―――静観、其れは傍観者の証 「お時間、よろしいですか?」 静かに響く声。その声に慶次がゆっくりと振り返れば、想像違わず、その人物は青空を背にして静かに立っていた。 どしゃぶりの雨が降ってから数日、どうにもおかしい気温と気候はその調子を取り戻したようだった。 今までの肌寒かった気温が嘘のように、今日は暖かい。動いていれば汗ばむくらいだ。天気は快晴、気温は平年並みで、いっそ汗ばむくらいになるでしょう、とテレビのキャスターは満面の笑顔で伝えていた内容は嘘ではないらしい。 「調子はどうだい?」 「色々ご心配をおかけしました。今はもう大丈夫――…と、言いたい所ですが」 そう言って信繁は僅かに苦笑した。 先週の金曜、―あの曇り空に時折どしゃぶりの雨が降った日だ―、慶次が見たのは呆然と箒を持ったまま立ちすくむ信繁の後ろ姿だった。それから二日経った月曜。気にはかかっていたものの、今の信繁の表情はいくらか落ち着いているように慶次には見えた。 「今まで逃げてきたツケが今、回ってきたのかもしれません」 「ツケ?」 「過去は消すことは出来ません。名を変えたとて、それが私を変える事にはならない」 「…ああ」 慶次の脳裏にふと甦るのは出会って間もない頃の記憶だ。輪廻転生だと告げた幼い慶次に悲しげに微笑んで信繁が紡いだ言葉は俄かに信じがたく、そして酷く悲しい言葉だった。 『この体はあの戦国の世の時のまま、老いることもないのです。私は死せずして今この瞬間を生きています』 『――わたしは、死ねないのです』 「しかし歴史は改竄される。私は記録になっていく記憶を眺めてきました。歴史には真実と嘘が同居しています。そして虚構を律する物が真実だとは限らない」 開け放たれた武道場の扉から5月の風が吹きこむ。1コマ目の講義が行われているせいか、まだ1コマ目という時間だからか、――大学生にとってはその両方だろう、人気は無かった。ただ静かな風はさらさらという新緑を掠める音を運んできているのみだ。 「そうだねぇ…」 歴史は時間が経てば娯楽の道具になる。メディアで歪曲され、娯楽の道具とされ、探求の矛先が向けられる。憂うのも嘆くのも詮無き事だ。しかし生きた歴史の体得者――、ましてや娯楽の対象にされやすい戦国という時代で名を馳せた紅き武将はどう感じているのだろうか。一度死んだ慶次にはその感覚が分かるようで、分からない。 「慶次殿。お相手をお願いしたい」 少し驚いた様に目を見開いた慶次をまっすぐ見つめる信繁の瞳の中は澄んでいた。そこに微塵の揺らぎも無い。それは、信繁の語る言葉が冗談ではないことと、それ以上の重い感情の様なものが漂っていた。 ならば慶次に出来ることは一つしかない。 「…分かった」 静かに頷いた慶次が持っていた薙刀を投げた。重量もあり、とても初心者では使いこなせないようなそれは並みの熟練者でも扱い難いものだ。しかし、信繁はそれを眉一つ動かさずに片手で軽く受け止めた。 「何時以来ぶりだい?」 「身を守るために時代の節目で使ったことはあります。ですが、今の世では必要なくなりました」 静かに慶次が構える。それは薙刀本来の構えではない。矛の構えだ。 構えだけで慶次の意図するところを汲み取った信繁もまた、薙刀を構える。彼の構えもまた、薙刀の構えではない。 ―――槍の構えだ。 「よい薙刀ですね。かなりの腕の方が作られたのでしょう」 「ああ、日本では随一と呼ばれる技師の作品だ」 その言葉に信繁は満足そうに微笑んだ。 「そういう方は少なくなりました。貴重なものですね」 それは芸術の域に達していると言っても差し支えないような“本物”を知っている人間しか分からない領域の話だ。 安価な消費するためだけのものが増えすぎた。それは伝統を継ぐ日本古来の武道の各種の道具もそうだ。素晴らしい芸術の域に達するようなものは減った。芸術性をも兼ね備えた“本物”は博物館でしか見られなくなった。そしてその真贋の区別のつく人間もまた、減った。 「アンタの使っていた槍は?」 「…今も持っています」 「振るってやった事は?」 「手入れは欠かしていませんが、ただでさえあれは目立ちますから。…ですが、」 「ん?」 「今から私は私を取り戻すためのきっかけを手に入れるために、今から槍を振るいます。