―――紅、それは記憶の欠片。 長かった夏はどうやら秋さえ蹴飛ばして、冬を連れてこようとしているらしい。 一気に冷え込んだ気候に、せっかちな冬将軍の気配を先取りした兼続は今年のおかしな気候に小さく苦笑する。 季節は秋。暦の上では“まだ”秋であるはずだ。が、例年に比べてやたら寒い。これでは今が盛りの紅葉も見頃をあっと言う間に逃してしまいそうだ。 「急に冷えるようになりましたね」 兼続の隣を歩いている信繁がまるで兼続の内心を見透かしたかの科白を口にして、兼続は大いに頷いた。 ジャケットの襟元を正した兼続が空を見上げれば、その青は遠く高く、酷く澄んだ色をしている。空気が澄んでいるのだろう。透明度の高い空気は空の青を静かに遠くへ押し上げている。 そして木々は紅く、恐ろしいほどに赤い。見事なまでの色合いは今年の猛暑の影響もあるのだろうが、一種の感慨を抱かせるほどの赤だ。まるで燃えているのかと錯覚させるほどの壮観な色は見る者に、――少なくとも兼続には――感動を通り越して違和感さえ与えている。冬の到来を前に、燃えあがる赤は長い歴史を培ってきたこの古都を美しく彩っている。 「紅葉も今が盛りだな。観光客が一気に増えそうだ」 「確かにそうですね」 そんなのんびりとした会話を続けながら、兼続と幸村は少し静かな大学の構内を歩く。 突然休講になって90分の暇を持て余した兼続が、この時間を元々空きコマの時間割にしている信繁を“散歩でもしないか”と友人を誘うにはいささか突飛な言葉をかけたのは少し前の事だ。 そんな兼続の言葉に信繁は驚くでも無く、少しだけ目を見開いた後、微笑んでから静かに頷いた。 何度も抱く感想だが、常々不思議な男だと兼続は思う。 兼続の言動は他者から見れば、いささか突飛に見えることがある…らしい。そういう基準に照らし合わせれば、今回の信繁を誘った兼続の言葉も突飛な言動の類に含まれるのかもしれないと思う。 そして兼続自身、そう見られることに多少なりとも自覚はある。この性格で生きてきて短いというわけでもない。しかし、それは兼続の持つ行動原理がそうさせているのだから、今更どうこうしろと言われても仕方ない事だとも思っている。 それに兼続のそれらの行動は決して短慮からのものではない。兼続なりの信条と理論がそこに存在し、明確な思考ルートを経てから実際の言動として表層に現れる。その理解を無理に他者に望むことを聡明な兼続はしなかったが、何故か会った時から信繁はそんな兼続を兼続の思考ごと理解しているように思えてならないのだ。 三成も兼続の事を存分に理解してくれている大切な友人だ。だが信繁はその枠内から少し外れる。 信繁の持つそれは、まるで旧知の存在を見るような瞳。何を言うわけでもなく、ただそこに在るだけで兼続の云わんとしている事がが伝わっている――そんな気がしてならないのだ。 だからこそ兼続は口を開いた。もう既に歩みはキャンパスの外れだ。 景観を整えるために作られた学内の遊歩道に人気はない。今を謳歌する学生は自然の流れよりもデジタルの中に娯楽を見いだしているのだろう。自分も学生でありながら、何故か己をその普通の学生の枠外に置いて、兼続は言葉を音に出す。 空を見上げたまま、ゆっくりとした歩みは止めぬまま。さりげなさを装って聞きたかった事を口に出す。 「…なぁ信繁」 「何でしょう?」 答えた信繁の言葉も静かだった。だがそこに滲む色は真摯なそれだ。兼続は悟る。信繁は気がついている。兼続がただ散歩をしたいが為に信繁を誘ったわけではないことを。 ――どこまでも聡い男だ。そしてその深淵を決して見せない。 そんな思いを抱きながら兼続が歩みを止めれば、信繁も少し遅れて兼続より数歩進んだ所で歩みを止める。そしてそのまま数歩進んだ所で信繁は兼続を振り返った。少し先にいる信繁を兼続は見つめる。 風が靡き、二人の間にひらりと紅い葉が落ちる。 向かい合って佇んだ瞬間、奇妙な感覚に兼続は一瞬息を飲んだ。