―――別離、それは望まぬ願いからの逆行。




信繁は実に巧みだった。
そう三成が気がついた時には三成は完全に後手に回っていた。何もかもが気がつくのが遅かったのだ。その点で確かに三成は下手を打ち、その失態の分だけ三成は自分への怒りを顕わにせずにはいられなくなった。
しかしその怒りでさえ、後から抱いたとて意味は無いと三成は知っていた。



「――プリント?」
冬の色が濃くなり冷たく染まった外気は昼間でも冷える。
この季節になるとそれらを煩う様に口元まで引き上げていたマフラーを引き下げずに人と話す三成は、話しかけられた言葉に思わずマフラーから口元を出した。

「そう。上田に渡して欲しいんだけど。石田って上田とよく一緒に居るよな?」
2コマ目の講義を受け終わって学食に向かっていた三成を突然呼び止めた男は、昨日の講義のプリントでさ、と言いながら、吹き付ける冬の風に寒そうに身を揺すっている。
「昨日の講義のプリントなんだけど、上田休んでてさ。本当は今日の午後一の講義が一緒だから渡そうと思ってたんだけど俺、急に休む事にしてさ」
まぁサボリなんだけどなあはは、と笑う気さくそうな男と三成は今まで一度も話した事は無かったが、顔に覚えがあった。
信繁の履修している講義で何時も信繁の隣に座っている男だったはずだ。
目の前の男は三成の名前を知っているようだったが、三成はこの男の名前は知らない。つまりはそういう接点が無ければ三成は記憶にも留めなかった男だが、そういう接点があるだけで十分三成の記憶に留めるに値する男だ。……名前を知ろうとも思わないが。
目の前の男はそんな三成の内心を知る術も無く、物怖じした様子も見せずに、へらへら(あくまで三成の主観だ)と笑っている。

とりあえず三成は男が差し出したプリントを受け取った。風に吹かれてプリントが折れ曲がる。
「……信繁は昨日講義を休んでいるのか?」
びゅうと風が吹いて目の前の男はなお一層身を揺すった。うへぇ寒い、とごちる男は三成の目から見ても薄着で、さっさと会話を切り上げたがっているのは分かったが、三成もはいそうですが、と簡単に引けない。三成とてこんな寒い外で突っ立って見知らぬ男と話している位ならさっさと暖かい学食に入ってしまいたいし、席だってこの瞬間にもどんどん埋まっていくのだ。

そんな三成の問いに男はあれ、と不思議そうに言った。
「今月に入ってから出席とらない講義は満遍なく最近わりと休んでるけどなぁ…知らなかった?」
すげぇ仲良さそうだったからてっきり知ってるかと思ってたけど、と男は心底疑問そうな顔をして言った。
悪気はないのは分かるが、あまりにも邪気無く告げられた言葉に三成は怒るよりも――衝撃を受けていた。


***


学食にむっつりと黙り込んだまま現れた三成を兼続は蕎麦を啜ったまま見上げて首を傾げた。
「どうした?随分不機嫌そうだな」
「……」
まぁ座れ、と兼続に促された三成は友人の向かいの席に無言で座る。黙り込んだままの三成はコートも脱がずマフラーも取らず、それだけで不機嫌だと見受けるには十分だったが、兼続は敢えてそれには触れなかった。

昼休みも半分を過ぎ、混雑のピークを過ぎた学食は空席も見受けられたが、それでも人が多い事には変わりない。
兼続は学食の暖房が直接肌に当たる場所を上手く陣取っていて、そこでのんびりと天ぷら蕎麦を啜りながら友人が現れるのを待っていた。とは言っても、そのどんぶりの中には殆ど残りは無かったが。

兼続は黙ったまま酷く深刻そうにしている三成をゆっくり観察しながら、未だ開かれる事の無いその右手を見て、行儀が悪いと思いつつも持っていた箸でそれを指し示した。
「紙、ぐしゃぐしゃだぞ。いいのか?」
「信繁に、と預かった」
と言いながら三成は冬の風と無意識に力を込めた手のせいでよれた紙を机の上に置いた。
くしゃりと折れ曲がったそれは手で伸ばしてやらないと見れたものでは無くなっている。こんな有様でも信繁はさして気にせず、あまつさえ持ってきてくれた事に礼を言いそうな気がするが、コピーし直した方がいいかもしれないと三成は頭の片隅で思う。

