―――からくり、それは昔日の記憶。




これは夢だ。夢の中で瞬時に気がつく夢と分かる夢。稀にはそういう時もある。稀だが。そして今回はその稀なパターンだ。すぐに気がついた。
何故なら風景が酷く現実離れしていたからだ。
風景。それはこの時代ではない。空に高々と掲げられるのは旗。どこかの家紋なのだろう。見たことがあるような家紋もあれば、初めて見るようなものもある。ただ赤の旗に見覚えはあった。だが夢の中ではそれ以上は思い出せない。やはり夢だからだ。そう言う事なのだろう。
そして夢の中には登場人物がいた。一人の男。そして少し離れた所にもう一人男が居た。片方の男が、もう一人の男の所に歩いていく。装束からして時代は江戸、違う。もっと前か。そうかあれは甲冑か。そう思った瞬間、周囲の光景も開けた。二人以外にも男たちが各々にざわざわと喧騒を撒き散らせて歩く。それは簡素ながらも戦装束を纏う者達。その姿でやっと得心がいった。
――そうか、これは戦国時代。場面は何かの戦が終わった後、と言った所か。

『ーきーら!』
『ーつーり殿?』
話す二人の男。その顔はぼやけているような霞がかっている様な酷く曖昧なものでよく見えない。そして声も。ノイズが入っているわけでもないというのに、所々音が途切れる。名前、が聞き取れない。
『怪我はないか?ーき村』
『ええ、この通り怪我は何処にも負っていません』
『そうか。ならいい』
『この戦も勝ちですね』
二人はそれなりに地位の在る者なのだろう。周囲と明らかに装束が違う。そしてその佇まいも。何処かで聞いたことのあるような声だが、子細は分からない。そもそもが夢だ。何でもありだろう、そんな事を思う。
『ーーのおかげだ』
『いえ、ーー殿の采配でしょう』
そして男が手に持っていた何か、あれは扇だ。それを開いた手のひらで軽く2、3度叩く。ぱん、と小気味良い音が響き、そして。もう一度――、


パン!


「……」
夢の中の音に合わせて目を覚ました三成は、無言で数秒天井を眺めた後、ゆっくり上体を起こした。変な夢を見たものだ。戦国の事を調べていたから夢にまで見たのか、と考えて三成は不意に夢の中の扇を思い出し、そして何故あんなものが夢の中に出てきたのかを悟った。
「これが原因か…」
そう呟いて三成が視線をずらした先。机の上に置いてあるのは扇だが、ただの扇ではない。
――鉄扇。
珍しいものだが、希少価値があるものかと言われればそこまでのものではない。それなりの店に行けばそれなりの値段で手に入る。大雑把に言えば、骨の部分がメジャーな竹ではなく、鉄で作られているだけだ。扱いはそれなりに難しいが強度はある。鉄扇と名付けられている以上、それなりの付加価値が付随していて、見る者が見れば価値を見出すのだろうが、生憎三成にそこまでの講釈が出来るような気風は持ち合わせていない。
三成がその需要が高いとは言えないその鉄扇を持っている理由は至極単純だ。
買った、ただそれだけだ。
ただ買うという2文字で表せる明快な行為に至るまでの動機の部分が三成自身にとっても若干不可解な所に問題がある。合理性を尊ぶ三成にとっては案外其れは大きな問題でもあった。

履修申告をした日。
いつものように友人二人と時間を過ごして自宅に戻る途中、三成はそれを見つけた。其処はたまに通る道でその工芸店も当然三成は知っているし、景色に埋没させながらも記憶にも残っている。扇も売っていることも知っていたし、そもそも意識せずとも鉄扇があったことも目にしていたはずだ。
しかしその日は何故か鉄扇に目を奪われた。
その理由は今も三成は分からない。何故普通の扇ではなく、鉄の骨で作られていなければならなかったのか。そして何故気がついたら購入していたのか。使う機会などどう考えてもない。工芸師が作った価値あるものだと分かっていても、それでも三成の人生に必要なものではなかった。ただ、気がつけば買っていた。

