―――最初の記憶 それはまるで偶然の中に必然さを訴えかけるかのように始まった。 「…寒い」 その地を這うような声はびゅうびゅうと音を立てる風に掠め取られるように掻き消されてしまった。 その言葉を発した主はそれさえも気に食わないと言う顔で眉間に皺を寄せた。そもそもこのキャンパスの立地条件がいけない。近くにそびえ立つ山のお陰でこの広大なキャンパスに風が吹き込む羽目になるのだ。お陰で冬はいつも風がきつい。冬は只でさえ寒いと言うのにそれを増長して体感気温を下げてどうする。 学び舎への悪態にまで考えを及ぼして、ますます険しい顔をしながらも、それだけで彼の顔立ちが見目悪くなると言う事は無い。 彼は恐ろしいほど整った顔立ちをしていた。 通った鼻筋、形の良い眉、鋭さを交えた眼、それら全てのパーツが寸分の狂いもなく配置され、まるで作られたような精巧さを匂わせている。歩いているだけで何人かが振り返っているが、他人からの視線に頓着しない彼はその事実に余り気が付いていない。 すらりとした体を覆うコートは風に揺れ、そして茶色よりは少し落ち着いた―、しかし茶色よりは明るい、赤のような暖色が交じった色素の髪も風に任せられたまま揺れている。 「世界中の怒りを集めたような顔をしているぞ、三成」 背後から響いてきた声に三成と呼ばれた件の青年は眉間の皺を消さないまま、ゆっくりと振り返った。 「もう少し景気の良い顔は出来ないのか?見てみろ、お前の形相にギャラリーが引いているぞ」 「…うるさい、兼続」 兼続と呼ばれたその青年は三成の声にも態度にも全く気にした様子は無い。この程度の応酬は二人が顔を合わせた時には慣例となっているリップサービスのようなものなのだ。 兼続は慣れた様子ですたすたと歩みも軽く三成に近づき、二人は歩みを止めないまま並んだ。 「やっと終わったな。法学部の方はどうだ?道すがら法学の人間が刑法の単位を落したに違いないと大騒ぎしていたぞ」 その兼続の言葉に三成はふ、と小さく皮肉気に笑って片眉をあげた。 三成は基本的に無表情だ。しかもその無表情が冷たい印象を与えるため、他人に萎縮される事が多い。その上、たまに笑ったとしてもこの表情だ。兼続は今更何とも思わないが、もう少し愛想良くすれば冷たくとられる印象も緩和されるだろうに、と思う。恐らく彼の性格を考えると無理な事だろうとは簡単に推測出来るが。 「俺が試験ごときでぬかると思うか?兼続、お前こそ突飛な宗教論解釈をして研究室に呼ばれるなんてことをしでかしてないだろうな?文学部の教授陣は平均年齢が高いからな。せめて試験の時くらいは労わってやれ」 三成の皮肉を交えた返答に兼続が想像の範囲内の問答とでも言うように楽しそうに笑った。 恐らくこの弁論の筋で、学内では彼を良かれと思っていない人間もいるかもしれない。顔も良い、頭もいいのだから、羨望が嫉妬になり敵意へと変化するのは容易い事だ。 しかし兼続はこの友人がそれだけの人間ではない事を知っている。 法学部と文学部に所属する接点の無さそうな二人の歩みは寒さを凌ぐ為に学食へ向かっているわけでも、帰宅の途についているわけでもない。 無事に後期試験を終え、後は休みを待つだけとなった期待を胸の隅に抱きつつ、もう1人の友人を迎えにいくため、史学部棟へ向かっていた。 全く持って不思議な出会い方だった、と今でも三成は思う。 法学部の三成、文学部の兼続、そして史学部に所属する件の友人とは本来学部も違う上に講義棟も違う。同じ学部ならまだしも、別の学部で知り合うには相当のきっかけが必要だ。 そのきっかけは3人が2回生を迎えた3月に突然やってきた。 3月の割には暖かい日だったように思う。 その日、三成は4月からの講義の履修申告の為にキャンパスを訪れていた。1年目でどの学部生も受けるべき共通科目の必修単位を所得してしまった三成は専門科目の履修の申告だけをさっさと終えてしまった。三成が目指すのは法務職だ。専門は必修でなくとも受けられるだけ受けておくに限る。 そう考えていた春の日。帰りがけの事だった。三成の前に淡い桃色の花弁が一枚舞い落ちた。 『…?』 三成は無意識にその花弁がやってきた方向に足を向けていた。広いキャンパスの裏道。三成も数回しか使っていない、小さな裏道にその花はあった。 ――桜が、咲いていた。 まるで誇るように、存在を示すように、忘れ去られる事を怖れながらも、それでもひっそりと静かに佇んでいた。 見事な、桜だった。 桜に目をとられた後、三成はその木の下で同じように桜の木を眺めている1人の男がいる事に気が付いた。 その男は三成に背を向けるようにして桜を見上げていた。顔の全てを見る事は出来なかったが、少しだけその横顔が窺い知れた。舞い散る花弁の中で静かに佇む静かな横顔、風に揺れる艶やかな黒髪。 三成は見惚れた。 彼はその一瞬の間にその佇んでいるだけの存在に見惚れた。ただ桜の木を静かに見上げる、顔も見えないその相手に見惚れたのだ。 