『バレンタインだからって告白はしないですよー。だからチョコもわざわざ渡さないです。告白はしたい時にする、って感じだし。メールとかもあるしねー』 「…この言葉を聞いて泣き出す男達がこの日本にどれだけいるだろうな」 まるで独り言のように言葉を溢した相手に三成と信繁の視線が向けられる。 独り言を洩らした本人、兼続は三成と信繁の視線に気がつかないのか気にしていないのか、その視線はテレビに向けられている。 時は2月15日。バレンタインデー、の翌日。 兼続が見つめるテレビには“今時のバレンタイン事情!”というテロップと共にワイドショーの中のコメンテーター達が騒がしく何かを語っている。今年のバレンタインデーは日曜日。大方、愛の日の翌日の月曜の昼間のワイドショーにはネタが無いのだろう。今年の愛の日の総括を放送しているようだ。 “告白はもう古い?”という次のテロップは、バレンタインの主役である若い世代の女性たちがバレンタインを重要視していないという事を示すアンケート結果が映し出されている。 「バレンタインデーでチョコレートを貰えないだけで騒ぎ散らしているのか?馬鹿馬鹿しい」 は、と読んでいた分厚い洋書から顔を上げて、呆れたような息を漏らしたのは三成で、その言葉にすぐさま兼続が喰い付いた。 「三成が言うとまるで説得力がないな」 「…どういう意味だ」 「バレンタインになると靴箱やら机からチョコレートが溢れ出す。そんな漫画みたいなバレンタインを過ごしてきただろう?」 楽しそうに語る兼続に三成は小さく笑う。 「甘いな、兼続。ロッカーを忘れているぞ」 「おお、当事者の言う事は違うな」 「実際の当事者になってみろ。迷惑なだけだ」 大学生にとっては休みの真っ最中の2月中旬。 何をするわけでもなく、3人は兼続の家に集まっている。休みに入ってからも何かと3人は集まっては時に出掛けたり、時に議論をしたり、時に各々が自由に過ごす。3人で過ごす時間が酷く心地よく、いつからかそういう過ごす事が当たり前になってしまったのだ。 今日も今日とて3人は取り留めの無い会話をしながら、穏やかな午後を過ごしていた。 「ということは三成は昨今のバレンタイン事情にも賛成の立場か」 「そして昨日が日曜だったということも大賛成だな」 それは暗に人に会う機会が少なく、義理チョコをも貰う機会が無かったという事を示している。 とは言っても、2月の2週目からは長期休みに入る大学生はそもそもバレンタインデーに人に会う機会は格段に減る。 しかし人目を引くほど秀麗な顔立ちをした三成にとっては、バレンタインデーとはまさに望んでも居ない大問題が巻き起こる一日で、欲しくも無いチョコレートで溢れ返り、望んでもいない一方的な好意に辟易する日なのだ。 「元々製菓メーカーの陰謀で始まったイベントだ。このまま衰退してしまえ」 「贅沢な男の愚痴だな」 「そういうお前は寂しい男の愚痴か?」 「失礼だな。私とて、そこそこ貰う男だぞ?」 恐らくその言葉は真実だろう。第三者として会話に直接加わるわけでもなく、二人の何時もの軽い応酬を心地よく耳に入れながら、信繁は読んでいた学術誌を閉じて、コーヒーカップに口をつけた。 兼続という男は要領が良いし、人当たりもいい。困っている人を見たら放ってはおけないし、その立ち回りの良さで敵は少ない。ただし彼の信念にそぐわぬ事があれば、徹底的に立ち向かう。 その変わらぬ心意気を信繁は好ましく思っていたし、きっとそんな兼続の本質に少しでも触れる事が出来る女性なら好きになったとしても不思議は無い。そもそも女性の友人の多い兼続のことだ、義理チョコも多いだろう。 とりとめも無くそんな事を信繁が考えていると新しいおもちゃを見つけたように輝いた兼続の視線とかち合い、信繁は内心が読まれたような錯覚に陥ってギクリと動きを止めた。 「信繁は?」 「はい?」 いきなり問われて信繁の声が僅かに裏返る。 「だからチョコレート、の思い出、だ」 「あ、思い出、ですか?」 当たり前のことながら内心を読まれていない事に安堵したものの、信繁は考え込んだ。思い出、と問われれば、あるといえばあるが、一体何処から何を話すべきか、見当がつかない。 きょとん、と首を傾げたままの信繁を楽しそうに見つめる兼続とは違い、三成の視線はだんだんと険しくなっている事に信繁は気がついていない。 「信繁の場合は貰うなら本命が多そうだな」 「そんなことはありません」 過去にそんな心当たりが全く無いと言えば嘘になるが、その好意を信繁は一度とて受け取った事はない。誤魔化す代わりに、信繁が穏やかに笑いながら否定の言葉を唇に乗せるのと、三成の不機嫌な声が重なるのはほぼ同時だった。 「……おい、兼続。お前そろそろ出かける時間じゃないのか」 「おお、そうだった」 時計を見て兼続が思い出したように立ち上がった。