慶次殿、それを貴方に受けていただきたい」 それは長篠から二人の間に存在する不思議な因縁。 捨てかけた、捨てたと想っていた物を、あの場所から連れ出した慶次は取り戻すように告げた。そして取り戻した。 そしてまた別のものを喪った。 気の遠くなりそうな時を経て、今再び喪ったものを取り戻すために、また長柄を構えたのだ。 「そりゃ光栄だ。けれど前の”慶次”よりは確実に腕は劣ってる。それでもいいのかい?」 「はい」 「なら良かった」 「では」 カチャリ、と静かに互いの構えが空気さえ緊張させる。 風が、止んだ。 「真田幸村、―――いざ、参る」 澄んだ、澄み切った声。真の名を名乗ることで、偽りから解放された真田幸村の瞳にはただ凪のような静かな黒真珠の瞳が浮かぶばかりだ。 それは数々の戦場で名を轟かせた智将にして猛将の姿。 幸村は名乗ると同時に地面を蹴っていた。昨日までの虚ろな条件反射ではない。明確な意志を持った一踏みだ。 武器の手の馴染みは確実に慶次の方が分がある。幸村がこの武器を持つのは初めてで、なおかつ、薙刀を槍として扱うのだ。幸村に有利な状況は何一つない。本気で行く。手加減はしない。それは相手への非礼にしかならない。 幸村は薙刀を手に受けた瞬間にその重さを測っていた。良い武器であればあるほど、体への馴染みも早い。それが良しも悪くも戦いを知らぬ現代人に無い、数多の修羅場をくぐって来た幸村との違いだ。 その条件をクリアしている技師の魂の入った薙刀は幸村の愛用の形態ではないものの、長柄という共通点だけで十分すぎるほどだった。 「はっ!」 小さく息を吐いて、素早く一撃を繰り出せば、慶次が重く受け止める。瞬時に間合いを取ろうとする幸村を逃さないとばかりに、受け身の姿勢から攻撃をくりだす慶次の薙刀は力の分だけ重みがあり、体に受ける衝撃は測り知れないが、スピードは幸村のものよりは若干遅い。体を半分よじるようにして間合いを取れば、慶次の一撃は床に音を響かせて落ちる。 「は、」 慶次が不敵に笑う。幸村は表情を変えぬまま、大きく回り込むようにして間合いを詰める。幸村が繰り出す細かい一撃を慶次は弾き、隙を見て繰り出される慶次の重い一撃を幸村は受け流す。 「はっはぁ!楽しいねぇ!!幸村!!」 幸村はその言葉に少しだけ口元を緩めた。 今や、戦う事に、槍を振るうことに、意味を成さなくなった時代。1人殺そうが、100人殺そうが、ただの人殺しになる時代。信念や義では何もかもがどうにもならない時代。それは正しいのかもしれない。それが人が過去の歴史から学んだ今と言う時代。 今やそういう時代なのだ。 ここに幸村が生きる理由はないのかもしれない。けれど幸村は生かされている、生きている。 けれど真田幸村は、真田幸村でしかない。上田という過去の居城の地名を名字として名乗っても、信繁という生まれた時に授けられた名を掲げていても。 ――誰も幸村から幸村を奪えない。 幸村の流れるような連撃に一瞬だけ慶次がバランスを僅かに崩した。 その瞬間を幸村は見逃さなかった。瞬時に体制を低くし、薙刀ではなく足を繰り出す。幸村の足は慶次の足を捉え、慶次は仰向けに体制を崩した。瞬時に身を起こそうとするその行為を阻止するかのように、幸村は空気さえ斬って、薙刀の切っ先を慶次の喉元に突きつけた。 ――静寂。 まるで手合わせが終わるときを待っていたかのように、再び流れ出した風の声に紛れて、響くのは二人の呼吸だけだ。 薙刀の切っ先をつきつけられ、転んだまま慶次は満足そうに笑った。 「やっぱり強いねぇ、幸村。アンタはこうでなくっちゃ」 「慶次殿…」 幸村もまた静かに笑った。呼吸は少しあがっているもののそれは、慶次ほどではない。 幸村は突きつけていた薙刀の先を静かに引いて、転んだままの慶次に手を伸ばした。 「ありがとうございました」 「いや、俺は何もしてない。きちんと自力で這いあがったのは幸村自身だ」 それにどう足掻いても、脳は覚えていても、実際の命のやり取りを覚えていない体では、慶次が幸村に勝つなどそもそもが不可能なのだ。そんな時代を生き残った幸村の体にはどれだけの戦乱の記憶が染み付いているのだろうか。