時代は駆ける様に廻り、巻き戻しを絶対に許しはしない。 幸村はそれを誰より知っていた。誰よりも実感として、生ける体験者として其れを知っていた。 恒久は存在しない。永遠など無い。 だが、いつかは崩れるだろうと思っていた徳川幕府は長く続いた。 それだけ幕府を打ち立てた時に敷いた家康の体制が考え抜かれていたと言う事だ。 恐らく、耐える事を知り、関ヶ原で西軍を裏切る者達の姿を見て、人の信用などさほどあてにならないと家康は思ったのだろう。幸村はそう思っている。周囲を信用できるものだけで完全に固めた姿からもそれは察せられた。 関ヶ原で西軍につき、打ち首を免れた国はどこまでも冷遇された。 そして幸村の知っている人間は一人、二人とこの世を去り、表向き死んだとされている幸村は死なずに、制度だけが残り続ける幕府の行方を見守ると言う皮肉な結果を生む事になった。幸村は掲げた理想を挫かれた世で、そして最後までその首を狙っていた男が作った幕府の枠組みの中で生きてきた。 二百年という長い時の中で。 だがやはり恒久は存在しない。永遠など無い。 最近になってようやく、幕府に翳りが見えてきた。そこで新しい将軍になったのは徳川慶喜だ。 言うに、徳川慶喜は家康の再来とも称されているらしい。その胆略が賞賛されての事だ。あわよくば傾きかけている幕府を家康のように強固にしてくれれば、という期待もあったのだと言う。 ―――もしかしたら、と幸村が思ったのは事実だ。 仏典で定める輪廻六道があるのだとしたら、それも在り得るのではないかと。 幸村が家康に抱く因果への応酬は並みのものではない。確かめられるのなら、そう思ったのも事実だ。 だが幸村は動かなかった。 時代が確かに大きく動いていた事を幸村は気が付いていた。変革の足音。その歩み寄る音を幸村は聞いていた。 そして案の定、『徳川の流れを清ましめん御仁』は数年も持たずして将軍の地位を退いた。 あの関ヶ原の騒乱が始まりであった事が嘘のような実にあっさりとした、終わりだった。幸村が拍子抜けしてしまうほどに。胸に未だ残る―生を終えるまで幸村が抱えるはずの―石のような思いだけがコロコロと転がる。 これが、終わりか。 あの関ヶ原が起因で起こった、六条で血を吸い、友人と袂を別ち、大坂で決死の戦いをしてまで抗った事への終わりなのか。あの犠牲と引き換えに始まった天下は実にあっさりと終わりを迎えた。滾る激情を刺激さえしなかった。 ――だが時代は血を欲した。 刀は血を、変革には骸を、それは二百年以上のときを経ても変わらない事実だった。 そして京が戦場に、なった。 *** 「何故、このような市中が戦火に…」 関係の無い者は巻き込んではならない、それは戦の定石では無かったのだろうか。その考えがもう、古いのだろうか。幸村の問いかけに答える者はいない。 断続的に響く砲火の音、響く発砲音に幸村は小さく息をついた。幸村が住まいを構えているこの地にも薩摩長州が駆けていく音や、幕府側の武士の怒号が聞こえてきている。幸い此処まで戦場になってはいない、が、それも時間の問題だ。 周囲の人間は既に京から避難し、幸村も道場を畳むしかなくなった。 ――この地を離れなければならないだろう。 尊皇、攘夷、佐幕、と枝葉の分かれた思想の前で人がわかりあうのは酷く困難であるということは誰もが分かりきっていた。どちらかが力で制圧するまで終わらない。根絶やしになるまで終わらない。それが争いの本質であり、戦というものの古来から変わらぬ、姿。 幸村とて、この場所から離れたくは無い。此処には幸村が欠かさずに通っている墓がある。だが時代がそれを許さない。やはり暫しの間は姿を隠さないと何に巻き込まれるか分からないような状況は幸村が最も避けなければならない展開でもあった。戦は長くは続かない。何時かは終わる。その時に戻ってこれば良い。 それに潮時でもあった。 幸村は死ねないと同時に、姿容貌が変わらない。老けない、という事だ。 この場所に留まって道場を開き、10余年。