「幸村が、死んだ」


その声に兼続はさして驚かなかった。
大阪の地。そして、さいご、の戦い。
兼続は豊臣勢力の残党狩りを部下に指示し、本陣に戻ろうとしていたところだった。

身も心も限界だった。
頭では分かっていても“何故”という問いかけが幻聴のように響いていた。
なぜ、何故、如何して、
問いかけた所で答えなどあろうはずもない。あの天下分け目の戦いの後。考えて考えて、眠れぬほどに幾日も考え抜いた。その結果だ。これがその結果だ。兼続は上杉の何万の民と兵を守るため、徳川についた。この方法しか、無かった。
この方法しか、無かった。
なのに、これほどの罪悪感は一体何なのか。

『真田幸村を討ち取った者には、一番の褒美を与える!』
そう言ったのは後一歩で討ち取られそうになった家康の、怯えた叫び声だったはずだ。
(―――このタヌキめ。)
兼続は少し冷めた目でその姿を見、今、たった一人で奮戦しているはずの幸村を想った。
幸村が家康を討ち取ってくれれば、と思ったのは嘘では無い。むしろそう望んでいたのかもしれない。
そう、本当は望んでいたのだ。
かつて笑いあい、理想を語り合い、共に戦った、友人として、
義を貫き通そうとする彼に、捨てたはずの想いを託していた。もはや幸村を友と呼ぶなどおこがましいというのに。まだ友だと言いたい自分がいる。自分ができぬ事を勝手に幸村に託して。自責の念が兼続を焦がす。
(――嗚呼、なんて卑怯な、)

「……そうか」
兼続はゆっくり振り返る。其処には、久しくその姿を見ていなかった旧友の姿があった。いや、本来ならば“見えるはずの無い旧友”の姿があった。
「三成」
兼続は意識的に無表情を装った。
でなければ気が狂いそうだった。友人の死、懺悔、後悔、ない交ぜの感情が渦巻いて脳を支配する。それでも兼続は強く歯を噛み締める事で必死に自我を守る。
「三成…どうして今、姿を見せた?」
「何故だと思う?」
兼続の問いには答えず、三成は静かに質問で返してきた。
「幸村を…待っていたのか?」
三成は答えなかった。ただ静かにあの関ヶ原の戦いの時の姿と寸分変わらない姿で、真っ直ぐ兼続を見ていた。
「それとも責めに来たか」
責めたいのならば、あの戦いの後で姿を見せればよかったものを。そして気が狂うほど責めてくれれば良かったものを。
なぜ、幸村の炎が消えた、今になって。
「三成、お前はこうなる事に気づいていたか?」
兼続は酷く自分の顔が歪んでいるのだろうと思った。三成の整いすぎて、そして静かな表情にその想いは加速する。
三成は表情を変えずに静かに言う。
「時世の読みは少しくらい出来る。関ヶ原でのあの離反。徳川側にあれだけの大名がつけば、天下は家康に傾くのは必須」
「では幸村が豊臣側で戦うという事も?」
「兼続…お前こそ分かっていただろう?」

“義の世を作る”

小田原での誓った言葉が艶やかに甦る。あの時、信じていた。義の世を作り出す事は出来ると。
いや、死ぬ瞬間まで三成も幸村も信じていたはずだ。
信じることが出来なかったのは、

「…裏切った」
「何をだ?」
兼続の言葉に三成が問いかけた言葉は、今の兼続には酷く残酷な問いだった。
「義の世を作ると約束しながら、あの戦いの後、俺は徳川についた。立派な裏切りではないか」

対して幸村はどうだ。
最期まで信じ続けた。無理だと分かっていても信じ続けた。
あの穏やかな友人の穏やかに笑う姿が浮かぶ。あの笑顔の奥に色づく強さは戦場では輝く炎のようだった。
あの輝きは失われ、その信念の欠片も今の自分には無い。

「幸村の強さを、持つ事が出来なかった」
「…るな」
己を嘲る様に呟いた言葉に対する三成の声は、小さく、兼続は全てを聞き取る事が出来なかった。
兼続はいぶかしんで三成を見る。
三成は、その視線を険しくしていた。三成に近しい者以外なら恐れおののいていたその視線が今、兼続に突き刺さっている。
「みつな、」
「後悔するな、兼続」
「何を、」

