―――約定、其れは叶わぬ憧憬の軌跡



春は静かに、ゆっくりと確かにやってくる。それは冬の残り香にそっと隠れるように、柔らかい日差しを纏う様に。人は肌に触れる空気、降り注ぐ光、五感の全てで、その気配を感じ取り、その存在に気がつく。
季節は冬から春へ。桜の花が綻び、全てが動き出すような、そんな前向きな予感に満ちる季節。

その日は暖かい日、だった。前日が珍しく冷え込んでいたためか、余計にそう感じるのかもしれない。
信繁は大学構内を一人で歩いていた。今日は隣に友人達はいない。信繁1人だ。
入試の合格発表を終え、大学構内にはサークル勧誘の看板があちらこちらに立っている。掲示板には同じようにサークル勧誘の張り紙。もう少しで前期が始まり新入生でこの場所も賑わう。そして、信繁も新しい学年を迎える。
空は快晴。桜は満開の頃を迎え、世界は春の息吹に溢れていた。
その景色に信繁の頬が人知れず綻ぶ。仕方がない事だ。桜に心浮かされるのはこの国の柄と言ってもいいくらいなのだから。

そんな信繁の目的は大学で花見をすることでもなければ、アルバイトでもない。ましてや友人と落ち合うわけでもない。
彼の足取りはまっすぐある場所に向かっていた。
その場所は、サークルや部活動に勤しむ学生のグラウンド、体育館の喧噪から少し離れた場所。構内の中でも木々が多く、新緑の頃合いになれば酷く美しい場所にあった。

「――慶次殿」
信繁はその建物――武道場だ――の入り口からひょっこり顔を覗かせ、目的の人物を見つけると、静かに声をかけた。
その人物は鍛錬のために静かに構えていた薙刀をゆっくりと下げ、信繁の顔を見つけるとその表情を柔らげた。
「お、見に来てくれたのかい?」
「はい、お邪魔かと思ったんですが」
「いや、今日は試しの練習さ。どんな感じか確かめておこうかと思ってねぇ」
武道場には慶次しかいなかった。
武道場は当然、体育館やグラウンドに比べると広くは無い。しかし今は慶次だけしかいないせいか、この武道場もひどく広い印象を受ける。
「部活は休みですか?」
「ああ、今日は花見をするんだそうだ。その準備で今日だけは休みになる。風流だねぇ」
なるほど学生らしい理由に信繁は小さく笑う。
「確かに今日は天気もいいですし、お花見日和ですね。…慶次殿も行かれるんですか?」
「ああ、指導は前期が始まってからだが、顔合わせで今日は邪魔することになってる」
「それは楽しみですね」
「せっかく来たんだ。好きなだけ見てってくれ、…そうだ」
何かに気がついた慶次が、手に持っていた薙刀に視線を落す。そして、ゆっくりとそれを信繁の方に差し出した。
「…少しだけやるかい?」

「いいえ」

静かに告げた信繁の拒絶の言葉はひどく穏やかだった。静かな笑顔。春に似合うそれ。
けれどそれは確かな拒絶。
信繁が慶次の言わんとしている事に気がつかないはずがない。慶次は薙刀を勧めることで、同類の長柄武器である、槍を勧めたのだ。
―――その言葉への拒絶は、槍への拒絶。
慶次は小さく頷いてから、静かにその手を引いた。
「そうかい、また持ちたくなったら声かけてくれていい」
「……」
信繁は微笑んだまま、何も言わなかった。ただ静かに開け放たれた入り口から晴れた景色を見る。
満開の桜は風の流れに逆らう事無く、静かに花弁を散らし始めている。今週で桜の見頃は終わるのだろう。
「桜のいい頃合いになったねぇ」
「はい」
「今日はバイトか?」
その言葉に信繁は静かに首を振った。ただ澄んだ瞳で慶次を見つめ、乱れの無い声の調子で静かに言の葉を紡ぐ。
「いえ、今から大阪に行こうかと」
「大阪?」

「……桜、を」

甦る記憶。
慶次にとっては今の慶次のものではない、慶次の記憶。
太平の世を望んだ男に招かれた先で見た、満開の桜は酷く美しく、見事だった。あれほどの桜を、あれ以降慶次は見ていない。本当に見事な桜だった。
皆、笑っていた。その奥方も義を誓った三人も。
けれど、それは遠い記憶。今の慶次のものではない、慶次の記憶。

