―――最期の記憶 何がいけなかったのか、何処で失敗してしまったのか。原因を探る事は必要だ。それは次への足掛かりとなる。失敗から学ばなければ成長はありえない。 しかしこの場に於いて、三成に“次”という選択肢は存在しなかった。 六条へ向かう道中で三成は閉じていた瞼をそっと開く。 目線の先には何も無かった。ただの木目だけが三成を取り囲んでいる。当たり前だ。三成は今や囚われの身であり、事実だけを言うなら負け戦の大将。そして六条へと向かう人力の籠の中に居るからだ。 人力で引かれる籠はがらがらと砂利の上を耳障りな悲鳴を上げるように進んでいく。 死というものについて三成は本気で考えたことが無い。正確に言えば、考えた所で仕方のないことを考えたとて時間の無駄、と考えたからだ。 死ねば終わり。 三途、地獄、仏、神、悪、そんなものがあろうとて――死すれば終わり、なのだ。 三成は負けた。関ヶ原での戦いに。相次ぐ裏切りによって。 人の何と醜き事か。保身の為に裏切り、騙し、騙され。 三成は不意に笑いたくなって口元を歪めた。 しかしそのまま零れるかと思われた侮蔑の笑い声は彼の形の良い唇から零れることはなかった。結果として裏切られ、人の醜さと弱さを身を持って体感し、その結果として己が身は散ろうとする今になっても、人を全て見限る気には三成には無かった。この期に及んで、だ。 少し前の三成であったなら人間の本質はこんなものだと哂っていただろう。 だが今はそうではなかった。確実に三成は変わった。 心の根まで美しい人間を知っているからだ。 そしてその人間を今でもこれからも愛し続けるであろう確証が彼には在ったからだ。 ―――幸村、 声には出さずに三成は静かにその名を呼んだ。その名は三成にとって特別なものだった。何時だって特別だった。小田原で静かな流れのように響く声と穏やかな顔立ちを向けられた瞬間から。特別であり続けた。これからも特別で在り続けるのだろう。 今生で合間見えることが出来なくとも、石田三成の中で真田幸村は永遠でありつける。永遠を信じない三成の唯一の永遠だ。 上杉軍は長谷堂へと撤退したと聞いた。挟撃され、壮絶な撤退戦であったらしい事も。上杉が大打撃を負ったであろう事は想像に難くない。 幸村は上田城で秀忠を撤退させた。だが、三成自身の敗走で意味を成さなくなってしまった。 二人の処遇が三成にとっての最後の気がかりだった。彼らとて武将。しかも名だたる名家の武将だ。判断力も行動力も十二分に備わっている。しかもそれは自身が彼岸へ渡った後の話。どう足掻こうとも三成が介入できる問題でもなければ、三成が如何こう出来る問題でもない。しかし処遇について思いを馳せずにはいられなかった。 上杉家は徳川側に付くかで混乱を極めているらしい。 しかし上杉は存続の道を選ぶ。三成は確信していた。 上杉はその国の民を決して見捨てない。どれだけ泥を被ろうが、必ず国の礎となるその存在を守り抜くだろう。兼続はそういう男だ。この状況で理想を押し通し、民にまで火の粉が降りかかるような事はすまい。 きっと思い悩む事だろう。義に反するのではないか、と。しかしその新たな選択もやはり兼続が他人を思い遣るものである以上、それもやはり誠の義だろうと三成は思っている。 其れを伝えたい気もしたが、それは今の三成には不可能な事だった。 ―――だが幸村は。 この戦いで信之と袂を別った。それは戦国最高の智将の昌幸の最大の策。今や真田の名は信之が正式に継承している。 幸村には守るべきものも無ければ、家康側が利用したいと思わせる要素が無い。 現に幸村から“この戦いで私が失うものは何も無いのです”と、―だから何も気にするな―という旨の言葉は聞いていた。あの戦いの前に聞いたその言葉は三成を酷く安堵させたが、今はその言葉の裏に隠された幸村の想いを考えると小さく胸が軋んだ。 信之が何かしらの働きかけをしているだろう。しかし家康の長子の面目を潰した上に、家康は間違いなく時代の猛将である幸村を畏れている。その事を考えてみると、幸村が歩む道が平穏とは到底思えなかった。 がた、という音と共に動きが止まった。 ――もう六条か。 三成は静かに顔を上げた。悔やんではいない。命乞いをするような生半可な覚悟でこの戦いに身を投じたわけではないのだ。 ただ、約束をした。 春には来年の桜も見よう、と。 夏には夕涼みに揺れる風鈴の音を聞くのが楽しみだ、と。 秋には来年も燃える様な紅葉が期待できる、と。 冬にはしんしんと降る雪の中で静かに語らう時が続くと信じている、と。 ――数多の約束。それは次を確約できない戦乱の世の中で確かに交わした大切な約束。 誰でもない、あの優しい笑顔が印象的で、時折哀しい瞳の色をしていた真田幸村という存在と石田三成は約束していたのだ。 もう守れない約束を。 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 この想いは彼岸に持って逝く。