[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
・S5の4話ベースです
『…ディーン、気をつけて』 『お前もな』 どうしてあの時、俺はあの手を離してしまったんだろう。 先に立つ筈の無い後悔を今になってしてみても、もう取り返しはつかないと言うのに。 何かを削ぎ落とし、何かを決定的に失った世界。 そんな世界でも、それでもディーンの呼吸は恙無く繰り返されていた。人間は強くてしぶとい。どんな場所でも呼吸は出来る。例え息をすることさえ苦しくとも。ああ、でもそれは少し違うのか。ディーンは思う。此処は呼吸のし難く、それでも呼吸のし易い世界なのだ。他のどの人間には苦しくて苦い世界でも、ディーンにとってはそうではない。そもそもディーンはこんな世界になる前から異常な環境に身を置いていた。ハンターという環境だ。人に不審がられないように、ひっそりと隠れながら生業にする環境。今はそれが恒常化しただけだ。ハンターという身分を隠さなくても良いし、大手を振って悪魔祓いをしても胡散臭がられない。逆に有難がられる程だ。それに加えて、前よりも葛藤も道徳心も消えかかった油性マジックの落書きのようになってしまえば、前よりもずっと呼吸は楽だった。 そんな事を考えながらディーンは先刻手の中に戻ってきたばかりのコルトをしげしげと眺めた。 鈍い光沢を放つそれは6年程前最後に見たときからそれほどその様相を変えていない。少し細かい傷はあったものの、ディーンの記憶と見事に一致していた。本物だ。本物のコルトを手に入れた、やっと。やっとだ。 唯一悪魔を――何でも殺せる――その曰く付きの一品が各地を渡り歩きながら、それでも致命的な損傷さえなかったのは流石としか言いようがない。何でも殺せる銃。そう、何でも。 ディーンは僅かな感慨を抱きながら、それでも険しい表情は崩さずに、銃身に触れてみたり、構えてみたり、銃弾の装填を確認したりと、その存在を存分に確かめながら、ずっしりと手に掛かる重さを思い出すように馴染ませていく。 何でも殺せる。そう、何でも殺せるのだ。何でも。ルシファーも殺せる。――その器ごと。 『一緒に行動してなかったのか』 不意に甦るのは日中のやりとり。酷く狼狽した様子を必死で隠そうとしながら、それでも動揺を隠せていない過去から突然現れた自分の言葉に、ディーンは自嘲するように笑った。他人は騙せるかも知れないが、何せ自分だ。自分で自分は誤魔化せない。狼狽と動揺は手に取るように分かった。 しかも5年前の自分など今の自分から見れば余りに生ぬるい。過去の自分など自分が一番良く知っている。あれはまだ甘い頃の、甘い考えで動きなら、葛藤していた時期の自分だ。懐かしくも忌々しい自分が辿ってきた軌跡。そんな過去の自分の思考が分からないはずがない。 ああ、そうさ。この5年。一度も会ってない。最後に見た弟の姿は、自分が怖いのだと言って、謝罪をしてから“ハンターをやめる”と告げて去っていく、その遠い後ろ姿だ。 もう、5年。5年だ。会っていない。 姿さえもおろか、最後に携帯電話越しで決定的な別離の言葉を告げてからは声も聞いていない。 あの時、次の再会がその弟を殺す時になるなど、一体誰が想像し得たというのか。 あまりの皮肉にコルトに視線を落としたまま無意識に口元が歪むのは誰への嘲りなのか、ディーンにもよく分からなかった。 だからルシファーを殺す。それは使命でもあり、ある種の私念だったのかもしれない。 仲間の命を囮にしたと非難されたとて、ディーンにとっては他人の命の犠牲もルシファーの存在へと至る為の過程の中の一つでしかない。詰まる所、他人の命と天秤にかけて何が重要か判断し、切り捨てる事が今の自分には出来る。今は何を置いてもルシファーだった。