―――未来、其れは所以無き世界 暑い。とにかく、暑い。 季節は7月。まだ梅雨が明けてはいないものの、季節は紛う事なき夏だ。 はふ、と幸村は小さく息をこぼして、額に滲んだ汗を拭った。 5月の頃合いには風通りも良く、木陰で涼むことの出来ていた幸村のお気に入りの構内の外れのこの場所も、夏の前では為す術もないようだ。 風が吹いても熱風。木陰は夏の太陽を遮断しきれない。 幸村は自分の目測が完全に誤った事を悟って、一人小さく苦笑した。休講で突然出来た空きコマを図書館ではなく外で過ごそうとしたのがそもそもの間違いだったようだ。 昔はこれほど暑くなかったように思える。地球温暖化は知覚出来る程度に進行しているようだ、という所まで幸村は考えて、またじわりと滲んだ汗をまた拭う。 が、自身の昔という基準が常人ではありえない所に据えていることに気が付いて幸村はまた小さく苦笑した。 この場所は夏が終わるまでは足が遠のきそうだ。仕方ない、場所を変えよう、そう考えて幸村が本を閉じた時、不意に隣から陰が差して幸村は顔を上げた。 「……?」 「やっぱり誰かと思えば、幸村じゃあないか。こんな所で奇遇だねぇ」 「慶次殿」 幸村の傍らに立つ慶次は太陽を背に立っている。 そのお陰で幸村には影が差し込み、焼け付く日差しが無くなっている。 「こんな所でどうしたんだい?」 「時間が急に出来たものですから、少し本でも読もうかと此処に来たんですが…完全に失策でした」 「はは、そうかい。今日は暑いからねぇ」 幸村の言わんとしている事を理解した慶次が楽しそうに笑う。慶次の首にもまた、タオルがかけてあり、部活の指導の前にランニングでもしていたのか、汗をぬぐう慶次の姿は酷く暑そうだ。 そんな慶次の目線がある一点を捉え、そしてタオルを持つ手も止まった。 「ん?あれは」 「はい?」 慶次につられて幸村も目線を送った先。 そこには二人の見知った人物、暑さを感じさせないような絶対零度の仏頂面をした三成と、遠目でも随分美人だと分かる人物の姿。 「何だい?…ははぁ」 一瞬だけその組み合わせに疑問符を浮かべた慶次だったが、すぐに状況を理解したのか、したり顔になる。 「色男は何時の時代も色男というわけか」 「ええ」 幸村の肯定の言葉で慶次は、今の三成が異性からどういう風に見られているのかを的確に悟る。 前の世でも大層いろんな女から懸想されては片っ端からその好意を蹴っていたが、今の世でもそれは変わらないらしい。自分の美貌に自信があると見える様相の女は慶次にも見覚えがあった。彼女は大学のミスコンとやらで優勝した人物ではなかっただろうか。部活の生徒が騒いでいたお陰で知識くらいはある。やっぱり間違いない、今年のミスコン優勝者だ。 どうやらそのミスコンは夏を利用して女の武器を駆使しながら、三成に言い寄っているようだが、肝心の三成の表情は仏頂面を通り越してしかめっ面になっている。 「にしても、あのしかめっ面。あれさえ何とかなればと思うんだがねぇ。それでもあれだけモテるんだから大したもんだ」 「兼続殿曰く“最も法曹界に近い法学の秀才であの顔だ。モテるのは自然の成り行きかもしれん。三成の本性も知らずに…女性が逆に気の毒だ”だそうです」 その時の事を思い出したのか、幸村は小さく笑う。 それにつられて笑ってみせながら、慶次は幸村の表情をこっそり見遣る。だが三成が告白されていることに対する幸村の感情を読みとることは出来ない。 「はは、言い得て妙だねぇ。…じゃあ、三成はこのまま法曹へ進むのかい?」 「ええ、伺った限りでは司法試験に。研究職を見据えて院へ行くかもしれない、とは聞いていますが」 「就職活動はなし、か」 「兼続殿も院を考えてらっしゃるそうです」 「…アンタは?幸村」 若干トーンダウンした慶次の問いかけに幸村は静かに慶次を見つめた後、ゆっくりと首を振った。 「――就職活動はしません」 「…どうするつもりだい?」 「まだ考えあぐねています。院に行ってもいいんですが、大学4年間と院2年の計6年、それ以上はこの地に留まるのは限界かもしれません」 限界、それは幸村の変わらぬ容姿の事を指しているのだろうと慶次は悟った。 慶次が幼い頃、初めて幸村と合間見えた姿から彼は少しもその容貌を変えていない。