「はい、信繁君もどう?」
その言葉と共に差し出された黄色の長方形をした紙に幸村は返却された本を整理する手を止めた。

「え、っと…?」
「あらやだ。信繁君、もしかして忘れてる?」
からからと嫌味無く笑う勤続20年を誇る司書の女性は、なおも首を傾げたままの幸村にその黄色い紙をもう一度よく見えるようにビロリと広げてみせた。
「今日は何日かしら?」
「今日は、7月7日ですけど…ああ!」
得心いったように頷いた幸村にその司書の女性は、改めて黄色い紙――別の名を短冊と言う――を手渡した。
「せっかくの七夕だから。余りものの紙で悪いけど、よかったらどうぞ」

信繁君無欲そうだから、と優しげに笑う司書の女性は真面目に図書館でバイトをしている幸村の事をまるで息子のようによく面倒を見てくれている。何でも幸村と同じ年の娘がいるようで、隙あらば、うちの娘どうかしら、と告げられる言葉を幸村はのらりくらりとかわしている。
「ありがとうございます」
どうやら身内のいない幸村の事を案じてくれているらしい気遣いを感じて、幸村は素直に微笑んだ。

礼を言って受け取った短冊は余りものだけあって、少しくたびれていたが、厚意の分だけとても優しい手触りをしていた。





七夕の歴史はかなり古い。
古事記にもその言葉を認められる7月7日の節句は中国由来で日本に伝来し、宮中行事として執り行われていたほど歴史のあるものだったりする。
ただし現在のような形で民間行事へと広がりを見せるようになるのは江戸時代になってからだ。その頃に願いを短冊に書いて笹の葉に飾るという習慣が生まれる。短冊に願いを書くという習慣は意外かもしれないが、日本にしかない。
その後明治時代にその習慣を政府が規制するという動きもあったが、民間行事が規制で真っ白に消えてなくなるという事はなく、すぐさま復活して今の時代に至る。
陰陽五行や神事とも密接な関わりのあった色合いは今は薄れ、イベントとしての側面が強い。

そんなどこかの本で読んだ事を、――経験してきた事実も含め――ぼんやり思い出しながら、幸村は図書館を出た。20時を過ぎて、周囲はもう暗い。当然ながら人気も殆どなく、所々部活やサークルでたむろっている学生の姿があったり、理系学部の講義棟は研究のために所々明かりがついているくらいだ。

何となく鞄にしまうことも出来ず、何も書かれていない短冊を手の中で弄びながら、幸村は家路につく。
そういえば、幕末の動乱に巻き込まれる寸前まで道場をやっていた頃には生徒のために七夕をやったような気がするが、それ以来久しく短冊を手に持っていない。ましてや、この行事を楽しんだ記憶も数回しかない。
生きてきた時間の割にあまりにも馴染みの無い行事に思いを馳せていると、暗闇で些か見通しの悪くなった道の先に見覚えのある背中が見えた。
まさか見間違えるはずはない。幸村は無意識にその名を呼んでいた。
「三成さん?」
「信繁?」
振り返った人物は幸村の想像に違わない人物で、その人物もまさか幸村がいるとは思っていなかったのか、秀麗な顔に少しの驚きを滲ませていた。
「こんな時間までどうされたんですか?」
幸村は少し小走りに三成との僅かな距離を詰めた。隣に立てば、夜の闇に邪魔されていた互いの顔がよく見える。
「俺は教授の手伝いだ。ついでに文献まで読んでいたらこんな時間だ。信繁はバイトか?」
「はい」
隣同士に並んだ二人はどちらからともなく歩き出す。
幸村が最初見た時には随分早足だった三成の歩調が緩やかなものに変わっている。そこに三成の気遣いを見いだして、幸村は小さく微笑む。

水曜日。
この曜日は幸村の所属する史学部では教授会があるため、午後の講義は殆どない。
朝から何だかんだでお互い忙しかったり、空き時間が合わなかったりで、顔を会わす機会の無かった幸村と三成は、今日初めてこの時間に顔を会わせた事になる。
今日は良い偶然に恵まれた、と幸村が静かに思ったところで、不意に三成の声が響いた。
「その紙は?」
問われて、自分の手の中にある黄色の紙を指されているのだと気がついた幸村は、三成が見やすいように少し広げてみせた。
「短冊です。司書の方に戴きました」
「短冊…?ああ、そうか」
幸村と同じく、三成も今日が七夕だとすっかり失念していたらしい。
「三成さんと同じく、私も言われるまですっかり忘れてました」
幸村が少しだけ苦笑すれば、三成も口元が笑みの形を彩る。
「そう言えば、生協のところに笹があったな。当日にすっかり忘れるとは」
「本当ですね」
生協に一週間ほど前から笹の葉が飾られ、学生が自由に短冊に願い事を書けるようになっていた。それを何度と無く目にしては、もうじき七夕か、と思ったりしたものだが、当日にすっかり忘れてしまっていたらしい。
幸村も三成も今日は生協に行かず、七夕を意識する機会がなかった。幸村が司書から短冊を渡されなければ、三成は幸村に会わなければ、完全に七夕を忘れ去っていた事だろう。
兼続あたりがいれば、七夕という事実を知らせてくれたかもしれないが、生憎今日は三人とも互いに顔を合わせる機会が無かった。

三成が不意に空を見上げて、幸村もつられて目線をあげた。
「今日は、星が見えるな」
「ええ、催涙雨にはならなかったようです」
しかし天の川が見えるほどではない。ぽつぽつと星は見えるが、薄雲がかかっているようで、満天の星空には及ばない。
梅雨なのだから当然といえば当然だ。そう言えば、7月7日に晴れる確率は50%程度という統計があった事までを幸村は思い出した。

