―――提言、其れは忘れざる記憶への扉



その日、幸村の顔なじみの占い師ー今や拠点を移した京都でも雑誌に取り上げられるほど有名になりつつある占い師ーがやってきたのは、ある梅雨に入ったばかりの夕刻だった。
幸村がバイトを終えて帰ってくる頃でもまだそれなりに明るく、空はどんよりと曇っている。気温も湿度も高く、不快指数もまた高い。しかし肩を出した不思議な着物を纏った美しい占い師は、梅雨であるという事を思い起こさせないほど澄んだ佇まいをしていた。
『京の町案内、してもらえますやろか』
にっこり、と笑う美しすぎる笑みにはやはり何人にも否と答えることを許さない得もいわれぬ強制力が含まれていた。
そういえばそんな約束をしていた、と思い起こした幸村はとりあえず“…はい”と答えるほか、他に方法を知らなかった。


***


「…と言うことで、三成さん。もしよろしければ、」
「行く。必ず行く」
数ヶ月前に会った美しい女の姿が脳裏に思い起こされて、三成は信繁が言い終わる前に即答していた。

昼のピークを過ぎた学食は人の数も落ち着き、腰を落ち着けて話すには絶好の場所だ。ましてや暑いこの時期になれば尚更だ。偶然にもそれぞれの講義が休講になっていた三成と幸村は学食でコーヒーを前に会話を楽しんでいた。
そこで出てきたのが例の占い師だ。
もちろん、三成がその出雲と名乗る美しすぎる女に興味があるわけではない。
思い起こされるのはまだ寒い頃。まだ桜も咲いていなかったはずだ。その女が信繁と親しげだった姿が思い起こされる。
そして何らかの因果もあるのだろうという推測、その事実が三成に否応なく行動させるのだ。
確かに、初めて会ったときに比べると三成は信繁の事を理解している。そういう機会に恵まれ、二人の距離は劇的に縮まった…少なくとも三成はそう思っている。
だが。
出雲と名乗るあの女の瞳。言いしれぬほどの何か、を見透かしているような瞳の色。そして常に表情を崩さず、飄々としているとも言えそうな、あの凡人離れした様子。

それら全てが三成の何かをじわり、と焦らせていた。


***


土曜日の午後。
すがすがしさを通り越してじりじりと焼かれる日の強さに三成は完全に閉口していた。暑い。
京都と言う盆地も相まって、まだ6月だというのにこれからの夏を思うとげんなりさせる程に、暑い。
「暑いわぁ。この暑さは何時来ても変わりませんなぁ」
「ああ、そうですね。晴れてよかったです」
そう答える信繁の額にもうっすらと汗が滲んでいるが、表情一つ崩さずににこやかにしている姿に三成は尊敬の念さえ感じる。今、三成が他人に話しかれられたら睨みそうだ。…当然、信繁は除外されるが。
「私、晴れ女やさかい」
そうか、原因はお前か。と三成は完全に逆恨みのような言葉を内心で呟いて、快晴の空を見上げる。
梅雨の中休み。完全に晴れだ。いっそ忌々しいほどに。

「次は何処にしますかー?」
そう二人に問いかける出雲の手には京都史跡巡りマップと銘打ったものが握られている。
てっきり京都の屋内観光、ショッピングだとかそういうクーラーの効いていそうな所を巡ると思っていた三成の最初の予想は完全に打ち砕かれた。
提案されたのはよりにもよって史跡巡り。竜安寺に南大門、銀閣寺に哲学の道等々――炎天下の中を歩くときた。当然ながらに、クーラーはない。暑い。
「何処がええですやろ?」
午後2時、1日の中で最も気温が高い時間にさしかかろうとしているというのに、まだ行くつもり満々らしい。
三成が見るに流石の信繁もこの事態は想定していなかったようで、史跡巡りマップが出てきたときには、元々大きい目を丸くしていた。

「次はここにしましょか?近いですし」
暑さを感じていないかのような涼やかな声にやっぱりまだ行くのか、もう諦めてくれ、と三成は辟易したが当然口には出さない。むしろ出雲が元々持っている天性の才能――人にNOと言わせない才能――が三成から反対意見を奪っていた。
「どちらですか?」
信繁がそのマップをのぞき込む。何とはなしに見遣った三成の視線が、動きを一瞬止めている信繁の姿を捉えた。
「信繁?」
小さく声をかけて三成もマップをのぞき込んだ。そんな三成の視線の先を示すように、信繁が呟く言葉が三成の鼓膜を揺らせた。
「大徳寺…」
三成からは地図を見る信繁の表情からは明確な名前のついた感情を読みとることは出来ない。
ただ静かにその場所を見る信繁に三成は無意識に問いかけていた。
「行くか?」
「え、」
「俺は行ったことがないんだ」
そう三成が言えば、信繁の表情が何ともいえないものに変わった。その理由を三成は知らない。
「そうですか。京都におらはるんやからこういうのは全部巡ってはるんかと思てました」
「少なくとも興味がなければ行かないな」
出雲の言葉に三成が苦笑混じりに答える。
信繁はただ二人を守るように、又は会話の行方を知ろうとしているかのように、ただ静かに佇んでいた。