そろそろ身の振り方を変えなければならないと思っていたのも事実だ。 逆に考えれば、この騒乱は姿を眩ませるにはよい機会なのかもしれない。 ふと思い出すのは、誠の文字を掲げた彼らの事だ。 あれから幸村は手合わせがきっかけとなって何度か彼らと顔を合わせていた。今ではもう立派な知り合いだ。たまに手合わせもしたし、冗談と言う名の本気を滲ませた口調で隊士にならないか、幹部にならないか、と言われるほどだった。 だが幸村は頑として首を縦に振らなかった。 知り合いとしての友人としては在れど、命を預けあい誓いを立てる仲間にはなれるはずもなかった。彼らは幕府を守るために戦う。 倒幕の意志は無いとは言え、存続を望むわけでもない幸村の立ち位置とは根本から違うのだ。幸村は傍観者であることを選ぶ。そして選び、それを貫き通すと決めている。幸村が生きる時代は遠く遥かに置いてきてしまったのだ。 ――それが戒め。 命を預けあった―義を誓い合った―大切な人達との誓いは幸村の中で確かにまだ在る。歴史として存在しなくとも、誰にも知られずにあるとしても、幸村が覚えている。だから幸村はもう時代に干渉しない。ただただ、人として在るべき時間の流れから外れた者として、理由が分からないままでも、忘れずに生きるだけだ。 「………」 幸村は窓から外を見た。西の方角の闇空が赤く染まっている。 誠の文字を掲げた彼らは最期まで戦う。今もこの瞬間も戦っている。そんな確証めいた予感が幸村の胸に宿る。 彼らは幕府に仕えながらも、彼ら自身の信念をもまた持っている。そうであれば、退かない。時代に翻弄されながらも刀を持ちつけるだろう。 ――嘗て理想を掲げ戦った、自らのように。 幸村は静かに部屋の奥、襖を開き、桐の箱を取り出す。 錦の紐を解いて、蓋を外せば、それは輝きを失わない美しい姿のままを幸村に表す。 “炎槍素戔鳴”…それは日本神話の破壊神、素戔鳴の力が宿る槍だ。 どんな時にもこの槍は折れることは無かった。長篠の地でも、小田原の地でも、上田の地でも、大坂でも。いつでも幸村と在り続けた、命を預ける事の出来る唯一の武器。 その美しい穂先に幸村の顔が映り、薄暗いはずの室内でまるで持ち主を待っていたかのようにキラリと輝いた。 幸村は久方ぶりにその槍を、持った。 この地を離れる前に、彼らに一目会っておきたい、そんな衝動にも似た想いだけが、ただ今の幸村を動かせた。 *** 既に奉行所の辺りは血の海だった。 刀傷を負わずに死んでいる骸を見て、銃、それも新型だろうと幸村はすぐさま悟った。血の匂いと硝煙と僅かな異臭。この空気は負け戦の時に漂う空気であることを歴戦の猛者である幸村は悟ったが、その境地にまで至る感の良さと経験を積んだ人間はそれほどいまい。 ――これは、負ける。 幸村の想いを余所に未だそれを認めきれない幕府軍は抵抗を続けている。 新型の銃の威力の前になす術も無く、抵抗しては殺される。その姿が長篠の武田と重なった。 これ以上の抵抗は死体を増やすだけだろう。撤退すべきだ。物言わぬ死体にそんな事を思った瞬間、突然現れた軍勢に幸村は無意識に槍を構えた。 瞬時に銃を持っていない事を確認する。目の前を見遣れば薩長側の人間であることが旗で分かった。数は十を過ぎるかどうか。この程度なら十二分に勝てる。 「貴様は誰だ!?幕府側か?」 「いいえ、幕府側でも貴方側でもありません」 「だがその槍は何だ!そんなものを持って、ここに来ているからには申し開きなど出来よう筈も無い」 「…確かにそうですね」 この場の緊張に似つかわしくない苦笑が幸村の唇から零れた。その姿だけで戦いに身を置いている相手側に剣を抜かせるに十分だったようだ。 みなぎる殺気に話し合いの余地は無いと知った幸村が臨戦態勢に入る。場を長引かせて銃を持った味方が増えれば事が厄介になる。 だが、その瞬間狭い路地から飛び出してきたのはだんだら模様の羽織。その人物が見慣れたものであった事に幸村は思わず声を上げていた。 「副長?」 「源次郎?」 