―――錯雑、それは見分けが付かないほどに。




懐かしい記憶。しかし此れは夢だ。幸村は周囲を見渡しながら思った。
今見ているこの夢は過去の記憶を追いかけているものに過ぎない。だがこの夢は今も幸村の心の隅に影を落とし、時折魘される夢を運ぶあの雨の記憶ではなかった。この記憶はもっと後のものだ。
この光景に幸村には覚えがあった。
『………』
幸村は自分の手、そして纏っている装束を見る。纏うには些か重量があるずっしりとした重みを伴った懐かしい赤の甲冑。手には馴染んだ槍。恐る恐る額に触れてみれば、家紋である六文銭が刻まれた額あてがあった。もう過去となってしまった、死をも恐れぬもののふとしての姿。それを幸村は纏っていた。

懐かしい、そう思った。戻りたい、出来るものなら。そんな叶わぬ事をも思う。

きっとそれはこの景色にも関係しているのだろう。ざわつく周囲の喧噪を見ながら幸村は戦が終わったばかりの独特の空気を肌で感じ取った。生きていることを喜び合いながら互いに肩を叩きあう一兵卒。怪我人の手当てに追われる者。顔馴染みの武将が幸村の姿を見て会釈をしては戦の後始末に追われる様に急ぎ足で駆けて行く。それでも隠せぬ高揚感――勝ち戦の時の独特の空気。周囲に掲げられるのは見慣れた御旗ばかりで、ここは自軍の本陣だと直ぐに分かった。土の香り、わずかな血の匂い、そして砂塵の音。意識せずとも、少し拍動の早くなった其れを抑えるように幸村は小さく息を吐く。
この後はどうなるのだったか。そうだ、この後は――、

『幸村!』

『三成殿?』
ああ、そうだ。幸村は駆けてくる姿を見遣って不意に泣きたくなるほどの郷愁に襲われた。懐かしい戦装束の姿。歩みと共に揺れるのは大一大万大吉の文字があしらわれた装束。風になびくのは色素の薄い髪。そうだ、律儀な彼は何時も戦が終わる度にこうして身を案じては本陣から抜け出して来てくれた。戦が終わってからも文官としての立場をも背負う彼の方がずっと忙しいというのに。
『怪我はないか?幸村』
『ええ、この通り怪我は何処にも負っていません』
『そうか、ならいい』
こうして身を案じる言葉を聞く度に、申し訳なさと有り難さ、その両方を感じていた事を幸村は思い出す。前者は本陣で戦の全体を見渡しながら次の手を読んで指示を出すという精神的な重圧を乗り越えた後で、それでも自分の事を気にかけてしまわせているという申し訳なさ。そして後者はただ純粋に身を案じて貰えるという嬉しさからくるものだ。

幸村はゆっくりと空を見上げた。戦の時は見る余裕など微塵もなかった空の蒼をしっかりと網膜に焼き付ける。空は地上の血を伴った争乱など知らないかのように、抜けるように青く、蒼い。

『この戦も勝ちですね』
『幸村のおかげだ』
『いえ、三成殿の采配でしょう』
己は槍を振るうしか出来ない。それで役に立てるなら、義の世に少しでも近づけるなら、どれだけでもこの力を使おうとそう決めていた。そんな意味合いも含めて言えば、かの人は何時も“幸村のおかげだ”という言葉を必ず真摯な瞳で告げてくれたものだった。

――そうこれは戦いの記憶。されど理想を掲げ、叶うと疑っていなかったあの優しい頃の記憶。
静かに三成が鉄扇を片の手のひらの中で軽くぽんぽんと叩く。自身の使う槍とは形態も特徴も全く違う、その扇を奮う戦いを見るのが幸村は好きだった。
ぱん、と小気味良い音が鳴る。そして三成の手の動きに合わせてもう一度――、


パン!


“………”
ああ、まだ夢の続きなのか。幸村はそう思った。まだ夢から醒めていない。
場面は先のものと全く違っていた。ただ景色が酷くぼんやりしている。見えるのは何処かの天井だ。言い換えれば天井しか見えない。何処なのか。見覚えがあるようで全く無いような気がする。結局の所、全く分からない。先までの夢とは違い、場面が変わっただけだというのに思考が上手く働かない。不思議な夢だった。

何時の記憶だろうか。

幸村は静かに思うが、何故か上手く思考が巡らず、答えがまとまるどころか、酷く曖昧なままだった。まずは記憶の正体を探す事を諦めて、このままならぬ感覚の正体を探す。そしてこの感覚を覚えている事に幸村は直ぐに気がついた。