「……そうかい」
少し笑った慶次に少しだけ頭を下げて、信繁は出口に向かう。その後ろ姿を慶次は静かに見送った。
慶次には確かに“慶次”の記憶がある。信繁と共有できる記憶が。しかし、その記憶があったとしても、何処か交わらない境界がある。それは世の理通りに死して、新しい命を紡ぐ慶次や他の人間とは完全に異質のものが故、交わらないのだろう。
「慶次、殿」
「何だい?」
入り口に立っている信繁は慶次の方を振り返らないまま問う。桜がはらはらと信繁の周りを舞い、時間の流れを曖昧にさせる。
「桜は散る間際に初めて薄紅色になるそうです」
「それは初めて知ったねぇ」
「人の言う一番美しい頃合いが、限りある時間の中にあるというなら、」
静かに響く声は何の感情を滲ませているのか、慶次には分からなかった。

「私の美しい頃合いというのは、あるのでしょうか」

そして次の瞬間、慶次の前にはその姿はもう、無かった。
「ああ、そう言えば、また聞くのを忘れた」
慶次は1人になった武道場の真ん中で1人ごちる。

“真の名で呼んでもいいかい?”
恐らく信繁の答えは否、だろうと慶次には分かっていたが、それでも聞きたかった。

そのまま静かに信繁の立ち去った方を見ていた慶次だったが、新たな訪問者の存在に気がつき、薙刀を床においた。
「今日は訪問者が多いねぇ」
それは見るものが見れば、独り言に聞こえただろう。しかし、それは独り言ではなかった。
慶次が静かに目線だけをずらせば、慶次の話しかけた相手――正確には慶次から身を隠していた相手――は無駄な悪足掻きをせずに姿を見せた。

寸分変わらぬ姿。その貫くような瞳。秀麗な立ち姿。存在だけで周囲を圧倒しそうな存在感。

……相まみえるのは、どれくらいぶりかねぇ。
そんな考えはおくびにも出さずに慶次はその相手に向き直った。
「薙刀に興味があるのかい?」
「いや、俺は、」
見目秀麗なその男は表情に微塵の動揺もなく見えるが、慶次にはその僅かな感情の変化を追うことが出来た。
―――久方ぶりだねぇ。
その静かな呟きは内心で留まらせておいて、やはり音にはしなかった。
「俺の名前は前田慶次だ」
「前田慶次?戦国武将と同じ名か?」
「お、よく知ってるねぇ。字も同じだ」
「俺は、石田三成だ」
「お、武将の名前じゃないか。奇遇だねぇ」
にやり、と慶次は笑ってみせた。何の因果か。同じ時代に持つ記憶の違いはあれどまた集った者達。誰が引き寄せたのか。その答えを慶次は持っていない。
しかし慶次の笑みとは対照的に、三成の顔は僅かに苦虫を噛みつぶしたような、そんな表情を浮かべた。
「…負け戦の大将だ。他に歴史に名を残した事をしているわけでもない」
「そう思わない御仁もいる」
「…?どういう意味だ?」
三成の問いかけに慶次は答えなかった。それは慶次の口から告げるべき事ではない。

そう、桜に思いを馳せる彼ならそれさえも受け入れるだろう。”当然の事なのかも、しれません”と。
そしてこう思うはずだ。
―――仕方のない事だ、と。

「探し人は大阪だ」
三成が聞きたかったであろう答えを慶次はいきなり告げた。
大方、信繁の姿を見つけた三成が偶然武道場にたどり着いたという所だろう。慶次もそれなりに人の気配を察することに長けている。ましてや信繁ならば、誰かが聞き耳を立てていれば必ず気がつくはずだ。それが無かったという事は信繁が武道場を出ていってから、三成がこの場所を見に来たに違いなかった。
――変わってないねぇ。
時、魂、それらが巡ってもその本質は変わらない。それを俄かに証明しているように慶次には思えてならなかった。

「大阪?」
「桜を見に行くんだそうだ」
不思議そうな表情をした三成の眉が僅かに寄せられる。
「何故、…桜なら京都でも」
「大阪、いや大坂か。そこでなければならない理由があるんだろう」

――それはもう、彼しか持っていない、理由。


***


この地の地形も、そして大阪の城も、記憶に最も鮮やかに残っているものとは異なっている。
城は燃えた。此れは復元されたもの。
桜は様相を変えた。後の世に植樹されたからだ。
それでもここは信繁にとって重要な場所であり続ける。永遠に。その名を捨ててしまっても、生きている限り、忘れる事など出来はしない。名の変化が、人の内面まで変えるはずが無いのだ。

「…三成殿、また桜の季節を迎えました」

約束を、した。ほんのささやかで、優しい約束を。春の桜の下で。
『来年もこの桜を見よう』
叶わなかった約束を、まだ辿り続けている。もう巡り会えないと知っていながら。
けれど、約束をした。あの日、あの場所で、二人で。確かに約束をした。それは生きている限り、覚えている限り、相手がいなくとも約束で在り続ける。信繁はそう信じている。でなければこれほどの時を生きてこれなかった。