紅葉の紅が一瞬、炎に変わり、穏やかなキャンパスの構内がどこか寂びれた気さえする場所に変わる。 その幻覚にも似た感覚の正体。それは何処か邂逅を抱かせるよう、な。 一瞬、そのまま意識を持っていかれそうになった兼続だったが踏みとどまった。息を飲み、確かめるように呼吸をすれば、先までのイメージは消える。そして早くなった鼓動を誤魔化すように、ゆっくり口を開いた。 「三成と何か、あったか?」 はらり、紅葉が舞う。 一瞬だけ驚いたように瞠目した信繁は、次の瞬間にはゆっくりと瞳を閉じた。そして暫し目を閉じたままの幸村は小さく首を振って、再び瞳を開く。 真っ直ぐな瞳。兼続を静かに貫くような凪ぐ色は兼続を僅かに狼狽させた。 しかし次の瞬間、真っ直ぐな視線が和らぎ少し困ったような微笑に混じって消える。それらの一連の流れは紅葉の中で、切り取られた一つの世界を構成しているような完全さを作り上げていた。誰も介入を赦さず、まるで誰からも理解される事をやんわりと拒んでいるかのような。 「いえ、それが…私にも分からないのです」 「…そうか」 「私が何かしてしまったのか、とも思うのですが」 その言葉の続きを兼続はすぐさま遮った。 「いや信繁に心当たりがないのならそうなんだろう。すまない。おかしな事を聞いたな」 「いえそんな事は、」 僅かに謙遜してみせる信繁に、兼続は信繁は何も知らないのだと知る。 どうも秋口から三成の様子がおかしい。最近はそれに拍車がかかった。兼続がいよいよおかしく思って何かを聞き出そうとしても、明確な答えは得られない。まるで三成自身にもよく分かっていないような様子だった。 そして三成の調子を何かしら狂わせる事が出来るのは、信繁しかいない。 加えて一度だけ三成の口から出た、真田幸村という名前。 それが何故か兼続の心の深い部分を静かに押し上げるような不思議な感覚をもたらすのだ。 「して信繁、お前はどうだ?」 「え、」 兼続の突然の言葉に幸村が言葉に詰まる。珍しい事だった。 「いや、何か困った事はないかと思ってな」 「兼続、さん」 困惑したような信繁の表情と声に、それが兼続の突然の言葉の意味が理解出来ないが故の困惑ではない事を兼続は悟る。この信繁の表情は何か核心を突かれかけている時に見せる動揺のそれだ。 だからこそ。困惑の色を滲ませる信繁に兼続は場を明るくするかのように笑顔を浮かべてみせる。 「前に…ずっと前だな。三成の家で前に何処かで会ったことはないか?と聞いた事があっただろう?」 「―――はい」 信繁が静かに頷く。今年の冬の時の頃の話だ。さらりと二人の間で流されたとめどない会話を信繁はしっかり覚えていたらしい。 信繁の浮かべる瞳の中には何か覚悟を決めたような色。前から瞳を好ましい、と思ったが、こんな瞳を見るのは初めてに近いはずだった事を兼続は思い、僅かな違和感がじりじりと背中を焦がす。 紅葉、紅、赤、奇妙なデジャブ。 兼続はその意味に少しばかり近づいている。神仏の世界に身を置く兼続だからこそ、循環する全ての物質に通ずる考えを柔軟に持つ兼続だからこそ、理解する事の出来る奇妙な感覚だった。 「信繁。私のその奇妙なデジャブは今も消えない。それに、慶次がいるだろう?――彼とも不思議な縁故を感じるんだ」 「……」 信繁はその兼続の言葉を否定しなかった。普通の人間ならば意味が分からないと理解を放棄する話を、信繁は否定もせずその話を詳しく聞き直すこともなく、ただ理解している。恐らくそれこそが信繁が何か知っている事の証明になっているのだろうが、信繁はそれに気がついていないのだろう。 兼続は言葉を続ける。 「それにな。おかしな夢を見る」 「夢、ですか?」 「どこかの城だ。戦の争乱の後のようなざわめきの中でひたすらに後悔している。そんな夢だ」 紅、赤――それは争乱の匂い。 「かね、」 その声が僅かに震えていることに信繁は気がついているのだろうか。そしてその瞳が何かに酷く恐れている様に揺れている事にも。 だからこそ兼続はそんな信繁の言葉の先を遮った。