***


――大徳寺という所がここまで広いとは思ってもみなかった。
それが三成の率直な感想だ。
国宝級や文化財級の史跡が多い事も知っていたし、広いことも知識として知ってはいたが、まさか此処までとは思わなかった。
そして墓が多い。
しかも戦国武将が目立つ。建立の経緯や歴史を考えれば、妥当と言えば妥当であるし、ただ三成が生まれ持った名のせいで意識的にそう思っているだけなのかもしれないが、それでも相対的に多い方ではないのだろうか、というのが三成の印象だ。
それに先日の一件が、妙に三成の心に留まっている。だからこれほどに気にかかるのかもしれない。

『何故あなたは歴史に沈んだ者が否定されるべきと考えるのですが?』
『歴史は記録でしか規定されない。』
『んだそれぞれの信念があったとしても記録されなければ、無きに等しい』
『それは愚弄です』

少し前、図書館で信繁が告げていた言葉を三成は否定しようとは少しも思っていない。それは確かに真理であろうし、信繁が貫く信念ならば尊重したいとも思う。
ただそれを告げていた信繁の目は三成が今まで見てきたどれとも違っていたのだ。

――そう、黒曜石の瞳色の中に見えたのは紅、だ。

威圧感という言葉で片づけるには粗暴すぎる。その瞳には気品が備わっていた。
怒りではやはりない。凪のような佇まいだった。
何かが違うのに、何が違うのかが、言葉にできない。
ただ何処までも近づいても、どれだけ近づこうとしても、己ではまだ何かか足りないのではないかと思わせるほどの孤高の如き気高さがそこにあった。
信繁に紅を灯らせるきっかけが歴史に、もしかしたら戦国という中にあったとしたら。
関ヶ原の戦い、自分と同じ名を持つ武将、石田三成、西軍、敗北。
―――それらが信繁の琴線に触れたのだとしたら?
何もかもが根拠のない三成の思いだ。ましてや信繁と三成は同じ年齢だ。育った時代はどう反論材料を探そうとしても同じであり、戦国など教科書や本の中での世界でしか知らない。いくら信繁が史学部であったとしても、やはり経験していないはずの事なのだ。ただただ、知的探求に留まる世界。
それが歴史のはずだ。

けれど、それだけで信繁にあれほど鮮やかな紅を灯らせることはできまい。
三成はそうとも思っている。

そんな三成の思いをよそに、信繁は少し離れた場所で観光客から頼まれて写真を撮っている。歴史に熱心な観光客のようで、まだまだ信繁が解放されるには時間がかかりそうだった。
「三成はん、信繁はんにはちょっと気の毒ですけど、ここらで休憩でもしませんか」
そうやって三成を呼ぶ出雲はちゃっかりと休憩所で腰を掛け、日陰の下で靡く風を体に受けている。何処までも抜け目の無い性格をしているようだと思ったが、ここで突っ立っていても後で逆に信繁に気を揉ませてしまうだろうと分かってもいたので、三成は出雲の提案に従った。
確かに木陰になっているおかげで随分と涼しい。風が静かに三成の髪を揺らし、木々の葉が擦れ合う音が静かに届く。
2人は特に言葉を交わすことなく、ぼんやりと信繁を見ていたが、不意に出雲が口を開いた。
「不思議な方、やわぁ。あ、もちろんいい男やけども」
「…信繁と馴染みは深いのか」
「ええ、まぁそれなり、に」
「…」
その言葉に三成は押し黙った。
「知りたい、と思われますやろか?」
「俺は、」
ここで出雲に信繁の事を聞くのは卑怯だとも思う。大体他人から聞く情報は大抵全て真実とは限らない。それに時間をかけて知り合う事で得られるものが何より価値があるかも三成は知っている。
「真面目なお人やわぁ」
「俺が?」
「けれども信繁はんは常人とも何処か違う。そう思っているからこそ焦らはるんやろ?」
ぎくり、とした。
読まれている。それが占いを生業にしているからなのか三成には分からない。そもそも占いを三成は信じていない。だが、今この瞬間、出雲という人間は三成の焦燥の正体をやんわりと掴んでいた。