――そうだ、これは熱だ。熱を出している時の感覚だ。

熱を出しているから自分は横になっている。だから天井しか見えないのだ。幸村はやっと納得した。
そこまで分かっても何時の記憶なのか、絞り込めない。幾つか熱を出した記憶を――幼い頃からのものを一つずつ辿ってみるが――結局はよく分からなかった。やはり熱の仕業なのだからだろうか、それとも夢だからだと諦めてしまえばいいのだろうか。

“ん、…”
思わず吐き出した息は想像以上に熱く、小さく呻くような声も漏れる。夢にしては酷くリアルだった。
ぼんやりと滲む視界の記憶に答えを見いだせぬまま幸村が虚空を眺めていると、見慣れた顔が視界に飛び込んできて、幸村は思わず信じられないと言った風に、思わずその顔に問いかけていた。

“三成…殿?”
“大丈夫か”

――嗚呼、本当に何時の記憶なのだろうか。

纏まらない思考で幸村は思うが、その答えは出ない。小田原から関ヶ原までに熱を出して三成に世話をかけてしまった記憶、それを幸村は探してみるが、どれだけ考えても思い出せない。熱が全ての障害になっているようだった。
出ない答えに幸村は内心で苦笑しつつ、それでも三成を前にしてしまえば言葉は自然と出ていた。
“はい、大丈夫です。…すみません、お見苦しい所を”
“見苦しくなど無い”
瞬時に返ってきた否定の言葉。その言葉に幸村は意識せずとも静かに微笑んでいた。言葉が決して多くは無い三成だからこそ、少ない言葉の中に嘘も偽りもない。三成の真実に幸村は身構えずに済んだ。何時だって、今でも。
“次の戦までには、体調を元に…”
それでも三成に迷惑をかけてしまった。熱を出すなど自己管理が出来ていないと言われてしまってもおかしくない。もしこの事が原因になって次の戦に出陣できない事になってしまえば、兼続も含めてとても顔向け出来そうにない。

しかし。幸村はふと思った。
次の戦?次とは何時なのだろうか。次の戦とはどの戦いなのだろうか。

そんな思いを込めて幸村が三成を見遣れば、三成は何故か少し難しい顔をしていた。他人がこの三成の表情を見れば怒っているものと勘違いしたかもしれないが、幸村には分かる。何か困惑している顔だ。
“……”
“三成殿?”
問いかければ、その瞳が確かに幸村を捉えた。ただ静かに真っ直ぐに。

“ゆっくり休め…幸村”
“はい”

幸村。その呼び名に泣きたくなる。
――嗚呼、此れはやはり夢だ。



***



些か不躾、ともとれる声色と前置き無しで発せられたその声は不機嫌を通り越し、怒りさえ滲んでいた。

「信繁がいるな?」
ドアが開いた瞬間、押し入るように入った三成がその秀麗な顔で睨みつけるように問いかける姿は恐ろしいほどの怒気をも纏っていた。しかしそんな三成の様子とは対照的に、阿国は美しい佇まいを微塵も崩さずにただ静かに頷いた。
「…はい。いてはります」



あの信繁から連絡がない。

それは信繁の人となりを知る三成からすれば“ありえない”事に属するには十分な事だった。
三成がコールした携帯の着信は確かに信繁の携帯のディスプレイに表示を残しているはずだった。だが丸一日以上を過ぎても三成の携帯に信繁からの連絡は無い。それは携帯の不在着信をながしろにしたことはなかった律儀な信繁には珍しいを通り越して不審ともとれるものだった。
――嫌な予感。
そういう第六感と呼ばれるものを三成は信じてこなかったが、その瞬間、確かに嫌な予感が三成の脳内を巡ったのは事実だった。心配になった三成はまず兼続に連絡を取った。しかし兼続も信繁と連絡を取っていないと言う。ならばと信繁のアパートを訪ねてもみた。だが嫌な予感は外れることはなく、アパートのドアは開く事は無かった。

そして三成は愕然とした。
それ以上、信繁の行方を辿る材料を何一つ持っていなかったのだ。信繁に両親はいない。実家も存在しない。それは知っていた。だがそれしか知らなかった。信繁と最も親しい友人は自惚れでも何でもなく自分と兼続だ。今まで信繁と繋がっていたのは、信繁が存在している事を前提にしたアパートと、信繁が応対する事を前提にした携帯電話。
――たったそれだけしかなかった。

冷や水を浴びせられたような気分とはああ言う事を指すのだと三成は初めて知った。
強い繋がりを持っていると思っていたのは、当たり前の日常を前提としたもので、それが揺るいだ瞬間、その繋がりは今にも切れそうな糸の様だった。
そしてその後、三成は必死に考えた。他の存在を――認めたくはないが、自分以外の存在で信繁に繋がる存在を――どんな些細な糸をも逃すまいと思考を巡らせた結果、至った答えは薙刀のコーチのやたら背の大きい男と占いを生業にする女。