珍しい事をした。だから、あんな夢を見た。

何か厭な予感に苛まれながら三成は携帯電話のディスプレイを見る。2日間連絡を取っていなかった友人に電話をして留守番に切り替わったのは昨晩の事。
律儀な友人にしては珍しく、一晩経ち、昼前の時間になっても連絡は入って、いない。



***



「う、…」
ぼんやりと開けた視界。その視界に飛び込んできた天井が何時もの見慣れたものとは違っていて、幸村は数回目を瞬かせた。何がどうなっているのか。よく分からない。少なくとも此処は自分の部屋ではない。一体どうしたのか、どうなっているのか。
状況把握せよとの脳の指令に素直に従って、幸村が体を捻ろうとした瞬間、腹部を襲うのは強烈なまでの鈍痛だ。そのあまりの痛みに幸村は思わず小さく息を詰めて、漏れそうになる声を奥歯でかみ殺す。
じくじくと重くのしかかるような痛みとその周囲に広がっていく波のような幻痛。加えて不快でさえある全身の倦怠感。それらの感覚で幸村は自分の置かれている状況を思い出した。
「風魔小太郎…」
口元に笑みを浮かべていたあの忍びの姿が脳裏に浮かぶ。そして素手でわき腹を抉られたあの生々しい感覚。
「生きている、のか」
それは感慨が含まれていて当然の言葉だったが、幸村には余り胸に響くものは無かった。呟いた言葉は事実を確認したに過ぎない。
結局首を落とされるような事は無かったようだ。膝をついた瞬間はそれさえ覚悟したが、とりあえず首と胴は繋がっている。しかし風魔が何を考えていたのか終ぞ分からないままだ。ただ思い出されるのは、意識が途絶える寸前に風魔が言っていた愉悦さえ含んだあの言葉。
あれは、

「幸村?」
「慶次、殿?」
馴染みのある声に幸村は天井をぼんやりと見つめていた視線を無意識に声の方に向けようとして、再び襲った鈍痛に小さく眉を顰めた。首を捻ろうとするほんの僅かな動作にも傷に障る。幸村のその僅かな表情だけで傷が痛む事を悟った慶次は手だけで幸村の動きを制し、幸村の横たわるベットサイドに腰掛けて話し易い体裁を整えてやる。
「よし、目覚めたんだな。一時はどうなることかと思ったぜ」
「此処は慶次殿の…?」
「そうだ、俺の部屋だ。あの後担いでここまで連れてきた」
道理で見慣れぬ景色であったはずだ。むしろ知らなくて当たり前だ。幸村は傷に響かないように注意を払いながら周囲を見遣る。社会人だけあって慶次のアパートは幸村の部屋よりも広く、部屋も少なくとも2部屋はあるようだ。
幸村が寝かされていたのはベットで、どうやら慶次の寝具をそのまま占領していしまっているようだ。その事に内心で申し訳ないと思いつつも、背中にあたる柔らかい寝具は今の幸村にはどうしても必要不可欠なものだった。そして今更ながらに幸村が慶次のアパートに来るのは初めてである事に気付き、そしてこんな形で初めて訪れる皮肉に小さく苦笑する。
「風魔は、」
「消えたよ。幸村が意識を失った瞬間にな」
「………そうですか」
殺す事は端から目的ではなかったのか。そう幸村は思ったが、思うと同時にその考えを瞬時に打ち消す。幸村が負った傷は“ただでは済まない傷”だ。殺すつもりが無かったとしても、“殺せる傷”であった。その事はその傷を負わせた風魔が一番良く分かっていたはずだ。

