>>S5-17「バビロンの淫婦」幕間妄想
“ディーン、これあげる” どうか大事な人を守れますように。 そんな願いを込めて。 酒屋の酒を店丸ごと一軒分…文字通り、店一軒分の酒を全てたいらげてしまったカスティエルは生まれて初めて酔いというものを経験し、そして酔いが引き始めると同時にやってくる倦怠感や僅かな胃の居心地の悪さ、そういうものを感じはじめながらモーテルのソファに深く腰掛けて背を預けていた。自分自身でも酒臭さが鼻を突いてまた脳をやんわり刺激する。この分ならば、周囲にいる人間には相当の匂いを運んでいるだろうと容易に想像できたが、それを構っている余裕は今の彼には無かった。 ――神はこの事態を知りながら何もしない。くそったれ。 そんな思いが嘗ての天に忠実で、今も神には忠実であるカスティエルに絶望をもたらし、自暴自棄にさせていたからだ。 「キャス、水。飲める?」 「ああ、すまない」 目の前に差し出されたベットボトルにカスティエルはのろのろと顔を上げた。目の前には苦笑しているサム・ウィンチェスターの姿がある。そんなサムに天使は何も言えずにペットボトルを受け取ると、彼もまた何に言及するでもなく元居た場所に戻っていった。 酔ったときには水を飲んで体内のアルコール濃度を下げるといい。これも最近になってカスティエルが学んだことだ。人間の体は随分厄介な構造になっていると思ったものだが、そもそも酒を飲む天使もいないだろう、とすぐに気がついて僅かに苦笑したのも事実だ。 カスティエルは素直にサムから水の入ったペットボトルを受け取り一気に飲み干す。開けたばかりのペットボトルは程なく半分以下に減り、そこでやっと彼はサムをぼんやりと見つめた。 カスティエルが酒を浴びるほど飲んでいる時にも世界は確実に黙示録に沿って終焉に向かっている。天使一人が酒を飲もうと自暴自棄になっていようと世界の大局にはさしたる影響を及ぼさない。当たり前だ、カスティエルは傲慢ではない。だからこそ、最後の頼みの綱、神の助けが必要だった。だが助けは無い。プランBなど存在しない、この状況で手立てが無い。 「……」 全ての状況が世界は緩やかに破滅の道に向わせようとしていても、カスティエルの視界に入るサムは今もそんな運命に必死であらがいながら今も人を救おうと山のような資料に目を通していた。 彼はまだ諦めてはいないのだ。少しも諦めてはいない。神が傍観を決めたこの世界の当事者として足掻いている。現にカスティエルに電話をかけてきた彼は、カスティエルの助けを疑っていなかった。否、また諦めていないでくれと言外で告げるように、助けを疑わない振りをしている姿が何となく察せられた。そんな姿にカスティエルも何も言えなかった。全ての希望を奪われて、絶対唯一の神に暴言を吐いたというのに、それでもカスティエルはサムの助けに応じた。人間が悪魔の襲来に苦しめられているという事実と、黙示録への抵抗をカスティエル自身も諦めたくなかったのかもしれない。若しくは諦めた様子を見せないサムという存在に何かしら目を覚ませられた、そんな表現でもいいのかもしれない。だからカスティエルは此処に来た。 「サム、」 「どうしたの?」 「…いや、何でもない」 「まだ酔ってる?」 小さく笑ったサムはそれでもカスティエルが浴びるように酒を飲んだ理由を一言も聞きはしなかった。おそらくこういうものを人間が定義する気遣いと言うのだろう。 カスティエルにとってサム・ウィンチェスターは数少ない…むしろ殆ど居ない友人と呼べる存在の一人だ。むしろ最初は人間でありながら悪魔の血を抱き、ルシファーを解放する最後の鍵を握るものとして天に忠実な僕であったカスティエルからすれば、忌避すべき人間と言う印象が強かった。 しかしそれはカスティエルが自分の意志を持ち、自らの善悪の基準でもって行動するまでの嘗ての自分の自己基準に照らし合わせていたときの話であり、あくまで過去だ。共に行動する機会が増えるにつれ、サムの人となり―理性的であり、分析能力に長け、判断能力もあり、実直な性格であるだとか―そういう物を理解するようになった。 つまりカスティエルにとってサム・ウィンチェスターという存在は過去のステレオタイプ的な見方から脱却すれば、信用に十分に足る人物であり友人という事になる。だからこそカスティエルは此処に居る。 そこで今更ながらにディーンが居ない事にぼんやりとした違和感を感じながら、部屋を見渡していると、ある一点でカスティエルの視線が止まった。 「それは、」 視線の先。そこには何度か見かけたことのあるサムのバックがあり、ファスナーが小さく開いたその場所からは、カスティエルの見慣れたものがあった。 ディーンのアミュレット。神の存在を示すもの。しかしカスティエルが神の傍観を知り、ディーンに返したそれだ。 「ああ、これ?元々僕がディーンにあげたものなんだ」 「…それは初耳だ」 “言ってなかったからね”と続けたサムは少し苦笑するように小さくアミュレットを持ち上げて、ただ静かに純色に光るそれを見つめた。口元は確かに小さく弧を描いてはいたが、それに反してその瞳は複雑な色を湛えながら、ただ室内の暖色の光を反射して輝いている。憧憬、邂逅、寂寥、そんな複雑な色だ。 