もしかしたら、なんて馬鹿げた事を想うほどに、 「あー、寒い」 堪えきれずに思わず呟いた言葉と共に吐き出された息もまた白く、左近はまた背中をぶるりと震わせた。 寒い。嗚呼、寒い。 ため息と共に吐き出した息もまた白く、左近は少し涙ぐみそうになった。左近の重い足取りを受け止める城下町は今日も賑わっている。いいことだ。商業の活気は国力に繋がる。経済の発展は民に富をもたらす。良いことだ。 しかし、自分は軍師ではなかったか。記憶違いではない。たぶん自分は軍師で雇い入れられたはずだ。 「何なんですかね。あの殿は茶菓子を買ってこい、なんて」 横暴だ。記憶違いをしているとしたら、それは自分の主だ。 いきなり茶菓子、ときた。しかも一言。 そんな佐和山の主に、茶菓子がなくとも仕事くらいしてくださいよ、と左近が言えば、茶菓子を買いに出る時間がないほど仕事を持ってくるのは何処のどいつだ?と凄絶な怒気をはらんだ笑みで言われた日には左近でさえ口答えなどできようはずもない。全くもって横暴だ。 城下に買いに出る事が嫌なのではない。こんな寒い日に出かけるのが面倒なのだ。要は。 左近は首に巻いた布をもう一度口元まで引き寄せて、さっさと買い出しを済ませてしまおうと算段をつけた。 こんな寒い日にはさっさと戻るに限る。火鉢にあたってぬくぬくと過ごそう。残りの仕事は全部、自分の分も含めて、この寒空の下に放り出した張本人に全部押し付けてやる。 ――そんな恨み節をつらつらと考えていたせいか、武将でもある左近は近寄ってくる気配にも、惜しみなく注がれる視線にも気がつかなかった。 「左近殿?」 後ろからかけられた声に左近がそろそろと振り向くと、見知った顔が其処にあった。 「真田…?」 「お久しぶりです」 柔和な笑顔を浮かべながら左近に近寄ってくるのは、上田に居城を構える若い武将。 上田の地と佐和山はどう転んでも近いとは言い難い。そんな彼が何故この佐和山の地にいるのか、左近は別段疑問に思わなかった。 そもそも今日は彼がこの地を訪れる事になっているのは左近も承知していたからだ。 だからこそ左近の主にして、人使いの荒い上司、その名は――石田三成――は鬼の形相で仕事を片付けて、この真田幸村との時間を捻出するべく必死になっているのだ。 「城に行かなかったんですか?何でまた城下に?」 殿が待ちわびて怒りながら死んでしまいます。…とは口が裂けても言えずに、左近は二人の脇を通り過ぎていく町人を見遣りながら素朴な疑問を口にする。 「ええ、城下を少し見ようかと…」 活気に溢れる周囲を優しい眼差しで見遣る横顔は、上田の地を治める天下に名高い智将の嫡子に相応しい顔をしている。もしかしたら、戦のない穏やかな一瞬の時を慈しんでいるのかもしれない。 いつもの戦の装束に身を包んでいない姿は、武将としての気配を完全に消し去っていた。良家の育ちにふさわしい佇まいは、武家特有の無骨さも微塵も感じさせない。何も知らない者が見れば、戦場でその名を轟かす武将だと聞いても信じないかもしれない。 隠し切れない精悍さはあるものの、今の幸村の姿は六文銭とは無縁の世界の青年に左近には見えた。 「左近殿は何故城下に?」 ぼんやりと幸村を見つめていた左近は、その美しい黒よりも深い黒の瞳に自分の顔が映っているのを見て、少し驚いた。図らずも見詰め合っていたようで、意識した途端に急に気恥ずかしくなって、少し視線を逸らせる。 「あー…色々買い物を、ですね」 まさか恐ろしい三成に言いつけられた、と言ってしまえば、その恐ろしい三成に何を言われるか分かったものではない。左近は曖昧に言葉を濁したが、幸村は左近の内心を知らずに人の良い笑みを浮かべた。 