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それは何時の記憶?



吐き出した息は白い。背中に感じるコンクリートは外気を吸収して冷たく、じわじわと接地面から体温を奪う。
二人は荒れ放題の嘗ての病院――もちろん今は廃墟となって立ち入り禁止区画に指定されている――の床に二人して仰向けに倒れていた。
体のあちこちが痛むのは先まで悪霊と大立ち回りをしていたからで、未だ呼吸が荒いのは病院中を走り回ったせいで、周囲に物が散乱しているのは二人が投げ飛ばされたりしたせいだ。

つまり。一言で言えば二人は今の今まで狩りをしていた。今回は結構ハードだった、命の危険云々よりも体力的に。
そんな事を思いながら二人は体を起こす気になれずに塩や銃の散乱した中で灰色の天井を見上げていた。つまりは疲れて暫く動く気にもなれなかったのだ。大怪我をしているわけでもなく、ただ地味に怪我をしてただ疲れる狩りのほうが疲労感が強い。直ぐに起き上がるのが億劫になる程度には。

しかし何時までもこうしているわけにもいかない。速やかに撤収作業を終えて、この場所からおさらばをしなければならないのだ。インパラで少し走ればモーテルに戻れる。さっさと戻ってシャワーでも浴びた方がよっぽど体にいいし、何よりモーテルは暖房完備だ。ここよりもすこぶる暖かく、そして快適だ。ああ早く帰りてぇなちくしょう。インパラでもいい。インパラには少なくともヒーターがあるしシートはそれなりに居心地がいいじゃねぇか。ここは寒いし床は固い。

そんな恨み事をディーンがつらつらと考えながら、何となく腕時計で時間を確認して、長針と短針が示す時間を見た瞬間、思わず力が抜けた。
――さっさと撤収しようと言う気が失せた。

「サム」
「なに?」
「日付、変わってるぞ」
その言葉にサムも同じように腕時計を見る。サムもその時間を確認した途端、脱力したように腕を再びコンクリートの上に戻す。
「…ホントだ」
「こんな年越しかよ…ちくしょう、もう今年一年が見えたな」
「それを言うな。それを」

二人が乗り込んだのは年も終わりの31日の夜。悪霊には過ぎ去る年も新しい年も関係ない。一刻も早く人を救え――そんな父親の教えと使命感に忠実に従った二人は病院に乗り込んだ。狩りなどさっさと終わらせて、こんな根なし生活でもそこそこ穏やかに年越し――ディーンはバーでも良かったが――をしたかったが、現実は思った通りにいかない。
結局は狩りをしての年越しだ。しかも気が付かないうちに。

「…一応ハッピーニューイヤーって言おうか?」
「やめとけ。余計にむなしくなるぞ」
「……そうだね」
サムが吐息だけで苦く笑ったのを合図に、ディーンは上体を起こしてから勢い良く立ち上がった。体の至る所に纏わりついた埃を気休め程度にはたき落としてから、ディーンはまだ仰向けになったままのサムに手を差し出す。
「サム」
「ああ」
帰るぞ風邪をひかない内にな、と続けたディーンの差し出した手にサムは小さく笑って、手を差し出した。その手を強く握ってサムが起き上がるのを手伝う。
「ディーン」
「何だ?」
「これって僕たちらしい新年の迎え方だけど、」
「ああ全くもってその通りだな」
「たぶん今年もこんな感じなんだろうね」


あの時お前がごくごく自然に笑ったから。こんな生活でも、その“らしさ”俺も思わず笑って。これでもいいかと思えた。不思議な事に、これが続くと信じていた。それは盲目的に。

――握ったその手はとても暖かかった事を今でもしっかり覚えている。
とても暖かかった。とても。










ねぇ、それは何時の記憶?



インパラは今日も今日で何もない州道をひたすら真っ直ぐ走る。
次の狩りの街に続く道の周囲から建物が無くなり、僅かな明かりさえ無くなったのは、もう数時間以上前の事になる。それからディーンは景気良くアクセルを踏みっぱなしだったのだからインパラは既に相当な距離を走っているのだろう。ただ夜も更けた道では進んだ距離を客観的に測る指標が無い。見えるのは月の煌々とした明りだけで、それは進んだ距離の目安にはならない。

流れる景色の中に見える針葉樹林の葉には薄く雪が積もっていた。その雪が月に照らされてきらきらと輝く様は美しい。数日前に積もった雪はこの気温のせいで、水に還る事を忘れたようだった。

インパラは走る。次の街に向かって。二人を乗せて。ディーンのお気に入りのクラシックロックの音楽に交じって、ヒーターがフル稼働する中でレゴがカラコロと言う音を奏でながら。

ディーンが居心地のいい沈黙の中で鼻歌でも歌おうかと思った瞬間、口を静かに開いたのはサムだった。
「ディーン」
「あ?」
「車止めて」
「何だ?ゲロか?」
「殴るぞ。…これ」
ディーンの茶化す言葉に律儀に反応を返しながらもサムは腕時計をディーンの目の前に差し出した。
「ああ、なるほどな」
サムが差し出した時計が示すのは23時47分。そして今日は12月31日。サムの言いたいことが分かったディーンは小さく頷き、それを見たサムは小さく笑う。
「去年は狩りで年越しだったから」
そうだ、去年は確か廃病院で狩りをしていて気がついたら年を越していた。寒かった。あれから数日くしゃみが止まらなかったのだから、あれは風邪を引いたという事になるのだろう。そんな事を思い出したディーンは手頃な路肩にインパラを止めた。