二人は一瞬だけ呆けたように見合ったが、状況がそれ以上の猶予を許してはくれなかった。 「話は後だ。行くぞ」 「…はい」 二人がそれぞれの武器を構え、互いの背を守るように同時に踏み出す。 日の本一の武将と鬼の副長の前に敵などあろうはずもなく。 決着はすぐさま、着いた。 * 「――この戦いに参加しないのか」 「ええ」 その問いかけに幸村は静かに頷いた。 あの後、二人で敵を倒し、伏見奉行所まで向かった幸村は事の次第を掻い摘んで話した。ただ幸村を突き動かした本当の衝動は伏せたままで。 そしてこの戦いに参加するつもりはあるかと問われ、返した答えは否、だ。 「中立と?」 問いかける越えにビリビリとした威圧感が何時もより数倍増している。 劣勢を極めたこの戦局で中立だのという言葉は彼らを苛立たせるであろうと言う事を幸村は十分に理解していた。だが幸村も主張を曲げるつもりは無かった。 「…私はただ時代の行く末を見たいだけです」 「見守る?それだけの力があるのにか?」 未だ戦況は逼迫している。むしろこの戦いにおいてどちらが不利かは、もう火を見るより明らかだ。 それを踏まえて幸村の前に立つ相手は、時代を変えるつもりはないのか、その力を生かすつもりは無いのか、そう問うて居る。 「私は信念を持ちません。この戦いに参加する資格が無い」 中途半端な思いで、ましてや何の決意も無く、時代の変革の岐路で先陣を切っていくことは出ない。幸村は言外にそんな意味を含ませる。 暫し二人は見つめあった後、その答えが気に入ったのか、副長の口元に微笑が灯った。 「…そうか、残念だな」 「これからどうなさるのですか?」 まだ遠くから断続的な砲撃の音と銃撃が聞こえ、二人が話しているこの瞬間にも奉行所には負傷者が運ばれて続けている。 「戦うだけだ。信念を貫くために」 その瞳の中に青く燃える決意の色を幸村は確かに見た。 その決意に幸村は静かに頷く。もう彼を止められる術はないだろう。彼ならばこの戦いが負けへの道を転がっている事に気が付いている。それでも、彼はどんな状況に陥ろうとも最期まで戦い続ける。戦い続けようとしている。その先にどんな結末があろうとも。 それは幸村が大坂へ赴いた時の覚悟と良く似ていた。 幸村の持つ槍に視線を落した副長が呟くように言った。 「…良い槍だな」 「ありがとうございます。これは炎槍素戔鳴、と呼ばれるものです」 「そうか。名に恥じぬ素晴らしい槍のようだな」 その褒め言葉に幸村は静かに微笑む。副長も静かに口元を緩める。 「…ご武運を」 「お前も気をつけろ」 その言葉に小さな頷きだけを残して幸村は歩き出す。 どちらもが、もう二度と合間見える事が無いだろうと気が付いていた。今生で最後の会話だ。 そう思った瞬間、幸村は歩みを止めて振り返り、声をかけていた。 「あの、」 「どうした?」 「私の名前は、」 幸村は小さく息を吸って、少しだけ声を張り上げた。今では珍しくなった、戦う覚悟を決めた者への幸村なりの敬意を示す唯一の方法だった。 「本名は真田幸村、と申します」 「それは、」 副長の目が瞠目し、何かを言いたげに唇が少し動く。 だが幸村は何も答える事無く、止めていた歩みを再開させた。 *** そして後に幸村の見立て通り、鳥羽・伏見の戦いで幕府側は大敗を帰する。 新型の銃は射程距離が恐ろしいほどに遠く、連射能力に優れていた。西洋式の軍備のない幕府軍は総崩れだったという。初めて銃を実戦に取り入れ、武田を潰した長篠の戦いの展開をそっくりそのまま倣ったように幸村には思えてならなかった。 そんな激戦を繰り広げられている中、慶喜は部下を置いて江戸へ戻ったのだと言う。 「家康…その戦い方、三方ヶ原の時と同じですね」 幸村は京から離れた地、戦火など関係の無い場所で新たな名を名乗り、その戦いの行方を知った。 江戸へ撤退する際に、慶喜は周囲の意見を十分に聞き、負けるのならば総大将だけでも命を守るのは仕方の無い事だと己に言い聞かせたのだろう。体勢を立て直すためには必要な方法だとも。 