息を詰める三成の視線に気が付いたのか、偶然か、その人物はゆっくりと振り返った。それはどこかありがちなドラマの類のようにスローモーションのような速度で三成の目に映った。 その時、全身を駆け抜けた、全ての血液にも染み渡るような、衝撃にも似た感情を三成は今でも覚えている。 『あなた、は…』 その人物もまた、驚いた表情をしていたようだったが、その時の三成は自分を襲っている感情の処理に躍起になっていたため、あまり正確には覚えていない。仮に驚いていたとしても、いきなり現れた存在への感情だったのだろう。 『俺は、』 三成は言葉を失った。言葉に詰まるなど三成にはありえない事だった。ディベートでも、いかなる場面でも、三成は正確に日本語を駆使してきたと言うのに。 何か言うべき事、それは漠然とした予感となって、確かに三成の胸にあったのだ。けれど言葉が出てこない。何かに遮られるように唇は言の葉を紡ぐ事を拒否していた。 『俺は―――、』 やっとのことで三成が言いかけたその時、 『桜の花弁に惹かれて此処まで来てみれば、先客が居たようだ』 穏やかな笑顔を浮かべて2人に話しかける第3の男が現れた。それが兼続である。 それが学部の違う3人が初めて出会った瞬間だった。 「ああ、そういえば」 「何だ」 兼続の言葉に回想を遮られ、三成は視線を隣に移した。目的の史学部はもうすぐそこだ。 「大河ドラマが終わったぞ」 その兼続の言葉に三成は深々と息をついた。 「…やっと終わったか」 「中々面白い一年だったな!」 「最低の一年、の間違いだろう」 いくらか楽しそうな様子の兼続に反して、三成は露骨に嫌そうな顔をしながらうんざりと言った様子で言葉を紡ぐ。 「“直江兼続”に“石田三成”、1年、目立っていたではないか」 「何故目立つ必要がある」 「大河ドラマの主人公と脇役、同姓同名、こんな事はそうそう無いだろう?」 「…そうそう無い事が起こったから困った1年になった。だいたい大河ドラマと同じ名前、ではなく、正確には歴史上の人物と同名だろう」 「細かい事ばかりを気にすると禿げるぞ?」 「その言葉、そっくりそのままお前に返す」 兼続の言葉を三成は軽く無視をして、この1年の苦労を三成は思い出して、もう一度深々とため息をついた。 本当に散々な1年だった。 義務教育の中で習う名とはいえ、石田三成という名はそれほどメジャーではない。およそ400年前に天下を二分する戦いで指揮をとっていた存在で在るにも関わらず、だ。恐らくその戦で勝った家康の名が有名すぎるのだろう。其れは歴史の中で些か埋没していた名でもあった。 それは直江兼続という名も然りだ。有名な武将で在ったとはいえ大名ではない。あくまで上杉家の家臣でしかない。 それが歴史ブームやらドラマやらの影響で一気に名が知れ渡った。この時ほど三成は名をつけた両親に文句の一つでも言ってやりたかった事は無い。 講義で名を呼ばれる機会がある度に、驚く他の学生にも三成は疾うに慣れてしまった。とてつもなく不本意ではあるが。 「この1年、あの状況を楽しんだお前の神経の太さには恐れ入る」 「状況に柔軟に対応するのも世を渡る重要な術だぞ?三成は固すぎる」 「よく言う…」 二人の会話はそこで途切れた。二人の目の前には史学部。 約1年前、三成が桜の木の下で最初に会った友人が学んでいる場所だ。あの時受けた衝撃は余韻となって残り、今はその感情から何かが芽吹いたように、三成は今まで感じたことのない想いを抱えている。 しかしロビーに待ち合わせをしている人物の姿は無かった。彼は約束を違える様な人物ではない。 「史学部も試験は終わっている時間だろう?」 「ああ、そう聞いているが…」 2人が視線をめぐらせたその時、遠くから駆けてくる足音が僅かに聞こえた。 この足音を三成はよく知っている。速く駆ける速度とは裏腹にその身のこなしは滑る様で、無駄な動きは一切無い。これほど美しい身のこなしをする人物を今まで三成は見た事が無い。だからこそ足音も最小限に留められているのだろうと三成は勝手に推測している。 「お待たせしました。すみません、教授の手伝いを少ししていたもので」 軽やかな足取りで三成の視界に飛び込んでくるその姿。 柔らかい笑顔と耳に心地よく馴染む声に三成は知らず知らずのうちに目を細めていた。 春の日、告げられた彼の名前。 『私の名は、上田信繁、と申します』 その名前に一瞬だけよぎった違和感の意味を三成は知らない。初対面の相手の名を聞いて違和感を持つなど、おかしい話だ。 ただ、違うのではないか、と脳が告げた言葉は1年が経った今でも三成にそう伝えてきている。 三成の心を溶かすような懐かしささえ漂う穏やかな笑顔は今、この瞬間も変わらない。 今こうやって過ごせるだけで十分で、その笑顔に何故か酷く安堵する三成は、名前への不可解な違和感を意識の隅に追いやってしまった。 |
罪業の果て 歯車は只静かに回りだす |