何かを得るために何も失いたくない等所詮不可能で、それを望むことこそが傲慢だとディーンは長くも無く、短くも無い5年――そしてクロアトアンの侵食の中で学んだ事だった。道徳心など決断を鈍らせる、躊躇は弱さの象徴。――そうディーンは思ってきた。 遠くで耐える事無く響く銃撃の音。その音に仲間が上手く囮になっていることを、ただ事実として認識し、それ以上は何の感慨も抱く事なくディーンが踏み込んだ先。 ――その存在は居た。 見慣れた後姿。思わずその名を呼ぼうとしてディーンは奥歯を噛み締めた。違う、もう弟ではない。器を手に入れた魔王の姿でしかない。間違えるな、と必死に言いかせるが、それでも一瞬、胸を鷲掴みにされたような息苦しさはディーンが暫く経験した記憶の無い、酷く人間らしい感情だった。 「ルシファー!!」 息苦しさを無視して、ディーンはありったけの憎悪を込めて魔王の名を呼んだ。強くコルトを握りなおす。必ず仕留める、仕留めなければならない。この銃で、この手で。ルシファーを殺す。その後など知らない。ルシファーを殺した後などディーンには無い。その先など何も考えていない。考えられなかった。 ただ、振り返ったその顔が見慣れて――見慣れすぎたものであっても、決して動揺しないように強く地に付いた両足に力を入れる事だけに意識を集中させる。 ディーンの酷く怒りに滲んだ声と覚悟など気にも留めていない様子で、ルシファーがただ声の主を確認する為だけだという風にゆっくりと振り返る。そしてディーンの姿を視界に捉えて、一拍置いてから得心行った様に少し顎を引いた。ゆったりとした優雅な仕草にディーンの怒りは益々増長する。 「ああ、君か」 ディーンの事など敵だとも思っていないような穏やかな声と表情にディーンは無言で睨みつけながら、コルトをゆっくりと構えた。 「それは?…ああ、コルトだね?」 「今すぐサムから出ていけ」 ディーンにとってはそれがルシファーに向けた最後通牒のつもりだった。如何に魔王と言えどもコルトが恐ろしくないわけが無い。ディーンはそう目論んでいた。 何を言っているんだお前は、撃て。今すぐサムごとルシファーを殺せ、此処に来るまで散々そう決意して来ただろう?何を甘い事を言っている、馬鹿か。 ――そんな声が脳内に木霊する。それでもディーンはその声を無視した。 器が無ければルシファーといえど何も出来ない、ならば追い出すことも無益ではないはずだ。ディーンは昨日までの自分が聞いたら眉を顰めるような事を免罪符に使ってみせた。矛盾には気がついている。矛盾を知っていて尚、それでも言葉は口をついて形に為っていた。 しかしディーンの思惑に反して、ルシファーはコルトに僅かな感情の起伏も見せなければ、他の悪魔のように虚勢を張りながら言いくるめるような勝気な言動もしなかった。ただ少しその両眼を僅かに細めただけだった。 「君は不思議な男だ」 「何だと?」 遠くで絶え間なく響いていた銃撃音が断続的なものに変わっている。ルシファーはそれを眼を閉じて聞き入ったような仕草を見せて、またその瞳を開く。 「君の仲間は君の戯れ言…妄言かな?を真っ正面から信じて、命を投げ出している。しかも今も君に騙されているとは知らないまま」 「黙れ、何が言いたいのかはっきり言え!」 思わず怒鳴ったディーンの剣幕をそれでも気にした風でもなく、ルシファーは人間の愚かさを慈しむような表情さえ浮かべて、ゆっくりと口を開いた。 「仲間の命を捨て石にして、未だサムを救おうとしている」 ぎくり、とした。 「―――、ッ」 「そういう剥き出しの感情は嫌いではない。…しかしサムを渡すつもりはない」 渡すつもりは無い、その言葉と、ディーンの触れられたくはない本音を無造作に暴かれた事への怒りで視界と脳内が瞬時に真っ赤に染まった。激情に促されるまま、ディーンはコルトを構える。 しかしルシファーはそんなディーンに不思議そうに顔を傾けただけだった。 