合理性を尊ぶ男、それが石田三成という男である。
 この場合、それは打算という言葉とは些か趣が異なる。彼は自己の損得を勘定しているわけではなく、能率的に物事が行われているかどうかを常に考えている。そういう意味で時に他人から打算と見られる彼の行動は単に合理を追求しているものであり、両者は決定的に違うものとなる。
 ――とまぁそういう事を三成が常に考えているわけではないのだが、彼は戦の無い日はしたたかに合理的に正しく、そして迅速に仕事をこなす。
 戦の無い日はそれが三成の決まりきった仕事であり、今日この日は三成にとってそういう日だった。部下から妙な案件を持ち込まれるだとか、主がその奥方と揉めたりだとか、そういうことが無ければ実に平穏な日になるだろう。素晴らしい事だ。そんな事を考えながら三成が筆を取った。それが朝を少し過ぎた時間、清々しい風の吹く午前の事だ。

 ああ、だとか、うう、だとかそういう類の酷く困惑した様子の声が外の木々が風に靡く音に混じって聞こえてきて、三成は書状に落としていた筆を上げた。
 日はすでにかなり高い。筆を取った時には温かった茶も今では完全に冷えている。さっきまでは静かだったはずだ。否、仕事中の三成が居ると知っていて騒ぐような命知らずはこの大坂城の何処にもいない。
 三成は少し考えてから腰を上げた。その声色の主に心当たりがあったからだ。その声は三成にとってどの人間の声とも違う。酷くしっくり落ちる心地よいもので、その声を小田原の地で交わしてから、三成は一度も聞き間違えた事はない。
「幸村?」
 障子を開けて顔を出した三成を、果たして想像通りの顔が出迎えた。しかしその声は三成の想像に反して「お騒がせしてすみません」「五月蝿かったですか」と言うことなく――当然ながら三成にとって幸村の事でお騒がせされたことも、五月蝿くされたことなど一度もなく、これからもそれはありえないのだが――いきなり焦った様子でこう言った。
「スズメが!」
 と。当然三成はそれに面食らった。いつも顔を合わせれば柔和な表情で会話の導入から始める幸村が説明も何もかもを吹っ飛ばして本題の――しかも単語だけを口に出した。ただ事ではない。そう思った三成は体全体を廊下に出し、幸村の元に向かった。
 しかし雀とはあれか。――空を飛んでいるあの雀の事か。
 そして幸村は加えてこう言った。
「雀の子が逃げてしまったのです!」
 雀の子?
 そこでようやく三成は幸村の手の中に竹籠がある事に気がついた。蓋の部分が壊れて開いている。
「……食べられるのか?」
「そうなんです、烏にでも食べられてしまったら…」
 あ、いや。食べる、とはそういう意味では無かったのだが。と思ったが三成は言わなかった。埋めるには難しそうな墓穴を掘りそうだったからだ。
「あ、ああ。そうだな。それは大変だな」
 三成は曖昧な表情を浮かべて取り繕った。しかしそんな三成の微妙な言葉の齟齬に気がつかない程度には幸村も狼狽しているようで、二人の微妙な言葉の食い違いは摺り合わせられないままだ。三成にはもちろんその方が好都合だったから黙っておいた。好ましい相手に墓穴を掘れるほど三成の自尊心は安くない。
 して、その話題に上っている雀の子とやらは一体何処だ。と三成が視線を巡らせた瞬間。
 ちゅんちゅん、と二人の足下を小さな影が走り抜けた。小さく跳ねるように三成の自室の中に駆けていったものの正体は――雀だ。そしてその姿は三成が普段見るものより一回り小さい。これが話題に昇っている雀の子なのだろう。
「あっ!」
 その姿に幸村が手を伸ばす。しかし届くかと思われたその手の隙間をさらりと滑るように雀は華麗に逃げ、虚空を切った手を持て余した幸村はその場にうつ伏せにべしゃりと倒れ込んだ。
「幸村、大丈夫か?――っと、」
 その瞬間。さっと三成の足元を雀が横切った。三成も反射的に手を伸ばす。
 あ、と言った幸村の声を三成は聞いたような声がした。先の幸村と同様、届くかと思われた三成の手は宙を切り、そして先の幸村と同じく三成もうつ伏せにべしゃりと倒れた。
 …のは良かったのだが、倒れた先、三成の手の当たりどころが悪かった。
 ばさばさばさという音が響く。手は先まで三成が格闘していた書状の山を倒壊させ、整然と順序よく並べてあったそれをぐしゃぐしゃに押し倒した。
「……」
「み、三成殿、あの、大丈夫ですか…?」
 ちゅん、と部屋の隅に移動した雀が小さく一声鳴いた。
 これが畳の上に伏したままの三成に火をつけた。相手はあんな小さな小鳥だ。三成が先までやっていた仕事を台無しにされて、人間が黙っているわけにはいかない。
「…いいだろう」
 ゆらり、と立ち上がった三成は襖をぴしゃりと閉めた。出入り口を全て。これで策の第一段階はなった。完璧だ。雀はもう逃げられぬ。戦でもないというのに智将の瞳がゆらりと揺れる。
「幸村、あの雀を捕まえるぞ!奴は袋の鼠だ!」
 正確に言えば部屋の雀、なのだが。
 はい!と三成の気迫に押された幸村も居住まいを正して言う。根が真面目なのだ。完全に三成の勢いにつられてしまっている。しかしそれを指摘する人間など今この場所には一人として居なかったし、いたとしても指摘出来るだけの豪胆さを備えている人間は二人の友人か、三成の部下しかいないわけで事実居ないに等しいものだった。