「…俺は、隣に立つだけの資格、否、資格と言うには違うな。だが、信繁と同じ景色を見るには何かが圧倒的に足りない気がしてならない」

ぽろりと零れるようにして落ちた本音の欠片に、三成はしまったと言う顔をしてすぐさま出雲を見遣った。核心を突かれたからといって些かしゃべりすぎた、そんな念があったからだ。
だが、三成の隣に座っていた出雲が浮かべていたのは、優しい笑みだった。
今まで見てきたどの笑みとも違う。職業柄浮かべる笑みの類でもない。いつも見ている涼やかな笑みでもない。
ただ瞳の奥に小さな、見守るような、そんな笑みだ。
三成が言葉に窮しているのを知ってか知らずか、不意に出雲が視線を違う方に向けた。つられて三成もその方を向く。

「…信繁?」
2人の視線の先の信繁はもうデジカメを持っていなかった。先までの観光客も傍にいなかった。
ただじっとある方向を向いていた。
「あの先に何が、」
「あの方には、かの戦国武将の墓があるんと違いますやろか」
誰の、と問おうとして三成はその先に誰の墓があるのかを直感的に悟った。信繁の視線の先には三弦院があったはずだ。
其処にあるのは、
「いしだ、みつなり。――石田三成、か?」
三成の独り言のような固い声色を纏った言葉に出雲は小さく頷いた。
「同じ名前の人の墓でしたら、ちょっと複雑な心持ちがしますか?」
「いや、どうだろうな」
そもそも名前が同じだけだ。そう名前が。それに騒ぐような精神を三成は持ち合わせていない。
だが、信繁が静かに見つめているという事実が、その事実だけが―――
「墓の名よりも、それを見つめる方のお人に興味がある、ということですやろか」
「……」
「“石田三成”」
「?」
告げられた言葉に、三成は思わず出雲を見た。
「その400年前の同じ名前の存在をお調べになったら、何やみえてくるかもしれません」
何も見えない可能性もあるんやけども、どう付け加えて、出雲が浮かべていた笑みはいつも通りのものだった。





幸村が不意に視線を向けたほうに、大徳寺三弦院、その建物はある。

早く阿国殿と三成さんの所に戻らなければ、待たせている。そうは思いつつも観光客にデジカメを渡したふとした瞬間に、その建物を目にしてしまい、幸村の足は止まった。
昔はよく通っていた。江戸の幕藩体制が定着し、関ヶ原の騒乱が納まった頃だ。その頃合でなければ幸村も動けなかった。
月命日には必ず花を手向けた。
時代が移り変わっても、欠かさなかった。誰もが忘れていく歴史になりつつある出来事を呼び止めるように。けれどそうこう言う内にその場所は非公開になり、手を合わせることも叶わなくなった。
そして記憶は歴史になり、細やかな出来事も思いも黙殺された。

大徳寺。この場所には多くの魂が鎮魂のために祭られている。
味方であった者、敵であった者、死を看取ったものも、死を与えたものも。

そして、“今”このタイミングで此処を訪れるとは思ってもみなかった。
転生という事実が確実になった今、三弦院に魂はない。それでも。あの場所は、確かに石田三成という存在が生きていた事を歴史に証明しているのだ。
本質が同一の魂は、今確かに生者と為ってこの場所に戻ってきた。別人だとか、同一だとか、そういう次元だけで片付けるには幸村の心の中にある想いは大きすぎる。

苦しくないと言えば、嘘だ。
しかし嬉しくないと言ってしまうのも、嘘だ。

「三成殿…」
静かに呼べば、胸の中に何ともいえない感情が広がった。哀しい、懐かしい、慕っている、尊敬している、そんなない交ぜの感情は今も消え去る事は無い。きっとこれからも幸村が呼吸を続ける限り終わりは無いのだ。
しかし確かに言える事は、今幸村は独りではない。
その魂の本質を示し続ける存在が幸村の一番近い場所にある。生きている。触れ合えば温かい。過去と昔を乖離するような自虐的とも言える思考は過ぎ去った。

けれど想いは400年を遡る。
幸村は静かにそっと目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、関ヶ原本戦の前に最期に会った姿。互いに勝利を誓った、あの瞬間だ。
非公開となった今、もう墓前に向かう事は出来ない。建物の屋根が小さく見えるだけだ。それも時代の流れからいけば仕方の無い事なのだろう。
何も墓前に向かう事だけが重要でなく、祈る事が重要なのだ。それならどの場所でも出来る。

――私は、全部、一つ残らず覚えています。

そんな静かな想いを今は立ち入れないその場所に届けるように、幸村はただ祈った。






罪業の果て

過去の邂逅、示される道筋、