―――遠い記憶、其れは静かに滑る様に。



―――幽霊が出るんだ。頼む、何とかしてくれ。
そんな風に兼続が知り合いから泣きつかれたのは今日の朝のことだ。

何故か宣伝して回っているわけでもないというのに、兼続の能力は一部の人間にそれなりに知れ渡っている。明確な理由は分からない。自ら教えたのは三成と信繁だけだから普段の兼続の行動から噂になってしまったのだろう。噂とはそういうもので、案外恐ろしく侮れないものだ。とうとう最近は話を持ち込まれるまでになった。そして今日がまさにその格好の例だ。

“史学部棟の資料室に女の霊が出る。”

何をするわけでもなくじっと佇んでいるだけらしいその霊は無害ではあるが、資料室を利用する人間にとっては死活問題らしい、と言う事は兼続にも理解出来る。兼続は今更霊がいるからと騒ぐような精神は持ち合わせていないが、普通の人間からすれば、何をするわけでもなく佇んでいるだけでも相当に怖いのだろう。――霊、それは存在しないはずのモノが存在している状況だ。異質なものに恐怖を抱くのは人間の本能で、居るなら居るで放っておけばいいと思うのは、幼い頃から霊を身近に感じている兼続だけに通用する感覚だ。
前期テスト期間中で学内が慌ただしい中、知り合いから告げられた話をよくよく聞いてみると、知り合いの知り合いの知り合いの史学部の院生の話だと言うことが分かった。最早遠い存在すぎて、話を持ち込んだ友人も誰が言い出した話かは分からないらしい。
大抵、又聞きの話は事実が歪曲される。それも派手に。下手をすればただの噂だったり、根も葉もない嘘が一人歩きしているだけだったりする。兼続に持ち込まれたこの話も、又聞きである以上、真偽を確かめるところから始めるのが定石だ。ただの嘘の可能性も否定しきれない。
とりあえず、朝一からテストを控えていた兼続は詳細を調べることだけを友人に約束したのだった。


「ここか…」
そして今日のテストを恙無くこなした兼続は史学部にいた。真っ直ぐ向かったのは例の霊が出るという資料室。
中に入ろうとして、ドアに手をかけた瞬間、兼続は中での調査を諦めなければならないことを悟った。

カードキーがないと入れない。

貴重な文献も多数所蔵されているのならば当然といえば当然かと兼続は変なところで納得したが、納得している場合ではない。兼続には兼続の事情がある。中に入らないとマズイのだ。他学部生の兼続は当然ながら中に入れない。だが中に入らないことには始まらない。初っ端からつまずいた調査に兼続は内心で舌打ちをした。
とりあえず資料室の前で突っ立っているのも何だと、これからどうすべきかを考えたとき、不穏な気配に兼続は動きを止めた。
―――いる。
ざわり、と蠢く気配。それは確かに兼続が馴染んでいるものに相違ないものだ。すさまじい邪気はない。悪霊の類ではない。…ないが、
「この気配…見過ごすにはいかないな」
そういう気配が資料室からじわりじわりとドアの隙間を縫うようにして滲んでいる。

厳しい視線を資料室に暫く向けたままの兼続だったが、すぐさま思考を切り替えて、カードキーを持っている唯一の宛のある人間の元に行くことを決めた。



***



「どうなってる!無害な霊のはずだ!」
「俺に聞くな!!こっちが聞きたい!」

確かに三成の疑問も尤もだ。そう兼続は思ったが、しかし兼続とて目の前の光景をにわかに信じがたいという所が本音なのだ。巻き起こるのは乱れ舞う風。その中心に居るのは霊の女。女の空気は邪気を孕みながら、資料室の本を巻き上げる。

――ここまで激昂する霊ではなかったはずだ。

現に数時間前に確認した時には害のない霊だと見込んでいた。放っておくわけにはいかないが、悪霊の類ではない。事前に大々的は準備をしなくとも、札で送ってやる事が出来ると思ったのだ。
危険はないと判断し、だからこそ兼続は資料室に三成と信繁を残した。
今までの話からしても完全に日が暮れてから出てくる霊だったはずなのだ。出てくるのが早すぎる。そして何より“何もしない”霊だったはずだ。そうでなければ、友人を少しでも危険のある所に置き去りにするような真似が出来るはずが無い。
つまりは兼続は霊が出る前に札を貼って穏便に済ませようと――そう考えていた。そして三成も信繁も兼続が驚く程度にはあっさりと資料室で兼続を待っていることを承諾した。