「買い物ですか?お手伝いしましょう」 「いっ…!いえいえ、先に城へ行ってください」 じゃないと殿が何をしでかすか、とはやはり言えずに左近は幸村を先に城に向かうように促すが、左近の事情など何も知らない純粋な幸村の方が下心が無い分、分が良かった。 「いいんです。いつも左近殿にはお世話になってますから」 柔らかく言われて左近は思わず幸村をじっと見つめた。目の前には左近の返事を待っている幸村の顔がある。 「あー…」 一瞬だけ言いよどんだ左近はもう一度首に巻いていた布で口元を意図的に隠すように引き上げた。思わず笑んでしまいそうになった自分を隠すためだ。 「じゃあ、」 コホン、と一つ咳払いをして左近は口を開いた。 「お願いしましょうかね」 ――ただの手伝いだから? そんなの言い訳だと自分が一番知ってる。 *** 「いやー助かりました」 「いえ、これくらいで良ければいつでもお手伝いします」 一通りの買い物を終えた二人は甘味所で休憩がてら団子と茶を頼んでいた。ここは左近の贔屓の甘味所で、その味に幸村も感嘆の言葉を漏らし、その姿は酷く左近を満足させた。 冷えた体に温かい茶が沁みる。左近は茶をゆっくり啜りながら、しみじみ呟いた。 「…大体人使いが荒いんですよ、あの殿は」 呟いた後に団子をかじれば、くすりと柔らかく空気を震わせる音が聞こえる。左近が幸村の方をみれば、彼は笑っていた。 「…何かおかしな事でも言いました?」 「いえ、仲が良いんだな、と思いまして」 「うげっ!やめてくださいよ!!」 何処をどうみたらそうなるんですか、と本気で身を引いた左近に幸村は少しだけ笑う。 「左近殿は三成殿と志を同じくする方ですから」 「ええ、まぁ…。あの人は幸せ者ですかね。部下に使いにやらせるんですから」 ――本当にあの人は幸せだ。 左近はしみじみとそう思う。 真田幸村の一番近くにいられるのだから。 「使いを頼まれると言う事は、信頼されているということなのではないのですか?」 「まさか。憂さ晴らしですよ」 手をひらひらと振って心底嫌そうな表情を浮かべた左近の言葉に、またおかしそうに幸村は笑う。ただ静かに少し微笑むかのように。 そんな幸村を見て、左近は思う。 ――真田幸村とはこんな笑い方をする青年だっただろうか、と。 左近が武田にいた頃、確かに幸村も武田軍にいた。だが、それだけだ。何度か見かけた事はあったが、当時から軍師として雇われていた左近と、まだまだ成長途中の幸村との接点は少なかった。話した記憶も殆どないと言って良い。 ましてや武田の滅亡前に左近は軍を離れた。武田の栄枯盛衰を全て見てきた幸村とは何かが違う。その後の武田の進んだ道と、他の多くの武将の行く末を思えば、左近と幸村は道を一度別ったとも言って良いのだろう。 ただ左近が陣中で見かけていた幸村はただ真っ直ぐに年相応の笑顔を浮かべていたように左近は記憶している。 小田原攻めで再会してからは、そんな笑顔を一度も見てない。 「そういえば、」 「何ですか?」 幸村が湯飲みを両手で抱えながらふと零した言葉に左近は敏感に反応する。 「こうして二人で話す機会は今までありませんでしたね」 「ああ、確かにそうですね」 実を言えば。一度、話せる機会は、あった。 幸村はどうか知らないが、左近は覚えている。 確か何かの勝ち戦での宴の席の事だった。信玄存命のあの頃の武田は負け知らずで、勝つ度に宴を開いていた。軍を鼓舞するための信玄の計らいだったのだと今なら良く分かるが、武田の武将は酒豪が多く、宴のたびに凄まじい騒ぎになったものだ。