それは、まるで夢。



be in a dream



「三成!」
突然かけられた声に、三成は柄にも無く驚いた。
飛ばしていた意識を戻せば、どうやら講義は終わってしまったらしい。学生達が喧騒を振りまきながら次々と講義室を後にしている。
「…?」
三成は一瞬何が起こったのか分からないまま、とりあえずぎこちなく声のするほうを見れば、腐れ縁で大学まで一緒になってしまった友人が不思議そうな顔で三成を見ていた。
「……何だ、兼続か」
「何だとは何だ。早く学食行かないと席がなくなってしまうぞ?」
「ああ、そうだな」
三成は素直に頷いた。兼続の言葉は的を得ている。この大学は生徒の数に見合うほどの学食のテーブルが用意されていないのだ。早く学食に向かわないと、席を求めて右往左往するか、午後の講義ギリギリまで時間をずらせて昼食をとらなければならない。
三成は結局何も書き込まなかったレジュメを鞄に詰め込む。講義など別に聴いていなくとも小難しいテキストを暗記すれば単位など取るに容易い。
「今日はぼーっとしてらしくなかったではないか」
学食へと歩みを進めながら兼続は三成に尋ねた。隙を見せない男故に講義中であってもあれほど意識を飛ばしていた姿を見た事が無い。そう言うと三成は思案気に呟いた。
「いや…どうだろうな」
「は?」
「よく…覚えていない」
驚く兼続の前で三成はそうとしか答える術を持っていなかった。

『かりそめの世界で生きて現実から目を逸らしてしまうんのも、また一興やわぁ』

遠くで女の声が聞こえた。
三成はそれを聞かなかったフリをした。





「幸村…」
声が掠れた。掠れた、というよりそれはもう吐息に近い声だった。
幸村は三成に向かって静かに、いつも通りに。何の変わりも無く。ただ、笑っていた。
血が滲む身体で。ぱたぱたと静かに命の雫を地面に吸い込ませながら。静かに、笑っていた。
「三成殿…ご無事で」
幸村が笑う。三成は蒼白になっていく己の顔を自覚しながら、それでも幸村に笑いかける事が出来なかった。
(幸村、幸村…ゆき むら。)
想いは声にならない。声が出ない。唇は動いているのに、引き攣っている。
本陣は静寂に包まれていた。誰も声を出せない。戦に勝ったというのに。誰も歓喜の声を上げない。

戦には勝った。幸村が総大将を討ち取った。三成の本陣からでも見える、六文銭の御旗が空高く上がったのは先ほどの事。
『流石だ…幸村』
紅い勝ち鬨を見たとき、のうのうと呟いた言葉さえ今は酷く傲慢な物だった様にしか思えない。
本陣に戻ってきた幸村は満身創痍だった。
否。

腹部に誰もが見て分かる、致命傷を負っていた。





「みーつーなーりー」
「…何だ、」
「また意識をすっ飛んだところに持っていっただろう」
「……」
「“日替わり定食・Aセット”が箸を付けられずに悲鳴を上げているぞ」
三成が見れば兼続の昼食は既にすませているようだった。既に茶を飲んで昼食の終わりを暗に示していた。反して己の食事は全く手を付けられていない。
三成は小さなため息をついた。
「何だ、調子でも悪いのか。午後の講義だったら慶次に代返を頼めばいいだろう」
「いや、調子は悪く無い。」
「何だ、春ボケか?」
「……兼続。殴るぞ」
他愛ない会話。他愛ない日常。平和な昼下がり。ただの学生。三成はそんな場所に身をゆだねていた。

『それでいいんどす。忘れておしまいなさいな。楽になりますえ』

やはり声が聞こえた。
…声が。





「幸村!」
言葉を失った三成の代わりに、叫んだのは兼続だった。呆然と立ち尽くす三成の隣を白い姿が駆け抜ける。
それでもやはり、幸村は笑っていた。
「兼続殿…ご無事で何より」
「何を言っている!それどころではないだろう!」
その言葉に不思議そうな顔をした幸村がゆっくりと、己の全身を見回して言った。
「ああ、私は大丈夫です」
「何を言っている!」
兼続の怒鳴り声に近い言葉にゆらりと幸村が笑う。兼続はその姿に息を飲んだ。
「ゆき、…お前」
「私は もののふ ですから」
その穏やか過ぎる笑顔に三成は冷や水を浴びせさせられたように、意識が覚醒し、体の硬直が溶けた。
違うのだ。こんなのは、違う。三成はただ其れだけを思った。
(笑うな、幸村。わらう、な。)
ぐらりと傾く幸村の体。其れと同時に三成は走り出した。
「幸村!!」
やっと叫ぶ事の出来た声は、もはや悲鳴だった。





「何か忘れている」
三成はぼんやりと独り言の様に呟いた。
「何を忘れたっていうんだい?」
独り言はしっかりと聞こえていたらしい。同じ講義を受けている慶次が不思議そうに三成を覗き込んだ。兼続は違う講義をとっているため、此処にはいない。
「…何か、分からないが…何かだ」
「難しい言葉を使うねぇ」
慶次は配られるレジュメを後ろの席に回しながら、少し楽しそうに言った。
「気になるのかい?」
「ああ…気になって仕方が無い」
「なら思い出したほうが良い」
慶次はレジュメをひらひらと振って三成に言った。三成は黙り込んだ。