今も変わらぬ青年のままだ。もっと言ってしまえば、慶次がかつて生きていた時代に合間見えていたときの姿と変わらない。 最後に見たのは大坂。あの大坂で激戦の中で駆け抜けていた時の姿のまま、だ。 「そうかい。じゃあ院に行かない可能性もあるのかい」 「…はい」 「それでいいのかい?」 「容貌が変わらない以上、不審がられてからでは遅いので」 幸村は慶次の聞きたい真意を曖昧に誤魔化した。それを幸村も慶次も分かっていた。 ――二人に本当の事を告げないままでいいのかい? 慶次の聞きたい言葉はそういう意図を孕んでいる。けれど幸村は気づいていて答えない。はぐらかしたと言う事は答えたくないと言う事だ。 ならば慶次にそれ以上の介入は出来ない。ましてや強制することなど出来よう筈も無い。慶次にその権利が無い事をよく理解していたからだ。 「……」 慶次は何も言えなかった。慶次も年をとる。それこそ後70年もすればこの世からいなくなっているだろう。 その後も幸村は生きるのだろうか。 あと数年で何よりも大事に思っていた人間と離れ、ひっそりと生きていくのだろうか。400年待って、10年にも満たない時間を過ごして、また果て無き時間を過ごすのだろうか。 それは想像を絶する苦痛が伴う生き方ではないのだろうか。 「今はまだ答えを早急に出さなくともと思っています。…いえ、答えを出したくないのかもしれませんが」 そう言って幸村は困ったように緩く笑う。いつもの幸村の笑みだ。何に嘆く訳でもなく、ただ現実を受け入れる笑み。 だたその控え目な言葉だけで、幸村の抱える途方も無い孤独を一瞬だけ垣間見たような気が、慶次にはした。 それ以上の言葉を見つけられないまま、慶次がぼんやりと視線を遠くに戻せば、いつの間にか女は憤慨した様子で三成の元から歩き去っていく。三成は何も無かったように、うっとおしそうに前髪を掻き上げるだけだ。 「何人袖にしてきたんだろうねぇ」 「…私の知る限りの人数だと、数多、と」 「なぁ幸村、」 それでも静かに佇む幸村に焦がれて慶次は口を開いたが、それを伏せるように幸村が静かに口を開いた。 「真っ当な生を紡ぐ事が出来るんです」 「ゆき、」 「私はご覧の通り、時が止まったままです。本来ならば交わるはずがない。何時までも同じではいられない。変化していかないが故に、同じだからこそ、同じではいられないのです」 「…」 「私には、――とても告げることは出来ません」 つまりは普通に生きていって欲しい、幸村が望んでいるのはそれだけだ。 思い出さず、思い出す事もなく、ただの人として、戦国を本の中で紡がれる現実感の伴わない遠い世界の事として。 それを幸村は望んでいる。 けれど今の三成は確実に幸村に懸想している。それはずっと兼続を含め、幸村と三成の掲げた義と言う生き様を見続けてきた――慶次だからこそ分かる事だ。 魂の本質は変わらない。三成は三成であって、幸村がその美しい生き様を覆さない限り、名を変えたとしても存在しているだけで、三成は幸村と言う存在に魅かれ続ける。 理屈ではない。理屈で説明できるものではない。 だた幸村だから、ただ三成だから、――ただ二人が在るが故に。ただ。 命を引き裂かれる時代でもない。どうにもならない時勢で諦める事をしないでいい時代。 それが今生でやっと叶うと言うのに。 「…それでいいのかい?」 風が靡く。熱気を孕んだそれは、一瞬戦場の空気かと慶次に錯覚させる。 真田家次男として生まれ、武田家に仕え、豊臣に仕え、志を持ち、大坂を戦い。それでも死なずに連続した生を生きる幸村にはこの風をどう感じているのか、やはり慶次には分からなかった。 「きっといつか、誰か三成殿の事を一番理解してくださる方が現れるでしょう。今の世なれば、結婚をし、子を成し、穏やかな生を紡ぐことが出来る。それは嘗てならば不可能だったことで、為し得なかった事。今の世なれば、気持ちさえあれば、――気持ちだけでどうにか出来る、良い世です。私がむやみに混乱に落とし入れることなど、」 幸村は小さく瞳を伏せた。睫が夏の太陽に照らされ、影を落とす。 「優しい世界になりました」 「幸村…アンタにとってはどうなんだ」 「……」 「普通の人間にとっては優しい時代でも、幸村、アンタにとっては、」 幸村は小さく笑むだけで、何も言わなかった。 