―――可能性、それは柔軟さ故に。 酷い喪失感がそこに、あった。 何故だ。そんな言葉ばかりが浮かんで沈む。何故だ、何故だ、何故だ。どうして、こんな。 『出来ない』 思わず呟いた言葉は酷く掠れていて、それが自分のものかどうか疑いたくなるほどの酷い声だった。 荒れ果てた地に落ちているのは、破れ破れの旗。旗に刻まれた家紋に見覚えがあった。どれも嘗て味方だった者の旗。武将の顔さえ覚えているというのに、今や敗者と勝者に分かれ、死者と生者へと無惨な線引きをもされてしまった。それは裏切りの象徴でもあった。旗は地に落ち、踏みにじられ、敗者であることを暗に示している。本当はこの土にまみれた旗の中に己のものがあったとておかしくはなかったと言うのに、時代は何故か勝者と生と裏切りの称号を己に与えた。 どうしようもない無気力感に苛まれながら、一歩踏み出したその先に、――その中に最も見慣れた家紋があった。 六文銭の御旗。 『幸村…』 ああ嘘だ。そう思う。そんな馬鹿な、そうとも思う。 討ち取られたのだと、聞いた。陣営に飛び込むように入ってきた伝令は、今や敵であるはずの幸村の死を、まるで味方が死んだかのような悲壮な声色で持って告げた。 “真田幸村が討ち取られました…!!” 思わず立ち上がった己の肩に静かに手を置いた傾奇者は、いつもよりずっと固い顔をして小さく首を振った。落ち着け、と無言で告げられた言葉に、かろうじて己を保つ事は出来たが、自分がどんな表情を浮かべていたかなど、そんなものは覚えてはいない。 そして程なく本陣から、真田幸村の首を検分してくれないか、という話が来た。生前、幸村と親交のあった己だからこそ、もっとも正確な検分が出来るであろうから、そんな趣旨は聞かずとも分かっている。今や、幸村と親交のあった者で、生き残っているのは己しかいない。 ――出来るはずがなかった。 ありえない。幸村が死ぬなどありえないのだ。あの猛将が死ぬはずがない。現に数刻前までは家康の本陣前まで猛攻をしかけ、あと一歩のところまで家康を追いつめていたというのに。 死んだなど、信じない。 三成と同じ場所に逝ったなど、信じない。 信じていないのならば自ら首を検分して幸村でない事を確認すればいい、ともう一人の自分が告げていたが、それは出来なかった。怖かったのだ。本当にこの目で幸村の首だと確認して、幸村の死を実感を伴って見るのがたまらなく恐ろしかった。 『出来ない』 首の検分の依頼を受けて、呆然と呟いた自分を家臣は誰も責めなかった。軍を率いる者として相応しくない態度であっただろうに、誰一人として責める者はいなかった。 誰がが今、己の代わりに幸村の首を検分しているのだろう。そして検分の結果は兼続の陣営にも伝えられる。そんなものは聞きたくなかった。そんな報告は要らない。知りたくも無い。兼続は耐えられず、自分の陣営から出て、あてもなく戦の終わった大坂城を歩く。 そこで見つけたのは数々の踏みにじられた旗の中に交わる六文銭の旗。それは所々破れ、土に塗れていた。 兼続は認めるしかなくなった。首を見ていなくとも、今まで地に伏せたことのない六文銭の旗だけで十分だった。 幸村が負けた。そして自分は勝った、勝ってしまった。 生き残ってしまった。勝者になって、しまった。 見上げた空は青い。太陽の光が目に刺さる。瞼の奥が熱くなり、それはこらえきれずに溢れる。 生きていかなければならない。友人を一人、関ヶ原で失い、また一人、大坂で失った。義を誓いあった中で生き残って、今や一人になってしまった。そんな中で残された生を生きていかなければ為らない。 ここに真の戦国は終わった。 三成が死んで、幸村が死んで、戦国が終わった。 ――戦国が終わって、一人に、なってしまった。 *** 目が覚めて、兼続は驚いた。 いつものように携帯電話で設定した目覚ましのアラームで目を開いた兼続は、何か夢を見ていたな、と思った。夢は目が覚めた瞬間、霞かかったように曖昧な輪郭に変化して、何がどうだったかという内容まであまり覚えていない。断片的に残る記憶は、何かの戦の終わった後の景色らしきものと、夢の中で苛まれた酷い哀しみ。 だが、上体を起こして、ぱたりと小さな音を立てて落ちたものの正体に兼続は驚いた。 ――涙だ。自分は、泣いている。 