――混沌を証明してみせろ
そう告げた風魔の言葉の意味する所を幸村は考える。

もしかしたら風魔にとって自分が死んだとしても、それは彼にとってはさしたる問題ではなかったのではないか。むしろ彼が望んでいたのは確証に近い推測を補強するための証拠だったのではないか。
風魔小太郎という混沌を尊ぶ男の定義する混沌の中に――人では在るべくもないもの――そういう物をが含まれていたのではないか。そして風魔はそれを幸村の中に見つけ、その可能性を完全な事実へと定義するために仕掛けてきたのではないか。風魔小太郎が知りたかったのは只其処に存在する揺ぎ無い事実。そこに幸村の生死は問題ではなく、過程でしかない。そう言う事ではないのか。

「どうだ、痛むか?」
慶次の気遣わしげな言葉に幸村は曖昧に頷いた。確かにこの痛みは尋常ではない痛みと定義されるのだろう。しかしこの尋常ではない痛みもまだ序の口に過ぎない事も幸村は知っていた。
幸村をこの部屋まで運んできた慶次は幸村の傷口をしっかりと見ている。どの程度痛むのか過去の記憶が知らせてはいるだろう。それでも敢えて痛むか、と聞いたのだから、慶次の聞きたい言葉はそのもっと奥だ。それを知りながら幸村は更なる言葉を、慶次が混乱するであろう言葉を、口にする。
「恐らく“これから”だと思います」
「これから?」
案の定、いぶかしむ様な表情を浮かべた慶次に幸村は腹部の痛みを逃すように小さく息を吐いた後、ゆっくりと慶次を見つめて呟くように言った。


「慶次殿、少し昔話をしませんか?」





今まで幸村は頑ななまでに、あの戦国の終わりからこの時代までをどう生きてきたのか、どう過ごしてきたのか語ろうとはしなかった。慶次の知っている事実は、幸村は死なずに生きてきた。ただそれだけだ。どういう仕組みなのか慶次にはとんと想像も出来なかった上に、それはぼんやりとした想像でしかなく酷く現実味に欠けていた。
そんな事実が今、幸村自身の口から語られる事で、曖昧な輪郭がはっきりとその姿を取り戻す。慶次にはそんな気がしていた。

「大坂を覚えておいでですか?」
そうやってポツリと語り出された言葉は幸村の穏やかな声色に反して酷く重い響きを持っていた。
「もちろんだ」
全てが終わったあの大坂の夏。最後の戦い。喧騒と怒号と舞い上がる粉塵と倒れこむ敵味方入り混じった石垣の上。そして躍起になって家康が欲したのは日の本一の兵の首。あの時、同じように大坂の地を踏んでいた慶次とそして兼続にも幸村の鬼神の如き活躍は耳に届いていた。
そして真田幸村を討ち取ったと叫んだ武将の声も、その言葉に一瞬絶望めいた表情を浮かべた兼続の横顔まで、慶次は洩らす事無く覚えている。
「では真田幸村とされた者の首の検分は誰が?兼続殿ではありませんね」
「ああ。違う」
慶次は即座に答えれば、幸村も納得したように頷いた。そう、首を検分したのは兼続ではない。

しなかったのではない。――兼続には出来なかった。

「そうですか。やはり私の影武者…忍隊の者だったのでしょう。弔ってもやれず、悪いことをしました」
言い換えれば兼続や慶次ほど幸村に近い者でなければ首の検分をしても影武者と気がつけなかった、と言う事になる。
幸村の直属の部下にあたる真田忍隊は優秀な忍びの集団だったと慶次は聞いている。大坂ではあちこちに幸村の目撃情報を伝える伝令が現れて本陣が混乱したのも印象深い。それを全て忍びの集団が引き起こしていたというのだから、忍びの手管と幸村の智将としての指揮が如何に優れていたのかは想像に固くない。
そして智将であり猛将である幸村の戦術と最期まで幸村に忠誠を誓っていた忍隊によって、幸村は記録という名の歴史の中で死んだ事になった。

