三成は困っていた。
どう控えめに見ても困っていた。その端正な顔立ちからは全くその様子が見えていなくとも、彼は内心で確かに困っていた。
場所はとある有名菓子店の名前が連なる特設会場の前。そこで三成はある一点を見つめていた。
道をいく女性が熱い視線を送っている事も、同じ会場にいる男達が三成に妬ましげな視線を送っていることも、周囲の状況など三成には全く関係ない。

そこはホワイトデーの特設会場。
その前で三成には人生で初めて、本気で悩んでいた。


話は一ヶ月前、正確には一ヶ月マイナス一日前、に遡る。
その日、三成は願ってもない幸運に恵まれた。一日遅れとは言え、天地がひっくり返る程度のことがなければ貰えるはずもない相手からチョコレート(正確にはガトーショコラ)を手に入れたのだ。
しかも手作り。最高だ。そう、ガトーショコラとはいえチョコレートだ。友チョコとはいえ、やはりチョコレートはチョコレートだ。
「……チョコレートは、チョコレートだろう。」
こうしてホワイトデーの特設会場でお返しに悩むという人生初の経験をしながら、独り言を言う程度には、三成は浮かれていた。

しかし、だ。
三成の頭の中をいっぱいに占めている人物ー信繁ーの欲しい物はこの場所には売っていない。
まさしく、最大にして根本の大問題である。
当然三成とてこの日を漫然と迎えたわけではない。この日に向けてそれとなく信繁にリサーチをしたのも事実だ。しかし『欲しい物は今あるのか』という直球にして、かなり意気込んだ質問にも、まさか三成がホワイトデーの事を指しているとは思っても居ない信繁は『ああ、そういえば洗剤が…』という純粋すぎる返事をしたのだ。
完全に勢いを削がれた三成は、いや、そうではなくて、と質問の真意をゴリ押すことも出来ず、すごすごと退く事しか出来なかったという顛末だ。

兼続あたりが聞けば腹を抱えて爆笑しそうな話だが、三成はこの事を兼続も含め、誰にも言わなかった。今年のバレンタインデーの出来事はそっと自分だけが独占しておきたい大切な大切な出来事でもあったのだ。
思い出を大切に仕舞っておく事に決めたのは良いとして、時間は得てして残酷である。ホワイトデーの事を考えてからというもの、時に悶々とした日々を過ごしていれば、あっと言う間に今日という日を迎えてしまった。
こうして居ても埒があかない。
当日に悩むという非生産的な行為を三成は早々に諦め、ポケットから携帯電話を取り出した。





図書館から出てきた信繁は、居るはずのない人物をそこに見つけて、ぱちぱちとそのはっきりとした瞳を瞬かせた。
「三成、さん…?」
時は夕刻。世界が薄暗闇に包まれる一歩手前。少し暖かくなってきたとはいえ、夕方になればまだまだ肌寒い。
図書館でのバイトを終えた信繁を待っていたのは、昼間携帯で連絡を取ってきた三成の姿だった。
信繁の記憶では、昼間の三成の連絡では信繁のバイトの終わる時間と、夜に予定が無いか聞かれただけだったはずだ。待っている、と言われていただろうか、と信繁が僅かに混乱していると、その内心を読んだかのように三成は小さく笑った。
薄暗闇の中でもその端正な顔立ちは霞む事無く、緩い風にその髪が小さく揺れる。
「気にするな。勝手に待っていただけだ」
「でしたら中に入って頂ければ…」
「待ちたかったからいいんだ」
「?」
三成の言葉の意味を一瞬測りかねた信繁が少しだけ首を傾げてみせるが、三成はそんな信繁の反応をも見透かしているようだった。信繁だけに見せる少しだけ和らいだ表情を隠しもせずに、三成は一歩信繁に近寄った。
「口、」
「はい?」
「口を開けてくれ」
滅多にない三成の頼みごとに、信繁は言葉の意味を深く考えるより前に、反射的に口を開いていた。
そこにひょい、と三成の手から小さな何かが口の中に投げ込まれ、信繁はまた反射のように口を閉じた。
舌の上に乗ったそれを少し転がすと、僅かに慣れ親しんだ甘い味が咥内に広がる。
「…飴?」
信繁の呟きに正解だと言うように、三成は満足気に目を細めた。
「夕飯を奢る」
「え?」
信繁は今度は目を丸くした。信繁にとっての今日の三成の言動は予想外のものが多すぎて、現実と脳内処理のスピードが上手くかみ合わない。ぱちぱちと瞬きを繰り返して信繁は三成を見つめる事しか術を持たずに、頭の中は混乱したままだ。
そんな風に頭の上に?を飛ばしている信繁の様子がいやに新鮮で、三成は酷く愉快な気持ちになった。
それが三成を多少大胆にしたのかもしれない。三成は混乱したままの信繁の手を取り、有無を言わせず歩きだした。
夜風は未だ冷たいはずであるのに、頬に心地よいのは三成の体温が僅かに上昇しているのかもしれなかった。