まるで数年の猶予を以ってして、この先の未来は交わらないのだと、無言で肯定しているようだった。 *** ―――寒い。 猛烈に寒い。 もちろん暦は7月。夏、である。梅雨は明けていないものの、古都の位置する地形のためか、うだるような暑さをもたらせている。 だが此処、学生たちが集う最終学府の学食では、その場にいる学生全員が外の気温とは全く別の事を思っていた。 ―――寒い。 クーラーが効きすぎているわけではない。学生委員会がISOを遵守しているお陰でこの食堂も地球にもっとも優しいクーラーの温度が保たれている。 寒いのは、 「三成、その絶対零度の空気を醸し出すのはやめてくれないか。寒い。悪霊が出たときよりも悪寒があるぞ」 「人が冷気を発するわけないだろう。人を悪霊呼ばわりするのはやめろ」 「あのな、三成。信繁だったら断るに、」 「あぁ?」 また気温が一度下がった。 秀麗な顔に浮かぶ不機嫌なオーラは、人間離れして整いすぎているからこそ余計に凄みを増す。おそるおそる冷気を出している張本人である三成の様子を伺っていた誰かがヒッ、と小さく息を飲む音が聞こえる。 兼続はそんな外野のBGMを聞きながら、自分の本日の昼食の冷やし中華が冷やしを通り越して凍っていくような気がして、小さく息をついた。 そもそも最初から三成の機嫌は悪かった。とても。 理由を兼続は知っている。朝からいきなり高飛車な女(これは三成の言葉だ)に、呼び出され、さも付き合って当然という様子で告白された、否、迫られたらしい。 それがそもそもの地雷だ。三成は傲慢な人間を嫌う。ミスコン優勝者が露骨に胸を強調しているのも全く以って気に入らない。自信を持つのはいいが、傲慢さは耐えられないらしい。女はそれに気がついていなかった。結末は想像通り。 ――三成は女をこっぴどく振った。 ただでさえ、そう言う事があって、三成の機嫌は地を這っていた。それでも昼に信繁と会えば、三成の機嫌はすぐさま上昇していたのだ。 だが、問題はその直ぐ後に起きた。 それはほんの10分前の事だ。 『あのっ…!』 後ろから響いてきた少し裏返った声に3人は同時に振り返った。ちょうど学食の入り口の前での事だ。 『はい?』 信繁が人当たりのよい柔和な笑顔を浮かべて声の主に問いかければ、話しかけられたその人物は頬をほんのり染めて小さく身じろいだ。派手すぎず、控えめすぎない、ワンピースが良く似合うその女性はふわふわとした優しい女性らしさに満ちていた。 もちろんこの状況が何を示しているのか分からない三成と兼続ではない。信繁と話す声の主から一歩離れた所で成り行きを見守っていた二人は、静かに視線だけを交わした。 どう考えても目の前の女性の所作は告白をしようという一大決心をしたそれだ。相手は信繁。女性の目線が最初から信繁に注がれているのだから、分からない方が無理だ。 モテるという一側面を抽出するのならば圧倒的に三成の割合が高い。だが、兼続も信繁も他の男子学生に比べれば遙かにモテる。というかモテまくっている。ただ単に、モテる3人がつるんでいるのだから、むしろタチが悪い。 『あの、…っ!』 『はい』 決心したように顔を上げて信繁を見つめては、また恥ずかしそうに俯く。その様子を柔らかく見守っている信繁は言葉の先を無理に促すわけではなく、かといって本題に移らない展開に何を言うわけでもなく、ただ静かに見守る。 そしてその女性が言いにくそうに三成と兼続にチラリと視線を送った事で信繁も女性の言わんとしている事を悟ったようだった。信繁はゆっくりと二人に振り返ってこう言った。 『すみません、先に学食に行っていてもらえますか?』 こういう押しつけではない、ふんわりと降りつもるような優しさ。これが信繁の持つ優しさの本質だ。きっとこの目の前の女子学生もそれを知ってこそ、信繁の事が好きになったのだろうと兼続は思った。 「夏休み前だからか?」 「は?」 ごうごうという冷気が三成の背中から巻き起こっているのは気のせいか。いや、気のせいではない。三成の前にある山菜そばが冷えて固そうに見える。少なくとも兼続にはそう見える。 「何故こうも浮き足立つ。