その二人だった。



結局何とかして薙刀の男の家を調べ、出向いてみれば案の定、占い師の女までいた。その瞬間、三成が感じたのは紛れも無い怒りの感情だ。
「信繁がいるな?」
意識せずとも抑え切れぬ怒りが零れる。分かっていても三成にはどうしようも無かった。そうしてその三成の姿を見ても目の前の阿国は少しもその表情を揺るがしはしない。それが益々三成の嫉妬を巻き込んだ怒りの温度を上げていく。
「…はい。いてはります」
そしてその部屋の奥には、三成が探していた人物が、居た。
「信繁、…」
僅かに覗いた部屋の奥、ベットの上、三成が探していた人物がいた。しかも、明らかに健康ではないと分かる姿――発熱している姿で。

その瞬間、三成の脳内が沸騰した。

「どういう事だ!!」
三成は怒鳴っていた。感情をむき出しにして怒鳴るなど三成の今までの人生で一度もなかった。ただの一度でさえも。だが三成は怒鳴っていた。湧き上がる衝動のままに。
「…お静かに。起きてしまわれます」
「何故信繁が家におらず此処に居る?そして何故此処にお前が居る!?」

――分かっている。これは八つ当たりだ。
それでも三成には止まれなかった。どうしても止まることが出来なかった。止めようとする事すら無意味だった。激情がどうしようもなくうねり、三成の思考を巻き込んでいた。
この沸騰していくようなどうしようも無い怒りの正体にも三成は疾うに気がついている。そして理で押さえ込めるような感情ではない事も、また。

「簡単な事です。信繁はんと慶次さんがばったり外で会われて、その時に信繁はんの高熱にお気づきにならはった。そして信繁はんの家より此処の方が近かったさかい、信繁はんは此処に。そして熱はみるみる上がりはった。家に戻れないくらいに。そして私が慶次はんに泣きつかれて看病に来さしてもらいました。…至極分かりやすいお話ですやろ?」
穏やかで柔らかい声色はまるで言外で三成を諌めようとする力が働いているようだった。生まれ持った語り口調か、占い師で培われた能力なのか、その両方なのだろう。
三成とて、阿国から聞く前からそういう話だろうとは大方察しはついている。邪推するような要因など何一つとして存在しないし、探そうとしても見つけれない事くらいは分かっていた。
――それでも。
異変に気がつくのは自分でありたかった。熱を出した信繁の傍に誰よりも一番近くにいたかった。
そうして結局は言えず告げられない感情が渦巻いてどうしようもなくさせる。――其れは耳良いオブラートを剥がし取ってしまえば、剥き出しの独占欲しか残らない、只の本音だ。
しかしそれだけの感情がこれほどに三成の内面を乱す。

思わず今までついたことの無いような悪態を思わず呟きそうになった三成だったが、部屋の奥でわずかに身じろぐ気配を感じ取り、その表情から怒りを削ぎ落とした。
「ん、…」
そして聞こえてきたのは小さな声。三成は信繁の覚醒を感じ取り、怒りを彼方に飛ばす。
「…信繁、」
三成は阿国の存在を無視して信繁のベットに近寄る。
薄く開いた唇から僅かに苦悶の声を零す信繁の額には汗が滲み、眉が僅かに寄せられている。滅多にない表情に、それだけで信繁の熱の高さが三成には伺い知れた。
思わずその顔をのぞき込むようになった三成の動きより少し早く信繁の瞳がゆっくりと開く。熱のせいなのか、状況が上手く把握できていない様だ。暫し周囲を確認するようにゆっくりと視線を巡らせていた信繁だったが、三成の顔を視界に収めると表情を驚きのものに変えた。まるで此処に三成が居る事を信じられていないかの様な表情だった。
「三成…殿」
「大丈夫か」

――ああ、無事だったか。
そんな事を思った三成だったが、直ぐに自分の言葉に疑問を投げかけた。

安心したのは事実だ。そしてその表情に僅かな笑顔があった事も。名を呼んで貰えた事にも。
しかし、まるで死地から戻ってきたかのように安堵するこの感情は、何だ?

