―――記憶、逃避さえ殺す重き足枷 ざぁざぁと重力に逆らえずに地面に激突するしかない雨はぐにゃりと世界を歪める。 その雨は、世界全てを濡らしているというのに、血の匂いも火薬の匂いも少しも薄めてはくれなかった。 噎せかえるような血の匂い。 歪む視界いっぱいに映るのは少しも身動きしない兵士達の姿。知っている者、知らない者。武田の旗、真田の旗。それらがない交ぜに成って、雨と泥と血に塗れている。 彼らと己の違い。それは息をしているかしていないか、という些細な、ほんの些細すぎる差異でしかない。 「次の発射までに…逃げなければ、」 泥と血にまみれながら必死に手を、手を伸ばす。己と同じように地に伏せている槍を掴んで、この地から、長篠の地から逃げなければ。 手を伸ばす。届かない。後少しだというのに。手が。視界が滲む。赤く、紅く、冷たく。 「にげ、なけれ…ば」 ―――死ぬ。 「………ッ!!」 いきなり引き戻された現実に意識が追いつかない。視界に映ったのは天井と、何かを掴もうと宙に伸ばした手、だった。 「は、」 息が苦しい。無意識に呼吸を詰めていたのかもしれない。 じっとりと額に汗が滲んでいる。まるで汗のように湿り気を帯びた絶望がまだ全身に纏わりついている。 「夢――、」 急激に覚醒した信繁の脳が現実を理解するまで少し時間を置いてから、信繁はゆっくりと上体を起こした。5月のこの時期になれば、日は早い。それでも早朝と呼んでも差し支えない時間だった。 「夢、」 もう一度呟く。そして信繁が怠慢な動作で外を見遣ったことで、こんな夢を見た原因の一つを彼は悟った。 バタバタと世界を叩き潰すかのように響くどしゃぶりの雨。 その空は何百年も前と同じ色、をしていた。 *** 朝のどしゃぶりの雨は講義が始まる時間にはあがっていた。そのまま最終のコマまで天候が崩れなかったのは奇跡に近い。 一日曇天模様。 それが今日一日を表す一番適切な言葉だった。 「うーん、今日は疲れたな」 日は随分長くなったものの、最終コマが終われば太陽が沈むまでのカウントダウンは始まっている。 今日も今日とて最終コマ後に合流した3人は構内をゆっくりと歩いていた。少し遠回りでもしよう、という兼続の提案で普段は歩かない武道場の近くまで3人は歩みを進めていた。 「今日は一コマしか講義を入れていない奴が何を言っている。後期は死ぬほど苦労しろ、もしくは夏期講習に忙殺されろ」 何気なく呟いた兼続への三成の返答は情け容赦ない辛辣さが何時もより3割ほど増していた。常人ならここで黙り込むであろうが、兼続は全く意に介した様子もなく、不思議そうに2、3度瞬きをした。 「どうした、三成。なかなか機嫌が悪いではないか」 その問いかけに少しだけ困った様な表情を浮かべて口を開いたのは信繁だ。 「三成さんは、今日の朝から刑法改正で色々とあったようで」 「色々?改正でお前に何か弊害でも出たか」 “やましいことでもあったか”と笑い飛ばす兼続を、三成は冷たく睨む。 「大いに。朝から講義に出るだけで時効撤廃の話題ばかりだ。挙げ句の果てには臨時のレポートだ。面倒だ。飽きた。」 「法学部なら避けられん話題だろう?」 「あくまで刑法改正だぞ?もう一度言うが、改正したのは刑法だ。ならば刑法か刑事訴訟法、関連法令の講義だけで問題にすればいいだろう。関係の無い講義でもこの話題が最初に出る。流石に行政法の講義でこの話が出たときには、頭痛がした」 いつもは言葉少な、とまでいえる三成のあまりの饒舌っぷりに、兼続は信繁をこっそり見て思わず苦笑した。 「時効撤廃、遡及効果までつくんだから、十分すごい改正だと思うぞ?信繁はどうだ?」 これ以上の”口撃”は耐えられない、と言った風に兼続が信繁に話をふる。突然話題を振られた事に驚きながらも、信繁は律儀にその意味を考える。 「ええ、私は――」 そしてふと、信繁は考えてみる。