「ディーン、それで私を殺せると?」 「……何だと?」 「言葉のままだよ。それで私が殺せると君は愚かにも今この瞬間も信じているのかい?」 まさか。コルトで殺せない等そんな馬鹿な。 考えもしなかった事態にディーンは内心で動揺しながらも、その言葉が真実である確証など何処にも無いし、撃ってみなければ誰も分からないと気を正す。 「――どうかな。試してみないと分からないだろ?」 「絶望したいのなら試すといい。“サムの体を“撃てばいい」 さぁ、と両手を広げたその姿に即座にディーンは心臓に真っ直ぐ照準を合わせ、撃鉄を起こす。 「……ッ、」 だが、ディーンは引き金を引けなかった。どうしても、引けなかった。 「撃てない?困ったね」 「黙れ……!」 撃たなければ。この地獄絵図のような光景が永遠に続くことになる。そう、今この瞬間を置いて他に無い。この時を夢見て今まで色んな策を打ってきた。ここで躊躇うなどあってはならない。決してあってはならないのだ。 しかし、思わず一瞬視線を逸らせたディーンの耳に届いたのは、自分の耳を疑うような懐かしい声色だった。 「ディーン?僕を、撃つの?」 その声に反射的にディーンはサムを見ていた。ルシファーがサムの真似事をしてみせていると分かっていても、コルトも何もかもその瞬間全てがディーンの頭の中から飛んだ。 ―――サム、 目の前に居るのはサムだった、声も表情も仕草も、サムだ。 「ディーン?」 呼ぶな見るな。呼ぶな見るな呼ぶな見るな呼ぶな見るな。その声でその声色その瞳で俺を呼んで見るな、そう言いたいのに喉が詰まったかのように声が、出ない。 サムはもういない。デトロイドでルシファーを受け入れた瞬間にサムは居なくなった。目の前には最良の器を手に入れた魔王しかいない。分かっている。分かっているが、理解は出来ても、感情がついてこない。 「くそ、」 照準がブレる。真っ直ぐ心臓を捉えているはずの銃口が僅かに震える。だってサムだ。サムなんだぞ。5年も会えなかった弟の存在がある。形がどうであれ、今、目の前に居るのは、サムではないのか。 2年前、クロアトアンの汚染が始まった時、ディーンはサムに連絡を取ろうとした。しかし遅かった。 ディーンは躊躇したのだ。まだ大丈夫なのではないのか。何とかなるのではないのか。そう思った。前のように忽然と汚染された町から人が消えて騒動が収まった様に、今回もそうではないのか、ならばサムにまだ連絡をせずともいいのではないのか。そう思った。 しかし大都市から始まった汚染は止まる事を知らず、感染は脅威のスピードで拡大した。そしてあっさりと通信網の断絶を招き、ディーンが意を決して携帯のコールを鳴らした時には既に連絡は取れなくなっていた。ディーンは完全に後手を取った。 結果、別離を容認した自分への嫌悪はサムへの負い目になり、離れた地で人を救おうと行動している優秀なハンターの名がサムだと分かっても、それでも“互いが人を救っているのならわざわざ会う必要は無い”と自分に理由をつけては言い訳をし、会わないで此処まで来てしまった。 ――来てしまった結果が、これだ。 「ルシファー、貴様だけは…!」 この世の地獄を終わらせる。確かな決意の裏で、抑圧してきた本音が疼く。 此処まで来て、例え仲間を見殺しにしても、囮に使ってでも、まだ必死でサムを取り戻そうと必死で考えを巡らせてしまっている。ルシファーをサムの身体から引き剥がす方法を今この瞬間にも必死で考えている自分が確かに此処に居る。 「君はサムを殺せない」 ルシファーは穏やかな表情で告げる。そんな事はディーン自身がもう疾うに気がついていた。 死線を掻い潜りながら、サムがルシファーを受け入れた理由を考える日々の中で、ディーンは少しずつ躊躇と道徳心を削ぎ落としていった。正義のためだからと、ルシファーを殺すためだからと、嫌悪していたはずの拷問をする事も躊躇わなかった。 