『戻りたいんどすえ?…ええんやろか、そこが恐ろしい世界やったとしても?』

声はもう直ぐ傍で聞こえていた。





傾いた体を三成は抱きとめた。力ない身体はぐったりと三成の腕にその体重を預ける。
「幸村!」
「早く処置を!」
隣で左近が叫んでいたが、三成の耳にはそれはもう遠い出来事でしかなかった。
死ぬな。逝くな。置いていくな。戻って来い。
言葉だけがぐるぐると回る。恐ろしかった。幸村からゆるやかに流れ落ちるその暖かい赤が幸村の命の欠片の様に思えて仕方が無かった。

―――このまま失うのか?
まだ何も伝えていない。
まだ何一つ、言いたい事も、伝えたい事も、成し遂げていない。

幸村のいない世界など、要らない。

そう思った瞬間、ざわめく本陣の向こう側。艶やかな衣装を纏った、あの踊子の姿が見えた気がした。





「ここにいてはいけない」
三成は呟いた。
「いきなりどうしましたん?」
響いてきた声に三成は振り返る。もう講義は終わっていた。
三成が振り返った先には女が立っていた。女は口元に小さな笑みを浮かべていた。
「お?お邪魔かい?」
女が緩やかに笑うと、慶次は“そうかい、そうかい”とやけに納得した様子で講義室を出て行った。“そういうわけじゃない”といつもの己だったら反論しただろうが、今は慶次の言葉も態度も如何でもよかった。
この女は知っている。全てを。
「どうしてここにいてはいけない、となぜ思いはったんどす?」
女はまた三成に問いかけた。
「…何か、大切なものを置いてきたからだ」
三成は勝手に出てきた言葉に動揺する。何故そう思うのか分からない。どうして。
「でも、もしかしたら、もうその大事なものは消えてすっかり無くなっているかもしれませんのに、それでも戻りたい、とそう思うんどすか?」
女は窓遠くを見た。晴れていた。
「この世は所詮幻。何処でどう生きようとも同じと思わんのやろか。それでも戻る、と仰るどすか?」
「……ああ」
三成はしっかりと女を見て返事をした。
「強い瞳は何よりも美しいどすなぁ」
女はにっこりと美しく、笑った。





「殿!殿!!」
その声に三成は意識を戻した。のろりと意識を声の方に向ければ其処には左近がいた。
「殿までおかしくなったかと思ったじゃないですか!驚かせないで下さいよ」
左近の声を無意識に無視をして目の前に横たわるその姿を視界に収めて、三成は脱力したように大きく息を吐いた。
「何ですか、殿。眼を開けながら寝てたんですか。目を開けたまま何も返事も動きもしなかったから死んだかと思いましたよ。」
「…そうか」
今度は左近の言葉に曖昧な返事をして、三成は幸村を見た。その白い顔色にわずかに記憶が甦ってくる。

そうだ、あの後。
慌しく幸村の処置をして、薬師を呼んだ。
しかし頼みの綱のその薬師も“あとは天命が決める事です”と告げられた事を思い出す。
幸村の状態が少し落ち着いたのを待ってから佐和山に戻って一週間がたつ。
幸村は目を覚まさない。

どんどん沈んでいく思考を三成は止める事が出来ないまま、睡眠も食事も取れなくなり。それでも幸村は目を覚ます事は無く。
何か、夢のようなものを見ていた気がする。
しかしもう何だったのか思い出せない。

「幸村」
小さく問いかける。
『幸村のいない世界など、要らない。』
あの時、本陣で。確かそう思ったはずだ。
だが、まだ幸村は此処にいる。まだ放り出すわけにはいかない。絶対に。まだ幸村は此処にいる。
幸村はまだ生きているのだ。
「幸村」
白い顔に変化は無く、当然問いかけに対する返事は無い。

「…殿、今日はいい加減にきちんと食事とってもらいますからね。後、睡眠も」
「必要ない」
「殿」
左近の表情が微妙なものに変わり、そして苦虫を噛んだ様な物になった。
「殿!今アンタに倒れられると困るんですよ!自分の立場を分かってるんですか!」
「分かっている!」
怒鳴った声は静かな部屋に怒号となって沈む。
冷静な頭はこのままではいけないと分かっているが、感情が全くついてこない。ついてこなくていい。三成はそこまで思い始めていた。
幸村が居なければ世界は動き始めない。三成の世界は、動かない。

「…分かりました。」
これ以上何を言っても無駄だと思った左近が、踵を返しかけた所で目を見開いた。
「……殿!」
左近が三成の名を呼ぶ。その視線の先には幸村。
慌てて三成も視線を戻すと、その目を見開いた。
「幸村…」
三成が呆然と呟く。幸村の睫が少し震えていたからだ。
三成の声のおかげか、もう一度。幸村の睫が少し、しかしはっきりと震えて、その瞳がゆっくりと開かれた。
「ゆき、むら…」
呟いた三成の声に幸村は反応した。
「みつなり、どの?」
安堵で様々な感情がごちゃまぜになり、三成は大きく息を吐く事しか出来なかった。
遠くで左近が薬師を呼びに言ったのか、どたばたと荒い足音が聞こえる。
「三成殿…?」
三成は何も言えなかった。その代わりに三成は幸村の肩にそっと額をあてた。じんんわりと伝わる体温は幸村が生きているという証だ。

(―――戻ってきてよかった)
それは幸村にいうべき言葉ではあったが、何故か自分にもあてはまるような気がした。


『よかったどすなぁ』
遠くであの女の声が聞こえた気がした。