ああ、あれは桜の木だ。 幸村は花をつけていない木を見て、そんな事を思った。 散り逝く花弁 「どうしたんだ?」 秀頼に謁見した帰り。他の武将との軍議のために幸村と武蔵は庭に面した廊下を歩いていた。 そこで幸村がふと足を止めた事に気付いて、武蔵は幸村に問うた。 「ああ…いや、何でもない」 幸村は暫し武蔵の声に気付いていないといった風に一点を凝視していたが、武蔵の強い視線に気付いて曖昧に笑う。 「何でも無い事無いんだろ?」 武蔵は小さな疑問を口に出しながら、ひょいと幸村の見ていた庭の一点を目で追った。 「何だ…木か?」 「桜の木だ」 「ああ、あれ桜なのか」 木や花など風流を解する事に全く無頓着な武蔵は花が咲かなければ全く桜の木だと分からない。武蔵が認識するのは“ただの”木だ。そんな武蔵の性格を少なからず気付いているらしい幸村は僅かに苦笑した。 「何か思い入れでもあんのか?」 「いや…どうだろうな」 言葉を濁す幸村に武蔵は怪訝な顔をした。幸村は戦場以外では驚くほど、いつも穏やかで人当たりが良いが、曖昧な事は言わない。芯の強い存在であり、豊臣の世を守るための最後の砦。 そんないつもとは違う幸村に武蔵は僅かな違和感を抱いたが、どんな人間でも触れられたくない部分はあるのだろうと、武蔵は黙った。 「ただ、此処の桜は春になるとそれはそれは美しい花を咲かせる。言葉を無くすほどに」 そう言いながら幸村は今は花などつけてはいない、ただの木にしか見えない其れを見ている。しかし、その木さえ超えた遠く向こう、何処か遠くを見ているようだった。 「そうか…そりゃ見てみてぇな」 幸村は武蔵の言葉には何も言わず、ただ小さく笑んだ。 ああ、あれは何時の日の事だったろうか、幸村は過去を掘り起こす。 そう春の日。三成と兼続と、今は亡き秀吉達とこの場所で花見をした事があった。 とても穏やかだった。とても暖かかった。とても美しかった。とても平和だった。泰平の世が続くと信じて疑わなかった。 その後に乱世が再び訪れると知らずに。 その後に理想が奪われるとも知らずに。 その後に友を二人、失うとも知らずに。 『どうだ幸村、秀吉様が自慢するだけの事はあるだろう?』 『ええ、そうですね。これほど美しい桜は見たことがありません』 幸村の言葉に三成は少し笑った。彼に近しい者しか分からない、幸村にしか見せない、笑みだった。 『毎年見に来ると良い』 三成はぽつりと言った。 『三成殿?』 『また来年も、その次の年も…見に来ると良い』 『三成殿…』 三成と幸村の視線が合う。風が吹き、淡い花弁がひらひらと美しく舞った。 『はい、喜んで』 三成は笑った。幸村も笑った。 疑いさえしなかった。この先続く未来を。変わらず訪れる春を。毎年見る桜の花を。 それはもう、夢の話。 「幸村?」 武蔵の言葉に先まで見えていた桜の花は遠くなり、目の前にあるのは花の無いただの木だけが幸村の前に残った。 「すまない、少しぼんやりしていた。悪いが先に行ってくれないか?」 「?ああ…分かった」 先に歩いてゆく武蔵の背を見送り、幸村は再び桜の木を眺めた。 次の戦いで最期に、なる。幸村は悟っている。 兼続が来るというのなら、恐らくその知略をいかんなく発揮し、厳しい戦になるのだろう。 家康は秀頼を狙い、今まで散々彼を苦しめた真田幸村を必ず討ちに来る。 相手方の物量も参加武将も忍びによって調査済みだ。また物量が世を征そうとしている。 必ず、討たなければならない。徳川家康という総大将を。 総大将を討てば勝ちだ。総大将さえ討てば。 そのために幸村はもう覚悟を決めている。そう、六文銭を掲げるに相応しい覚悟を。 「三成殿は無謀だ、と止められるのだろうか」 しかし無謀を冒すのは幸村だけだ。他の武将も兵も一人でも多く、生き残ってもらわなければ。 かつて掲げた、義の世を創ってもらわねば。 その土台として生きたのならば、それで良い。そうして想いを残せれば。武将として生きた価値は十分にあるはずだ。 桜の木を見る。 花はつけていない。 来年の春、此処で桜を見ることはもう、無いのだろう。 あの過去の日が懐かしかった。 三成、兼続、左近。皆がいたあの季節を。 笑っていた兼続、酒を調達してきていた左近。 そして花見を約束した、三成。 もうあの日々はやっては来ない。 『また来年も、その次の年も…見に来ると良い』 遠い日の約束。 今度は、此処ではなく。彼岸の先で。 そんな予感が幸村の胸をかすめる。限りなく確信に近い予感。 「三成殿、そちらの桜は美しいのでしょうか…?」 そう今はいない存在に問いかけ、幸村は踵を返した。軍議の時間が迫っていた。 幸村はもう桜の木を見なかった。 遠く彼岸の向こう。 『ああ、とても美しい』 聞こえる声、それは穏やかに靡く風の悪戯か。 遠く意識の向こう。かの人が、幸村にしか見せない笑みで立っているのが見えたような気がした。 |