―――不可思議、それは誰にでも在る筈の。 ――何かがおかしい。 それは確かに分かっているというのに、何がおかしいのか、どうおかしいのか、言葉にして明確な答えを出せない。しかし、おかしい。決定的に何かがおかしい。それは疑いようがない。まるで予感のような、些かで曖昧な感覚は酷く頼りないものではあったが、その感覚は容赦無く、三成の感情を掻き乱す。 三成は優秀な頭脳でも叩き出せない答えを必死で追い求めながら、同時に混乱もしていた。 『ゆっくり休め、…幸村』 真田幸村。 幸村。そう無意識に声を出していた9月の終わり。信繁が酷い熱を出した、残暑厳しいあの日。そしてその名を呼んだ理由が何なのか出せないままの答え。どうしてそんな言葉が出たのか、何故信繁と会話がかみ合ったのか。答えは出ないまま。それでも一つ分かった事が三成にはある。 ――幸村。それが意味するのは真田幸村であろうという事実。 それ以外にありえないだろうという確証のない自信が三成にはあった。 “石田三成”――占い師の女が告げた戦国大名の地位に連なる戦国武将。それだけで三成には十分だった。幸村、という名が示すものは真田幸村にしかならない。そう三成は確信していた。推測を確証へと変化させる客観的事実が無かろうと疑うつもりもなかった。 よくよく考えれば、それもおかしい話なのだ。 石田三成、直江兼続、この2つの名で戦国武将が揃ったと笑いながら話していた事がある。 そして兼続はおもしろそうに、これで信繁の名が戦国武将だったのなら、とんでもないことになったとも言っていた。 その時に信繁が浮かべていたのは少し困ったような笑顔。それは兼続の無茶な言葉に困っているのだと、その時の三成は思っていた。だが今思えば、本当にそれだけだったのだろうか。 そして今、このタイミングになって、出てきた名前は真田幸村。 信繁を見て思わず呼んだ名。それは確かに戦国武将の名だった。あまりにも、あまりにも奇妙な巡り合わせ。 『400年前の存在をお調べになったら何か見えてくるかもしれません』 初夏の頃、凪ぐような瞳で占い師に告げられた言葉を三成は追いかけた。 そして追いかけた名に何の収穫も得られないまま、季節は夏を過ぎ、秋に踏み入ろうとしている。そうして今となって、ようやく見えてきたのは新しい名だ。 石田三成という戦国武将と、真田幸村と言う名に何の関連性があるのか三成には分からない。だが、奇妙な運命の白糸が巡り合わせ、引き寄せたのは幸村という新しい名。それは新しい手がかりで、八方塞だった三成にとっては願っても無い新しい情報だった。 そう、石田三成という名だけを調べていては足りなかったのではないかと三成は今になって思う。 あの占い師は石田三成を調べれば全てが見えてくるとは一言も言っていなかった。石田三成を調べれば、その先に何かが見えてくるかもしれない、と言ったのだ。 「真田、幸村」 思わずその名を呼んでみて、その言葉が不思議と唇に馴染むことに驚く。 初めて呼ぶ言葉とは、思えなかった。 *** ――何かが、おかしい。 幸村は漠然とそう思う。 だが、おかしい事はいくらでもあった。列挙しようと思えばいくらでも列挙出来る。そもそもおかしな事ばかりが続いている。 そう、挙げてみるのならば。少しずつ何かを決意したような表情を見せるようになった三成、出会った当初から既視感をにじませている兼続、ままならない自分の心――そして風魔小太郎。 そもそも、死ねない己が最初からおかしいのだ。最初から決定的におかしい。それは確かだ。 だが、それよりも。 三成の様子が、おかしい。 何処が、と聞かれると幸村は言葉に窮してしまう。だが確かに三成の様子が何時もと何処か違うのだ。 それは何時からか。そう考えてみると、思考は9月の終わりに行き着く。 ――風魔小太郎の突然の襲来、そして怪我、熱。 あの時に三成が見舞ってくれたのだと、阿国の言葉で知ったが、幸村にはその記憶がない。見ていたのは彷徨う様な不安定さを纏った夢ばかりで、三成が来たことを露ほども覚えていない。恐らく熱で眠っていたか、起きていたとしても現実を認識できていなかったのだろうと思う。 