パァン、と響いた音にビクリ、と震えた肩。
それは戦場のそれとは酷く違い、三成に奇妙な違和感を残して沈んだ。




遠く、彼方




それは“たまには城下町で買い物でもして気分を紛らわせたらどうだい?”というねねの言葉から始まった。

ここ数日、三成の仕事は多忙を極めていた。
先に行われた戦の戦後処理に追われていたのである。
戦は戦場だけで行われるわけではない。戦に勝てば勝ったとて、同盟の感謝状やら、武功功績の付与など様々な雑務が舞い下りてくるのだ。

そしてその日、偶然にも同時に兼続と幸村が城を訪ねていた。

当然三成に会おうと彼の執務室に向かったのは良いものの、彼の座る場所を取り囲むようにして積み上げられた書状やら巻き物やらに幸村は絶句した。三成は書状に向かったまま、いつものとっつき難い顔をさらにとっつき難そうな顔をして、今にも書状を破り捨ててしまいそうな顔をしていた。

当然集中力の塊の三成は幸村と兼続には気付いていない。

普段戦場で先陣を切って武功を立てる幸村にはこんな雑務など発生しない。
合戦で本陣にいることの多い三成は智将であり、刻々と変化する戦の大局を冷静に見極め、時には苦しい判断を求められる。命のやりとりを先陣を切ってしない代わりにこうした雑務が発生するのは適材適所というものなのだろうが、幸村にはそれが戦場を駆けるよりも酷く恐ろしい雑務のような気がしてならなかった。
三成に“戦の後はこんなに大変なのですか”とも言うのも変な気がして幸村は邪魔にならないようにこっそり帰ろうかともさえ考えていた。

しかし、兼続は違った。
三成の負のオーラをものともせず、どかどかと部屋に入って「大変そうじゃないか」と爽やかな笑顔を三成に向けた。ついでに積み上げてあった書簡の山を崩壊させて。
そのときの三成の顔を彼を知らない者が見たら即倒していたであろう。

そこでやっと、後方に控えていた幸村を見つけた三成が眉間の皺を緩めた。
兼続が“おい差別ではないか”と呟いた言葉を三成はさらりと受け流して、幸村を部屋に通そうとしたのだが、幸村は幸村で三成の仕事の邪魔ではないかと気を利かせ過ぎ、お前が来た後は仕事がはかどるんだ、などと三成が言えるはずも無く。
微笑ましいのかじれったいのか分からない押し問答を繰り返す二人に、これは仕方ない、と兼続が助け舟を出そうとした所、何処から聞きつけたのか知らないが、ねねがやってきた。“急ぎの仕事は他の手の余ってる人にやらせるから、三人でちょっと城下町でも行っといで”と。それは三成に対する思いやりでもあったし、幸村と兼続に気を利かせたものでもあったのだろう。




そんなわけで。三人はそろって城下町に出ていた。

適当に城下町を散策し、最終的に三人は甘味所で休憩を取っていた。日は傾き始め、路地で遊ぶ子らの声もだんだんと減ってきた。
「この頃は随分日が落ちるのも早くなってきましたね」
「そうだな、このままだと今年が終わるのもあっという間かもしれんな」
幸村の言葉に兼続は茶をすすりながら、沈み行く太陽を見た。
「特に三成、お前今日が何日か分かっているか?」
嬉々として兼続が三成に問う。
「いくら忙しいと言っても、日付を忘れてどうする。今日は…」
冗談交じりに聞かれた言葉に涼しい顔をして答えようとした三成の言葉が詰まる。
「やっぱり忘れているではないか!」
兼続が笑い、幸村が申し訳なさそうにしながらも少し吹きだす。
それに不服そうにしながら、それでも幸村が笑っているのならそれでもいいか、と思いながら三成は茶をすすり、兼続が本格的に笑い出した。穏やかな風景に茶店の娘がクスリと笑う。
酷く平和だった。
「全く…日が暮れる。城に戻ろう」
周囲は酷く赤い。幸村の笑顔をこっそり堪能した三成が腰を浮かす。其れにならってまだ笑い続ける兼続と幸村も腰を浮かせた。


「平和ですね」
幸村がぽつり、と呟いた。
城に向かう足は止めずに、じゃりじゃりと砂地の足音が響く。太陽はその半分を隠しており、3人の影を長く伸ばした。
「そうだな」
隣を歩く三成がゆっくりと答え、兼続は同意するように目を閉じた。
「良い事です」
ずっと、続けばいいと誰もが思っていることを三人は知っている。けれどもそれは難しい事だとも知っている。戦乱の世、不安因子は全国に転がっている。
三成が幸村の横顔をこっそり盗み見た。その表情は夕日に照らされ、酷く赤い。
ああ、まるで戦場に立っているかのようではないか、と思い、三成は僅かに瞠目した。