「どうやら随分な夢を見ていたようだな」 小さく苦笑して兼続は未だ瞳から溢れ続ける涙をぬぐう。だが不思議な事にその涙は止まらない。 困ったな、そう兼続は呟いて、涙の原因であろう夢の内容を追いかける。 何かを失った気がする。でも何かは思い出せない。 だが夢で片づけるには、恐ろしいほどの現実感が伴っていた。 兼続はカーテンを開けて、窓から空を見る。その空の色は抜けるように青い。まるで断片的に残っている夢の中で見た空の色と同じだ。兼続はそう思った。 *** 「暑い。」 兼続はキャンパス内のベンチに腰掛けて一人ごちた。一人で話していれば、独り言になってしまうのだが、その躊躇もどうでもいいと思わせるほど暑い。異常気象は秋をまだ連れてきてはない。もう10月も一週目を過ぎたというのに、これは何だ。 10月から後期の講義が始まり、長かった夏休みも終わった。2ヶ月もあった休みも終わってしまえば、あっと言う間だった。特に兼続は8月中は実家に戻っていたのだから尚更かも知れない。 大学の講義も最初の一週目は履修を見極めるためのガイダンスばかりだったが、2週目からはそういうわけにもいかない。2ヶ月の休み明けには些かハードな講義を受けて、兼続は一人空きコマを外で過ごそうと思ったが、とんだミスを侵してしまったのかもしれない。日向ぼっこどころか、これでは日焼けをする。こんなに暑いのならば、図書館にいたほうがマシだ。 そんな事を兼続がつらつらと考えていた時だった。 「お?一人かい?」 「……慶次?」 兼続をのぞき込むように立っている人物。それは今年知り合ったばかりの不思議と気心が知れた友人――前田慶次という、薙刀部のコーチをしている男だった。 *** 「…にしても今年は暑いねぇ」 「全くだ」 結局、二人は移動せずに、ペットボトルのジュースだけを購入して元のベンチに落ち着いていた。図書館は日除けにもなるし涼しいが、会話をする場所としては適切ではないからだ。 「あの二人は?」 「どちらも講義だ」 「そうかい、大変だねぇ」 「そういう慶次も部活の準備なのだろう?」 「まぁそういう事になるのかねぇ。まぁコーチは暇だからいいのさ」 その慶次の言葉に兼続は小さく笑って、ペットボトルに口をつける。冷たいミネラルウォーターが喉元を過ぎる感覚に体感温度が少し下がるのを感じながら、兼続は口を開く。 「変な夢を見た」 言った後に兼続自身が驚いた。何故いきなりこんな事を口走ったのか、兼続自身も分からない。むしろ夢の話をするつもりなど微塵も無かったというのに、言葉は勝手に兼続の唇からこぼれ落ちていた。これでは慶次も困るだろう、と兼続が思ったが、その兼続の想像に反して、慶次はそんな様子を微塵も見せずに兼続を見る。 「…どんな夢だい?」 「全部は覚えていないのだが。とにかく変な夢だった。昨日の夜、時代劇を見たわけでもないのに、戦の後の夢を見た。あれは城だったから、もしかしたら時代は戦国かもしれないな」 少し笑いながらぼんやりと視線を空に向けていた兼続は、空ばかりに気を取られていて気が付かなかった。 ――慶次の瞳が一瞬驚いたように見開かれた事に。 「どうやら勝ったらしいんだが、少しも喜ばしくなかった。むしろ空しさばかりが増して、誰かに謝っていたような気さえする。変な夢だ」 「夢、かい?」 小さく笑った兼続に対して、慶次は少しも笑っていなかった。そんな慶次を兼続は不思議に思う。変な夢だ。笑い飛ばされても何らおかしくはないというのに、慶次はそれをするどころか、やけに真剣な表情を浮かべている。 「慶次?」 「ああ、いや…後期が始まって、あの二人はどうだい?」 誤魔化すように強引にはぐらかされた話題に、兼続は一瞬違和感を抱いたが、慶次の問いかけの言葉を言くや否や思わず苦笑していた。 「それがこっちも少し困っている」 「……何が、だい?」 「三成の様子が少しおかしい」 「おかしい?」 「ああ、おかしい」 慶次の言葉に、オウム返しのように返事をする兼続の脳裏に秀麗な顔立ちをした友人の顔が浮かぶ。 9月の終わりの事だった。一時期、信繁と連絡が取れなくなった事があった。それも3日程度のものだったのだが、三成はとても気にかけていた。