「慶次殿、私の傷はどうでしたか?」
ゆうに400年以上も前の邂逅から一気に今に引き戻すような不意の問いかけ。その話の流れを折るような言葉は普段から相手の話し易い環境を作る事に長けている幸村らしからぬ問いかけだった。そして慶次も普段の彼らしくなく、言葉に詰まった。言うべき語彙が見つからなかったからだ。
「どう、って…幸村」
「普通であれば“生きていられるはずがない傷”だったのでは?」
その穏やかな声色に似合わない幸村の置かれている奇妙な現実を証明する言葉に今度こそ慶次は何も言えなかった。
――その通りだった、からだ。

何も言わない慶次の言葉を肯定と受け取った幸村は静かに瞳を閉じて言葉を続ける。いっそ清々しいまでの穏やかさが、逆に幸村の置かれている人としてありえないはずの状況を際立たせてしまう事に幸村自身は気がついているのだろうか。
「おかしいと気がついたのはすぐでした」
あの大坂の後、それを指してすぐという事なのだろう。慶次は無言で幸村の言葉の続きを待つ。
「私も浅からぬ傷を負っていたのは事実です。家康を寸での所で討ち逃し、精魂尽き果てていたとはあの事で、…事実死ぬだろうと」
それほどの激戦だった。むしろあの圧倒的に少ない兵力差で、そこまで家康を追い詰めていたこと事態がありえぬ事に近い。豊臣方の武将の士気は兵力差の前でも挫かれる事は無く、むしろ彼らを奮い立たせた。生きて戻れぬと分かっていたからこその激戦と奮戦だったのかもしれないな、と後に静かに語っていたのは兼続の言葉だ。

「でも私は死ななかった」

その言葉に弾かれるように慶次は幸村を見つめる。何かを思い出しているのかその瞼は閉じられたままだ。
「理由は分かりませんでした。気がつけば近くの村に匿われ、生きていました。最初は看護のおかげかと、傷も深いと思っていたのは思い違いで、疲労の果ての幻覚だったのだろう、と。…しかし違いました」

『傷?そんなもの負ってなかったよ。アンタは疲れきった様子で倒れてたんだ』
『え、』
『アンタが誰であろうと私達は気にしないし、詮索しない。好きなだけいるといい』
『―あ、りがとう…ございます』


「村人の言葉で傷そのものが無いことにやっと私は気がつきました。無いというのは違うかもしれませんが、薄く皮膚に傷跡が残っていただけだったのです。それも幾日かの時を経て消えました」
どんな傷も治ってしまう。それが幸村の生き続けるしかない理由の一つだったのか。
慶次は言葉にせずに幸村を見る。治ると言ってもそれでも痛みはある。人ならば耐えられぬはずの痛みを生きて耐えるつらさはどれほどのものか慶次はそっと思ってみたが、分かるはずも無い事に気がついて生産性の無い思考を止めた。
「不思議だと、あまりに不思議だとは思っていました。流行り病も何故か必ず私の脇を通り過ぎた。ただそれを確かめる術もなく、私は生きました。死ぬことは出来ないと、それではあの大坂で散った多くの者に顔向けできないと」
「………」
「そして5年経ち、」
「――老けなかったんだな」
慶次の言葉に幸村は小さく頷き返した。

此れが、幸村が時の流転の中で取り残された最大の理由。

「私は急ぎその村を離れました。あまりに奇異すぎる。あの時代で5年見目が変わらないと言う事は、この時代で10年以上老けていない事と同じです。他人に指摘され雲行きが怪しくなってはいけない、そう思いました。そして各地を渡りながらまた5年経ち、10年経ち、……結局、私の見目は大坂の時から全く変わらなかった。そしてまた10年を経て、私は認めるしかなくなった」
江戸時代初期、あの時代の農民は武将に比べて平均寿命が短かった。生活水準が違いすぎたのだ。各地を放浪していた慶次はその事実を肌で知っている。城の奥で部下の報告を待っていた大名とは違うのだ。だからこそ幸村が一箇所で長くは暮らせない事も、そうするしかなかった理由も良く分かる。

