「すまない、幸村」 その己の言葉に、嗚呼何と陳腐な懺悔だろう、と三成は思った。 贖罪の月光 その日。 来るべき家康との戦の準備と手配に追われて慌しい一日を送っていた三成の居城を訪れた幸村は、何時もとは違った空気を纏っていた。 まず出迎えたのは左近。 その左近に幸村は挨拶を交わした後、恭しく書状を差し出した。 “石田三成殿に、父・真田昌幸から手渡したい書状が御座います” 名家の生まれである事を改めて感じさせる、その教養を伺わせる姿に左近も背を正した。そして左近も何時もとは違い、正式な客人を迎える手続きを取って真田昌幸の使いとしてやって来た幸村を三成の部屋に案内した。 そして三成もやはり、幸村を友として出迎えるのではなく、正式な客人として彼を出迎えた。 上座に三成が座り、下座に幸村が座る。そして左近が三成の側近として傍に控えた。 「この度は、真田昌幸からの書状を私が代しまして、お届けに参りました。まず昌幸が三成殿の元に参上できなかった事をお詫び申し上げます」 関ヶ原についての書状か。 三成と左近は瞬時に悟った。でなければ、昌幸からの書状を息子の幸村が届け、わざわざ正式な手続きを取るはずもない。友人であり、同士でもある幸村が三成会う際にこんな儀礼にのっとるはずが無いのだ。 「気にしなくて良い。して書状の内容は?」 だからこそ三成もあえて他の三成に仕える大名家と同じ扱いをする。武家として折り目切り目はつけなけらばならない。それを三成も幸村も左近もよく知っている。 「はい。真田家はこれから行われる徳川率いる軍勢との戦におきまして、長子・信之は家康側として参加、父・昌幸と私は石田三成殿率いる軍勢の元に仕える事を報告いたします」 やはり。 三成は左近と目配せをした後、ゆっくりと目を閉じた。 真田家はそう出るだろう、と三成は思っていた。 名門真田家。かつては甲斐の武田に仕えた後は数多の武家に仕え、この戦国乱世を生き残ってきた名家だ。今までも恐らくこのように、重大な決断を幾つもしてきたのだろう。でなければ、有力大名家が競合ひしめくあの関東の地で生き残れるはずが無い。 真田。 その名を残すために、信之と幸村を分けた。血の繋がった兄弟は此度の戦いでどちらかが勝ち、どちらかが負ける。 しかし、これでどちらが勝っても負けても『真田家』は残る。着実な策だ。三成が昌幸だったなら、同じ事をしただろう。 戦国乱世、昌幸の判断は当然の事だ。しかも信之は稲姫を娶っている。三成側に付くなどありえない。 幸村が三成と共に戦う事は間違いないことは分かっていた。 もし真田家が家康側につくとしても、幸村は己の意志を突き通すために、名門真田の名を捨てるかもしれないと言うことも分かっていた。 事実、それを出来てしまうのが幸村という存在だった。そしてその事に独占欲が満たされたような感情を、三成が抱いた事もまた事実。 「既に嫡男、信之は既に沼田城に居を移し、関係を絶っております。こちらには家康側の情報もこちら側の情報も通せない状況でしょう。必要とあらばどなたかを上田城に…」 「いや、それは必要ない」 三成は瞬時に答えた。 これは総大将を担う石田三成ではなく、個の人間として。幸村を疑いようなど無かった。ましてや幸村を徳川側と密通しているのではないかと疑う事にさえ、わずかな嫌悪を抱くほどだ。 恐らく。あまりにも智将で有名な昌幸を信用できない人間が彼を信用できない人間として皮肉る事を幸村もまた知っているのだろう。だからこそ、そう言ったのであろうが。 「昌幸殿にお伝え願う。“この度の決断、真に感謝する”と」 「承知しました」 そうして幸村が頭を下げたところで、形式的な、けれども必要な儀式が終わったのだった。 *** 月が輝いている。 季節は夏も終わりに近い。夜になればひやりとした風が吹き込み、随分過ごしやすくもなった。秋はすぐそこまで来ている。それは僅かに幸村を所在無い気持ちにさせた。 幸村はそんな事をぼんやりと考えながら、縁側から月を見上げていた。 三成が用意させた客間から抜け出してどれほどの時間が経ったのか。月の位置からも数刻は経っているのだろう。 本来ならば幸村は上田に戻っているはずだったのだが、三成の強い勧めもあり、泊まっていく事にした。 夜は他愛無い話をした。戦を控えているとは思えないほどの。 時折左近が茶々を入れては三成に冷たくあしらわれていた事を思い出して、幸村は少し笑った。 皆、好き好んで戦などするわけがないのだ。其処には死が舞い降りる。