―――走り出しそうな約束、そっと静かに沈めてきた。




ただ約束をした。
夏には夕涼みに揺れる風鈴の音。
その音を聞くのが楽しみだ、と。


今年の夏は異常だ。異常な暑さだ。
眉間にくっきりとしわを寄せて、そう言っていた友人の言葉を思い出す。その言葉に心の中で同意しながら、脳内に甦ってきた不機嫌そうな顔に幸村は思わず小さく思い出し笑いをした。
「この刻限でもこの暑さ…」
夕刻になっても未だ退くことのない熱気に幸村は小さな息をつきながら家路についていた。
今年の夏は暑い。とにかく暑い。
それもこの古都でも例外ではない。盆を過ぎてもその暑さは一向に収まる気配を見せず、連日人の体温の間違いではないのかという気温を叩き出して、猛暑日を記録している。テレビをつければ熱中症に気をつけろと言うニュースが流れ、涼を求める特集ばかりだ。

8月の頭に前期テストを無事終了し、――途中、幽霊騒動もあったりしたが――幸村は大学生にとってはオアシスとも言える2ヶ月間の休みを迎えていた。
集中講義を履修したり、それなりに遊んでばかりもいられない幸村だったが、盆に帰る家があるわけでもなく、それほど忙しいという訳でもない。大学に行ったり、ある程度バイトの予定をこなす程度だ。
むしろ忙しいのは実家が寺の兼続の方だ。
兼続は今、京都にいない。テストを終えて早々に彼は東北の実家に帰っていったからだ。
一年で一番忙しい盆の時期には流石の兼続も自由を謳歌しているわけにもいかない。実家が大きな寺で長男である彼は様々な手伝いをしなければならないらしい。
加えて例えお盆と呼ばれる繁忙期を終えても、あまり実家に戻らない兼続には予定と用事が目白押しで、8月の終わりまでは京都に戻ってこれないことをひたすらに残念がっていた。

高すぎる気温のせいで、陽炎が古い町並みをぼんやりと揺らめかせている。
今日は幸村の属する史学部のオープンキャンパスだった。こんな暑い日に大学から帰っているのも、幸村がそのオープンキャンパスの手伝いに駆り出されていたからに他ならない。
歴史探究に恵まれた場所に立地しているこの大学の史学部の人気はそれなりに高い。しかも歴史はその時の時流で人気が爆発的にあがったりする。そういう時流によって史学部の倍率も案外変動したりするのだ。幸い今年は例年並みの参加者ではあった。が、やはり人数は多かった。
だが史学の道は決してテレビの中で作られたイメージの世界に終始するようなものではない。事実を探求する学問とメディアで作られた流行のギャップを認識して入学してこないと、後々痛い目を見るのは学生の方だ。現に今日の参加者も文学部の研究分野と混同している高校生が多かった。
それでも活発で若さに溢れる高校生達の明るい姿を思い出し、その明るさを微笑ましく思いながら、夕暮れの中、幸村は家に急ぐ。
だがその幸村の足が不意に止まった。
「……?」

音が聞こえる。涼やかな、音が。
りーー…ん、という消えそうで消えない、涼やかな音が。

足を止め、音の方を探った幸村は直ぐにその音の正体を知った。
「風鈴…?」
古都の町並みに溶け込むように、その姿はあった。
古い建屋で見逃してしまいそうになるが、どうやら鋳物屋であるらしいその店の軒先にいくつかの風鈴が並んでいる。
例年、盆を過ぎたこの頃合いであれば時期外れにもなりそうな風鈴は、今年の猛暑を考えれば不自然さは無かった。むしろ微かな風を掬って軽やかな音を鳴らせる其れは、猛暑の今だからこそ、今に迎合しているようにも見える。

並んでいるのは現代では主流となってしまったガラス製の江戸風鈴ではない。
幸村が昔から――あの頃から――馴染みのある青銅色をした鉄製のそれだ。

思い出すのは嘗ての約束。
今は果たせないままになってしまった、あの。

「何か興味の引くものでもありましたやろか」
思いの外風鈴を眺めてしまっていたらしい。近づいてきた人の気配に幸村は全く気がつかなかった。
慌てて幸村が振り返った先には、柔らかくにこやかな雰囲気を携えた初老を迎えた女性が立っていた。恐らく店主だろう。
「あの、」
言いよどんだ幸村を気にした風でもなく。その女性は幸村が眺めていたものに目を遣り、その正体に気がついたのか、ふっと深い笑みを浮かべた。
「風鈴を見てはりました?」
「はい…。これは高岡風鈴ですか?」
「お詳しいんやねぇ。その通り、これは高岡風鈴です」
「そうですか。加賀の…」
馴染みがある。その音色。酷く懐かしい。