「私は寿命を全うする事が叶わぬ事を知りました。死ねぬ体になっていたのです」

“理由だけは今も分かりません”そう言って幸村はまた小さく息を吐いた。傷口が先よりも痛むのかもしれない。眉間の皺が一瞬深くなる。その横顔を見ながら、慶次も思ったままを口にする。遠慮して言わずにいるのは慶次の性分ではない。幸村が初めて腹を割って話したのだから、慶次も思ったままを見たままを告げることを許されるだろうし、幸村もそれを望んでいるような気がした。

「――正直に言う」
「はい」
「風魔からの傷は…どうみてもダメだと思える傷だった」
「はい。私もそう思いました」
幸村は慶次の言葉に露ほども驚いてはいなかった。
あれほどの戦歴を残し、いくつもの戦場を駆け抜けていた猛将だ。戦場という非情な空間の中で人の急所も知り尽くしているし、前線で倒れた味方の傷を見ただけで生き残れる傷か生き残れない傷か瞬時に見分ける能力にも長けている。そんな人物が自分の負った傷の状態を冷静に見分けらなれないはずがない。
それを知っていて、この真田幸村という存在は自分の負った傷を“死ぬ傷だと思った”と静かに言えてしまうのだ。

「しかしあれで病院に連れていくな、とは酷な言付けだったぜ、幸村」
とりあえずどうであれ幸村は死なない。死ねない死なないという慶次の苦手な複雑な理屈を抜きにして、ただ幸村が生きている事実に素直に安堵した慶次は、今までの重い空気を払拭するように何時もの笑みを顔に乗せた。
どうみても致命傷を負ったと分かる傷口から鮮血を溢れさせながら血に倒れこんだ幸村を満足そうに眺めた風の忍びが姿を消すのと同時か、それよりも早く幸村に近寄った慶次に告げられた言葉はとんでもないものだった。

“わたし、は大丈夫、です。で、すから…病院には行かないで下さい。決して”

息も絶え絶えに告げられた言葉に慶次が、おい幸村冗談だろ、と聞き直す事は叶わなかった。その時既に幸村は意識を闇に沈み込ませていたのだから。
お陰で幸村が刻々と眠り込んでいたこの3日、慶次は幸村の言葉に従った自分の判断が間違っていなかったかを自問自答する羽目になった。誰もかに相談出来る類のものではない分、あれは中々心臓に悪い。出来ればもう御免して貰いたい所だ。
「慶次殿ならそうしてくれると思いましたから」
小さく笑う幸村に、やられたと苦笑しながら慶次は幸村の傷口がある場所を見る。その場所はシーツに隠れて見えないが、包帯を巻いた慶次はその状態を知っている。大雑把に言ってしまえば、傷口を圧迫して無理矢理止血して、内臓を包帯一枚で押し留めているような状態なのだ。
「その傷も綺麗に治るのか」
普通の人間なら死んでいる傷だ。それさえも跡形も無く治ってしまうのだろうか。それは俄かに現実感を伴わない。
「傷跡まで全てなくなるのかは何とも。…ですが、これからです」
「これから?」
幸村の言葉に慶次が思わず聞きなおすと逆に問いかけられる。
「この3日。私は死んだように眠っていたのではありませんか?」
「ああ」
確かに恐ろしいほど静かに眠り込んでいた。体温も低く、このまま死ぬのではないかと慶次が待つだけの現状に焦燥感を呷られる程度には。死んでいないかと思って思わず呼吸を確かめたのも2度や3度ではない。
「次は高熱でしょう」
「高熱?」
鸚鵡返しに聞き直した慶次に“過去の経験から。いつもそうなんです”と言った幸村が上体を起こそうとし、慶次は慌てて押し留めた。つい3日前に腹に穴が空いたというのに、彼らしからぬ暴挙だ。まだ包帯の下では薄い布で押し留めた内臓があるというのに、傷口が開こうものならとんでもない事になる。それが分からぬ幸村ではない、否、むしろ幸村が一番良く分かっているはずだ。
「これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません。後は熱だけですから、私は帰ります」
そんな無茶な、と言いそうになって、目の前の存在が大真面目にそれを言っていることに気が付き、慶次は言葉を飲み込んだ。まさしく真面目を絵に描いて、純度をこれ以上ないほど上げた存在だ。迷惑がかかるという意識一つでこんな大怪我を抱えて家に戻ろうとするのだから、恐れ入るを通り越して尊敬さえしてしまう。
「幸村。どう考えてもその体では無理だ」
「帰るくらいは出来ます」
出来るかもしれないが、傷口が開く。下手をしたら臓物が落ちるぞ、と洒落にならない事まで考えながら、慶次がどう幸村を説得しようか考えていた所で、救いの手…もとい声が降ってきた。