「ご、ご迷惑をおかけしました…」
「いや、いいんだ」
 ぜぇはぁ、と荒い呼吸を整えながら三成は言った。
 今や幸村の手の中の竹籠の中に再び収まった雀は二人のぐったりした様子など気にもかけずに、ちゅんちゅんと暢気に鳴いている。しかし小さくとも雀は雀。さっきまで小枝ほどもない細い足で、戦場では猛将、智将と恐れられる武将を見事に手玉に取って、部屋の中を華麗に逃げ回ってみせていたのだ。
 結局最後は手で捕獲することに早々に見切りをつけた三成が上掛けを持ち出して、一気に捕獲するという方法で雀を手中に収めた。最初からこうすべきだった、という事は不問にしておくべきだろう。
「して、この雀は何だ?幸村のものではないのだろう?」
「はい、違います」
 少し困ったように笑った幸村は、この雀はある武将の子が保護した雀の子だと語った。うっかり籠から逃がしてしまって泣いている所を偶然通りかかった幸村が、子供の泣く姿があまりに不憫で捜索を引き受けたらしい。実に幸村らしい。山ほどいる使用人や、幸村よりも身分が低い城の他の人間に頼もうとしない所が誠実な性格を如実に示している。
「烏に食べられてしまう、とは、その子供の言葉か?」
「いえ…。私がそう思ったのです。その…無我夢中で」
 少し照れたように言った幸村に三成は静かに笑った。
「そうか。まるで――、」
 そう言いかけて三成は動きを止めた。
 まるで源氏物語の若紫の巻のようではないか。光の君が紫の上を人目で見初めた瞬間の、あの。
「――――、」
 わざわざ自分の思考で深い深い墓穴を掘った三成は絶句した。
 三成の感情は紫の上を想う光の君と同じだ。違うのは三成は一途すぎるほどに一途だと言う事と、自分好みに慕情を向けた相手を育てたりしないという事だ。しかし実際にわざわざ何気なく好きだと実感すると――恐ろしいまでに熱が昇る。意識という羞恥でカッと背筋に熱が集まる。
「三成殿?どうかされましたか?」
「いやっ…!何でもない」
「そうですか?…こう言うとあの子に悪いのかもしれませんが、たまには童のように雀を追いかけるのも楽しいですね」
 そして三成は真っ赤に赤面した。朗らかに笑う幸村の前で烏瓜の実も驚く赤さで。

 石田三成とは確かに合理性を尊ぶ男ではあったが、合理性のみで生きているわけではないのだ。彼もまた感情のある人間だ。合理性とは別の次元で感情のまま動くこともある。
 普通の人間であれば、一見無駄に見える事に対して三成に楽しいですね、などと言わない。三成はそういう事を鼻で笑うと思っている。むしろ三成が雀を夢中で追いかけている姿など見れば、他人は仰天して腰を抜かすに違いない。
 しかしこの真田幸村という男、石田三成をそういう先入観で見ない。見たことがないという風にごくごく自然に三成に言葉をかける。三成が今まで知らなかった言葉を。
 つまり彼は三成が合理性を尊ぶ男だと知りつつ、それが彼の全てではないと知っている。これは言葉遊びのようで実は意味合いとしてはかなり大きい。かなり大きい。だが幸村はそういうことを実に自然にやってのける。

「そうだな。…こういうのも悪くない」
 ああ、つまり。こういう事を心から楽しめる程度には――共にそういう時間を過ごしたいと思う程度には、やはり好きなのだ。そういう一面を引き出されて不快に思わず、むしろ楽しいと思ってしまう程度には幸村は三成にとってあまりにも特別な場所にいるという事なのだ。
 幸村の手の中の竹籠の中で可愛らしい声を立てている雀はそんな三成をつぶらな眼で見つめながら、ちゅんちゅんと可愛らしい声で鳴いていた。


【おわり】




みつゆき布教無料配布本に参加させていただきました!
三成と幸村の関係性を初めての方にも分かりやすく…を目指して何故雀ネタになったのか…笑
とても楽しく書かせて頂きました!みつゆきが果てしなく増えますように…!!