そんな時愕然としたのだ。それは嘗てサムがしていた行動ではなかったかと。サムがリリスを殺すために動いていたときの行動原理と同じではなかったかと。気がついて愕然とした。 だがサムは踏みとどまり、自分を恐れ、ハンターを止め、別離を選んだ。それが5年前だ。 ディーンはこの2年で踏みとどまった事も恐れた事もなかった。 ディーンはその時悟ったのだ。サムの傍に居ることで、道徳心やら躊躇やら兄の心だとか、苦悩や苦悶を維持できたのではないかと。――それは忌避すべき弱さだと思っていたが、人間足らしめる重要なものだったのではないかと。 サムと別れたのは、ディーンにとっての人生最大の誤りだったのではないか、と。 「サムを返せ」 「サムを捨てた君が言うのか?」 もうその表情はルシファーの慇懃な笑みに変わっている。ああくそ、と思った瞬間視界は反転し、湿った土に香りが鼻についた。そして首にかかる強烈な圧迫感で、ディーンはルシファーに首を強く圧迫されるように踏みつけられていることを知った。 「サムは私のものだ」 「サムはお前のもの、じゃ…ねぇ、よ」 ままならない呼吸の中で見上げたその顔はぞっとするほどの穏やかな表情をしている。 サムの表情はそんなものではない。 覚えている。イタズラが成功して珍しく声を上げて笑っていたあの日、――ムッとしたガキのような顔。そういう表情が出来る弟だった。覚えている。捨ててきたと思おうとして、捨てられなかった記憶の中に確かにある。ただその記憶だけがこの絶望的な状況の中でも不思議と安寧をもたらす。 狩りを一緒にしてきた5年。そして1人で行動するようになって5年。2人で居た時は色々あった、家族を求めながら家族を煩わしいと思った事もあった。 それでも独りの5年よりもサムと一緒に過ごした5年の方が遥かに楽しかった。苦しみも含めて人間らしい時間だったと今なら言える。 しかし今となっては全てが遅い。遅すぎた。決定的な間違いはもう修正できない。世界を救うなんて崇高な目標を掲げていても、サムの姿を見ただけでこのザマだ。そしてそのサムの姿もサムではない。本当の意味でサムに会えてはいない。それが酷く無気力さを伴った脱力感と絶望をディーンに運んでくる。 ――サム、お前にはもう会えないのか。 酸素の回らなくなってきた頭では思考がよく働かない。視界も霞む。世界を救えなかった事よりもサムに会えないと言う現実を強く叩きつけられ、ディーンは不意に泣きたくなった。 その時、駆けつけてくるもう一つの気配をディーンは確かに捉えた。 姿を見せたのは、すぐに2009年に戻るであろう、自分。 目を覚まさないように思いっきり殴ったつもりだったが、案外早くに目を醒ましてしまったようだ。その表情は想像を絶する光景に驚きで目を見開いている。無理も無い。そう思ったが声は出ない。踏みつけられた首から骨の軋む奇妙な音が届く。最期が近い。最期だからこそ、過去に戻れる自分に伝えたい本音があった。それでも声は出るはずが無く、ただディーンはこの結末を見せ付けるように、そして無言の訴えを自分が受け取ってくれる事を願いながら、ただ視線だけを送った。 なぁ、ディーン。2009年に戻れることの出来るお前に、今なら伝えてやれる。 お前はこの状況と結末を見ても、ミカエルを受け入れたりはしないだろう、自分の事だ、解ってる。 ――だから。 ディーン・ウィンチェスター、お前は手を離すな。 サム・ウィンチェスターの手を決して離すな。 お前の弟はお前を弱くはしない。人間として削ぎ落としてはいけない何かを、強さと時には弱さをくれるたった一つの存在だ。その存在を失うな。失えば人間として決定的な何かを欠落させる羽目になる。 だからお前は俺と同じ過ちを犯すな。そしてこんな後悔と自嘲の中で終わるな。 ――こんな風に、なるな。 |