だが、札を用意して兼続が戻ってきた時には、想像してもいなかった光景が広がっていた。
邪気は悪霊の類に匹敵するほど増幅し、剣呑とした空気が周囲を包む。それは完全に兼続の想定していた範疇の外をいっていた。
こういう風に霊が豹変する場合は限られる。兼続は経験から知っていた。

――きっかけが、いるのだ。
何か霊の触れてはならぬ感情の琴線を刺激する何かきっかけ、が。

その僅かなきっかけを探して、兼続は片手で風を遮りながら女の霊を注意深く観察する。憎悪に染まった表情を浮かべている女は真っ直ぐ一点を見つめ、青白い唇を静かに戦慄かせていた。
『許さない…許さない…羨ましい』
――信繁?
女のその視線は真っ直ぐ、信繁に注がれていた。
何故女が信繁にそんな目を向けるのか、何故そんな言葉を吐いているのか、兼続には分からない。答えを求めて兼続は三成を見たが、その友人も答えを持っていないのか怪訝な色を瞳に浮かべていた。

何しろ兼続が札を取りに準備している間に調べた話だと、どうやら霊の正体は事故で死んだ史学部の学生だったらしい、との事だった。
不慮の死でこの世にとどまる理由は、様々あるが、若くして死んだならば生への羨望が圧倒的に多い。それが兼続の経験に基づく憶測だ。この女の霊もこのケースに該当するのではないかと兼続は思っていた。恐らく間違いではない。だが、何故、信繁に言うのか。信繁だけに言うのか。
そんな疑念を兼続が抱いている傍から風は資料室の本を巻き上げていく。このまま無理矢理呪で送るしか無い。送るに十分な状況が整っているとは言い難いが安全が最優先だ、仕方ない。そう兼続が思い掛けた時だ。
声を張り上げたのは信繁だった。
「このままでは資料室がとんでもない事になります!…狙いは私です」
言うや否や、信繁はドアの方に走り出していた。それに合わせて霊の注意も信繁に向けられる。
「お二方!後の策はお任せします!」
「お、おい!」
「信繁!待て!」

一人では、ましてや対抗する術を持たないまま行動するには危険すぎる。
そんな言葉を兼続が言える時間があるはずもなく、信繁は部屋を飛び出していった。



***



幸村は走った。走っていた。宵闇の落ちた薄暗い廊下を。
『許さない!私はもっと生きたかった!あなたずるい』
そう言いながら追いかけてきている女の霊が何を言わんとしているのか幸村にはすぐ分かった。
霊は死なない幸村の命の長さに気がついた。そして妬んでいる。己の不慮の死に対する怒りが消えないまま、幸村の登場によって表層に出てきていなかった嫉妬心が恨みに変わったのだ。

――この霊を豹変させたのは、自分だ。

そういう思いが幸村にあった。そして何より、あの混乱した状況では兼続が上手く立ち回れないと思ったのだ。
この時代に生まれた兼続の霊退治を信繁は見たことはないが、幸村という名前を名乗っていた嘗ての戦国の世で、幸村は兼続が霊を送る瞬間に何度か立ち会った事がある。あの頃は人工灯も無く、死が万延している時勢だったことも加えて、闇に潜むものも多かった。兼続が送る姿を幸村はよく目にしていたものだ。
霊を送るには長い呪の詠唱と場合によっては印を紡いだりもしなければならない。その状況と時間を作らなければならないのだ。

だから幸村は霊を引き連れて部屋を出た。その時間を稼ぐために。
あの頃は共に戦場に立ち、言葉少なに意志の疎通をして戦う事が出来たこともあって、霊退治に関してもそういう無言の会話と暗黙の了解が出来たものだ。