「え、え、みつ、な?」
「――お返し、だ」
三成の手に引かれて為すがまま、完全に混乱状態に陥った信繁の方を少し振り向かないまま、三成は言った。
「お返し?……あ!」
やっと得心がいったかのように表情を変えた信繁は、その表情から混乱の色を消した。戸惑っていた歩調は、三成の少し早めの歩調に合わせるために小走りになっているものの、落ち着きを取り戻している。
三成は、ふと己が普段の比ではないほど大胆な行動をしていることに気がついた。今更ながらに繋いだ手を意識して、心なしか手のひらにじんわりと熱が集まるのを感じる。
思わず振り返った三成は、思いがけず信繁の視線と真っ直ぐにぶつかった。闇の落ち始めた世界に揺らめく黒真珠のような瞳は美しく、三成は視線を逸らせる事を忘れた。

「ありがとう、ございます…」

しみじみと心の底から染み出すような言葉。花の綻ぶようなその笑顔。
それらを思いがけず目撃した三成の赤面した珍しい表情は、微笑みを浮かべたまま少しうつむいた信繁からは見ることが出来なかった。





「本当にごちそうさまでした」
三成からコーヒーを受け取りながら、信繁は今日幾度目かの礼の言葉を口にした。
大したことはしていない、と三成は思う。会話のしやすいダイニングを選んで夕飯を奢っただけだ。手作りのガトーショコラに比べれば足りないような気さえする。だが、これを口に出してしまうと信繁は益々恐縮するような気がして三成は口をつぐんだ。
夕食を終えた二人は、三成の家に寄っていた。時刻は深夜一歩手前。楽しかった夕食の雰囲気を壊さないように、二人は居心地のいい会話を続けながら、静かな部屋で同じ空気を吸っている。
「いや、俺の自己満足だ」
三成の不器用な言葉も正確に理解出来る信繁は、その言葉にふんわりと笑った。
信繁は酒に弱そうに見えるが、実は強い。ざるとまでは言わないが、足腰立たなくなるほど酔った姿を見たことがないし、酔い人特有の言動もしたことが無い。
そんな彼も今日はほどよく酔っているようだ、少しだけ頬が上気し、目尻に酔いの色が見える。その姿にさえ煽られてしまうのは、三成の惚れた弱みだ。
邪念を振り払うようにコーヒーに口をつければ、向かいに座っている信繁が口元に静かに笑みを乗せる。

「楽しかった、です」

「――、」
この笑みだ。先のふんわりと笑う何時もの笑みとは違う。たまに見せる信繁のこの種の笑みは、ただただひたすらに優しく、春霞に消えそうなほどに淡い。
それは何処か儚い遠い笑み。
三成が追いつけない何かを感じさせる、遠く遠い、それは。
「なぁ、のぶし」
意を決して三成が顔を上げる。この夜の雰囲気に乗じて、信繁の内面に一歩踏み込んでも許されるだろう、とそんな風に三成は考えた。彼もまた少し酔っていたのかもしれない。

――が。
「…寝ているのか?」
三成の目の前で信繁はテーブルに頭を預けて、静かに寝息を立てていた。
ここまで無防備な姿は珍しい。少しつき合ってみないと分からないが、信繁という男には隙がありそうに見えて、隙が全く無いない。何処かに見えない境界線があるような、そんな印象さえ持ってしまう人物だ。
穏やかに眠る横顔。其れを知るのは三成しかいない。自分のものにできたら、と三成は思う。それは酔いや気の迷いという言葉では、到底誤魔化せない独占欲。

「信繁、  」
その先の、言えない言葉を飲み込んで。ただ、柔らかい黒髪に顔を埋めて。
三成は内心で愛の言葉を囁いた。





2010.3.14