幸村の手を取って、体を起こした慶次は、そんな考えを頭の隅に追いやり、満足そうな表情を浮かべた。実際、満たされた。彼ほどの力を持っている人間と合間見えるのは奇跡に近い事だからだ。現代人には到達できない、そんな場所に幸村は立っている。 2人は静かに向き合い、幸村は持っていた薙刀を慶次に返した。 「いいえ、やはり私は沢山の人に支えられています」 あの雨の日、信繁、否、幸村は泣いた。 再び悪夢にうなされたあの夕刻、幸村を過去の長篠から呼び戻したのは他ならぬ三成の声だった。やわやわと開いた焦点の合わない世界に広がっていたのは見慣れぬ天井と己の手。 しかし、そんなぼやけた世界でも三成の存在だけは明確に幸村の目に映った。 『みつな、り、さ…?』 不意に感じたのは包み込む体温。暫くして後に抱きしめられている格好だったと幸村は気がついたのだが、夢の中の長篠の余韻を引きずっている脳では、すぐに理解する事は出来なかった。 ただ、その時に幸村が分かったことは一つしかなかった。 (あたたかい) 久しく感じなかったのは人の生の証で、幸村の囚われた記憶の中に存在していないものだった。 (生きて、…いる) 耳に馴染む声も、触れ合った部分から感じる香りも、確かに三成だった。遠くに離れていったと思っていたそれが、その時確かに幸村の一番近い所に、在った。 (嗚呼、そうか、) 過去と今の乖離した状態がゆっくりと重なる。 (そうか、今、生きて――、) 天に伸ばしていた手をゆっくりと三成の背中に回す。無意識だった。 あたたかかった。 あの時の感情を幸村はきっと忘れないだろう。 六条で永遠に失われたはずのぬくもりは確かに在ったのだ。その魂の本質は今も何も変わらない。変わってはいなかった。 歴史は改竄される。歴史は記録されることで歴史になる。真実全てが記録されるわけではない。 若い3人の武将が誓った義は、記録されない限り存在しない。記録されなかった。だから存在しなかった事にされてしまう。そうして存在は抹殺される。そうして歴史は作られる。 真実は幸村の記憶にしか存在していない。それが幸村にとっての歴史であり、記録だった。 幸村は世界から弾きだされた。記憶が歴史となっていく怒濤の時間の流れで、逆らえないものを確かに感じた幸村は無力を残酷さを痛感せずにはいられなかった。 けれどぬくもりが、ある。 変わらぬ声が、変わらぬ表情が、変わらぬ本質が、同質で同一の魂が、全身で幸村を抱きしめていた。 雨の音が遠い。その代わりに、聞こえるのは心の臓の音。生の証。 (…生きている、) それは、幸村が傍観者で無くなった瞬間、だった その変わらぬ背中に手を回して、幸村は一筋だけ、涙を流した。 「記憶を取り戻して欲しいと願うかい?俺のように」 唐突とも言えるその問いかけに幸村はゆっくりと首を振った。 「無理に呼び起こす事は自然の摂理に逆らいます。そのような記憶は無くていい」 「何故俺に記憶があるのかは天のみぞ知るってやつだろうが、…確かに全員が全員に記憶があれば輪廻の意味が無い」 「ええ、きっと。それに、」 幸村は一旦、言葉を区切って慶次を仰ぎ見た。 「慶次殿もそれを望まれては居ないでしょう?」 幸村は誰が、とは言わなかった。けれど慶次にはそれだけで十分伝わった。 「そうだねぇ。思い出して欲しいとは思わないねぇ」 慶次の脳裏に浮かぶのは今生で再び合間視えることの出来た、精悍な顔立ちの青年。 彼に付き従っていた慶次は覚えている。関ヶ原の後の、大坂の後の苦悩を知っている。悩み、砂を噛む様な思いをして、立っていた後姿を。 彼にとって、死は解放の一面を担っていたはずだ。 今更、あの記憶を呼び覚ましたとて何になるというのか。全ては過ぎた時間だ。時代も統治体制も自由の意味も変わったこの時代でも、それは何の役に立たない。真面目なあの男には苦悩しかもたらさないだろう。 「これ以上は何も望みません。今のこの恵まれた時を生きているだけで、私はとても欲深いのです」 「幸村は欲深くなんてないさ」 慶次が小さく笑うのを確認して、幸村は扉の方へゆっくりと歩みを進めた。 「慶次殿、ありがとうございました。私は2コマ目の講義がありますので」 静かに笑って幸村は静かにその場を後にした。 * 月曜日の1コマ目。普通の大学生ならば誰もが最も倦厭する時間。ましてや3回生にもなれば、そもそも1コマ目の講義を履修しない学生が多くいる。 しかし三成はその“一般的な学生”に属さない男だった。月曜の1コマ目に講義を取った三成は、真面目に講義に出ていた。興味がある講義だから、という理由がある三成にとって、講義がされている時間はさして問題ではない。むしろ、3コマ目であろうと1コマ目であろうと、つまらない講義を90分も聞かされる方が苦痛であり、そちらの方が問題なのだ。 「三成!」 「……ああ、兼続か」 法学部棟を出たところで聞きなれた声に呼ばれ、振り返ってその相手を確認した三成は片眉だけを小さく動かした。 三成の目の前に立っている兼続も月曜の1コマ目に講義を取った猛者だ。息が少し上がっている所を見ると、講義が終わって直ぐに三成の所に来たのだろうと容易に推測された。 「三成…お前、よくも金・土・日と俺のメールを無視してくれたな」 「だから後で説明するとメールしただろう」 「今日の朝な。つい2時間前の事だろう」 兼続は小さく周囲を見渡す。信繁が今日は1コマ目ではなく、2コマ目からの講義を取っていると言う事はもちろん知っていて、その姿があろうはずもないと理解してはいたが、それでも探してしまうのは無意識に近い行動だった。 「…で、信繁はどうだ?」 言葉少なで語られる事は先週の金曜の事だ。 法学部棟の前で佇む2人の傍を、他の学生達が通り過ぎていく。こんな場所で立ち話も何だから、と2人はどちらからともなく歩き出す。 「土日は一緒に過ごした」 「三成…!お前、狼になったのか」 「…殴り倒すぞ」 「冗談だ。…大丈夫そうか?」 「ああ、問題ないだろう」 多くを語らずとも察する、それが兼続という男だ。ましてや余計な詮索もしない。それが三成には有り難かったし、隠し事をしなくてもいい貴重な友人とも呼べる存在になりえるのだ。 金曜、落ち着いたとは言え、帰す気になれずに、なんだかんだと理由を付けて世界から隠れるようにぼんやりと三成の部屋で時間をすごした。もちろん三成にはレポートもあったし、信繁も本を読んだりという時間はあった。 けれど三成と信繁は常に同じ部屋にいた。 奇妙なデジャブは何を示すのか、三成には分からない。けれど、こんな時間をずっと前から望んでいたような気がした。 誰にも邪魔をされず、時代に邪魔をされず、ただ静かな時間を、 おかしな話だ。三成は静かにそう思った。時代に邪魔、とはどういう了見だ。自分の感情とは言え、首を傾げ、そして少しだけ呆れた。命の保証をされていない時代に生きているわけでもない。時代錯誤もいいところだ。 それでもその2日間は三成とって大きな前進だった。 まだ弱い雰囲気を静かにまとう信繁の傍にいられるだけで満足だった。そして信繁は今まで語らなかった自分の事をぽつりぽつりと語った。 親も兄弟も、もうこの世にはいないという事。 出身は長野の方であるという事。 各地を点々とした暮らしをしてきたと言う事。 縁あって大阪に詳しく、京都に過去に世話になった知り合いの墓があるという事。 何も知らなかった事実を信繁の口から直接聞かされたということは、三成にとってそれだけで十分価値があった。 「そうか。なら良かった」 三成の多くは無い言葉だけで、信繁が落ち着いたことを悟った兼続は得心いったように少しだけ口元を緩めた。本来、律儀な男はこの休日も信繁の事を気にかけていたのだろう。三成は連絡をしなかった事をほんの少しだけ申し訳なく思ったが、それでもこの男は“気にするな”と笑い飛ばすのだ。 だから三成はその優しさにほんの少しだけ甘える。 「今日は信繁は2コマからだったな」 「ああ」 「よし、次は空きだから…信繁の受ける講義に出るぞ!」 「おい、兼続。お前…」 「三成も空きだろう?大教室の講義だ。2人紛れ込んでいても分かるまい」 「……」 楽しそうな表情をする兼続にため息を一つつくものの、それでも三成は異論を唱えなかった。 押しかける二人を見て、信繁は少しだけ驚き、そして少し笑うのだろう。 それがどうにも自分達らしい、と思えて、三成は先を歩く兼続の後に続いた。 |
罪業の果て 踏み出した一歩、揮った槍、 |