そんな感覚が幸村には確かに残っていて、思わずあの頃のような行動をしてしまった。何も言わずに“後の策を頼む”という一言が幸村の真意を正確に伝える手段だったかと問われれば答えは否だ。果たして今、この世でこうするのが正しかったのか。走りながら幸村はそんな小さな後悔に苛まれていたのも事実だ。
余計な事をしてしまったのかもしれない。兼続の指示を待つべきでは無かったのか。
――前とは、違うのだから。
それでも走り出した以上、幸村は止まるわけにはいかなかった。上手くいけば、あの場に残った二人が詠唱の準備と印を踏んで、三成が尤も効率のよい作戦を考えているはずだ。
“昔は”そうだった。

幸村は、賭けた。



***



二人は思わず駆け出しそうになって、同時に足を止めた。
「……」
「……」
追いかけるべきだ。信繁一人では危険すぎる。そう思うのに、別の自分が、違う、と告げる。
――追いかけるべきではない。此処ですべきことがあるだろう?
そう確かに告げる声が響く。何処からか、確かに響くのだ。
「三成…」
「何だ」
資料が散らかった部屋の真ん中で二人は信繁が出て行った方をただ見遣りながら、ポツリポツリと言葉を交わす。
「昔、こういう事が無かったか?」
「記憶にない。だが、…あったはずだと思う自分がいるのも確かだ」
「三成もか」
“時々ひどく懐かしい心持ちがするときがある”そう兼続が信繁に告げたのは半年ほど前の話だった。あの時信繁はどんな表情を浮かべていたのか、兼続には思い出せなかった。

「兼続、――信繁は必ずここにもう一度戻ってくる」
三成の独り言のようなその言葉は、同意を求める確認ではなく、断言だった。しかし兼続はそれに異を唱える気はなく、もしろ同調した。戻ってくる。信繁は戻ってくる。
“後の策ははお願いします!”
あの信繁の言葉は時間稼ぎをする、という意味だ。そうであるはずだ。ならば兼続はここであの霊を送る準備をしなけれなならない。悪霊化してしまった以上、除霊は簡単に済まない。それなりの詠唱と印もいるのだ。信繁はそのための時間稼ぎをした。兼続は素直にそう思えた。そう信じる事が出来た。
「三成、俺は準備を。すぐ済む」
「ああ、俺は信繁がここに戻ってきた時に信繁をあの女から隠す。この部屋にあの女が入ってこれれば、兼続、後はお前一人で済ませられるんだな?」
「ああ」
2、3分で信繁は戻ってくるだろう。二人は言葉に出さずとも暗黙の了解で、その事実を前提に話をしていた。そしてそれは確かに信繁にも伝わっている、と思えた。

奇妙な感覚。何故こんな風に思えるのか。

それを今、口に出すのは憚られて、二人は除霊の準備を進めた。



***



――もうそろそろだろうか。

日が落ち、暗くなった廊下を走りながら幸村は算段をつけた。方向を変え、霊に悟らせないように兼続と三成が待っているであろう資料室に誘導する。
『あなたは…!』
後ろから響く声は怒りに満ちていた。
不意に幸村は立ち止まって、女と真っ直ぐ向き合った。幸村が止まった事で女も止まる。怒りに満ちてはいるものの、すぐさま幸村をどうにかするつもりは無いらしい。

「貴方は勘違いをなさっている」
幸村は静かに口を開くと、宵闇の中でぼんやり浮かぶ女を見据えた。女からは黒い風が吹き出し、幸村の頬をねっとりと撫でる。
「貴方は気がついているのでしょう。貴方はこの場所に縛られ、生に焦がれ悠久の時を彷徨う空しさと心許無さを。確かに生きている…いえ、生きたままの私は貴女の羨望になりえるのかもしれませんが、」
そこで幸村は一旦言葉を切った。そして、女の目を真正面から臆する事無く捉えた。
「ずっと生きたまま。――それは悠久の時を彷徨う貴女とさして変わりません。貴女は輪廻の輪に戻れる。ならば此処で留まるより、新しい生を紡ぐほうがずっといい」
そう、ずっと変わらぬ姿で彷徨うこの世ならざるモノと、変わらぬ姿で生きたまま彷徨うもの。そこにどれだけの違いがあるのか。生きているか、死んでいるかの物理的な差しかない。そして死ねる以上、輪廻の輪に戻れる。