誰にも告げぬままそっと持っていく。 例え他人が三成から何を奪おうとも三成の誇りと信念と――この想い――は決して奪えはしないのだ。 瞼を閉じれば今も見える優しい笑み。戦場を駆ける姿。三成を呼ぶその表情。 幸村、俺はお前をずっと―――、 *** ――寒いな。 兼続は静かに吐いた息の白を見遣りながら、整えられた庭園を眺め見た。 もうあの戦いから20年近くが経ってしまった。 兼続の記憶の中に残る、友人であり同志だった男はあの時の姿から少しも年をとっては居ない。彼の時はあの日に止まってしまったのだから、それは至極当然ではあったが、それが少し哀しかった。 小さく咳をしてから、兼続は起こしていた体を布団に横たえた。そうでなければ、些か心配性の気がある家臣が慌てて駆け寄ってきてしまう。 もうこの身は永くは持たない。それは兼続自身が一番分かっていた。 布団で死にたい、などと酒の席で冗談を言ったことはあったが、本当に布団で死ねるとは思っても居なかった。死ぬのならば戦場で。そう兼続は漠然とした予感を抱えていたというのに、見事に外れてしまった。 兼続は必死で生きてきた。あの敗戦を機に上杉の為に生きてきた。恥じては居ない。ただあの戦いに勝っていたのならどうなったのだろう、と考える事はあった。 夜な夜な語り合った理想の世は今も輝く記憶として兼続にそっと寄り添っている。 語る己、時折皮肉を言いながらも的確な意見を述べた三成、それを聞きながら穏やかな表情を浮かべていた幸村。 実を言えば兼続はあの時からずっと目論んでいた。 勝って、すべてが落ち着いて、若い3人が掲げた理想の世が実現した際には、あの奥手な男が踏み出せなかった一歩を踏み出す助力をしてやろうと思っていた。そう目論んでいた。 しかし終ぞその目論見が成功することは無かった。 記憶だけは鮮明だというのに、あの日々は遠い場所へと行ってしまったのだ。 ――幸村。 日の本一の兵。猛将にして智将。 関ヶ原、そして2度の大坂での戦いで幸村の元々高かった知名度は飛躍的に上がった。家康を後一歩の所まで追い詰めた勇敢な者として今や賛辞する者さえ居る。 語られる彼の肖像は勇ましい。けれど彼の本質は其処だけに集約されるのは間違っている。幸村を正しく理解していない。 確かに幸村の本当の姿を知っている者はもう殆ど居ないだろう。 もしかしたら今生では兼続しか存在しないのかもしれない。 とても優しい男だった。その姿と相反するように、戦場で立つ姿は誰よりも凛々しかった。けれど本当は笑顔の優しい、心根の優しすぎる存在だった。 そんな存在に三成が懸想するのも無理は無かっただろう、と兼続は静かに笑みを浮かべた。あの頃は若かった。 六条で命散らせた友人に次いで、その優しく強い存在は大坂で姿を消した。 もしその首を検分していたのが兼続自身だったのなら、その場で慟哭していたかもしれない。 だから未だにその死を実感できていないのかもしれない。何処かで生きていると。事実そんな噂もある。 しかしあの時のあの大坂の包囲網から孤立奮闘していた手負いの彼が逃げおおせたとは到底思えなかった。 きっともう彼は、居ない、のだ。 優しい笑みはまだ自分に向けてくれるのだろうか。20年前に進む道を別った友に。 不意に視界が歪む。 ぐらりと天井が歪んで兼続はその時が来たのだと悟った。 ああ、次の世こそは、きっと――、 *** 元和5年直江兼続、江戸にて病死。米沢にて埋葬された。 葬儀から後、四十九日に当たるその日に差出人が記されていない書状が一通届く。 文面や筆跡からその人物がいかに教養を兼ね備えているかが伺い知れた、と後に書状を手にした寺の住職は語っている。 書状の内容は、兼続の死に対して冥福を祈るものから始まり、彼の人柄、彼が如何に素晴らしい人物であったかが記されており、その文章は優しさに満ちていたという。 文面から察するに、生前兼続と懇意にしていた人物であろうという推測から住職が兼続の知り合いに書状の差出人について調べたが、その書状の差出人は終ぞ分からぬままであったという。 その同時期、京都大徳寺の三玄院の石田三成の墓に1人の青年がやってくる姿が度々目撃されるようになる。 彼が訪れるのは必ず三成の月命日であり、静かに手をあわせ、花を手向けていたという。 時は江戸の幕藩体制。家康の布いた統治手法は斬新なものであり、世はそれなりに安定し、関ヶ原が過去の戦いとなり、人々の記憶から薄れていく期である。 ある日、毎月のように墓を訪れる青年に寺の住職が尋ねた。 石田三成は20年近く前に世から姿を消した存在であり、この年若き青年が彼の墓に毎月やって来る理由が分からなかったからである。 青年は答えた。 静かで透明な、しかし哀しげな優しい表情で静かに笑った。 住職の目に映るその表情は、見る者の何かを抉るような儚い表情であった。 ―――私は記録になっていく記憶を忘却出来ずに居るのです。 |
罪業の果て そして時は400年を流転する―― |