確か昔、百万石を誇っていた嘗ての武将に渡された事がある。
町が繁栄するように、この銅器の鋳造を進めるのだと、そう言っていた。確かその時、同じように兼続も三成も風鈴を受け取っていたはずだ。兼続は風鈴の音を酷く気に入り、三成は2,3何かを言いながらも褒めていた。
――懐かしい、記憶。今は、戻らない、その。

感懐の笑みを浮かべてその風鈴を見遣る幸村に、その女店主は軒先の風鈴を手にとり、幸村に差し出した。
「お一つどうぞ」
「え、あ、すみません、お代を…」
「いえいえ、いいんどすえ。今の若い人は江戸風鈴の方がお好きみたいで、これはあまっとったんです。それでもこの音色の価値に気がついてくれる方がいはるんやったら、その方の所に言った方がこの風鈴も幸せやさかい」
柔らかく微笑まれて、幸村はそれ以上辞意する言葉を紡ぐのをやめた。素直に好意を受け取った幸村が、心からの笑みを浮かべて風鈴を受け取れば、懐かしい質感と少しの重量が手のひらに馴染んだ。
「…ありがとうございます」

心からの礼を告げて、ありがたくその風鈴を受け取った幸村に女店主は、また一つ優しい笑みをくれた。



***


家に戻った幸村はすぐに窓にその風鈴をつけてみた。
このご時世、風鈴でさえ騒音被害にもあたる場合がある。周囲への配慮が必要かと思ったが、アパートの両隣の住人は帰省や旅行で暫く戻ってこない事を幸村はほどなく思い出した。

日も暮れかけ、世界は紫と闇と中間の色を纏う。

いつもはクーラーをつける幸村も今日はそれをせずに、風鈴の音を楽しむために窓を開けてみた。
暑くて窓など開けて過ごせないかもしれない、と幸村は思っていたが、夕暮れで気温がぐっと低くなったのか、思いの外涼しい。風も僅かながらある。この夏では珍しいことだ。
少し高台にある幸村の部屋からは町並みが見下ろせる。外を眺め遣れば、ポツポツと静かに灯り始める町の明りが宵闇に映えて美しい。

りーーーん、りーーーん、と微かな風に靡いて風鈴が鳴る。
ただ、優しく静かに、何を強いるわけでもなく、風鈴は風の流れにのって、只其処に在るのみだ。

その音を聞きながら、ぼんやりと窓から外を眺めていた幸村だったが、不意に鳴ったチャイムの音で現実に引き戻された。
静寂を壊したチャイムの音に慌てて腰を浮かせはするが、驚きはしない。来訪者に心当たりがあったからだ。
幸村がすぐにドアを開ければ、矢張り想像通りの人物がそこに立っていた。
「三成さん、今日も暑いですね」
「ああ、今年の夏は異常だ」
想像に違わない台詞が返ってきて、幸村は内心で小さく微笑む。

夏休みを迎え、大学という場に赴かない長い期間でも何かにつけて幸村と三成は会っていた。何か約束をしていたわけではない。ただ自然にそういう流れになっていた。共に大学に赴く用事があれば、その時にどちらともなく。あるいは、こうしてどちらかの家に赴いてアルコールをあおったり、という具合だ。
流石に盆を迎えて三成も実家に戻った。が、親戚付き合いが面倒という単純明快な理由を携えて、たった2日で京都にトンボ帰りしてきてしまった。
京都に戻ってくるなり、盆であっても何処にも帰る場所もなく何時ものように生活していた幸村のアパートに訪れた三成を見て、幸村は驚いたものだが、三成の説明であっさり納得した。三成らしいと思ったからだ。
だが、そのトンボ帰りの説明の裏に隠された、本当の理由を幸村が知る由もない。

手に発泡酒の缶やカクテルの類を持ってきた三成は、幸村に招き入れられて不意に視線を巡らせた。三成もまた、その音に気がついたようだった。
「風鈴か?」
「はい」
三成の目線の先には先まで幸村が見つめていたそれがある。最近はあまり馴染みのなくなったその存在を三成は少し興味深そうに眺めていた。
そういえば、と幸村は思う。何となく風鈴につられてクーラーを入れないままにしていたが、どうあっても今は夏だ。涼しいとは言えない。クーラーをつけないのは失礼にあたるのではないか、と。ましてや此処まで歩いてきた三成は暑くない筈が無い、と思い至った幸村は、慌ててクーラーのリモコンを視線で探す。
「すいません。暑ければ、クーラーを…」
「いや、大丈夫だ」
不思議なほど澄んだ瞳で風鈴を眺めていた三成の声は静かだった。この風流な幸村の試みに感じ入っているようにも見えたし、或いは他の何か別の感慨を抱いているようにも。ただ小さく口元を緩める三成の表情は幸村しか知らない表情だ。
「いい音だな。ガラス製のよく見かけるものとは違うようだが。鉄製か?」
「ええ、普段見かけるガラス製の風鈴は江戸風鈴と呼ばれるものです。これは高岡風鈴です。見た目はガラス製の江戸風鈴の方が美しいのですが、音色はこちらの方が私は好きです」
江戸風鈴の音色はリンリンという短い音が奏でられるが、鉄器の風鈴はりーんという長く、高い音が鳴る。名の通り、江戸になってから登場してきた江戸風鈴よりも、幸村は昔からあるこちらの音の方が好きだった。