酒が嫌いではない左近も辟易しそうになった事が何度かあった。 そんなある日の事だ。 大きな戦で勝った後の宴はそれはもう凄まじいものだった。夜中を徹しての宴は、歴戦の猛者も酔いつぶれて、大広間の至る所で眠り込んでいた。 酔いつぶれるほど酒を飲む左近ではない。結局は宴がお開きになった後には飲んだくれどもの介抱の役割が回ってきたというわけだ。 そんな中、動ける少ない手勢で床に散らかされた銚子やらを片付けている時の事だった。 同じようにそれほど酒を飲んでいない幸村と目が会った。 幸村は酔いつぶれた武将を肩に担いで、部屋に連れていこうとしていた所だったように左近は記憶している。 『……』 『……』 目が合ってしまった事でどちらからともなく動きを止めてしまい、奇妙な沈黙が落ちた。 互いが少し巡考した後、どちらからともなくこの状況に苦笑しながら会釈をした。 それで、終わりだった。 そして左近が幸村と二人っきりで話せる機会は、後にも先にもこの時だけだった。 「話す機会と言えば。…左近殿が覚えておられるかどうか分かりませんが、武田にいた頃。宴の後始末をしていたときに左近殿と目があったことを覚えています」 「――、」 「左近殿?」 「ああ、いや、今同じ事を思い出していたから驚いて、」 「左近殿も覚えていらっしゃいましたか」 幸村が少し嬉しそうに声を弾ませた。 ――あの時、左近が話しかけていたら、何かが変わっていたのだろうか。 何か別の展開があったのだろうか。今とは違う二人の繋がりが生まれていたのだろうか。何か、別の。 「あの頃は賑やかでしたね」 今は亡き軍と、その頃に思いを馳せる幸村の瞳が細められる。苦悩の前の頃を邂逅して、何か特別な思いを馳せているのかもしれない。その姿は、少し物悲しい。 静かに佇むように笑う姿。この世の終わりのような光景を見て何かを喪った若い紅き武将の少し揺れる姿。 そんな姿を左近が知る事も無かったのだろうか。あの時声を掛けていたとしたら。もし、もしも幸村が長篠を経験せず、に、いれば。 ――らしくない。 考えても仕方ないことを思って左近は小さく首を振った。 そんな左近に気がつかない幸村は視線を遠くにやりながら、湯呑みに口をつけている。藍色の美しい色に染め上げられた上物の着物の上に羽織はしているものの、首元が酷く寒そうに左近の目に映った。首だけではない。何となく全身が寒そうに見えるのだ。薄着ではないはずだ。ただ、不思議とそう見える。 「寒くないんですか?」 「え?」 「寒いでしょう?」 そう言いながら左近が首に巻いていた布を取って幸村に渡そうとすると、幸村は慌てて手を振った。 「え、?いいえ、大丈夫です…!上田に比べれば、寒さなど…」 「あんたはもう少し自分を大切にした方がいい」 「左近殿こそ、だめです。私は戦の時にしかお役に立てませんが、左近殿はそうではありません」 幸村のその言葉に左近は意味が分からず、視線だけで言葉の先を求める。 「左近殿にしろ、三成殿にしろ、いわば組織の頭脳になりえるお方です。私は手足。手足は代えがききますが、頭脳に代えはありません」 「―――」 左近はその言葉に一瞬声を失った。 見てもいないはずの長篠の残影が頭の隅にちらついた。 それが、その幸村の言葉が――、それがあの戦いの前線でたった一人生き残った青年の心から信じている信念だとしたら。たった一人生き残って、誰よりも死に近づいた深淵を見ながら、代価出来る存在だからと、命の深淵を見つめる様は。 ――それは、あまりに残酷ではないのだろうか。 「幸村の替えはない」 何の脈絡もなく響いてきた声に、ぎゃっ、と叫ばなかった自分を左近は褒めてやりたい。