一兵卒であっても武将であっても、誰であっても。 「眠れないのか?」 その声に幸村はゆるやかに振り返った。 その先には月の光に照らされ、その整った顔立ちを益々際立たせている三成が立っていた。 「ええ…何故でしょう」 三成は無言で幸村の隣に座った。 「すまない、幸村」 その己の言葉に、嗚呼何と陳腐な懺悔だろう、と三成は思う。 「何故謝られるのですか」 幸村は少し驚いたようだった。いつもは強く真っ直ぐに前を見据えるその瞳の中の光が、月夜のお陰でゆるく三成を映す。 「この戦いで兄弟を分かつ事になってしまった」 幸村と信之が会話をしているところをあまり三成は見たことが無かったが、長子と二男でありながらも仲が良いのだ、と兼続が言っていた事を三成は思い出す。肉親が中が良いのは義だ、愛だ、と騒いでいたのでその時は敢えて聞いていない風を装ったが。 幸村のこの性格のことだ。きっと兄とも良好な関係を築き、少し気の強そうな義姉とも仲が良かったに違いない。二人の間に子が生まれたとも聞いた。幸村のことだ、大層可愛がったに違いない。 その血の絆を分かつのだ、この戦いによって。 「いいえ。良いのです。そうやって真田という名は残りましたし、そうやってこの家系は残ってきました。それが真田であり、戦国の世です」 幸村はゆるやかに笑った。 それを三成も重々承知であったし、実際今回の戦いで家康側と三成側、袂を分かつ武家も多くいる。幸村も三成がそれを知っていることもまた見抜いているのだろう。 ただ三成が懺悔の念を吐き出したいだけなのだ。何と卑怯な。三成は思う。 「ただ父が三成殿の側に付くとは…正直分かりませんでした」 幸村が苦笑したので三成も苦笑した。智将の脳内は息子でさえ読めないとは流石だ。 「そうか。だが昌幸殿がこちらに付いてくれるとなれば心強い」 「おそらく父は父なりの想いがあるのでしょう。父の家名を存続させるという役目は果たしたに違いありませんから」 確かにそうだろう。 兄は徳川家康が最も信頼を置く本田忠勝の娘婿、そして弟は石田三成の側近を凌ぐほど親交が深い。どちらの総大将にも親交が厚く、何が起こっても真田は安泰だ。それを見越しての昌幸の今回の決断だ。間違いなく彼は類を見ない程の智将だ。 「兄とはきちんと話をし、お互い納得しています。三成殿はお気になさらないでください」 「………」 「兄と刃を交える時が来れば…私は怯みません」 三成の瞳に映る幸村は真っ直ぐ前を見ていた。その瞳の中には月さえも怯む光。 「それを含めて、私と兄は兄弟なのです」 幸村はまた笑った。 「それに三成殿の方こそ負い込まないでください。それぞれの武将の想いが戦いに参じさせるのです。だからこそ三成殿も己の想いを優先させて下さい。私はそれを微力ながらも手助けさせてください」 「幸村、」 この穏やかに笑い、全てを受け入れる青年が、戦場で誰もが恐れる猛将だと誰が信じるだろうか。たった一人で戦況でさえもひっくり返してしまうほどの炎を内在しているのだ。 三成はゆっくりと幸村の髪に触れた。さらりとした心地良い手触りが三成の手に馴染む。 「三成殿?」 「ひとつだけ、頼みたい事が、ある」 「何ですか」 幸村の髪に触れていた手をそのまま頬に移動させる。暖かい。 「生き残ってくれ」 幸村が息を飲んだ。 「方法は何でも良い。生き残ってくれ。必ず」 「わたし、は」 風が吹いた。ひやりとした冷気に気温が下がった事を知る。 「もののふ、です。戦場を駆けてこその存在です。己の陣営を守り、敵を討つ。それが役目です」 「分かっている。分かっている…矛盾だと分かっている。だが、幸村」 三成は一旦言葉を切った。 「生き残ってくれ」 幸村の瞳が少し歪む。 「私は…三成殿、貴方こそが」 猛将。織田との戦で人の生死の深淵を見た存在。時折遠くを見る、その視線。義に厚く、情の深い人間。 幸村を形容する言葉なら幾らでも浮かんでくるような気がしたが、結局それ以上は言葉にならないような気がした。 ただ三成が分かるのは、 好きなのだ。彼が。 “生き残ってくれ”それは総大将ではなく、ただの三成の願いだ。 「では、三成殿も生き残ってください。」 苦しそうにその表情が歪む。その言葉の意味を、幸村も分かっている。 「如何あっても、生き残って…ください」 総大将にその言葉を言う意味を。 戦国乱世。 負けるつもりも、逃げるつもりも、弱腰になったつもりもない。 ただもう少し。 命のやり取りをしないで済む時代を生きていたならば。 三成は不毛な仮定を想い、目を閉じた。 |