ざぁと風が吹いた。
満開の桜はその風に乗って花弁を散らせる。薄紅色。散る間際の最も美しい姿が、夜に舞う。
今年も終わるのだ。桜の季節が。

少し目を閉じて信繁は過去の記憶を探った。
瞼の裏に大一大万大吉の文字が鮮やかに甦る。彼の愛用していた鉄扇も、風に揺れる髪も、静かに笑う姿も、次々と浮かんできては瞼の中の闇に消える。
そして静かに瞼の裏に姿が消え、ゆっくりと信繁は目を開いた。優しくも残酷な現実に戻ってくるために。

だが、ゆっくりと開いた目に映った姿に信繁は息をつめた。

桜の中にその姿はあった。先まで脳裏に思い浮かべていた、その姿が。
「三成殿…?」
そんな、まさか。僅かに震える声も戦慄く唇も、信繁には抑えることは出来ない。
幻かと思った。が、その人物は一歩前に進んだ。そして唇を開いた。そして名を呼ぼうとしている。
名を、真の名を、

『幸村』
「信繁」

――嗚呼、
ありえない夢物語はやはり夢でしかないのだ。僅かな絶望に陥る間を与えないように、信繁はその言葉に開いていた目を静かに閉じた。一つ深呼吸をしてもう一度瞳を開く。笑顔を、いつもの笑顔を湛えて。その瞬間に、上田信繁、になる。

「三成さん」
完璧な笑みを浮かべて、動揺を滲ませない表情を浮かべれば、三成は少しだけ気まずそうに視線をそらせた。
「つけるような真似をしてすまない。その、」
「慶次殿ですね」
信繁の行き先は慶次にしか告げていない。ましてや大阪としか言っていないのだ。大阪城だと分かるのはそれでなくても慶次しかいない。
「…彼とは旧知の仲か?」
「ええ、縁故がありまして。今度、薙刀のコーチとして大学に赴任されるそうです」
偶然知ったのですが、と言葉を区切って信繁は桜を見上げた。静かに吹く風は薄紅色を纏って、三成の色素の薄い髪と夜の漆黒に負けない信繁の髪が静かに揺れる。

静かに更ける夜の時間は、三成が共に信繁と過ごしてきたどの時間とも違っていた。
やわやわとした違和感が、そこにあった。

「…俺は邪魔をしたか?」
「いいえ」
「何故、大阪に?」
「私は戻らない時に縋っているのかもしれません。もう戻らないと、分かりきっているというのに」
静かに桜を見上げる信繁の瞳の中に静寂が存在していた。それは深く深く、底が見えない静けさ。

―――邂逅。

唐突に三成は悟った。信繁は三成が知らない程のものを抱えていて、過去に置き去りにされた記憶に思いを馳せ続けている。
最初にあった春の日に、信繁が浮かべていた表情も今と同じ物ではなかったか?
ならば、信繁は桜を見る度に邂逅への旅路を行く。誰にも知らせず大阪で桜を見てしまうほどに。
それはいつか信繁を連れ去ってしまうのではないのだろうか。
「―――、」
ぞわりと三成の背筋を冷たいものが走る。
「綺麗な、桜です。桜はどれだけ過去を遡っても変わらない。毎年同じ色の花を咲かせる」
それは何時か、信繁を連れ去る。
三成の元から。
「信繁」
気がついたときには三成は強く信繁の手を握っていた。放さないとでも言わんばかりにきつく。

「来年、俺と桜を見てくれないか。一緒に」

三成がやっとの思いで絞り出した声は固い。けれど、その台詞に信繁はその瞳を大きく見開いた。
「、っ」
「記憶を紡げばいい。また」
過去のだれか、ではなく、自分と。

―――未来を。

「三成、ど、の」
「信繁」
「私は、わたし、は、」
信繁の声は震えていた。切なげに歪められた表情に、三成は止まれなかった。止まろうともしなかった。
衝動のままにその腕を引けば、信繁の体はあっけなく三成の腕の中におさまった。

「大丈夫だ、だから、来年も」
「…は、い。はい」
腕の中で信繁が小さく頷く、体も声も震えていた。三成の肩口に感じる暖かさは涙だったのかもしれない。

信繁の過去、それを三成は知らない。知りたくないといったら嘘になる。

けれど。未来への約束。今、二人の間で交わされたそれは、確かに三成との未来を約束したものだ。
それに酷く安堵を覚えながら、三成は無意識に腕の力を強くした。






罪業の果て

過去の約束、未来の約束、