夏を一人で過ごしたくないという集団心理か?」 「クリスマス前ではあるまいに、まさかそう言うことでもあるまい」 そう言いながら箸を動かす兼続だったが、いつも食べているはずの冷やし中華が何故か氷のようになっていて歯に沁みる。知覚過敏だろうか。いやまさか。 「夏、だぞ。兼続。独り身の奴は夏に向けて告白とやらをするのではないのか」 「三成、その情報は雑誌由来だな」 「それがどうした」 「いや、お前らしい」 どこでその雑誌由来丸出しの情報を手に入れたのかは知らないが、逆に世間をそう言う風に一歩引いた目線で捕らえる三成はいっそ清々しい程に三成だ。 「かく言うお前はどうなんだ?」 「………」 三成の箸が止まった。 この誰よりも感情の読めない男の事を友人として兼続はそれなりに知っているつもりだ。 ――内心平静でいるはずがない。 何かを見透かしたような瞳の色を浮かべている兼続から気まずそうに視線をそらせた三成は誤魔化すように小さく視線を巡らせた。 「おい、社学の奴はいないのか。社会学の観点からこの現象を学術的に知りたいものだな」 ……いてもお前の迫力の前に講釈する前に逃げるぞ。 とは兼続は言わなかった。兼続とて命は惜しいからだ。 「お待たせしました」 「おお、信繁」 信繁の持っているプレートの上には冷麺が乗っていて、そう言えば韓国フェアをやっていたことを兼続は思い出した。 信繁の傍らに先の女の影はない。 「心なしか学食、クーラーがよく効いていますね」 それは三成が原因だと言えるはずも無く、兼続は曖昧に笑って、三成の方に視線を向けれると、三成は信繁をじっと見つめていた。 「…信繁、」 「はい?」 じっと見つめる三成の視線をただ純粋に受け止めて、信繁はその黒曜石の瞳を瞬かせて三成の言葉の続きを待つ。 「…、」 「三成さん?」 「断った、のか」 少し言い淀んでから紡がれたのは、かろうじて、と分かる苦しい一言。その言葉に、思わず兼続はぶぶっ、と小さく声を漏らせた。瞬時に突き刺さる三成の視線には気がつかない振りをして、兼続は冷やし中華の残りを口に運ぶ。おお、温度がいつものそれに戻っている、信繁は偉大だ、なんて事を思いながら。 「“断る”…?」 三成の言葉に一瞬だけ何の事か分からないと言った表情を浮かべた信繁だったが、その端的な言葉の意味をすぐに悟り、表情をゆっくりと和らげた。 「ああ、…はい」 そうか、とだけ呟く三成の言葉に確かに安穏とした響きがこもっていたが、それに気がつけるのは兼続だけで、恐ろしいほど人の感情に機敏な信繁も三成が向ける好意に気がつかないようだった。 報われないな、と兼続は内心で静かに合掌しつつ、それでもイタズラの虫が疼くのを止められない。 「もったいない。優しそうで可愛い子だったではないか?」 瞬時に刺さるのは先に感じたのと同じ突き刺さるような視線だが、今度は怒気さえはらんでいる。余計な事を言うな、とばかりだ。 そんな三成が兼続に向けている視線に気がつかないままの信繁は、静かに微笑む。 「慕情には慕情でお答えしなければ。私にその感情がなければ、お答えするのは失礼ですし」 ――そういうだろうと思っていた。 どこまでも真摯で実直な友人に兼続は小さく笑って、そうか、とだけ言った。 三成は話題を変えるようにわざと咳払いを一つして、早速昼食に手をつけ始めた相手に声をかけた。 「信繁は論文の専攻は決めたのか?」 三成の突然の問いかけにぱちぱちと目を瞬いた幸村は興味を示した兼続の視線を受けて、すぐに得心いったように頷いた。 「ええ、平安時代に的を絞ろうかと」 「…平安時代?」 その言葉に三成は思わず聞きなおした。 「?ええ、どうかされましたか?」 信繁が聞くのももっともな事だ。だが三成は僅かに生まれた違和感を無視する事が出来ずに、もう一度反芻する。 浮かんだ言葉は――戦国時代、だ。 だが理由もなく浮かんだ言葉を三成が理論整然と説明する事など出来ずに、彼にしては珍しく曖昧に言葉を濁す。 「いや、その、他の時代は選ばなかったのかと、…そう思っただけだ」 「その安土桃山や幕末の知識量はすごいではないか?それを利用しないのか?話題にも富むような気がするが」 兼続の横から問いかける言葉は三成にとっては助け船だった。