ただ静かに、紅葉の中でただ穏やかに。 「いいんだ。信繁。いいんだ。もし何かがあったとしても、…無かったとしても。それでいいと思っている。分かるときが来るとしても、永遠に来ずとも、それで」 兼続は静かに笑ってみせる。信繁はその兼続の言葉にも驚いたようで、ただただその眼を見開いている。 信繁が言いたい時に言えばいいと兼続は思う。信繁が決意を固めたときに、その内容が何であれ――人知を越えると言われるものであっても――兼続は受け入れられると思っている。それまで待とうと思うのだ。その時こそがあるべき時になるのだろう。その時こそが大きな世の流れで然るべき姿が現れる時だ。 その時に、もし信繁が困っているのなら友人として全身全霊を以って力を尽くすつもりだ。既にその覚悟を兼続はしている。 だがしかし。兼続には思うところが一つあった。 「ただ信繁」 兼続は静かに笑顔を消した。ひらり、紅葉が舞う。 「俺のようにただ巡る真実を待つ者も居れば、自ら真実を掴みとろうとする者もいる。――例えば三成のように」 「…」 信繁は何も言わなかった。静かに瞳を閉じるだけの姿に心当たりがあるのだろうと思う。けれど兼続は答えを期待していたわけではなかった。ただ立ちすくむ信繁に再び静かに微笑んだ。 「それを信繁、覚えていてほしい」 *** ――きっと見抜かれている。 あれから次の講義に向かう兼続を見送った後、その場に立ち尽くすだけの幸村はそんな事をぼんやり思った。次の講義に出る気には不思議とならず、自主休講を決め込んだ幸村は紅の中で立ち尽くす。 ひらり、紅い葉が落ちる。 目の前をかすめて落ちていく美しいほどの紅葉はただただ赤く、紅い。 ふと上田の紅葉が思い出された。 あの紅は圧巻だった。春が大坂の桜だったなら、秋は上田だと楽しそうに笑っていたのは兼続で、素直に頷いていたのは三成だったことを思い出す。3人で見た紅葉の景色もあった。2人で見た紅葉の景色もあった。遠い記憶は目の前をかすませて、今から昔を遡る。 ただ約束をした。 春には来年の桜も見よう、と。 夏には夕涼みに揺れる風鈴の音を聞くのが楽しみだ、と。 秋には来年も燃える様な紅葉が期待できる、と。 冬にはしんしんと降る雪の中で静かに語らう時が続くと信じている、と。 ――叶えられる事の無い数多の約束。それは邂逅と痛み。安らぎと孤独の証。 『秋は紅葉だな』 『冬は雪見か』 今生で新たに重ねた約束。 今年の秋は一緒に紅葉を見てくれるだろうか。そんな事を幸村は思った。約束を違えるような人物ではない事を幸村は誰よりも知っている。しかし今年の紅葉の盛りはすぐに去ってしまうだろう。あっと言う間に、今に留まることを許さないと言わんばかりに。 “自ら真実を掴みとろうとする者もいる。――例えば三成のように” 兼続の良く通る声が蘇る。三成と一緒に行動する時間は変わらない。何もかも変わっては居ない。 けれど決定的に何かが変わっていくのを幸村は確かに感じ取っていた。三成の見せる今までとは違う姿。それは違和感となり、じりじりと幸村の何かを焦がす。そして決定的な兼続の言葉でそれは確信へと変わりつつある。 あれから風の悪魔は姿を見せていない。 しかし漠然とした嫌な予感は幸村の脳裏にべったりとこびりついてずっと離れない。そして何処か背中を這い上がってくる様な奇妙な感覚があった。この感覚を幸村は知っている。忍び独特の気配だ。 風魔はきっと何処かで今この瞬間にも自分達を見ている。そんな予感が幸村にはあった。 ――冬の雪見は出来る、だろうか。 そんな事を幸村はぼんやりと思った。 *** こほ、と思わず出た咳に三成は眉を顰めた。 風邪だろうか、と思いかけて三成はその考えを打ち消した。先までの講義室がやけに埃っぽかったのだ。だからこうしてわざわざ外の空気を吸いに出た。 朝夕はめっきり冷え込むようになり、三成の嫌いな冬の気配が忍び寄ってきている。何事も偏ったものが嫌いな三成は暑すぎた今年の夏も、寒すぎると気象予報士が告げる今年の冬にも辟易していた。 