それが友情としての枠組みを些かはみ出ているものだと兼続は気が付いていたが、それをまだ指摘したことはない。 兼続もあの律儀な信繁が連絡を寄越さない事を心配したのだが、後に三成からの連絡で、熱を出して養生していたのだと聞いた。 熱だったのか、信繁もこの季節に気の毒に、そんな事を兼続は思ったが、その直後から三成の様子がおかしくなった。 何処か、そう聞かれると言葉に困る。 だが、決定的に何かがおかしくなったのは間違いなかった。 少し前から三成が同名の戦国武将について調べ始めているのは知っていた。理由は聞かなかったが、兼続も自らと同じ名前の武将について調べた事がある。三成の興味もそういう所から来ているのだろうと思っていた。 だが、三成の口から“真田幸村”と言う名前が初めて出た。 それは熱を出した信繁は今は全快し、後期の講義も問題なく出てこれる――そんな話を三成から携帯電話越しに聞いていた時の話だ。 真田幸村という武将について、何か知っているか。 突然三成はそんな事を言い出した。 何をどういう経緯を辿れば、真田幸村という名前が出てくるのか兼続には全く分からなかったが、その名前くらいは知っている。 だが、戦国武将として有名すぎるが故にそれ以上の事を兼続も知らなかった。教科書に載ってくる人物ではない。ただ戦国武将というカテゴリーでは余りに有名すぎる人物。兼続が知っている事と言えば、戦国武将、真田十勇士の統括者、そんな程度のものだ。 その事を素直に三成に告げると、三成は兼続のその返事をあらかじめ想定していたかのように、ただそうか、とだけ言った。 その真意を今も兼続は測りかねている。そして10月を迎え、いつもと同じように3人でつるんでいても、三成は何処か何かを考えているような表情を浮かべることが多くなった。――しかもそんな三成の視線の先には信繁がいつもいる、そんな按配だ。 「いや、戦国武将に興味を持ったのかもしれないな。今度は真田幸村を調べているのかもしれない」 茶化すように返事をした己の言葉に、慶次もまた少し笑って返事をしてくれるだろう。そんな事を思って慶次は口を開いたのだが、慶次の反応はそんな兼続の想像とは正反対だった。 返事のない慶次を不審に思って、兼続が慶次を見ると、その表情は驚いたように瞠目している。 「…、幸村、を?」 「…?何か不都合でもあるのか?」 「いや、まさか。…へぇ、法学の秀才が歴史に興味を持つなって、何があったんだろうねぇ」 だが兼続の疑問を無視するかのように、慶次はいつもの笑顔をつくってみせる。それが今日だけは違和感を兼続に残す。 何かが動き出しそうな予感。何かが変わる予感。 そんなざわめく予感を兼続は嗅ぎ取った。 何なのかまでは分からない。だが、兼続は人知を越えた予感を無視出来る頭の固い人間ではない。 世界は時に人の想像も思惑も越えて推移する事がある。それは兼続が精通している仏門の教えの中にもある。だから兼続は疑わない。盲信しているわけではないが、そういう事があってもいいと思っている。 兼続は携帯電話のフラップを開けて時間を確認する。次の講義の時間が迫っていた。 「そろそろ次の講義が始まってしまうな」 「そうかい。引き留めて悪かったねぇ」 「いや、一人でどう過ごそうか考えていた所だったから助かった」 そう言って兼続は立ち上がり、空になったペットボトルをダストボックスに投げ入れた。そして慶次に簡単な言葉を告げ、講義棟に向かおうとして、ふと足を止めた。 「そう言えば、あの夢の話だが」 「何だい?」 わざわざ振り返って言葉を紡ぐ兼続に、慶次もまたベンチから上げかけていた腰を下ろしてその言葉の続きを待つ。 「輪廻転生を信じるなら…あれは過去の自分だったのかもしれないな、と今ふと思った」 本当にふと、兼続はそう思ったのだ。理でどうのこうの言う話ではなく、ただの兼続の直感だ。兼続の言葉に慶次は静かに瞳を伏せた後、また瞳を開く。その瞳には強い光が灯っていた。 「…輪廻転生を信じるかい?」 「どうだろうな。否定はしないが、あってもいいと思っている。神社の息子が輪廻転生を全否定するのもおかしいだろう?」 「違いない」 慶次は静かに笑っていた。やはりそれは兼続が今まで見たどの笑顔とも違っていた。 |
罪業の果て ――可能性。それは自ら切り開くもので、 |