暖房の直風が暑い。学食は広い分、暖房にムラが生じて場所によってはコートを着込んだまま食事を取るはめになるのだが、兼続はその点上手くやったらしい。
外に長居していて冷えた体がゆっくりと温まっていく感覚に息をついた三成がやっとマフラーに手をかけた。だが、つゆばかりになったどんぶりを啜っていた兼続が、そういえば、と続けて三成はその手を止めた。
「ああ。信繁だが今日の午後からの講義は休むそうだ」
「…何故だ」
三成の小さい問いかけに兼続は小さく笑う。
「何故だ、って信繁にも色々あるだろうさ。成人した男だぞ?」
「……」
無言でやっとマフラーをとった三成が喉の奥で小さく唸る。そんな事は分かっている。そう言葉が喉の奥まで出かかっているが、その先が明確な言葉の形を成さずに無意味な音にしかならない。
「三成?」
「知っていたか。今月に入ってから信繁が講義を休んでいる事が多い、らしい」
「信繁が?…いやそこまでは流石に知らなかったな」
流石にその三成の言葉に驚いたのか、兼続が目を丸くして箸を置く。兼続の前に置かれたどんぶりの中に蕎麦は見えず、濃い色をした汁の中に情けない顔が映っていて、三成は益々顔を顰めた。
兼続が知らないのも無理は無い。三成も信繁が講義を休んでいる事に気がつかなかったのなら兼続も当然そうだ。
隠し事、ではないと三成は知っている。信繁は聞かれなかったから言わなかっただけで、それを隠されたと論点を挿げ替えてしまうのは愚かで情けない話だ。三成は信繁がどんな大学生活を送ろうと口出しする権利を持たないし、信繁から何か迷惑をかけられたわけではない。
兼続はその所をよく理解しているからこそ慌てていないのだ。そもそも兼続にそんな思慮深さが無かったならば、自分の友人に成りえなかったのだろうと三成は知っている。
だからこれは勝手な想いだ。三成だけの、三成がどうにかしなければいけない感情だ。

そもそも何故今月に入ってからなのか。三成は思い当たる理由などないと言い切れれば楽だったが、たった一つだけ心当たりがあった。
先月末に三成は手酷い風邪を引いた。本格的な風邪の流行前のそれは思いの外しつこく、発熱して寝込んでいた時に見舞ってくれた信繁と何かやりとりをしたのか、三成は熱で朦朧とした頭では記憶出来ていなかった。
だが熱が引いて会話を交わした際、その時信繁の様子がおかしかった。明らかにおかしかった。

『私はこのままでいたいだけなんです』

信繁はそう言った。確かに一言だけそう言って泣きそうに笑った。
それをよくよく考えれば、信繁が初めて告げた願望とも懇願ともとれる言葉だった。
三成は、それが少し恐ろしかった。そして内から突き上げる衝動が、信繁のそれらの願いを裏切ってしまうような予感がしていた。

信繁が始めて口に出した願いが、あまりにも儚く、その願いを壊そうとしてしまう自分をまだ認められていなかったからだ。


「……」
三成は机の上の信繁に渡すべきプリントと、先まで風に吹かれていて力を無くしたマフラーと、兼続の前に置かれた蕎麦のどんぶりを見る。午後の講義まで後10分になり、学食からは人が引き始めて人の気配が無くなっていく。
そんな周囲の光景を見遣りながら兼続が静かに、言った。
「三成」
「……何だ」
「信繁は自分の事は自分で決められる大人だ。下手をしたら私たちより思慮深いかもしれないが。まぁ今はそれはいい。それは知ってるな」
「当たり前だ」
「そして私たちは友人だ。違うか?」
「……そうだ」
返事をするまでに思いの外時間がかかった。その意味に兼続は気がついただろうかと三成は一瞬だけ逡巡したが、考えた所で意味はないと悟る。目の前の男は見た目以上に聡い男だったし、必要であれば三成以上に時に口を閉ざす男だと知っていたからだ。
「三成、これ以上踏み込むにはその肩書きでは役不足だ」
「じゃあこのまま黙って見ていろ、というのか」
口に出した後で予期せず言葉が強いものとなった事に気が付いた。気まずく思ったのは一瞬で、それよりも想いのほうが強く、そして兼続もそんな三成を分かっているようだった。
「そうじゃない。そうじゃない、三成」
そう言って兼続は緩く首を振る。
「何かを欲しがるのなら、自らも何かを差し出さなければ。そして」

――肩書きに何か別の名前を付加しないといけないな。

そう言って兼続は静かに笑う。
その瞬間、三成の背中がカッと火照った。それはこの学食の暖房がコートを脱がないままの三成の体を暖めたせいなのか、そもそも全身に熱が昇った理由は何なのか。
否、そんなことを考えなくともいいのだ。答えは知っている。知っていた、ずっと前から。

ずっと前から。

「…っ、そんな答えなど…!」
ずっと前から出ていた。ずっと前から。ずっと前から。三成の脳裏に四季が巡る。
春の風に巻き上げられた薄い桃色の花弁。夕涼みに震える風鈴の音。燃え立つような真紅の葉。
その光景を共に見たいと願っていた存在は確かに笑っていたし、三成も笑えた。二人心から笑っていた。
だから。

「俺は…!」
三成は思わず立ち上がっていた。人が少なくなった学食ではそんな三成を気に留める人間はいない。
小さく叫んだ言葉は兼続に向けたものだったが、それは三成自身に向けたものでもあったし、今ここにいない存在に向けたものでもあった。

