【!】おろち2が発売される前に思いついていたネタ。
【!】2の設定と齟齬があり、記憶保持のまま元の世界に戻ってます。
【!】ということで幸村は戦国2仕様
今でも鮮やかに思い出す光景がある。 美しい景色だ。風が丘を駆け抜け、緑が萌え、太陽が光の粒をさらさらと落とすような景色だった。 『私は最後までこの槍に信念を灯します』 そう告げた口元は優しく弧を描き、たおやかな黒髪は風に流れていた。そんな光景だ。 しとしとと雨がけぶっている。 絹よりも細い雨粒は、地面に真っ直ぐ落ちる前にゆるりと空中に浮遊し、霧のように周囲をけぶらせている。霧雨は周囲の全て曖昧にし、沈黙を守るように空気を落ち着かせている。雨音さえ聞こえない。目を凝らせば雨が満ちているのだとかろうじて分かるような曖昧な天気だ。 幸村はそんな外の景色をふた呼吸分ほど見つめた後、書物達が雑多に積み上げられた中から一冊のそれを手に取った。 手に取ったそれはじっとりと外の湿気を吸って少し重い。 ぺらりと一枚紙をめくる。紙は黄ばみ、くたりとしなり、端の方は黄色を通り越して濃い色へと変色している。 この本が果たしてどれほど前にこの屋敷にやってきたのか幸村は知らない。幸村の会ったことのない先祖が手に入れたのだろう。 ――三国志。 言わずもがな三国鼎立の時代の歴史書だ。音に名高い大陸の覇者を競った群雄割拠の時代だ。領土を求め争い、要の土地を奪い奪い返した戦いの記録だ。 それは幸村の生きる、今この時代に何処か似通っていて、三国志を好んで読む武将は多いと聞く。 例えば圧倒的な武勇で戦場を駆けたもの、例えば忠義に生きたもの、例えば圧倒的な存在感を以て覇道に挑んだもの、例えば絆を守ろうとしたもの、例えば受け継がれた思いを叶えようとしたもの。 戦乱の時代に己の生き方を貫いて生きて死んだ者たちに皆それぞれ感情移入する。読むものそれぞれが自分との共通点を遠い三国の英雄達の中から引き寄せ、読む者がそれぞれの三国志をそこに見る。 しかし幸村にとっては三国志の意味合いはそれとは少し異なる。そして書物の中に記された英傑たちの活躍は想像を馳せるだけの遠い出来事でも、想像の中で武勇を競う者たちでもない。 幸村は見た。英傑たちが呼吸をし、一人の人間として笑い苦しみ、戦い、立ち上がり、輝いたその姿を。生々しい人として紙の中で語られる時代の英雄ではなく、ただ一人の同志、あるいは敵として呼吸あるものとしての生きざまを。 ぱらりと幸村は頁をめくる。 三国志、蜀書の中の一つ。五虎大将軍としての彼の功績と人柄に反して、正史での記述は簡素だ。もしも彼の別伝までをも所蔵していればもう少し詳細な情報を得られたのかもしれない。しかしこの場所にないから幸村はその先を知らない。不思議と手に入れようという気も起こらなかった。膨大な三国の中の英傑と歴史の流れの中にひっそりと佇む文字から彼の記録された事実を覗う事は出来ない。 それでも、それでいいと思っている。 『幸村殿』 耳に残る優しい声。それはどの書物を読んでも決して得られぬ情報だ。そしてその声が幸村を呼んだ事実を幸村は知っている。覚えている。 静かに問いかけられた柔らかい声を幸村はこっそりとひっそりと気に入っていた。そのことを告げるには羞恥心が勝って終ぞ言えなかったが。しかし例え思わずその声が好きなのだと口に出したとしても、彼ならばその言葉さえ真っ直ぐに受け取って、優しく笑ってくれたのではないかと思う。 そういう人だった。 そういう美しい人だった。 そしてその記憶を呼び覚ますたびに鮮やかに甦る景色がある。 『美しい場所ですね』 幸村はその場所に来る度に必ずそう一言言った。 『ええ』 この場所が一番気に入っているのだと、彼はそう幸村に告げていた。 そこは成都から馬で暫く駆け、さらにその森の奥を抜けた先に開ける小高い丘だ。 戦国の地と三国の地が融合させられたこの世界は地理関係がひどく難解で、この場所が蜀の地と呼べるのか、果たして他の国の領土になるのか分からなかったが、何度か訪れた先で誰にも会うことはなかったから不都合は無かった。 美しい景色だ。風が丘を駆け抜け、緑が萌え、太陽が光の粒をさらさらと落とすような景色だった。