「あきません」

「…お、阿国殿?」
「慶次さんに連絡もろて、びっくりしましたわぁ」
絶妙なタイミングでやってきた巫女に慶次は内心で感謝する。この際どうやって部屋に鍵無しで入ってきたのかは考えない事にした。突然の阿国の出現で目を丸くしている幸村からは驚きのためか起き上がろうとする力は抜けていて、ベットに素直に背を預けている。
「慶次殿が連絡を?」
「そういう事だ。悪いな、幸村」
「慶次さん、悪いてどういう事どす?」

血だらけの幸村を抱えてとりあえずの処置をしたものの、慶次はその先を一人で何とかするには荷が重いことを直ぐに悟った。そもそもが慶次の理解の範疇を超えた事象なのだ。なるようになる、という慶次のスタンスとは少し異質な出来事で、慶次は素直にその方に明るい人物に頼る事に決めた。
そこで慶次が思いついたのが、幸村の事情をもしかしたら自分よりも知っているかもしれない出雲の巫女だ。
その存在を思い出した途端、慶次は迷わず携帯のフラップを開けて、電話帳の中から目的の人物の番号をコールしていた。

「これを、」
すたすたと気品の溢れる仕草で幸村の眠っているベットに歩み寄った阿国は静かに手に持っていた物を幸村に差し出す。それを見た瞬間幸村が瞠目したのを見て、慶次が何事かと阿国の手元に視線をやると其処にあったのは幸村の携帯電話だった。
「着信がはいっとりました」
「…三成、殿」
幸村の唇から漏れた言葉で慶次は幸村の瞠目の意味を知った。携帯のディスプレイに映っていたのは不在着信で、その名は三成だったのだろう。
「今、戻られて鉢合わせでもしてしもたら、いくら幸村さんでも言葉、でませんやろ」
阿国の柔らかい、そして有無を言わせない言葉に幸村は何も言わなかった。阿国の指摘が幸村にとって正しすぎたのだろう。

もし三成が携帯に出ない幸村を不審に思って幸村のアパートに訪れでもしたら――そうでなくとも友人なのだから訪ねてくる事にさしたる理由も要らないはずだ――、如何に幸村でもこの状況では三成を言いくるめる事は不可能だろう。幸村に関しては異常に聡い三成の事だ、幸村のどんな些細な変化も見逃さない。そうなれば幸村の傷を見抜くことは想像に難くない。そして病院だの、その理由だのという所まで話が及べは、それは風魔の存在よりも幸村にとっては歓迎出来ないはずだ。その先はもう否応無く三成を、そして兼続をも巻き込む事になる。それは幸村が望むことではない。今まで必死に隠してきて、そしてこれからも隠そうとしている本質を晒す事になる。幸村の唯一のウィークポイントだ。

相変わらずの話術と、有無を言わせない存在感に慶次が舌を巻きながら、阿国を見遣ると、その美しい巫女は最上級の笑顔を乗せて幸村と慶次に向かって唇を開く。

「“此処で”看病、さしてもらいます」

当然その言葉に幸村は勿論何も言えず、何も疚しい事が無いはずの慶次もその迫力に何故か引き攣った笑みを浮かべてしまっていた。









罪業の果て

――昔日。不可解なからくりの出来は分からずに、