桜の木の下で会ったあの時から。いや、そんな数年で語り尽くせるようなものでもないほど想いは重いと断言できるほどだ。誇張でも冗談でも何でもなく。
ずっと前から、だ。
三成の脳裏の中で、不意にはためく旗がちらついた。遠くの空に昇っていく細い煙の筋、騒乱の音、紅い甲冑、鉄扇、土の匂い。
どれもこれも夢の中で見た光景だ。白昼夢にも近いもので、しかしそれらはずっと三成を急かしている。早く、早く、と。このままではまた逃すと急かすのだ。
三成は今まで誰にも見せてこなかったそれがもう手遅れなほど膨れあがっている事に気がついた。手放しで自分の願いを押しつけてしまいたくなってしまっている程に。それが信繁の望まぬ変化なのだとしても。

けれどもう隠せないし、黙って見過ごせない場所まで来た。


――好きなのだ。心が揺れるのだ。どうしようもなく。



***


日中よりも格段に冷え込んだ夜の空の下、アパートの廊下、無人の部屋の前で三成は小一時間ほど人を待っていた。
コートもマフラーも着込んではいたが、昼にちょうどの良い防寒対策では夜では少し物足りない。しかも長時間外にいれば尚更だった。体の芯から冷やしにかかる冷気に三成は小刻みに体を揺らせて体温を奪われないように心がけていた。
空は晴れているようで、ちらほらと星が見える。月は見えない。そういえば月蝕がどうのこうのとテレビで騒いでいたが、それを見逃したな、と三成はぼんやり考える。
三成は腕時計を確認すると時刻は22時前を示していた。三成の待ち人は随分と遅い。
「……」
三成はマフラーを口元まで引き上げた。帰ると言う選択肢は無かった。どうしても会っておきたいという一心で三成はこの場所で、部屋の主が戻ってくるのを待っている。

その時、不意にカンカン、と階段を上がってくる音が聞こえて三成は顔を上げた。あまり歩幅が広くない足音。その持ち主を三成は待っていた。
「三成さん?」
「信繁…」
三成は信繁を待っていた。敢えて連絡はしなかった。何故だか連絡をしてしまうとはぐらかされて今日は会えない様な気がしていた。それは現に正解だったのだろう、こんな時間まで戻ってこなかったのだから事前に三成が連絡をしても信繁は断っていたはずだ。

「どうして、三成さん…」
そんな三成に驚いたように信繁が目を見開いたのは一瞬で、次の瞬間にはその眉間にひどく困ったような皺が入った。その表情に、信繁に迷惑に思われてはいないようだが、信繁を困らせているのだろうと三成は気が付いた。
「ここは冷えます。中に入って…」
ください、と続けながらポケットから鍵を取り出そうとするその手を三成は掴んでいた。殆ど無意識に近かった。
「辞めたのか」
「え、」
驚いたように目線を下げた先に三成の手を見て、そして視線をあげて信繁は三成を見る。
「図書館のバイトだ。やめた、のか」
「それを何処で…」
「図書館の司書に聞いた。本当に辞めたのか」
今日の曜日は信繁の図書館のアルバイトの日だった。だから三成は5コマまで講義を受けた後図書館に向かった。三成が掲げた理由はプリントを渡すというものだったが、本当の理由はそんなものではなく、ただ会って確かめたかった。何かを。そうして会えば何かが前に進むのではないかと思ったのだ。
だがそんな三成を待っていたのは、図書館のアルバイトを少し前に信繁が辞めたと言う司書の言葉だった。

11月いっぱいで辞めたのだと司書は言う。
信繁が講義に出なくなったの同時期に辞めたのだと、言った。

だから三成はいてもたってもいられず、気が付けばアパートに来ていた。プリントは呈良い口実になっているが、何もかもが三成の心を僅かな不安で波立たせる。
念を押すように、そして些か糾弾するような口調になった三成に信繁は静かに微笑みながら頷いた。まるで三成を安心させるかのように。
「はい。冬休みに備えて次に時給のいいバイトを探そうかと」
「……」
本当にそうなのか。出来ればそう問い詰めたかった。しかし三成はそうしなかった。
「プリントを預かってきた」
「そうですか。わざわざありがとうございます」

結局三成は聞けなかったのだ。
今日の講義に信繁が出なかった理由を。図書館のアルバイトを辞めた理由も、講義を出ていない理由も。
聞いてしまえばこのままで在りたい、と告げた信繁の懇願をこの手で打ち壊し認めざるを得なくなってしまうことに三成は恐れたのだ。

変化を望まないはずの信繁自身が、自ら今に変化をもたらせようとしている事を。

そんな三成の疑問を知っているであろうに、信繁が語ろうとしない理由も。無理矢理聞き出してしまえば変化を決定付けてしまうようで、三成はそんな自分を何より認めたくなかったのだ。
そうして少しの時間を経て、三成はこの後気がつく事になる。この時完全に後手に回った自分の致命的なミスを。
信繁は実に巧みだった、と。

気がつけば今年も残り二週間で、三成に多くのものをもたらし、長かった一年が静かに終わろうとしていた。







罪業の果て

――別離。変化の予兆、