遠呂智という混沌の覇者が時空を歪めてしまった世界でも尚、美しい自然は完全に損なわれないのだと気づかせてくれるような光景だった。鍛錬を終えた後、戦を終えて一息つく時、慌ただしい時間の中でふと出来た空白の時間。どちらからともなく誘い合って馬を走らせてこの場所からその景色を眺めた。 あまり語り合うことは無かった。 それは話す話題に欠けていた、だとかそういう消極的な理由では無かった。本当に必要がなかったのだ。ただその場所では静かに時が流れていくのを待っているだけでよかった。 『幸村殿、一つお聞きしたいことがあります』 幸村は内心で首を傾げながら、その横顔を見つめる。そういう風に彼が何かを語る姿を見るのは初めてだった。 『幸村殿は私の生きていた時から千年後の世界で、』 静かに言いよどんだ声は少し硬かった。 『蜀は――』 ひゅるうり、と不思議な音を立てて風が尻尾を巻いて逃げる。前髪が視界をぱらぱらと遮って、目の前の彼の結われた髪が跳ねる。 『……』 『すみません、今の事は忘れてください』 そう言って彼はかぶりを被ってから、幸村を見て静かに笑った。目を細めて、殊更眩しいものを見るかのように。 その笑顔に幸村は気が付いた。彼はどんな返答も期待していないと。知るを渇望しながら、しかし知ることを何処かで畏怖する。そんな人が知ってはいけない智の未来を望んではならないと自戒しているのだと。 だから幸村は答えなかった。その時に知っていた何もかもを一言も口に出すことはなかった。 ぱらり、と頁をめくる音で過去の景色から一気に今に景色が引き戻される。 頬に感じていた風は儚く過去の記憶の中に消え、耳にしとしとという雨音が戻ってくる。 蜀は三国の覇者にはならなかった。 結局時代はかの徳を備えた優しい男の理想は大陸を統一させしめるには至らなかった。 物静かな姿から途方もない知識を携えていた軍師は五丈原に病で沈み、その後の蜀はその後継を以てしても大陸の覇者にはならなかった。時代という大きな潮流は蜀を選ばなかった。記された歴史書が記した事実は、圧倒的な事実。ただそれだけだ。 元のこの時代に戻ってきて、幸村は過去の遠い歴史としての三国志を意識せざるを得なかった。 それは不思議な感覚だった。少し前まで共に戦い、共に笑い、共に酒を酌み交わし、温度ある記憶としてあった生々しい存在が紙の中に記された乾燥したものとして語り継がれている。遠呂智の世界に来たときは書物の中に記されていただけ乾燥した存在だった彼らが、共に戦う内に生々しい人間としての存在に姿を変え、そして今また元の世界に戻ってまた書物の中にある。何とも言えない不思議な感覚だ。 今はもう彼らの誰一人として生きてはいない。誰一人として、存在してはいない。 幸村は思い出す。生々しい記憶を。髭が印象的だった武勇と人格に優れたかの武将を。酒が好きで情に厚い武将を。蓄積された経験に裏打ちされた豪快な弓使いを。信義に厚い真っ直ぐな武将を。 そして昇りゆく龍の例えに恥じぬ強き武将。――趙子龍を。 『幸村殿…私は、』 あの時、幸村は言わなかった。言わなかったことが今も正しかったのか、幸村にもよく分かっていない。あの丘はまるで美しい景色と引き換えに言葉を奪うような場所だった。 別れとは得てして突然だ。それが別れというもので、武人の幸村が知る別れとは殆どが死別だった。数刻前に笑顔で別れた者が物言わぬ存在として地面に転がっている。あるいはその首が敵によって高々と持ち上げられる。幸村の知る別れとはそういうものだった。 そしてそれは趙雲にとっても同じだった。二人は時代は違えども武将なのだから。 しかし幸村と趙雲の間にある別れは予め準備を用意できる別れだった。 『私は、幸村殿、私は』 あの日、二人はじっと夜明けを待っていた。 深い深い黒に染まっていた東の空がうっすらと紫色に染まりあがってきている。もう夜明けはそれほど遠くない。 夜が明ければ最後の戦いになる。遠呂智との最終決戦だ。戦いを控え、全ての武将は各々の過ごし方をしていた。静かに夜明けを待つ者、大切なものと寄り添うもの、黙々と武器の手入れに精を出すもの、友と語らい変わらぬ夜を明かすもの、緊張など彼方に飛ばして寝入るもの。各々の過ごし方を選んでいる。 勝つか、負けるか。