ふと甦るあの約束。
あの約束をした時、二人の聞くはずだった音色は江戸風鈴ででは決してない。
一人になってしまった江戸の頃合いに聞く、リンリンという新しい音色は幸村にとって孤独の証だった。だから幸村は二人で聞くはずだった鉄製の風鈴を好んだ。
あれからどれだけの時を経ようとも。鉄製の風鈴が少数派になったとしても。


二人は大学生にふさわしい廉価なアルコールを飲みながら、どちらからともなく会話に花を咲かせる。
ぽんぽんと交わされるテンポの良い会話も心地よかったが、静かな空気を共有するような時間も違和感は無く、むしろ心地が良かった。そんなひたすらに穏やかな時間が幸村は好きだった。
“懐かしい”それは思ってはいけない事であったとしても感情に嘘はつけない。

ふと途切れた会話の合間を縫う様に、りーーーん、りーーーん、と微かな風に靡いて風鈴が鳴る。
その静かな音は確かに幸村と三成の耳に届く。

「風流だな」
「ええ、たまにはいいかと思いまして」
「そうだな。……信繁に会うまでは季節の移ろいを感じる事も無かったような気が、する」
あまりそういう類の言葉を聞いた記憶が無い幸村はじっと三成を見た。今日の三成はいつになく饒舌だ。
そう言えば三成の前にはかなりの量の空になった缶がある。何時もに比べてピッチが早い。珍しく酔っているのかもしれない。
「春に桜、夏に風鈴か」
「はい」
春はあの大坂の日の事を指し、風鈴はまさに今。
それが嘗ての約束を思いがけず、なぞっている事を三成は知らなくとも、幸村は知っている。
そしてそれがどれだけ幸福かも。想起するだけで願うだけで終わると思っていた、それが現実になっている。その幸福を。

それだけできっと生きていける。
死せない己は何時までもこの時を共有できるはずがない。変わる世で変わらない事は異質だ。別の道を歩むことになる。
しかしそれでもこの記憶があれば――、

「秋は紅葉だな」
「え?」
思わず三成を凝視した幸村だったが、三成はそれに気がつかないまま言葉を重ねる。
「冬は雪見か」


ただ、約束をした。
春には来年の桜も見よう、と。
夏には夕涼みに揺れる風鈴の音を聞くのが楽しみだ、と。
秋には来年も燃える様な紅葉が期待できる、と。
冬にはしんしんと降る雪の中で静かに語らう時が続くと信じている、と。
――数多の約束。それは次を確約できない戦乱の世の中で確かに交わした大切な約束。
今は叶う事のない、約束を。


「約束を、してくれるのですか?」
――“あの時”と同じ約束を。
思いがけず幸村の声が震えた。幸村もらしくなく、酒の効果で枷が緩んでいたのかもしれない。幸村もクーラーをつけていないことで何時もより多めに缶を開けていた。加えてこの暑さだ。体内にアルコールが回らない方がおかしい。酒に強いはずの幸村は無理矢理に自分をそう納得させる。
「信繁?」
「私と、約束をしてくれるのですか?」
その言葉に三成は静かに笑った。
「もちろんだ。そもそも来年の桜も見る約束をしただろう?」

“来年、俺と桜を見てくれないか。一緒に”

己は何て欲張りなのだろうか、と幸村は思った。
どうしても先を願ってしまう。願わずにはいられない。幸福は与えられれば人を貪欲にし、願いは叶えられれば更なる願いを呼び、もっと共にありたいと、その猶予が欲しいと願ってしまう。

思わず俯いた幸村は三成の視線が不意に真剣味を帯びていたことに気がつかなかった。その三成の一言で明らかに揺らいでいる自分自身をじっと見つめている、あまりに聡く、幸村の事を気にかけている者の視線に。
「信繁、」
「はい」
呼びかけられて顔を上げた幸村は、その時初めて真摯な三成の視線に気がついた。
あまりに強い眼差しに射抜かれて幸村は思わず動きを止めた。ぶれるように重なるのは、戦場で送りだされる時の瞳。それによく似ている。あまりで真摯で、あまりに強い――、