前を見る幸村の目は穏やかだったが、まるでその先の戦場を見ているかのようでもあった。
それが何故か、三成はとても残念だった。

夕暮れは酷く静かだ。城に着き、見張りのものに戸を開けさせる。ギィ、という音だけが小さく響いた。

だからこそ。
その音はやたら響いたのかもしれない。


タァーン、と遠く森の方から銃声が響いた。


「…ああ、狩猟か。そろそろ獣は冬篭りするからな」
兼続は森の方を見て、独り言のように呟く。この時期、何も珍しいことではなかった。
「…幸村?」
しかしそれは怪訝な三成の幸村を呼ぶ声で引き戻される。
幸村は呆然と森の方を、銃声のした方、を見ていた。夕日に照らされて良くは分からなかったが、心なしか顔色が悪い。
「幸村」
少し強めの三成の声で、幸村は我に返ったように三成を見た。頬には一筋の冷や汗。
「す、すいません。何でもないのです」
「何でもないことはないだろう」
幸村の肩を三成が掴む。何かに動揺したような、暗い瞳が三成を映し、三成は言葉を詰まらせた。
夕日の中で時が一瞬、止まる。
夕日の中で世界が赤い。それはまるで戦場のように。

「水か何か貰ってこよう」
その止まった空気を打ち壊したのは、兼続だった。

「いえ、兼続殿、そのようなことまで…」
辞意の言葉をのせる幸村に、兼続は有無を言わせないような笑顔をにっこり浮かべた後、歩き出した。ひらひらと手を振ったのは三成に何とかしてやれ、という意味合いなのだろう。
それは三成にしか分からないのであろうが。

「一体如何したのだ」
夕日の中、三成は幸村に問うた。
他人など放って置けばいい、と三成は思う。話したくなければ話さなくていい。聞こうとも思わない。
そうやって彼は生きてきたし、そうやってこれからも生きていくのだろう、と。

しかし。
幸村にだけは今までの自分が覆される。

放ってはおけない。知りたい、と思う。幸村が思うこと、抱える事全て。
それは童が抱くような感情に似てもいたが、そんなに生易しいものではないと、三成はもう気付いている。

三成の問いに幸村は曖昧に笑った。

銃声が引き金だったことに三成は気付いている。
パァン、と響いた音にビクリ、と震えた肩。
それは戦場のそれとは酷く違い、三成に奇妙な違和感を残して沈んだ。
銃声など珍しくとも何とも無い。戦場では火縄銃を使う事は常識になっていたし、特に先陣を切って突入していく幸村には慣れていてしかるべき音だ。彼はそれだけの修羅場をくぐってきている。
「…あの銃声に何かあったか」
びくり、と幸村の肩がまた震えた。

それは確実に、肯定のしるしだった。

「お恥ずかしい話なのですが」
ぽつりと幸村は言った。酷く小さな声で己を恥じているようだった。三成はその言葉に全神経を集中させる。どんな一言も聞き逃さないために。
「日常の中で銃声がすると酷く驚くときがあります。…戦場では全くそんなことはないのですが」


――長篠か。
三成は唐突に結論に思い至った。


三成は長篠での激戦の事をはっきりとは知らない。ただ、其処に幸村が居て、味方部隊は壊滅し、幸村だけがあの激戦から生き残ったと言う。

人はそれをまるで地獄絵図のようだと言った。
その後、晒されるように置き去りになった武田軍の物言わぬ屍を見た農民の言葉だ。

鉄砲の運用が戦の勝ち負けを大きく左右した。それが長篠での戦いだった。それは良くも悪くも、現在の軍議の際に鉄砲をどの様に活用すべきかは重要な軍略上の議題になっている。
三成は幸村の肩に置いたままの手を見た。じんわりと伝わる体温は幸村が生きている証、そして此処に居る証だ。
しかし今の幸村の瞳が見ているものは此処には無い。遠く遠く、それは時を遡り、彷徨う。

ふと、訪れる穏やかな日常の中で銃声に驚くと言う。
戦場では猛将となる幸村にとって銃声など敵が扱っている武器でしかなく、倒すべき相手だ。


では。
では、真田幸村と言う只の人間に安寧の時は、何時訪れる?


「………っ、」
「三成殿?」
堪らなかった。
戦場以外では穏やかに笑い、まるで命のやり取りをする武人には見えないような、そんな、そんな幸村が。
遠く響く、一発の銃声で、乱されるということが。

「幸村、」
「はい」
「此処にはお前を脅かすようなものは、何も無い」
驚いたような幸村の瞳の中に三成自身の顔が見える。それに三成は酷く安堵した。此処を、見ている。
「何も無い。周りが赤いのは夕日のせいだ。狩猟が行われるのは民が生きるためだ。
……・・・それ以外の理由は何も無い。何も無いんだ、幸村」
まるで祈りのような言葉に三成は何を、と思う。こんな言葉で地獄を見た幸村を引き戻してやれる力など何処にも無いのかもしれない。

それでも。
今は此処にある、と幸村に思ってもらいたかった。

「…はい、」
小さな肯定に三成は弾けた様に幸村を見る。
「ゆ、」
「はい。」
幸村は穏やかに笑っていた。瞳は深遠を見ておらず、憔悴は何処にも無かった。
「……ありがとうございます、三成殿」

幸村は笑っていた。


遠くから足音が聞こえる。兼続のものだろう。もうじき此処もまた騒がしくなる。
太陽は遥か彼方、夜の帳が落ちようとしていた。
「行くか、幸村」
「はい」

また、何処かふとした時に、深遠を覗き込むその姿があったならば。もしこの不器用な手でも許されるなら。
彼を此処に救い上げる事が出来たらいい、と三成は静かに思った。