「聞かせて欲しい」 「え、」 気がついた時には口走っていた台詞に驚いたのは確かにサムだったが、それと同じ程度にはカスティエル自身も自分の言葉に驚いていた。 「どういう経緯でそのアミュレットがディーンのものになったのかを。――もちろん強制ではない」 「キャスは本当に真面目だと思うよ」 どういう意味でサムがその言葉を言ったのか、カスティエルにはとんと分かりはしなかったが、貶されているわけではない事は声色からすぐに分かった。言葉の意味に若干の疑問を残しながらカスティエルはサムを見つめたが、サムは少しだけ笑って、そのアミュレットを壊れ物を扱うように手に取った。殊更優しく。 「クリスマス」 サムにしてはあまりに簡潔すぎる言葉。その言葉にカスティエルは静かに言葉の続きを待った。その視線にサムは気がついているのかいないのか、独白のようにポツリポツリと言葉を続ける。 「クリスマスプレゼントだったんだ。僕が8歳か9歳の時にあげた」 「随分と、前だな」 今のサムの年齢を考えれば人間にとっては昔という事になる。カスティエルにはアミュレットの類の耐久年数は知らないが、それでもそのアミュレットがディーンと共に過ごした時間は伊達ではないはずだ。 「僕はその時まで親父がハンターだなんて知らなくて。ディーンはもちろん知ってたけど、僕をそういう真実から遠ざけようとしてくれてたのかな。とにかく僕は知らなかった。そしてディーンも知ってて何も言わなかった。けど、その年のクリスマスは違って。僕が強請ってディーンから真実を聞き出した。親父が隠してた事を。その時までこのお守りは親父にあげるつもりだったんだけど、唯一真実を教えてくれたディーンにあげたんだ」 「ディーンはずっと、これを?」 その言葉にサムは何も言わなかった。ただ少しカスティエルとアミュレットを見て、目を細めただけだった。 「……すまなかった」 「どうしたの?」 「これをただの道具扱いしてしまった。これはその、よく分からないが、思い入れ、というものがあるのだろう」 だからこそあのアミュレットでなければならなかった理由をようやくカスティエルは理解した。効力のあるアミュレットはこの世にごまんとある。それでもこのアミュレットでなければならなかった理由はそこにある。思い入れと念という、実に曖昧で目に見えぬ確かなものがあったからこそだったのだ。神を見つける道具として、そのアミュレットは最も適していた。だが神の不在を望む発言で意味を為さなくなった。カスティエル自身の価値観にとっての、アミュレットの価値は下がったと言っていい。 しかし、だ。 神が姿を表さないと知ったとき“役に立たない”とまで言ってしまった事を思い出し、カスティエルは僅かに居たたまれない気分になった。あの時のカスティエルの言葉に嘘はない。嘘をつかないカスティエルの言葉はそのままが裏表ない本音だ。それをカスティエルは理解しているし、嘘を言う理由も世辞を言う理由もカスティエルには見いだせはしない。神を見つけるためのアミュレットとしての価値は無い。カスティエルにとってそのただ一点に於いては意味がないのだ。しかし、それでも。 そんなカスティエルらしく、そして天使らしくない葛藤を見抜いたサムは静かな表情を崩さなかった。 「いいんだ。それとこれとは話が別だし、キャスなりの理由で動いて当然だ」 「しかし」 “いいんだ”もう一度そう言って、サムは静かにそのアミュレットを彼自身のカバンの中に戻す。先よりも奥の方に。誰かからの目から隠すように。 「しかし何故それをサムが持っている?」 「それは」 そこでサムは今日初めて、言い淀んだ。そして再び開いた資料に目線を落としてぽつりと言った。 「あの後、ディーンが捨てたんだ。で、僕が拾った。…一応、ね」 「…」 「ディーンも神の意志に絶望したんだろうし。いいんだ。天国でも少し色々あったし、仕方ないよ。それに」 アミュレットを信じられなくなったならそれでもいい。 「全部、自業自得、だから」 そう続けてサムはやはり少し笑った。何故笑顔を浮かべられそうに無い感情を滲ませながら笑うという器用な所作が出来るのかカスティエルには分からなかった。 ただ、カスティエルは何も言えなかった。神に絶望し、この現状に嫌気がさしているディーンの気持ちもよく分かる。だがアミュレットを手放すに至ったディーンの複雑な感情の果ては分からない。そこにはカスティエルの知らない兄弟の時間が土台になっているのだと分かっていたからだ。 だがサムはどうなのだろうか。 目の前で捨てられ、地面に落ちていくアミュレットを見、それをどんな気持ちで拾ったのか。矢張りそれもカスティエルには分かる筈も無かった。 カスティエルの視線の先に居る、魔王の器という運命を突きつけられた青年はもうカスティエルのほうを向いていなかった。資料と文献に目を落とし、天使のお告げとやらに妄信的な行動を捧げている村を救うために、その脳内では慌しく思考を巡らせているのだろう。 ただひたすらに自分の行いに悔いながら、ただ前に必死で進もうとする姿が彼のこの先の進む先にどんな選択肢を与えるのか。 カスティエルはまた分かりもしない未来を考え、出ない答えにそっと嘆息した。 “ありがとう。大事にする” どうか、どうか。 ただ優しい願いだけを君のために捧げて。 |