「何処にも行くな」


りーーーん、と風鈴が幽かに鳴いた。


幸村は何も言えなかった。
一瞬、全て見抜かれているのではないかと幸村の奥が震える。記憶が戻ったのかとさえ思えるような研ぎ澄まされた表情に幸村の思考の全てが止まった。
「みつな、」
「追いついてみせる。いつか、そこまで。必ず」
「え、」

三成が何を言っているのか幸村には良く分からない。
追いつくとは何の事なのか。三成が何を決意しているのか。何を思って内心を多く語らない三成が幸村に宣言しているのかも。幸村には分からない。
ただ決意した三成の瞳はあの頃と変わらない。ただ、強い。

けれど、本能の部分でそれはいけない、と叫ぶ。真田幸村という死なない自分と同じ所に三成は来てはいけない、と叫ぶ。
その目の前に垂らされかけている切欠を誘引する糸は決して引いてはいけない。過去を掘り返してはいけない。昔は昔のままで、輪廻の中で新しく与えられた生の意味を蔑ろにするような事はしてはならない。戦国は嘗ての世。400年前の人の歴史、ただ記録の中でしか見出す事の出来ない、そんな遠い出来事として据え置いておかなければならない。
「それは、だめです。みつな、」
三成殿――、そう言いかけた幸村の耳にはっきりと通る三成の声が響く。

「一人にはしない」

だめだ、溢れる。幸村はとっさに瞳を閉じた。瞼の奥で熱く感じるものを幸村は必死に押さえた。
幸村はあの関ヶ原の後から一人で生きてきた。大坂の後からは本当に一人になった。死ねなかった。生きた。多くの者が散っていった時代で、死を願う事こそが死した者への侮辱のように思えてならなかったからだ。だから生きた。生きて生きて生きてきた。
けれど真理の理を曲げた生が真っ当なものだとも、思えなかった。
終わらない生。それは何かを託されていたようにも、何かの罰のようも、何かの天命のようにも幸村には思えた。しかしどれとも違うような気も、また幸村にはしていた。
そう、幸村は答えを見出しているような顔をして、生かされ続けるこの命の答えを何一つ見出しては居ない。
分からないのだ。どれだけ足掻いても答えは無いのだ。何故生きているのか、何故生かされているのか。

――ただ、一人になどなりたくは無かった。只人として死ねれば、それで。
――終わらない生。幸村はそんなもの望んでいなかった。

「――ッ、」
そこでやっと幸村は自分の感情に気がついた。そして認めた。
そうだ、確かに幸村は一人で生きたくも行きたくも無かった。永遠の生など望んだ事は一度もなかった。戦場で死ねれば本望とさえ思っていたのだ。六文銭を掲げ、戦場に立つのは死をも恐れない証を知らしめ、己を鼓舞する役割も確かにあったはずだ。

約束は不確かだ。それを幸村は知っている。別離は突然で、孤独は不意にやってくる。
それでも――、

不意に額に感じた暖かさで、幸村はそのぬくもりが三成の肩であることを悟った。
「え、…」
三成に柔らかく引き寄せられ、幸村はその肩を借りている事に直ぐに気がついたが、身を引こうとは思わなかった。
「無理に何も言わなくていい。言え、とも俺にはとても言えない」
それでも幸村は目を開けられなかった。開ければ最後、流れるものは堰き止められない。
だから幸村は喉元で感情を抑え込むようにひたすらに瞳を閉じて溢れ出す感情に耐える。ただ、三成の体温を感じながら。

「俺はきっと何も知らない、だが信繁、俺は」
優しい声は耳元からダイレクトに脳に伝わる。その声に三成は何かを決意したのだろうと幸村は悟った。
何かまでは分からないが、何かを変えてしまうような揺るがすような、渦を生むようなそんな三成の決意。
そんな三成の決意を幸村が如何こう言った所で覆せる筈が無い。その決意は三成だけのものだ。誰かの干渉を受けるべき問題ではない。
「俺は、」
三成はそう言い掛けて、その先を言わなかった。その先を言い淀む代わりに三成は幸村の頭に添えていた力を僅かに込める。そして幸村はその力に任せる。


そう、今だけは。

残暑厳しい夏の夜。それでも少しだけ暑さが退いた静かな夜。
そんな二人だけの世界を壊さないように、りーーーん、という控え目な風鈴の音が小さく響いていた。







罪業の果て

――走り出した約束、抗えぬ心願は