だがその後からだ。三成の様子が少し、おかしくなったのは。 何か、と問われれば困るが、敢えて言葉にしてみるのならば、少し何かを考え込むようにする仕草が増えた。そしてふとした時に視線が合うことが増えた。それは言い換えれば、三成が幸村の方を見ているという事だ。 三成が“石田三成”を調べていたと言う事は幸村も知っている。それに幸村が僅かな危惧を抱いたことも。調べる事で、前世の自分を調べてしまう事で記憶が引き摺り起こされてしまうのではないか。もしも思い出してしまう様な事があれば、輪廻の意味を根こそぎ無かった事にしてしまう。――幸村の抱いたのはそんな危惧だ。 だが幸村の危惧は現実になる事はなく、石田三成の事を調べて、ただそれだけで終わったように思えた。現に三成の“石田三成”調べは終わっていた。 そう、記録される歴史では、石田三成の本質は少しも見えてこない。 そしてその表面だけの事実と、後の世に作られ、歪まされた少しの虚像は、今の三成の魂を震わせることも過去の記憶を呼び戻すこともしない。虚像が故、全てが真実ではない紙の記録だからだ。そこには実感が伴わない。 それを改めて知らされた思いがして、幸村は少し安堵した。それは事実だった。 記録された事実は三成の全てではなく、幸村の記憶している記録されていない事実こそが真実だと、無言で知らされているようだったからだ。 そう、記録される事実が三成の全てではない。 あの小田原での誓いも、何を目指そうとして霧の濃い関ヶ原で采配を揮ったのかも、それは記録されていない。だからこそ事実として伝えられる事は無い。だがそれこそが三成の真実で、それは今や幸村しか知らない。そしてそこれこそが三成の確かな一面だったのだと、幸村は自分の記憶を信じ続けていいのだと赦されたような気がしていた。 しかし。 今の三成の記憶を少しも揺るがさなかったという事実は、逆に言い換えれば、その見えない事実がこの世で少しも発露されていない事だと言う事も幸村は気がついていた。 そしてそれが少し、哀しかった。 だが今はそればかりを考えている場合ではない。 幸村は静かに押し入れを開けて、桐の箱を取り出した。錦の紐を解いて、静かにそれを開ける。 そこには数百年を経ても、主を待って美しいままの姿を保つ十文字槍がある。そして風魔が死ねない真田幸村だと証明させるために確認したかったそれ――炎槍素戔鳴だ。 「……」 幸村は静かにその槍を持つ。幾度と無く幸村の命を救い、数多の戦場を共に駆け抜けた愛用の武器は、まるで幸村の決意を受け止めているかのように小さく煌いた。 こんな心持ちで持つのは何時ぶりか。最後に持ったのは幕末の頃。動乱の中で最後の武士の生き様を見守るために、持った。あれ以降、武士の時代は終わり、近代国家という名で全てが変わってしまった世では、もうこの槍を持つ事はないだろうと思っていた。信念を失った槍は持つに値しない。それはただの殺戮の道具でしかない。だから幸村は槍を置いた。 だが、今は。今こそ。守りたいと思っていた存在を脅かされている今こそ。関ヶ原で出来なかった事、大坂で失ったもの、それを再び繰り返さないために。 ――この槍を持つ意味がある。 幸村は静かに呼吸を一つした後、携帯電話を手に取った。 日曜は薙刀の練習は日が暮れるまでだと聞いている。彼の事だ、部員が帰った後も練習しているだろう。そう算段をつけて幸村は電話帳からその名前を呼び出す。数回のコール音の後、目的の相手の声がスピーカーから届く。 「――慶次殿。少しお相手を願いたいのですが」 少しでも、鍛錬を積んでおきたいのです。幸村はそう続けた。 今度こそ、守るために。 *** その場所を三成が通りかかったのは全くの偶然だった。 日曜の夕方。後期が始まって一ヶ月経つか経たないかの大学構内に人影はあまりない。部活やらサークルの学生達の姿も見えるが、多いとは言えない数だ。 夏が幅を利かせた今年の季節もやっと秋へと移り変わる事を認めたのか、朝夕は気温の低下を肌で感じる事が出来るようになった。それでも日中はまだ暑く、夜になればやたら冷える。 