に酷く安堵した。 |