ひとをころす、という意味のその先を。 「私は、…どうでしょう、か」 積みあがる屍。その姿を知っている。 この時代、この日本では決して見ることの出来ないあの地獄の光景を。 その死線をかいくぐりながら、槍を奮ってきた。歴史が語るそれは、時代が故に信念を通したもの。 人を殺す事も殺される事も普通の時代。大きな歴史の転換点を通過してきた。戦場という場所で。勝利の意味は敵の死であり、武功は積み上げた屍の数。 もしも時代が時代ならば―――、 「人を殺しておいて、そう簡単に救済は無いだろう」 その言葉に信繁は呼吸を一瞬、忘れた。 「―――っ、」 信じられないものを見るかのように信繁は、目の前を歩く端正な横顔を見つめる。 正論だろう、それは。倫理にかなっているのだろう、それは。 信繁は思わず立ち止まっていた。足が、動かない。開いていく信繁と2人の距離がどう足掻いても共有できない世界との差のように思えた。 脳内をかすめるのは殺されたもの。 ―――数多の殺してきた、ものたち。 「まぁ、今まで法律関係の安定性という名目で時効を正当化してきたからな。刑法の殺人ではそれが通用しなくなったという事だ。他の学者はその点をどう説明するか、来年のテキストが楽しみだ」 「三成、お前鬼だな…」 何でもないように会話を続けていた2人だったが、ふと後ろに続くはずの足音が消えていたことに気がつき、2人は同時に振り返った。 少し後ろには呆然としたような信繁の姿。 「信繁?」 「信繁、どうかしたか?」 少しだけ怪訝そうな顔をした兼続の問いかけと駆け寄ってくる三成の姿に、信繁は我に返った。 「あ、いえ、少し考え事を」 「朝から少し調子が悪そうに見える。大丈夫か?」 気遣いの表情を見せた三成がそっと信繁の肩に触れようと手を伸ばした。信繁はそれを呆然と眺め遣る。 伸ばされる手。 ―――人を殺めたことのない、手。 パシリ、と乾いた小さな音が、確かに曇天の下に響いた。 「…っ!」 信繁は気がついたときにはその手を思わず払いのけていた。完全に無意識だった。今までそんな事を思った事さえ無かったというのに。 「信、繁…?」 「あ…、」 呆然としたような三成の声に、信繁はのろのろと自分の手を見、そしてもう一度、目の前の三成の呆然とした顔を見た。 今、己は何をした? 「信繁、本当にどうした?大丈夫か?」 信繁のあまりの様子に流石の兼続も顔色を変えて駆け寄ってくる。 「あ、…」 ――今、自分は何をした? 「あの、すみませ、ん…、あの、私は」 己は…何だと言うのか。今、己は途轍もなく図々しい事を考えはしなかったか? 「すみません、私は今日はここで――、」 2人の目を、特に三成には視線さえ向けることが出来ず、信繁は一歩後ずさった。 ダメだ。今日はもうこれ以上はダメだ。何もかもが今日はいけない。 早く帰って、混乱しきった頭を整えて、時代に適合した思考を取り戻して、明日には、明日、には――。 「すみま、せ」 「逃げて下さい!!」 突然響いてきた第三者の声に3人は反射的にそちらの方に向けた。 声の方は頭上だった。 武道場の2階の窓から必死な顔をして叫んでいる学生の姿が見える。これが声の主であろうという事はすぐに分かった。 問題だったのはそこから降り落ちてくる人の頭ほどの大きさがある灰色の缶のようなもの、だった。後で確認して初めてそれがペンキの缶だったと分かるのだが、今の3人にはそれは分からなかった。一瞬の間の話だったからだ。 一番初めに動いたのは信繁だった。 瞬時に先に目に入っていた長柄のほうきを視線を向けずに手に取った。 掴んだのと同時に手の中で一回転させる。人目に止まるかどうかの間に一回転させる事で、長柄を手になじませ、重さを体得し、強度を測る。降りかぶるときの速度を経験で弾き出し、どう動かせば最も効率よくなるか――、全てが無意識の内の行動だ。