その言葉に、信繁は一瞬だけ視線を宙にさまよわせて、少し困ったように小さく告げた。 「論文がすぐ終わってしまいます」 「「すぐ終わる?」」 思わず重なった声に、三成は眉根を寄せたが、それに慌てたの信繁の方だった。 「”知って”いるものではーーいえ、不得意というか知識があまりないものを選ぼうかと思いまして。研究のしがいがあるとあると言うか」 「そうか…」 珍しく濁された信繁の言葉に、それ以上の追求も憚られて、三成も曖昧に頷いた。 「そう言えば!信繁、三成が今日告白されたのは知っているか?」 話題を変えるように楽しそうに発せられた兼続の言葉に、三成はこれ以上ないほど目を細めて睨み付けた。 「…かーねーつーぐー」 「もう噂になっているのだから仕方あるまい。ミスコン!法学の秀才に告白して玉砕!、とな」 「暇な奴が多いな」 「何故付き合わなかったのだ?美人なのだろう?」 「面倒だ」 「ほーーーう」 「何だ、何が言いたい」 「言ってもいいのか?…信繁?どう思う?勿体無いだろう?」 これで信繁に“勿体無いですね”と言われでもしたら暫くは立ち直れない。それを兼続が知らないわけではあるまい。ただの出歯亀だ。 「兼続、貴様、」 いい加減にしろ、と三成が言う前に、少しだけ申し訳なさそうに口を開いたのは他ならぬ信繁だった。 「あの、すみません。実は2コマ目が急に休講になったので、その時、ちょうど現場に居合わせたというか、遠目に見えてしまった、ので。その…」 「見ていたのか?」 「あの、すみません」 思わず声が低くなった三成に信繁は申し訳なさそうに謝る。その姿にしまった、と思ったのは三成で、全く気にしなかったのは兼続だ。 「何だ?そうだったのか。信繁、どうだった!?やはり勿体無かったか?」 「どう、と言うか…」 「兼続…。その口を今すぐ閉じろ。今すぐに、だ」 「私は好きでもない方と付き合うよりは、好いた方と付き合うほうが誠実かと思いますが」 「良かったな!!三成!!」 「もう頼む。頼むから口を閉じてくれ…」 ひとまず、信繁の口から三成を奈落の底に落すような台詞が出なかった事に安堵して、三成は小さく息を吐いた。 ふと甦るのは先の光景だ。 何かを伝えようと真っ赤になる女と見守るように相手の話を聞こうとする信繁。 ああいう光景はきっと今まで何度も繰り返されているのだろう。三成が信繁のすべての時間を独占しているわけではない。そう願ったとしても、今はそれが叶うわけではない。 信繁に静かに好意を寄せている女を三成は知っている。それはどれも信繁の優しさに一瞬でも触れたに違いない。それに加えて信繁は贔屓目を抜きにしても整った顔立ちをしているのだ。 顔だけに惚れ込み、三成の性格をクールだと勝手にラベリングして言い寄ってくる外見ばかりを着飾った女共とはまた違う。信繁に恋心を告げる女性はいつも優しげな雰囲気を持っていて、似合いの二人になるだろう、そんな事を思わせる存在ばかりだ。 ――それでも。三成は思う。 横からかっ攫われてはかなわない。 どれだけ信繁の優しさの片鱗に触れたとしてもそれが信繁のすべてではない。笑顔の後ろにひっそりと佇むようにして寄り添っている苦悩も、何かを堪えている姿も、欠伸をする些細な姿さえ、三成は知っているのだ。 そんなものを知らない人間に、渡してなどやるものか。 分かっている。それは紛れもなく独占欲で、独りよがりな感情だ。それは今まで三成が忌避してきた感情だったはずだ。 だがそれがどうした。 こういう感情を当たり前に生じさせるのが、懸想と言うものではないのか。三成が避けてきたのは人間としてあるはずの感情で、それを教えたのは信繁だ。 あの静かに桜を見つめる姿、雨に怯えたあの日、かの武将が奉られているという墓を見つめる遠い姿。 それは三成しか知らない姿だ。誰にも渡すわけにはいかない。 『その400年前の同じ名前の存在をお調べになったら、何やみえてくるかもしれません』 甦るのは、先日告げられた柔らかい声。 ――言われなくても調べてやる。 三成は静かに決意する。 それが自分と信繁を巻き込んでうねる渦を生む、最初の一歩だと三成はまだ知らない。 |
罪業の果て 過去の邂逅、示される道筋、 |