この後、家庭教師のアルバイトが控えているからだ。と、同時にゆっくりと信繁も立ち上がって三成に口を開いた。 「じゃあ私達もそろそろ参りましょうか」 「?どこかへ行くのか」 ジャケットを羽織って今にも出かけられる準備を万端にした兼続が不思議そうに問う。その問いに返事をしたのは三成だった。 「信繁に本を貸してもらう約束をしているんだ」 * 目の前でコーヒーを入れながら、信繁は珍しく困り果てていた。 どうするべきか。そんな風に悩む信繁の目の前にはガトーショコラ。しかもホールレベルのサイズで中々貫禄がある。バレンタインの貰いものではない。れっきとした手作りだ。しかも信繁の。 信繁の家にこのガトーショコラが我が物顔で鎮座しているのには理由がある。 それは一昨日の晩のことだ。 『こんばんは』 『…阿国殿?』 来客者を告げる呼び鈴で信繁がドアを開けると、其処には馴染みの顔があった。 『堪忍しておくれやす、夜分に押しかけてしもうて』 『いえ、そんな事は…どうかされましたか』 問いかけながら、とりあえず信繁は阿国を部屋に通す。立ち話程度のことで訪ねてくる人物でない事を信繁は良く知っていたからだ。 それにしても、ついこの前会ったばかりだ。まだ沖縄土産のちんすこうがあっただろうか、と信繁が記憶を辿りかけた所で、優しい声が響いた。 『お願いがあって来たんどす』 『お願い、ですか?』 にっこり、と見るものが見れば一瞬で惚れてしまうような美しい笑みを称えて、出雲の巫女が差し出したのは。 『“ガトーショコラの手作りキット”ですか』 占いを生業にしている細く美しい手の上に“簡単!手作りガトーショコラ”と派手に印字された箱が乗っている。 『便利な時代になったもんどすなぁ』 感心したように話す横顔は心持ち楽しそうに見える。そんな信繁の視線に気がついたのか、阿国がゆっくりと信繁の顔を見つめ、 『これ、此処で作らせてください』 にっこり。有無を言わせない阿国の笑顔に信繁に言える言葉があるはずもなかった。 とりあえずガトーショコラを記憶の彼方に追いやって、信繁はコーヒーと目的の本を持って三成の元に向かった。好き嫌いをしない信繁の性格ではあったが、如何せんあれは見ているだけで胸焼けしそうな破壊力を持っている。 「この本でよろしかったでしょうか?」 「ああ、すまない」 信繁が手渡したのは古書。明治時代の法制史についての貴重な文献だ。少し前に信繁がレポートで使ったもので、史学の観点から法制を観るという点で大いに役に立った参考文献だ。 「お気になさらないでください。暫く使いませんから」 今度はその参考文献に興味を示したのは三成で、彼は法学の観点から法制を観る事に大いに興味を持ったようで、信繁は快くその本を貸すことにしたのだった。 何となくBGMが欲しくなった信繁はテレビをつけた。 「…またバレンタインか」 「ほ、本当、ですね」 またもやテレビに映ったのは今日一日何かと語りつくしたバレンタインデーの映像。夕方のニュースでも懲りずに取り上げられている内容に2人は暫し閉口した。 そうしている内に、信繁が記憶の隅に追いやったはずの、ガトーショコラが頭をもたげてきた。 こんな事になるのなら、昼間3人で集まっている時にでも持っていけば良かったと信繁は後悔し始めた。持っていかなかったのは躊躇していたからではなく、持って行く決心がつかなかったのだ。それだけ信繁がこのガトーショコラの処遇に苦労していたとも言える。 「信繁は今年は貰ったのか?」 三成が静かに問う。ガトーショコラのことで頭が一杯で、三成がわざとさりげなさを装っている事に気がつかない信繁は問われた言葉に素直に答えた。 「金曜に司書の方に。世話チョコ、と言うそうです」 「世話チョコ?何だ、それは」 「私も今年初めて知ったのですが、普段からお世話になっている人に感謝の意を示すチョコレートだそうです。大きく括れば義理チョコに分類されるみたいですが」 「もう何でもありだな」 三成のそれは既にため息のそれだ。 「三成さんは?」 「今年は完璧だ。郵便受けも塞いだ」 「・・・それは、完璧、ですね」 完全にチョコレートは受け取り拒否らしい。その徹底した光景と三成らしい完璧な対処に、思わず信繁は吹きだして、くすくすと笑う。その信繁の様子を見て、少し機嫌が下降調子だった三成も口元を緩めた。 『なんや手伝ってもろて、申し訳ないわ』 『いえ、勉強になりましたし、面白かったです』 テーブルの上には見事に焼きあがったホールサイズのガトーショコラが2つ並んでいる。部屋に漂うのは甘い香りと、ほのかに香ばしいカカオの匂いだ。バレンタイン前日の男の部屋に酷く似つかわしくない香りだが、信繁の思った以上に阿国の表情が楽しそうで、そんな事は取るに足らないことだと信繁は柔らかく微笑んだ。 “それが、明日はバレンタインデーですやろ?お店で働いてくれてる子に渡そうと思ったんやけど。うち、オーブンが無いんどす” それが阿国の突然の来訪の理由らしい。強くしなやかな阿国の持つもう一つの優しい理由に信繁が拒む理由など一つもあるはずもなく、お菓子作りに慣れていない阿国を手伝う形で、信繁もガトーショコラを焼き上げてしまった。 『…良い時代になりましたなぁ』 『阿国殿?』 『嘗てのように愛が政略の奴隷になることも無く、愛を制限されることもなく、しのぶこともせんでいい時代になりました』 『…そうですね』 戦いの中、愛に生きたもの、愛のために愛を捨てたもの。 ――慕情すら、伝える事が出来なかったもの。 信繁の中に過ぎた時間がよぎる。 『あら、こんな時間やわ!もう帰らんと。これは信繁さんが作ったものやさかい』 どうぞ、と差し出された一方のガトーショコラに信繁は驚いたように首を振った。 『え、私は』 『何や友チョコやら外の国では男が渡したりするて言います』 『そうですが…いえ、しかし』 何より阿国が持ってきた材料で、信繁は阿国の手伝いをしたにすぎない。それを出来上がったものの半分を貰うのは分が悪い。 『材料代がお礼、と思て』 阿国が微笑む。その優しい笑みが確かな優しさと気遣いに溢れているものだと気がついた信繁は何も言えなくなった。 『…分かりました』 そうして信繁は阿国の優しさをそのまま受け取るように、その菓子を受け取った。 (しかし、これは…) コーヒーを入れ直すために戻ったキッチンで、やはり威圧感を醸し出すガトーショコラに信繁は途方に暮れた。 一人で食べるには本当に大きい。あまりにも大きすぎる。 これをどうするか信繁とて考えなかったわけではない。 兼続には申し訳ないと思いつつも、だからこそ敢えて昼間持って行くのを忘れたという事も否定しきれないのも事実だ。 ――慕情すら、伝える事が出来なかったもの。 “…良い時代になりましたなぁ” 良いのだろうか。あの頃よりは生に対して優しい時代に甘えても。人を想うには優しい時代。今は、そんな時代だ。 信繁は腹を括った。 「あの、」 キッチンから顔を出して信繁が言いよどむ。その常ならざる様子に三成は少しだけ不思議そうな顔をしたが、次にその瞳に心配げな色を滲ませた。 「どうかしたのか?」 「あの、その…、何と言いますか、ちょっと色々経緯がありまして、話すと長いのですが、」 少し長めの前置きをして、信繁は意を決してそれを三成の目の前に差し出した。 三成の目の前に差し出されたのはガトーショコラ。 時間にしてたっぷり数秒。三成は恐ろしいほど整った顔を一瞬呆けさせて、目の前の見事に焼きあがった菓子を見つめ、それから数回瞬いて、確かめるようにゆっくりと口を開いた。 「……これは、誰が?」 「私、です…」 羞恥に思わず頬を赤らめて信繁がうつむく。うつむいてはいるもののツヤのある髪から覗くその耳がほのかに色づいているのは、三成の気のせいでは、ない。 「…………信繁が作ったのか?」 「はい、一人で食べるにはあまりにも大きすぎますので。できれば、一緒に食べていただけたら、と」 「……俺、が?」 人間、あまりに驚くと感動するまで時間がかかるらしい、と言う事をこの時三成は初めて知った。 三成にとって、期待するだけ無駄だと早々に諦めていた願い事が、1日遅れとはいえ叶ったと言っても差し支えない。それがガトーショコラでも、カカオが使ってあれば立派に意味を成す。三成とてバレンタインデーが心底嫌いなわけではない。些か身勝手にも聞こえるが、好きでもない相手に押し付けられる好意が重すぎるのであって、 ――三成が期待している相手なら何の問題も、無い。 その三成の至福ともいえる無言の感動の時間を信繁は違う方向に解釈した。とは言っても、相手が無言を貫いているのだから、信繁が迷惑がられている、と思ってしまっても何らおかしくはないのだが。 「すすすすみません!日頃お世話になっているので、世話チョコ…ああ、1日遅れているので違います。…あの、すみません、三成さんも男から貰っても…」 慌てて引っ込めようとした手を引き留められ、信繁はわずかに驚いた。信繁を掴む手が、強い。 「食べる」 「はい?」 「貰う」 その目が、余りも真摯で。視線が、余りにも、強く。 「――は、い」 信繁はその強すぎる視線に絡めとられ、ただそう答える事が精一杯だった。 友チョコ、世話チョコ。 言い換える言葉はいくつもあったはずなのに、二人はその言葉を敢えて使うことはしなかった。三成は思いがけない幸運に甘え、信繁は時代に甘えた。 ただ、2人で食べるには少し大きいガトーショコラを口に運んで、そのほろ苦さに反した甘みを伴うくすぐったさに、2人は小さく口元に笑みを乗せた。 |
2010.2.15 |