だが幸村にはその考え方はどうしても解せなかった。 ふと甦るのはあの戦だ。 六条で散ったかの人は戦場を最期まで見捨てなかった。相次ぐ裏切りの中最期まで戦ってみせた。 あの戦いで家康が有利に事を運ぶ事が出来たのは西軍の離反者が東軍に付いたからだ。 しかし今はどうだ。まるで逆だ。 幕府を相次いで裏切る藩、中立と称して幕側から距離を置く藩。家康が得意とした味方を抱えて外堀を固める方法は取れまい。自ら動き、変革を恐れない者がこの先の時代を動かす。 ――王の玉座の居心地に慣れきってしまった徳川は潰れる。 幸村はそれを悟った。 「…因果なものですね」 不思議と仇を取った様な気持ちは湧いて来ない。ただ、自分でも驚くほど落ち着いている。ただ事実をありのままとして受け止めている。 ――限界が来た、のだろう。 そもそもが長すぎた。二百猶予年も続く天下など崩壊するに決まっている。 綻びは最初は小さくとも、時とともに必ずそれは大きくなる。関ヶ原の後、家康が布いた制度は盤石のものだっただろう。それは見事であったと言わざるを得ない。 しかし必ず綻びが生じる。其れは時が経てば経つほど大きくなる。修正できないほどに。 物量で制した世。関ヶ原での敵がいつまでも冷遇され続ける天下。長州薩摩に付く側の者の中に、関ヶ原からの遺恨を抱く者も少ないという。 時代は変遷する。 もう変わる時が来た。 「……」 幸村はただ静かに思考を巡らせ、空を見上げる。自然豊かな里から見上げる空は青く、澄んでいる。その色が自然と、初めて彼らに会った時に屯所から見上げた空の色と重なった。 かの副長を含め、彼らは江戸に上り、未だ戦っていると云う。戦況は思わしくない。今や旧幕府軍が賊軍となっている。結果が自ずと見えてくるのは、幸村が優秀な武将であり、智将であるが故の事だ。 生き残ってほしい、と幸村は思った。 今や会津へ、そして奥州へとじわりじわりと戦線を押し上げられている彼らに、遠く想いを馳せる。 誠の文字を掲げた彼らに、かつての自分たちが重なって仕方が無い。 武士を守りたいと、信念を守りたいと。それは自らが掲げたものと形は異なれど、性質は同じはずだ。それを戦いの中で守りきって貰えれば、幸村の中の何かが昇華されるような気がしてならなかった。 *** ――そしてほどなくして、五稜郭で最後の戦いがあったのだと、幸村は風の噂で聞いた。 壮絶な最期だった、とも。最期まで勇敢であった、とも。彼の武勇を語り継ぐ話は尽きる事は無い。 彼らは歴史になった。その信念も語り告がれることだろう。黙殺されない記憶は歴史になる。彼らは歴史に壮絶な一頁を刻んだ。逆賊としてでは無く、意志を貫き散った者として。 死ねない幸村は思う。信念を貫いて死んでいった彼らのことを。歴史へと名を残す彼らを。 最大の敬意を持って、思う。 *** 「――信繁?」 ふとかけられた声に幸村は長いようで一瞬の回想を終えた。振り返れば、新しき命でこの世に再び合間見えることの出来た、幸村にとって特別な唯一の存在が幸村を見つめていた。 「ああ、すみません。新選組は人気だなと思いまして」 幸村の視線の先には土産物屋。店頭の一番目立つ所にだんだら模様の浅葱色の羽織が飾られている。 「ああ…生き様が壮絶だからだろうな」 三成の言葉に幸村は静かに頷いてみせる。 時に戦国よりも取り上げられる事の多い彼ら。アイドルのような存在になりつつある、幕末を生きた彼らの本当の姿を知るのも幸村だけになってしまった。 「どれだけ後の世で脚色されたとしても、彼らの本質は正しく伝わるからこそ、人を惹き付けて止まないのでしょう」 遠くを見るように呟けば、三成の視線を感じる。 その真意を誤魔化すように少し幸村は笑い、――今度彼らの墓参りをしよう、そんな事を思った。 |
盛者必衰、生者必滅、会者定離 君よ、忘れる事無かれ、君よ、驕る事無かれ 何もかも変わらぬ恒久の世など、何処にも存在しない。 出会いあれば、別れあり。 生あれば、死もまた在ると言う事を。 生者必滅会者定離 |