――七夕は初めて、ではないだろうか。

唐突に幸村はそんな事を思った。
戦国の世でも七夕という概念はあった。真田家という名門武家の出の幸村がそれを知らないはずもなく、それは若くして智将として名を立てるほどの頭脳を持った三成とて同じ事だ。
だが、あの時代では短冊に願いを、という風習はなかった。短冊の登場――それはずっと後の世の事だ。
この時期は梅雨に託けて、雨音を酒の肴にして語らっていた記憶が多い。当時はその程度しかする事が無く、そしてそれは贅沢であり、幸村にとって大切な時間だった。
季節の折り目折り目で多くの約束を三成と交わした。だがその中に七夕は含まれていない。

初めて、新しい記憶を一緒に共有する。

それは酷く優しく暖かく幸村の胸に響く。
過去の約束ではなく、ただ今を。
何をするでもなく、共に空を見上げる。
それは酷く幸福で幸村は知らず知らずの内に空を見上げて微笑んでいた。

ふ、と笑ったような気配。
それを敏感に感じ取った幸村は視線を横にずらす。そして幸村はそのまま視線を逸らすことが出来なくなった。

三成が、穏やかに笑って、いた。

「三成、さん…?」
見惚れるほどの笑み。
それは嘗ての時代でも幸村が数回しか見たことのない笑みで、幸村は思わず顔を凝視したまま動きを止めた。
今生では初めてではないかと思えるほど、の優しい笑み。
それが真っ直ぐ惜しみなく幸村に注がれている。

動きを止めた幸村をきっかけにして、自分自身がじっと目の前の人物を見つめていた事に気がついたのか、三成は少しだけ我に返ったように目線を斜め下にずらす。
「ああ、いや…、嬉しそうに見えてな」
「み、三成さんも」
とても嬉しそうでした、と幸村が告げれば、三成は少しだけ気恥ずかしそうな表情をした。
「…信繁は何か願う事はあるのか?」
三成が気恥ずかしさを誤魔化すため、慌てて取り成した三成の行動は見るものが見れば違和感だからけだったが、何故かこういう事にだけ鈍感になる幸村が気がつくことはない。
「私ですか?私は、」
額面通りに三成の言葉を受け止め、少しだけ考え込んだ幸村だったが、不意に小さく微笑んだ。
「私は…今、とても幸せな気がしているので願うことは無いみたいです」
それは誤魔化しのない、心の底からの笑みの伴う言葉。

現に幸村は幸せだった。
七夕の日に偶然にも三成に出会えた事も幸福と呼べるし、一緒に空も見上げられる。
何よりまっさらな状態から新しい時代に、新しい記憶を三成と紡げる事は酷く幸福に思えてならなかったのだ。
だから幸村は笑顔で三成に答える。零れる様な笑みを抑えられないのは久しぶりの事かもしれなかった。

「三成さん、は…」
願い事は無いのですか、と三成と同じように逆に問いかけようとして、幸村は三成を真っ直ぐ見た。
だが、三成の顔が幸村の顔の近くにあり、幸村は思いがけず驚いた。
「みつ、な…?」
――どくり、と跳ねたのはどちらの心臓の音か。
先の優しい表情とは違う。三成の表情は真摯すぎるほどに真摯だった。
だが、それは何時も三成が浮かべる真摯と呼ばれる表情のどれとも違った。何時もとは違う顔をしていた。…正確には何時もと違う瞳をしていた。

吸い込まれそうなほどに真っ直ぐ向けられる瞳の奥に、小さく瞬く炎、が垣間見える。

「俺は、」
「あ、の」
瞳の奥に僅かに、けれど確かに燃える色から幸村は目を離せなくなった。
「俺は――、」
あ、と幸村が思った瞬間には、三成の顔が視界いっぱいに広がっていた。
幸村は何も言えなかった。だが逃げようとは少しも、思わなかった。
距離が限りなく零に近づいた、その瞬間。


ざあぁぁぁぁ・・・


二人は同時に固まって、そのままの体勢のまま、ぎこちない動作で空を見上げた。
「あ、雨、ですか…?」
闇空に星かあった、故に雨が降らない、というのは早計な見立てだったようだ。
恐らく所々空を覆っていたのは薄い雲ではなく、分厚く、雨粒をたっぷり含んだものだったのだろう。暗いからこそ気がつかなかった。
織姫と彦星が流す涙、催涙雨――別の字を洒涙雨とも書く――はしとしとと世界を濡らす。

「これは無いだろう…」
がっくりとうなだれた三成の独り言は小さすぎて幸村の耳に届かなかった。脱力したように三成はうなだれて、そのまま幸村の首筋に顔を埋める格好になった。
「あ、あの、三成さん?」
「………帰るか」
雨は小雨だが、無視出来るものではない。既に雨は2人の髪を、肩を、しっとりと濡らしている。
小さなため息と共に三成は顔をあげて、幸村の手を取った。
「とりあえず一番近いのは俺の家だ。信繁も雨宿りをしていくといい」
「いえ、そんな…」
「風邪を引くぞ。走るぞ」
「は、はい…!」
先のは何だったのだろうか、と幸村はぼんやり思ったが、引かれる手の感覚と、いつもより少し高揚した気分にそれらは有耶無耶になってしまう。


それでも――雨でも――三成と記憶が紡げる事は、やはり幸福で。
雨の中を二人で駆けながら、幸村は小さく微笑んだ。




洒涙雨