兼続辺りはこの変化に富んだ気温に“このままいくと秋を実感する前に冬が来そうだな”と呟いていたが、三成もそんな気がし始めている。 本来ならば、三成は日曜に大学に来る用事などない。 わざわざ外出をするよりも部屋でしたいように過ごす事を好む三成は、日曜日と言えば専ら読書をしたり、友人達と互いの時間を壊さないように気ままに過ごしているのが常だ。勉学を好んでいるが、大学を好んでいるわけではない。あくまで大学は学問を探求する場を与える機関でしかないのだ。三成の基準に照らし合わせるならば、三成にとっての大学の位置づけはそういう形になる。 だが、そんな三成は今日は大学に来ていた。 理由は図書館、だ。だが前述の通り、課題の調べ物でも何でもない。そもそも休日に課題をするにしても、準備万端で取り掛かる三成にとって、日曜日にわざわざ資料探しをしたりはしない。そんなものは平日の講義の合間だとかにやっておけばいい――休みの日にまでわざわざ大学に来る様な労力をかける方が無駄だ。三成の行動原理はそんな風に構築されているが故に、調べ物のためだけに図書館、という事は三成にはありえない事だった。 だが今回は違う。三成が図書館に来たのはあくまで私的な目的を充足させるためだ。 平日に誰かの目に留まるような時ではなく、休日の学生のいない図書館で、誰の目にも留まらず調べ物をしたかった。 ――真田幸村。その人物を。 何故、人目を忍んだのか。三成自身にも理由は分からない。同名の戦国時代の人物を調べているときは誰の目に留まろうとも少しも気にならなかった――石田三成が石田三成の事を調べている方が余程目立つというのに。 しかし幸村という存在を調べようと思った瞬間、三成に誰にも気取られたくないという想いが渦巻いた。恥ずかしさではない、何故か誰にも邪魔をされたくないと、そう思った。 その名を人目につかせたくないという奇妙な感情、それはまるで独占欲、のような。 ――独占欲? それはおかしい感情だった。決定的に何かがおかしい、感情。 そして何故か頭から離れない信繁の姿。渦巻くのは信繁には知られてはならない、幸村を調べている事を知られてはならない、という感情。 ――おかしい。何かが、決定的に。 そんな想いを抱えたまま、三成は結局調べ物に集中できずに図書館を出た。それほど調べものに集中した記憶も収穫も無かったというのに、刻は夕方になっていた。高度の低くなった西日が、容赦なく三成の網膜を刺激し、その強さに一瞬だけ三成は眉を顰めた。何をした記憶も無いと言うのに、夕刻になったという事は結局は集中できずに無為に時間を過ごしたという事だ。それは無駄を厭う三成を僅かに苛立たせる。 そして武道場の前を通りかかって三成は足を止めた。 そこに見慣れた姿があったからだ。 「信繁…?」 武道場の中心、静かに佇む姿。それは確かに信繁だ。 苛立ちも奇妙な違和感も信繁の姿に全てが拡散して、会うはずの無い場所で出会った存在に三成の意識は全て覆われる。 しかし、思わず声をかけようと口を開きかけた三成は口を噤み、武道場の入り口で立ち止まった。 其処にいたのは信繁一人ではなかったからだ。信繁の前に別のもう一つの姿。その前に静かに立つ人物は自分たちと同じ戦国時代の人物の名前を持つ、前田慶次。 何故ここに、と思うのと同時に、三成の胸の奥を焦がすのは確かな嫉妬だ。思い出すのは、一ヶ月も経っていないあの日の出来事で、熱を出した信繁の一番近くに居られなかった自分。そして胸の奥底から噴出すような激情。 声をかける機会を逸した三成は武道場の中をただ見つめる。気配を悟られぬようにするために。 何をするつもりなのか。そう思う三成に答えを与えるように、信繁は静かに薙刀を手に取った。そして同じように慶次も薙刀を手に取る。 ――何をするつもりだ? 仮にも信繁の前にいるのはコーチだ。幾度か全国大会で優勝している猛者だとも聞いている。対して信繁は薙刀部でもなければ、薙刀をしたと聞いた事もない。三成は僅かに狼狽した。信繁の運動神経が悪いと思ったことは一度とて無いが、どうみても武道に明るいとは思えない。普段の余りに柔和な信繁が武道に結びつくとは思えなかった。 