全てが信繁に染み着いていた。 槍を持つ。 それは、こういうこと、なのだ。 誰よりも早く意識を目的に戻し、右足で地を見極める。まっすぐ見上げた視界の中に、ただそれだけを見据えた。感覚が研ぎ澄まされる。他の事を考えなくてもいいこの瞬間への陶酔は信繁を、かの名高き武将への姿へ呼び戻す。 「はっ!」 横に振りかぶって一瞬、次の瞬間、缶は横に吹っ飛ばされ、落下していたであろう場所から数メートル離れた場所にごとん、という鈍い音を響かせて転がっていた。 その後に訪れたのは一瞬の静寂だった。窓から叫んでいた学生は目をまん丸にしていたし、偶然その場を通りかかっていたらしい学生達は思わず足を止めて信繁を見ていた。 それは三成と兼続も同じで、先まで後ろにいたはずの信繁の後ろ姿を見つめたまま、先の出来事に脳が理解を追いついていないとでも言いたいかのような表情を浮かべていた。 そしてまたその静寂を壊したのは、新しい第3者の登場だった。 「すまない!大丈夫かい!?…信繁?」 武道場から慌てて飛び出してきたのは、騒ぎを中で聞いた慶次だった。そもそもペンキで作業していたのは薙刀部の部活の一環であり、武道場の2階で手の空いていた部員達が部員勧誘の看板を作っていたからだ。 慶次は騒動の中心人物たちに怪我が無い事を瞬時に確認して、同時にその当事者が信繁達だった事に驚きを隠せない様子だった。 そして何よりも、信繁が持つ箒。それが長柄のものであった事。そして落下しているはずの場所から数メートル離れて存在しているペンキ缶。 それらの姿で、信繁が何をしたのか一瞬で悟った慶次は言葉に窮した様だった。 「信繁!!す、すごいな!!どこであんな技を体得した?」 静寂が壊れた事で真っ先に声を上げたのは兼続だった。その声に弾かれたように自我を取り戻して三成も信繁を見る。 だが、信繁の背中はぴくりとも動かない。 「…信繁?」 そっと声をかける三成の声は滅多に無い不安を滲ませていた。信繁のいつもと違う態度、様子、そして今まで見たことのない姿。それらが否応無く、三成の警鐘を鳴らす。 ぽつり、 とうとう空が泣き出した。朝程ではないものの、細い雨が降り出す合図を確かに告げ初めている。 その雨が信繁の頬を叩いた瞬間、彼は大げさとも言えるほど肩を奮わせた。 ゆっくりと2人の方に振り返った信繁は、長柄の箒を持つ手を見、そしてその手がペンキの色に染まっている事を確認すると大きく目を見開いた。 ペンキの色は艶やかな、赤、赤、赤。 僅かに飛び散ったペンキは信繁の体を点々と彩っていた。頬に、胸元に、手に、まるでほんの僅かな返り血を身に受けたかのように。 バシリ、と音を立てるようにして赤が引き出す記憶が駆け巡る。 大地に染みこむ赤、甲冑の紅、肉塊となったもの、喧騒と叫び声、六文銭、夜の空に燃えていくあの守りたかった場所。 「…あ、私は、」 戦慄く唇がひどく頼りない声色を奏でると同時に、信繁が持っていた長柄がカランと乾いた音を立てて地面に落ちた。 「逃げな、けれ、ば」 「…っ!信繁!」 呆然と呟かれた言葉を聞いた瞬間、三成はためらいも全部かなぐり捨てて信繁に駆け寄り、躊躇なくその体を腕の中に押し込めていた。 「ちが…う、わたしは、」 それでも信繁の視線はぼんやりと遠くを見据え、視線は三成を捉えてはいなかった。 「兼続、後の処理は任せる」 僅かに力を抜いた信繁の体を支えるようにした三成は振り向かないまま、兼続に静かに告げた。対して兼続もその空気を的確に読んで静かに頷く。 「ああ、任せておけ」 その光景を複雑な面持ちで見つめる慶次の上からは本格的に泣き出した雨のか細い悲鳴が響いていた。 *** 雨はさぁさぁとした静けさを越えて、朝のような土砂降りに変わっていた。五月蝿いほどの雨音が三成の耳をつく。 