二人してインパラを降りると、冬の冷気が頬を刺して、思わず謀った様に二人同時にジャケットのファスナーを上げる。
「寒ぃな」
「冬だからね」
ディーンの素直な感想にサムがインパラのボンネットに腰を預けながら苦笑して告げる。その言葉を聞きながら、ディーンはトランクからウィスキースキットルを取り出してサムに投げた。サムがそれを受け取ったのを見届けて、ディーンもサムの隣に腰掛けた。
「風邪引く前にウィスキーで体あっためるぞ」
普段はあまり飲む事のないウイスキースキットルは一つしかインパラに乗せていない。それもたまに聖水入れになったりするのだから、二人がいかにビールでアルコールを摂っているかが窺い知れて、ディーンはまだまだ若い自分達を柄にもなく思う。
スキットルを二人で交互に渡しながら、ウィスキーを分けあいながら飲む。安くとも度数の高いそれは体を喉から、胃の底からじわじわと温める。

空には瞬く星。雪が降った後の空気は光を阻害する余分な粒子は無く、星の死に逝く輝きを恐ろしいまでに鮮明に伝えてくる。

二人は暫く会話をせず、ぼんやりと星を見ていたが、不意にディーンが口を開いた。
「そうだな。来年はどうするかな」
「あれ?ディーンってそんな事考えるタイプだった?」
ウィスキーで酔ったの?というサムを肘で小さく小突いて、ディーンはサムからウイスキーを奪うようにしてもう一口臓腑におさめる。
「うるせぇ、いいんだよ」
「で、来年は?」

「悪魔も天使も神もクソもない年にする」

サムは何も言わなかった。
しかし静かな空気は壊れずに、今の自分達の置かれている悲惨ともいえる状況を思っても穏やかな時間の流れも壊れない。それにサムも同じ事を思っているような気がしたディーンはもう一口ウィスキーを口に含んで言葉を続ける。
「…で、平和に狩りをする」
「狩りにこそ平和もクソもないと思うけど」
「細かい奴だな」
サムが空気だけで笑う。この一年で色々と、余りにも沢山の事がありすぎたが、今はそれも全て流せるような気がするのは一年の終わりだからなのか、終わりだからこそ新しい始まりに期待を膨らませているのか。ディーンはどちらでもいいと思った。
狩りだけをしていた一年前が、数年前が、少し遠い。それだけ色々ありすぎたのだ。狩りだけをしていた頃が今見ると平穏だったような気がするのは今と比較してしまうからだろう。

サムが小さく身じろぎをする。インパラのボンネットに腰掛けて空を見上げる二人の距離は手を伸ばせば容易く触れ合えるほど、近い。
「でも」
空を見上げたままのサムが小さく唇を開く。その唇から零れる白い息を視界の隅に入れながら、ディーンは空を見上げたままのサムの穏やかな顔を見る。その横顔が心に焼きつく。

「たまにこうやって夜空見られれば、それで」

そうだな、と口には出さずに内心で呟いてディーンは腕時計を見る。59分になっていた。
「サム、後5秒で0時になるぞ。5、4、3…」
「ディーン、来年は平和になるといいな」


――2、1






「ディーン?」
ふ、と意識が浮上する不思議な浮遊感。その感覚に任せて目を開くと蛍光灯の明かりが容赦なく瞼を刺激してディーンは眉を顰めた。明るい、此処は明るすぎる。
「少し飲み過ぎた?もうじきカウントダウンよ」
遠くで子供の達の話す声、そして談笑する声も聞こえる。
そうだ、カウントダウンのパーティーをしていたんだった、それであまりにも平和に時間が流れたせいで睡魔に抗えずうたた寝を。そんな事をディーンは思いだした。

――そして先までが全部夢だった事も、解ってしまった。

ああ何でだどうしてだこんな普通の生活が何で現実なんだ嘘だろこれは嘘だこんな年越しあるはずがない。こんなの考えても見なかったし、あの頃これが欲しいだなんて一言も。ただ、ただ。これは何か変だこんなのは何か何処かおかしくて、そうだ、そうだろ?廃墟の病院かインパラのボンネット、それが年越しの姿じゃなかったのか、ああ嘘だろ冗談だろこれが夢だこっちの方が夢だろさっきまでの方が現実で今俺が夢を見ているはずで。なぁサム…サム。

「ディーン?」
現実に引き戻す声が聞こえる。今や失った存在の声ではない、耳に滑り込む弟のものではない優しい声。

ちくしょう。ああくそこれは夢じゃない醒めない夢だ。幸福な悪夢だ。幸福の皮を被ってべったりとまとわりついてはなれない幸福で不幸な現実。快適で不快で、欲しくて望んでなくて、与えられて自分で手に入れたものじゃない幸福で不幸で平穏で束縛。ああ何でだ何でこうなった。

願ったのは天使も悪魔も神もクソもない未来だったけれど、お前のいない未来ではなかったはずだ。

そしてサム。なぁサム。お前が願った事は、ただ夜空を見上げたいというほんの些細でささやかな悪夢の中の幸福な現実じゃなかったのか。狩りという平和ではない日常の平和じゃなかったのか。天使も悪魔も関係の無い、ただの、…ただの。
あの夢の中の記憶に戻れるのなら何だって出来る準備はあるというのになんでこんな。
年越しが廃病院の冷たい床だって、寒い州道の路肩のインパラのボンネットで安いウィスキーを分け合う事でも良かった。けれど、お前が願ったささやかな幸せは消えて、願うことさえやめた最大の幸福だけが大きな殻のように俺を閉じこめて出ることが出来ない。幸福すぎる現実。あまりに幸福すぎてこれは悪夢だ。まるで抜け出せない。

「ディーン?ずっと黙ったままでどうしたの?カウントダウンが…」

『ディーン?』
握った手は暖かかった。覗き見た横顔は穏やかだった。覚えているんだ。

ちくしょうサム。

「ディーン?――泣いてるの?」


……ちくしょう。







始まりは優しい現実の中で、