だが。 「お願いします」 「ああ」 信繁が静かに薙刀を構える。それはまるで流れる所作のように余りに美しく、気品を兼ね備えたものだった。 夕日が差し込む武道場は紅い。まるでその場所だけ現実から切り放たれたように、まるで別の世界だとも言わんばかりに。紅い、夕日。紅く、赤い。それは三成の胸の奥底で何かがざわめく。何処か、遠く、既視感を抱かせるような、その正体を三成は知らない。 薙刀を持った信繁が一歩踏み込む。それを同時に二人は動き出す。 ――その瞬間、三成は信繁の瞳の奥に炎を見た。 「はあああっ!」 「行くぜぇ!」 小さな笑顔を浮かべる慶次と瞳の奥に炎を灯らせた信繁の薙刀が激しい音を立てて交差する。 体格通りの大振りの身のこなしをする慶次に対して、信繁は流れるような所作で空気さえもかわすような俊敏さで早さを武器に慶次の懐に入り込む。 信繁の持つ薙刀は、まるで信繁の体の一部のようだった。片手で自由にその長柄を操り、重いであろう慶次の繰り出す一撃を時には避け、時にはその重力を感じさせないような身のこなしで捌いていく。 だが、信繁もかわすだけではない。折りを見ては技巧を兼ね備えた一撃を繰り出し、慶次に決定的な打撃を負わせようとしている。 これは、何だ。 ――これは、なんだ? こんな信繁は見たことがない。こんな姿など、今まで一度も。こんな。 何もかもが三成の中の信繁とは乖離していた。何もかも、が。これが信繁なのかと思わせる程、穏やかに笑い、静かに佇む姿とはまるで別人だった。三成の見ている今の信繁は、まるで能ある鷹がその爪を隠していたように――爪があることさえ悟られないようにしていたのかと思わせるものだった。 ただ、その瞳の奥に見えた炎が。 炎が。 おかしい。何かが、決定的に。何かが。何か、そう何かが。だが、何だというのだ。 あれは、何だ。 どうして信繁は何も。どうして。 三成の中で言葉だけが巡り、廻る。 そんな三成が見ているとも知らず、二人の手合わせはそのスピードを増し、まるでそれ以外の要素を排除するかのように圧倒的な威圧感を武道場に立ち込めさせていく。だが、決着の付け所を信繁は誤らなかった。信繁が慶次の一瞬の隙を突いて、低くした姿勢からすくい上げるように薙刀を扱った事で激しい手合わせは終わりを告げる。 信繁の薙刀は慶次の薙刀を吹き飛ばし、数メートル離れた場所に放物線を描いて落ちていく。 武器を失った慶次の心臓を狙うかのように、信繁の薙刀はピタリと突きつけられており、カランという薙刀の落ちる音が甲高く武道場に木霊する。 時がその瞬間、確かに止まっていた。赤い、紅い夕日の世界で、時が止まり、それはまるで逆行するかのように。 「…参った。降参だ」 「ありがとうございます」 もう其処に張りつめたような空気は無かった。信繁は突きつけていた薙刀を静かに引いて、慶次に一礼をした。そして顔を上げた信繁は、何時もの通りの静かな微笑を浮かべていた。そして慶次も満足そうな笑顔を浮かべていた。 もう其処に居たのは“完全に”何時もの信繁だった。三成が知っている姿と寸分変わらない、何時もの。 ――これは、何だ? どこからがおかしいのか、三成は動きの鈍くなった脳で考える。だが、答えはない。 そもそも何がおかしいのか。考えてみれば、何もかもおかしいような気がした。 桜の中での出会い、大坂の邂逅の瞳、雨に怯えた初夏の頃、何かを知っているかのような表情、時に遠くを見つめ、今と迎合しない言動。小さな事実の積み重ねは、噛みあわない今を巻き込んで、大きな違和感へと育つ。どうしようとも納得できない違和感へと。 そう信繁を構成する何もかもが、普通の大学生であって、その全てが普通の大学生ではない。 そう、何かがおかしい。 信繁だけではない。慶次もあの占い師も。何か、おかしい。 そして400年前の戦国武将の名前を持つ、自分も。 時に感じた懐かしさも、この遠くから何かを呼び戻そうとするかのするようにざわめく感覚も、信繁を違う名で呼んだというありえない言動も。 何かが、おかしい。 |
罪業の果て ――不可思議。理由無ければありえないもの、 |