現に左近の隣の幸村は湯飲みを持ったまま咳き込んでいる。 二人同時に声の聞こえたほうに振り返れば、其処には予想を寸分も違わず、この地を治める人物が立っていた。 「み、三成殿…?」 「殿。あんた忍びですか」 気配が無かったんですけど、という言葉を視線だけで伝えると、三成は冷たい視線を寄越した。 「左近、五月蝿いぞ。買い物にでたまま何時までも何処かで油を売っている部下の様子を見に来て何が悪い」 「うっ…」 辛辣な言葉に反論を封じられた左近を無視して、三成は幸村に向き合う。 「幸村」 「三成殿…」 真っ直ぐな視線に射抜かれて、幸村は少しだけ困ったように三成を見上げる。そんな幸村を見つめたまま、言葉を選ぶように三成は何時もより遅い口調で口を開いた。 「俺は幸村がいないと、困る。小田原で一番最初にあの言葉を言ったのは俺でも兼続でもないだろう?」 「“義”ですか?」 「信念をもった者の替えなどきかない。言葉にして、明確に進む先を照らしたのは、幸村だ。…幸村が、必要だ」 それが三成なりの精一杯だったのだろう。色々言いたい事はあるだろうに、かろうじて言えた言葉はそれだけで、しかし、それだけでも幸村には十分だった。三成の言葉にならなかった意味まで汲み取って、嬉しそうに笑うのを左近は見た。 嗚呼、だから石田三成と言う男は幸村に惹かれたのだと、左近は今更ながらに納得した。 そして三成はその機会を逃さなかった。小田原の地でしっかりと幸村と繋がる糸を掴んでみせた。的確に正確に、しっかりと。そして今もその繋がりを離さずに、大切にしながら強く掴んでいる。 だから、此処に左近が作ることが出来なかった幸村との繋がりが、三成にはあるのだ。 それは左近には為しえなかった事。あの時、会釈で済ませてしまった事で、繋がる糸を掴み損ねたのだ。 左近は白旗を上げた。そもそも勝ち目が無かったのだ。またこうして再び会えただけで、それは奇跡に近いのだ。 「不器用ですねぇ」 そう三成にしか聞こえない音量で言ってやると、氷のような視線が瞬時に刺さるが、左近は気にしなかった。 三成の視線を受け流して左近は幸村に向き合う。 「アンタはもっと自分の価値を知った方がいい」 「え?」 左近が少し笑って告げてやると、幸村は意味が分からないといった風に目を丸くした。 「私の立てる軍略に真田幸村という力は必要不可欠なんですよ。無くなってもらっては頭の部分を生かしきれないくらいに大事なんです。頭を殺さんでください」 「左近、殿」 確かに真田幸村という武将はその戦力に於いて大きな意味がある。戦場で名を響かせ、敵本陣であがる勝ち鬨は六文銭の旗だ。長篠で何かを取りこぼした青年が持つ槍に並々ならぬものを託している事も左近は何処かで気がついている。きっと三成もそうだ。 だからこそ、真田幸村という男は戦場でなくとも価値があるのだと、それを分かって欲しいと願うのは欲張りなことではないはずだ。無欲な青年の代わりに周囲が願ってもいいだろう。 そしてそれを真の意味で伝える役割を左近は三成に譲った。 「は、そもそも左近が組織の頭に足り得るかどうか疑問だがな」 「あ、今なんて言いました!?大体、殿は…」 三成の言葉に左近が言い返せば、賑やかな喧騒が生まれる。二人の言い合いに甘味所の娘が笑いをかみ殺す。のどかな、何処までも長閑な風景。 三成との舌戦を繰り広げながら、左近が幸村を見遣る。 楽しそうに二人を見る幸村が左近の視線に気がついて、二人の視線がかみ合う。 そして幸村の口元が小さく”ありがとうございます”と動くのを見て、左近は返事の代わりに少しだけ口元だけで笑って見せた。 |
合縁奇縁