それでも信繁の表情をただ見つめる事しか出来ない三成に信繁は静かに小さく息を零す。まるで内に篭る熱を逃すかのように。
「はい、大丈夫です。…すみません、お見苦しい所を」
「見苦しくなど無い」
むしろもっと頼ってくれても構わない。それほどだった。いつも無理をしてはそれを隠そうとする。それは彼らしい美徳とも言えたが、三成はいつも目を離せない。そう、いつも。何処にいても。本陣から最も危険な場所で舞うように戦う姿を思い、その力量を確かに信じていながらも、突然起こる不測の事態にもしも、と慄いてさえいる。
「次の戦までには体調を元に…」
「……」
戦など、今は戦など。それでも戦に駆けていくその後姿がどれだけ軍の志気を高めているのか三成も兼続も、そうして当の彼も十分に分かっている。嘘をつけない三成は咄嗟に言葉に詰まって、結局は沈黙しか出来ない自分の不甲斐なさに怒りさえ覚える。今はゆっくりしていい、何も心配する事は無いのだ、と言える筈の言葉が直ぐに出てこない。余計な事まで言って困らせるのはないかと思うのだ。だからこそ三成は何か上手く言えたはずの言葉を見つけられない自分のもどかしさを内心で殺す。
「三成殿?」
「ゆっくり休め、…幸村」
「はい」
それでも。決して器用に言葉を使いこなせるわけではない自分の言葉を幸村はその真意までを的確に優しく掬う。それだけで三成がどれほど救われてきたか。自分の不器用さを初めて悔いながらも、どれだけ安堵したことか。言葉で敵を作ってきた三成にはそんな幸村がひたすらに不思議で、そしてどうしようもない感情を生み出す。
大事なのだ、どうしようもなく。幸村が。


静かに眠りに落ちた姿を見届けて三成はその顔を静かに見つめる。汗で少しだけ張り付いた黒髪を払ってやれば、少し呼吸は先よりも楽そうに見えた。
「……、」
そこで三成は動きを止めた。そして一瞬、思考までも完全に止めた。
「―――、」
止めた、は正しいかもしれないが少し違う。動けなかった。確かに動けな、かった。





―――――今自分は何と言った?

幸村、と。
信繁に幸村と“知らない名前”で呼びはしなかったか。





「な、ん…だ?」
おかしいのはそれだけではない。“本陣”、“戦う”、“戦”、“軍の志気”、とは何だ。
しかも“いつも無理をしてはそれを隠そうとする”、“兼続”、“言葉で敵を作ってきた”、とは何だ。これらも今の3人が築いてきたものとは何かを異にするものではないのか。

何故、何の疑問も持たずにそう思った?

そして信繁は何故、三成“殿”と呼んだ?どうしてその呼び名に己は何の疑問も持たなかった?信繁の言葉に何の疑念もなく、むしろ当然のものとして、同じ概念を共有できた?
最初は確かに何かおかしいと思ったはずだ。死地から戻ってきた姿を確認した時のような安堵をおかしいと思ったはずだ。しかし次の瞬間にはその違和感も拡散し、それを当然と何の疑いも無く思った。

何故?
何故だ。
どうしてだ。

その言葉に疑問を抱かなかった自分が居た。確かだ、間違いない。一瞬前までは、それを当然とさえ思っていた。まるでそうであることが当たり前だと。何故だ。信繁は上田信繁という名であって、決して幸村という名ではない。それは信繁が一番よく知っているはずで、信繁が幸村と呼ばれたならば少なからず疑問を抱くはずだ。例え熱があろうとも。
もしも、互いに何らかの勘違いをしていたのなら話が噛み合わないはずで、それならば十分におかしな話の中でも何とか落とし所が見つかる。
だが。
信繁と自分と。先の会話で齟齬が無い。パズルのピースが噛み合うような自然な会話が出来ていた。


―――だからこそ、おかしい。


「三成はん」
呼びかけられた言葉に三成は弾かれたように思考の渦から引き戻された。信繁の静かな寝顔から視線を外し、声のほうを振り返れば、そこには静かに三成を見つめる占い師の女。
静かな声。驚いた様子など微塵も見せない女巫女。全てを見透かすような澄んだ瞳。それがただ三成を見つめていた。
「何か…何か知っているのか」
三成は思わず問いかけていた。問いかけずにはいられなかった。
自分の事であるはずなのに、自分の事が分からない。ありえない事をただありえないと切り捨てるには、三成の中で先の出来事はしっくりくる物でありながら、明らかに理にそぐわない。説明が、つかない。

思わず問いかけた三成の言葉に、阿国は何も告げなかった。静かに切なく柔らかい表情を浮かべるだけで何も言わなかった。ただの一言も。阿国はただ三成を見つめていた。

ひたすらに困惑したままの三成に謎掛けの謎とヒントを同時に示しているとでも謂わんとしているかの様に。






罪業の果て

――錯雑。枷の外れた水は少しずつ溢れ出して、