葉の色は紅い。 まるで引き寄せられるように、構内から少し外れた遊歩道に向かった三成は、その場所で燃え上がる紅葉を見上げた。 ひらり、と紅葉が一枚風に乗って落ちる。 かつての都に色づく紅。それはあの秋のはじまりの日、信繁の瞳の奥に色づいていたそれと酷く似ていた。 あか、赤、紅、――炎の色。 「……」 忘れられないのだ。あの紅が。炎が。あの武道場での姿が。 それでも信繁に問い詰める事だけは何故か躊躇われ、じっと三成はその事だけについては口を閉ざした。よくよく考えてみれば三成は信繁に疑念を一つもぶつけていない事に気が付く。それでも何も言えない。言葉が出てこないし、相応しい想いを選ぶ事さえできない。 しかし押し込める想いが多いほど違和感は増殖し、自らへの疑念が生まれてしまえば、自らも疑わずにいられなくなる。それは今まで自ら決めたことを迷わずに歩いてきた三成には信じられない事だった。理詰めでは理解出来ない事ばかりだった。 それでも。 『秋は紅葉だな』 ただ、約束をした。 秋には来年も燃える様な紅葉が期待できる、と。 冬にはしんしんと降る雪の中で静かに語らう時が続くと信じている、と。 その約束を今も信繁は覚えているだろうか。 ぼんやりと思い出す夏の日の約束を思い出しながら、同時に兼続に最近心配されている事も思い出す。巫女に指摘された違和感は巣くい、兼続がそれに気が付くのだから、三成の僅かな変化をきっと信繁も気がついているだろう。 困らせたいわけではない。だが困らせている。しかし何が信繁を困らせているのか分からない。 ――そんな焦燥感がない交ぜに為って、腹の奥で何かがじりじりと、焦げる。 三成は空を仰いでいた視線を下に下げた。そしてその視線の先に佇む人の姿に無意識に息を詰めていた。 ひらり、ひらり。紅い葉が散る。 燃えるような紅が世界を囲む。 その中で紅葉を見上げているのは、…居るのは、 「…信繁」 『…幸村』 がつん、と頭を殴られたような衝撃に三成の世界が一瞬だけ歪んだ。そして目の前の信繁の姿に被さる様に紅い姿がぶれる。それはまるで残像のようなおぼろげな曖昧な輪郭を以て、淡く霞む。 そんな三成の動揺を当然信繁が知るはずも無く、三成の声に信繁がゆっくり振り返る。 その瞬間。残像は紅葉が見せた幻影とでも言うように、それは最初からなかったかのように掻き消えて、信繁の何時もの姿だけが残る。 「――三成、さん」 「…信繁」 「…奇遇ですね」 信繁は三成の姿を視界に留めて、驚いたようにしてみせていたが、それをすぐに消していつもの笑みを浮かべた。 「そうだな」 ぎこちない空気が流れる。 こんな空気が流れるようになったのはいつの事だったかと思い、三成は思い出す。あの夏の終わり、そしてこの前の武道場での一件からだ。 変わったのは何か。少なくとも信繁ではないはずだ、と三成は思う。 変わったのは何だろうか。自分かもしれないと思う三成はそれでも、見た事実――幸村という名前、瞳の奥の紅――への反応をしただけだ。それを三成自身が変わってしまったと定義するのは簡単だったが、それほど単純な事でもないはずだ。 答えを見出せぬまま、距離を詰めた2人は、そろって紅葉を見上げる。 ただ、紅く、赤い。 「綺麗ですね」 「ああ、そうだな」 言って三成はこほん、と咳をした。 「風邪ですか?」 「いや。先の講義室が埃っぽかっただけだ」 「そうですか」 『秋は紅葉だな』 ただ、約束をした。 秋には来年も燃える様な紅葉が期待できる、とも。 だが、“秋には来年も燃える様な紅葉が期待できる”とは何時告げた台詞なのか三成にはどうしても思い出せなかった。そして共に初めて一緒に見上げる紅葉の光景に“来年も”と告げられるはずの無い矛盾を今の三成は気が付かなかった。ただ赤の中に佇む信繁の姿に何かが掠め取られたように、思考さえ鈍化したようだった。 約束は叶えられた。 ――そして紅葉はただ赤く、紅い。 |
罪業の果て ――紅葉。君が纏いしそれは、 |