――死ねない幸村にはそれが出来ない。
羨望の念を抱くのはむしろ幸村の方、だ。

そんな言葉を女に投げかけながら幸村が頃合を計る様に佇んでいると、突然ガラリと扉が開かれ、幸村の腕が強く引かれた。そしてそのまま後ろ手に引かれた幸村の身体は、暖かな体温に抱きとめられていた。
「信繁!」
「三成さん、」
耳元で囁かれた声に反射的に幸村が視線を向ければ、そこには三成の少し焦ったような安堵したような複雑な表情がある。だがそれも一瞬で、三成は視線を前方に向け叫んでいた。
「今だ、兼続!」
瞬間部屋に浮かび上がり、響くのは、のは青白い明りと、兼続が呪を唱える低い声。

幸村が引き込まれたのは資料室。
そして資料室に入った幸村を追って、女もまた資料室に入っていた。
全て幸村の見立て通りだった。あの頃と同じように三人が三人にしか出来ない役割をこなしてみせたのだ。

『あああああ!!』
兼続によって、霊は彼岸に送られていく。響く女の声は恐ろしくも物悲しい。
だが、時を経れば彼女もまた、新しい命を受ける事が出来る。

幸村は三成に抱きとめられている事も忘れ、その光景に魅入った。人が彼岸に向かう瞬間を。幸村自身に訪れるのかどうか分からない、その酷く不確かな光景を。



***



「…肝が冷えたぞ」
「お前が言うな。そもそもお前の準備不足が招いた結果だろう」
「まぁお二人とも。何とか丸く収まったことですし」
三者三様の台詞を言いながら、三人は黙々と床に散らばった資料を片付けていた。その作業と光景はあの大騒動の後とは思えないほど地味だ。
霊を送り届けてしまえば、結局最後に残ったのは大量のまき散らかされた資料。まさかそのままにしておけるはずもなく、三人はその惨状を見遣り、何を言うわけでもなく黙々と片付け始めたのだった。

「しかし見事な連携だったな」
「信繁の機転が良かったんだろう」
床の資料を拾いながら兼続がその時の事を思い出したのか少し楽しそうに言えば、三成も資料を拾いながら少しだけ口元だけで笑う。申し合わせたかのように見事に取れた連携に二人は満足しつつ、自らの事ながら関心しているようでもあった。
「いえ、私は何も。むしろ、何も言わずに飛び出してしまったのに、お二人が察していただいた事が大きいのだと思います」
幸村が二人から資料を受け取って整理しながら、少し笑って二人を見返す。しかし幸村が見遣った視線の先の二人が何か考え込んでいる風であるのを見て、幸村は小首を傾げた。
「どうかされましたか?」
「いや…」
その幸村の問いかけに顔を上げたのは兼続で、三成は何かを考え込んでいる風にうつむいたままだ。
「信繁」
「はい?」
「こんな風に三人で何かをした記憶は確かにないはずなのに、何故こんなに懐かしい心持ちがするのか。ただの気のせいだろうか?」
「それ、は」
幸村は言いよどんだ。言葉が浮かんでこない。

“昔、何処かで会ったことはないか?”

兼続にそう聞かれた冬の日を――そうだあれは後期のテストが終わった頃だ――を幸村は思い出していた。その兼続が持つ力のせいなのか、兼続はどうにも輪廻に反応するきらいがある。仏道に最も近い場所に居るのだ。それも無理は無い。
けれど。
幸村は何も言えなかった。何も言うべきではないと知っていた。仮に何か言うとして、何が言えるというのか。幸村にその術も権利も無い。ただ唇が小さく戦慄いてしまわないようにするのがやっとだった。

泣いてしまいそうだった。

嘗てのように多くを語らずとも察して動ける三人で在った事が嬉しかった。何も言わなくても察してくれる、というそれだけで居心地が良かった。策を練る三成も、霊を送る兼続も。変わっていなかった。

――400年前と、本質は同じだった。

それがどうしようもなく幸村を揺るがす。勘違いしてはいけないと、己惚れてはいけないと、必死で言い聞かせても、どうしても揺らいでしまう。気を抜けば、あの柔らかな記憶の中のあの頃に縋ってしまいそうだった。共に在った日々が在ったのだと、語った夢があったのだと、互いに命を賭けた日々があったのだと、吐露してしまいそうだった。

だから幸村は何も言えず、ただ泣きそうになる自分を叱咤して、必死に微笑む事しか出来なかった。






罪業の果て

――静かに見え始めた、最果ての記憶