「後悔するな、と言っている!」
三成が怒鳴った。

兼続はその姿を信じられない、といった風にただ呆然と見る。あの冷静で何事を為すにも沈着な男が、激昂した姿など見たことが無かったからだ。
そんな兼続にお構い無しに三成は言葉を続ける。
「お前は上杉の民と兵を守ったのだろう!大切な者を守るために幸村とは違う道を選んだ。…ただ、それだけの事だ」
三成の体は実体を持たないが故に、後ろの鬱蒼とした夜の木々が透けて見えていた。しかし、その実体のない体から兼続に告げられる言葉は三成の真実の声だ。
「幸村は一度でもお前を責めたか?罵ったか?違うだろう!それが幸村の答えだ!」
(―――幸村、)
今はもう、同じ世界に生きる事の出来なくなった、あの優しい友の名を兼続は心の中で静かに呼んだ。
本当は分かっていた。
幸村は責めてはいないだろうと。ただ真っ直ぐ自分の道を見つめていたのだろうと。…最期まで。
けれど、己を責めなければ、幸村を取り巻く境遇を思うといてもたってもいられなかった。
「三成、俺は、」


「生きろ」


聞き慣れた命令調のその言葉。しかし、言葉の意味を理解する事に兼続は数秒を要した。
「お前はお前の義を貫け。それが俺と幸村の遺志だ。ならば義は潰えない」
もう兼続の視線に映る三成の視線は先までのそれではなかった。少しだけ口元を吊り上げて、自信溢れる表情をしていた。それは見慣れた表情だった。皆が在りし日の、あの穏やかな日々に浮かべていた彼の表情だった。
「三成…」
「だろう?」
兼続は何と答えて良いのか分からなかった。分からなかったが、自責の念が水蒸気のように少しずつ空中に拡散する。
「とりあえず、」
「?」
「すぐにこちらには来るな。その時は俺と幸村で追い返してやる」
「随分な言いようだな」
兼続は少し笑った。三成も笑っていた。
「生きろ。後悔するな。幸村も俺も後悔など少しもしていない」
“自らの信念で生きたのだからな”と三成は続けた。
「分かったな、兼続」
そこで兼続は気がついた。三成の背後の木々の姿がはっきりとしはじめている事に。
「…そろそろ頃合だ」
三成は背を向けた。あくまでも目の前で消えるつもりは無いらしい。
「……」
その後姿に兼続は不意に悟った。幸村を連れて逝くのだろう、と。だからまだ向こうには行っていなかったのだろう。
きっと見届けたかったのだ。死した後の天下の動向を、遺した友人の向かう道を。
そして、何処か危うさを持った幸村が心配でならなかったのだ。
“幸村を、待っていたのか?”
その己の問いが間違っていなかったのだ。きっと。

知っていた。
三成が幸村に向ける唯一の想いも。幸村が抱いていた三成への特別な感情も。
それはついぞこの世で叶えられることは無かったが。

そんな事を考えていると、三成が振り返った。
「“ゆっくりお茶でも飲んで、昔話に花を咲かせる日を楽しみにしています”…そう幸村が言っていた」
「幸村…」
あの穏やかな笑顔が蘇る。
3人で語らった日々。他愛も無い会話に花を咲かして、幸村の事で三成をからかった日々。
共に戦場に立ち、未来を見据えた、数々の出来事。
兼続は瞼が熱くなっていくのを感じたが、それを無視した。その熱さは頬をつたって地に落ちる。止まらなかった。止めるつもりも無かった。止める必要も無かった。

まだ、兼続と同じように幸村も兼続を“友”として認めてくれているのだ。
そして三成も。

「そうか、分かった。楽しみにしている、と伝えておいてくれないか」
涙を隠さずに兼続は三成に伝えた。笑えている自信があった。

「ああ、俺も楽しみにしている」
そして三成の後姿は暗い森の中に消えていった。
だが三成が消える瞬間、ほんの一瞬。
三成の隣に見慣れた人物がふっと現れ、兼続に優しく微笑んでいるのを兼続は確かに見た。




赦しのしらべ