雨音以外は何の音もしない部屋で、三成は静かに瞳を閉じている青白い信繁の横顔を眺めながら、先までの事を思い出していた。 『――すみません。どうかしていた、んです』 『謝る必要はない』 自宅に帰ると言う信繁の言葉を無理矢理却下し、三成は信繁を彼自身の家に連れていった。三成の家が一番大学に近い、というのは建前で、これほど弱っていた信繁を帰すなど出来そうになかったからだ。 連れ帰った時には雨はしだれ模様になり、さぁさぁとした雨音が世界を包んでいた。 尚も遠慮しようとする信繁をバスルームに押し込んで、三成の服に着替えた後は少し落ち着いた様子を見せてはいたものの、その視線は未だ揺れていた。 『体調はどうだ?』 『ええ、随分落ち着きました。少し寝不足だったのかもしれません』 それは信繁がついた明確な嘘だった。いつもより睡眠時間が少なかったのは事実だったが、原因はそんな所にはない。それは三成も承知だっただろうが、追求する事はしなかった。 『今日は泊まっていくといい』 『いえ、そんな訳には』 『ペンキから守ってもらった礼だ。兼続にも後できっちり払わせる』 悪戯を思いついたかのように意地悪く笑って三成が言って見せれば、信繁は僅かに微笑んだ。 言葉の裏に隠された三成の確かな優しさは信繁から僅かな遠慮を奪うには十分だった。 それが数時間前の出来事だ。 遠慮し続ける信繁を言いくるめて三成のベットに押し込めれば、申し訳なさそうにしつつも、彼はすぐに眠りの世界に落ちた。それだけ疲れていた証なのだろう。 傍を離れる気には到底なれずに、信繁が目を覚ましたときの言い訳を見つけられないまま、三成は信繁の眠る横顔を眺め続けていた。 聞きたい事は山ほどあった。 けれどそれを告げれば、信繁の心に無数の傷が付くことには目に見えていた。 「信繁、」 ――お前は一体、何を抱えている? 聞けない言葉を胸の底に押し留めて、信繁の顔にかかる前髪を払ってやろうと、そっと手を信繁の額に寄せれば、其処は酷く熱く、汗ばんでいた。 「…信繁?」 風邪でも引いたのだろうかと、その顔をのぞき込むとその端正な眉は僅かに引き寄せられている。 「…う、」 僅かに唇から漏れた苦悶の声。その言葉で三成は信繁の異変が風邪のせいではないことに気がついた。 ――魘されている。 「信繁、」 三成は遠慮気味にそっと声をかけたが、その音量では信繁を現実の世界に戻す事は適わない。 「…、なければ」 うわ言の様に呟かれる言葉に三成は思わず注意して聞いていた。起こさなければ、そう思う感情とは裏腹に、もっと知りたいと言う感情が湧き起こる。 「次の……までに、」 魘されるその体からやわやわと伸ばされた手は天に伸びる。まるで届かない何かを掴むかのように。 「逃げなければ」 その言葉に三成はいてもたってもいられなくなった。大学でうわ言のように呟いていた言葉と同じ科白は三成に戦慄をもたらすには十分だった。 「信繁!起きろ!!」 些か強い力で揺さぶると、元々眠りが浅かったのか、すぐに信繁の瞳がゆるゆると開かれた。 「みつな、り、さ…?」 「信繁」 暗がりに光る信繁の黒真珠のような瞳の中に映っていた自分の顔は歪んでいた。 何もかもに耐え切れず、ベットに横たわったままの体を三成は抱きしめていた。 卑怯だと思った。 悪夢から解放され現に慣れていない事をいいことに、どさくさに紛れるような真似をして。 ――けれど。 自分のシャツの香りに混じる微かな信繁の香りに惑わされている自分を誤魔化す事など出来はしない。 自分は誤魔化せない。誤魔化すことが出来る存在だからこそ、自覚したときには二度と誤魔化しがきかない。 好きだ。 この存在が、どうしようもなく三成の最も奥深い所を震わせるのだ。 その体を逃さぬよう抱きしめたまま、三成は胸に沸き起こる感情をただ受け止める以外、為す術が無かった。 |
罪業の果て 伸ばした手、受け止めた手、 |