負ければ死を意味するが、今この場所で負けを思うものは一人もいない。それは幸村ももちろん、趙雲もそうだった。負けなど最初から考えてはいなかった。そういう朝焼けの光景の話だ。 二人はあの丘に来ていた。 負ければ死という名前の別れ。勝てば、勝てば全ては元に戻る。あるべき三国の覇者を争う世界と、あるべき戦国の覇者を競う世界へと。時間は分かれ、空間も分かれる。空間と時間はあるべき場所におさまるのだ。勝てば。 そう。勝てば、――勝ってもまた別れだ。 生きる世界、生きる時代、何もかもが違う。最初から交わるはずのない世界が無理やり結合された場所で育まれた思いも絆も思い出に変わる。 『趙雲殿』 幸村が言いあぐねている様子の趙雲に静かに呼びかけると、その秀麗な見目の眉間には苦しげに皺が寄っていた。常に凛と立つ姿からは想像しがたい、苦しげな表情が幸村を捉える。 『幸村殿、』 実直な人だと幸村は思う。正しく真っ直ぐで、忠義に厚く、そして誰もが抱くであろう負の感情を真っ直ぐ伸びやかな精神で軽やかに飛び越えていける人だ。未だ雨に捕らわれながら生きていくしか出来ない自分とは違う。 だからこそ彼は悩んでいるのだろうかと思うと同時に、そんな彼を悩ませるほどの感情に幸村の心の底がじくじくと疼く。 言わすしていいのだと、納得させながら、それでも言わなければ、永久に告げることなく終わっていくという事実が、未練を呼び起こす。唇を滑らせようと無意識に足掻く。胸の奥の甘いだけでない感情を告げてしまえと。 けれど。――けれど。 『私たちはきっと勝てます』 幸村は静かに言った。朝焼けの紫色を閉じ込めた相手の瞳を真っ直ぐ見つめながら。 『……。ええ、そうですね』 それが幸村が趙雲に告げた答えだった。互いに抱くあまやかな感情は告げぬままで。 その時の趙雲の表情を幸村は今もよく思い出せない。朝日が東の空を白く染め、山の尾根から光が一筋差し込んできたことだけをよく覚えている。 そして。その一瞬、趙雲の腕が静かに幸村を捉えた。 掠めただけの唇の感触を、たった一度だけの感触を、幸村は今も忘れていない。 『私は最後までこの槍に信念を灯します』 そう告げた口元は優しく弧を描き、たおやかな黒髪は風に流れていた。美しい光景だった。 そうして遠呂智は倒れた。他の誰でもない、幸村や趙雲、他の武将たちの手によって。 戻ってきた幸村は暫く三国志を開くことがどうしてもできなかった。 あの後の正しき世界であの後彼らがどうなったのかを文字で知る事にどうしても躊躇してしまったのだ。認めてしまうことが恐ろしかった。もう彼らは誰一人として存在しないし、生身の生きた人間として共に立った彼らの中にも夢かなえたものと、夢やぶれたものがいた事を。不運の中で死んだ者や志半ばで倒れたものがいることを。 ――そして彼らが必死になって守ろうとしていた国がその後どうなっていったのかを。 趙雲はあの時代にしては稀有なことに、寿命を全うした。彼の信念の灯った槍は折れることは無かったのだ。 しかし彼の記録は簡素だ。あまりにも簡素な表現の中にその武勇と人柄が褒め称えられている。 それでも幸村は知っている。どのように槍を奮って、その槍が風を裂く音がどんなものだったのかを。風に揺れる黒髪の色も。普段は柔らかい声が戦場ではどう通るのかも。そしてどんな景色を愛していたのかも。どんな風に朝焼けの色を瞳の中に灯したのかを。 けれど彼はいない。もうどこにもいない。 会えない。 伝えなかった事が正しかったのか、幸村には分からない。きっとずっと得られるはずのないその答えをおぼろげに追いかけるのだろう、呼吸を止めるその時まで。ならば彼も呼吸を止めるその瞬間まで、幸村と同じようにその正しさを思ったのだろうか、少しでもあれから彼の長い生の中で自分を思い出すことはあったのだろうかと、くだらないことを考えてしまう。 愛していたのだと。慕っていたのだと。伝えれば今どうなっていたのだろう。予め予期された別れの果てでもこれほど胸の内を焼く慕情に悩む事は無かったのだろうか。 いつの間にかけぶっていた雨は止んでいた。きらりと庭の草木の葉に雨粒が光っている。雲の合間から差し込む光が、まるであの日に見た朝日のようだった。 |
晴れの沈黙/雨の邂逅