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もう会うことはないだろう。 と思っていたのに、再会はあっけなくその2日後にやってきた。 「よく会うね」 「…どうも」 のろりと僕は顔を上げて、その声の主を見た。また会った。すごい偶然だと思ったが、この街で一番名の通ったバーだからそれもありかと思い直す。僕はその返事がぶすっとしてしまっているのを自分で知りながらもどうしようも出来なかった。何故なら僕は酔っていて、自制心という名の理性の箍が緩んでいたからだ。 「こんなんばっかですよ」 「何が?」 いきなりそう言った僕の言葉は前後の脈略もあったもんでは無かったが、サムはそれを気にするわけでもなく、少し苦笑してから僕の隣のスツールに腰を下ろした。手にはビール。 まだこのバーには来たばかりなのか、周囲を物珍しそうに緩やかに見回している。そんな水のようなものを飲んでいるならまだまだサムは酔っていないのだろう。まだ最初の数杯もいっていないはずだ。最初に一本ビールを飲んだ後にカクテルとワインを飲んだ僕とは違って。 このバーは僕のお気に入りだ。少し静かだけれど静かすぎないのがいい。そして五月蠅すぎないのはもっといい。 だが今大事なのはその事ではない。全然違う。このバーが静かか否かなんてどうでもいいし、正直このバーが潰れようが今のアルコールで浮かされた頭から考えればどうだっていい事だ。 「僕ばっか頑張ってる気がする。この世は不公平だ。頑張ってるやつが損をする」 「そうかな?」 サムは静かにそんな事を言う。ちょっと憎らしい。僕は水で薄まったウイスキーを飲み干し、自棄を起こした馬鹿な男を頭の片隅で意識しながら、じっとりと隣の男を見上げた。 「そうですよ。要領のいい奴が生き残る。馬鹿でも上手くこの世を渡っていくんだ。そんなの不公平ですよ」 「随分溜め込んでるみたいだね」 ちょっと飲み過ぎじゃないか、なんて苦笑しながらサムは言う。僕も言われなくてもそんな気がしていたが、そんな事で止まれるのなら世の中のアルコール中毒はカウンセリングの力なんて借りなくても疾うに絶滅しているはずだ。サムが全然酔っていない風なのも、穏やかなのも、バーでお綺麗な理性を保っている事が不公平な気がして僕は口をへの字に曲げた。 「溜め込んでますよ、だって」 普通の僕なら曲がり間違っても絶対に言わない事を僕は酔いにまかせて口に出そうとしている。やめておけ、そんな風に言ういつもの僕と、いいじゃないか、この人には言ったって差し支えないだろう、吐き出してしまえ、という酔った自分が背中を押す。 「今日採用通知が来たんですけど。僕の就職先、決まった所が第一希望じゃなかったんです」 そして結局僕は言った。言ったら激しく押し込めていた苛立ちがスパークした。ちかちかと眼球の奥で今まで頑張ってきたクソほどつまらない講義の光景や、レポートをしていた記憶、面接時の忌々しい面接官の顔が甦ってくる。 ちくしょう。何が世界同時不況だ、同時株安だ、リーマンショックの尾を引いている、だ。くそくらえだ。僕が何をしたってんだ、ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。何もかもクソくらえってんだ。 今日は上手く図を挿入したレジュメを使った発表も終わって、教授の評価も上々で良い気分で一日が追われると思ったのに、たった一本の電話で第一希望の会社に落とされ、暇つぶしで受けたような微妙な会社の採用がポストに入っていた採用通知で決まり、全部が台無しだ。今までやってきたことも霞む。 「でも別にいいんです。受かった所はこの州ではそこそこ有名な企業だし。碌でもない所にしか就職できなかった奴もいる。夢を追いかけて卒業してもバイトで生計を立てるとか抜かしているやつもいる。それに比べたら僕はきちんとやれてる」 そんな言葉とは裏腹に、僕の脳裏にはいいところに就職して成功した奴の顔がちらちらとよぎって酒がまずくなる。あいつらはたいした努力もしていないくせに、こういう所だけ要領がいいのだ。就職先でこっぴどく失敗すればいい。挫折して不幸になればいいんだ。 「そっか」 それ以上サムは何も言わなかった。僕にとってそれは言ってくれない方が嬉しいものだったから、ぐらぐらと揺れ始める頭と沸き起こる頭痛んをやり過ごす様に頭を振った。 “昨日の指名手配をされた兄弟についての行方は未だ知れず、州警察とFBIは会見を開き更なる情報提供を求めました。容疑者のディーン・ウィンチェスターとサム・ウィンチェスターは現在も逃走中で…” 誰だろう。無粋にもテレビの音量を上げた奴は。 僕はぐらぐらする頭で音源を探し、顔を上げた。ここはバーと言っても、昼間は食事の提供をきっちしりしているから、古いテレビをカウンター席の上に設置している。夜になると音量は下げられているはずなのに、どこかの酔った馬鹿が音量を上げやがったようだ。 “3日前の彼らの犯行について、現場となったのセント・ジョージア病院の前からレポートです” ああ、またこのニュースか。僕はそう思った。最近世間を騒がせている連続殺人犯だ。 どうやら州を移動しながら定期的に殺人を犯しているらしい奴らで、直近の犯行は3日前の病院での銃乱射だ。何か世間に主義を主張するわけでもなく、ただ殺人を目的として殺人を犯しているシリアルキラーらしい。明確な動機が無く人を殺すことを主目的にするなんて全く以て理解できない。こういう奴はどっか壊れているんだろう。日常生活もまともに送れなさそうな異常者であるはずなのに、何故警察もFBIも検挙にもたついているとは情けない。ましてや街に紛れ込んでいる逃亡犯なら、気が付けない一般人も馬鹿なのなのだろう。 そう言えば。 そう言えば目の前の男もサムだったな、と僕は思った。そして彼の兄はディーンではなかったか。 「……」 嫌な予感がした。 胃の下を鷲掴みにされたような感覚に僕の首の後ろに一気に汗を掻く。そんなまさか。 隣のサムを僕は見た。サムはぼんやりとビールに口をつけながらカウンターの中で慌ただしく動き回る店員を眺めている。頭上のテレビを気に掛ける様子も、何か特段に焦っている様子も無い。 僕はサムがこちらを気にかけていない事を確認して、僕はポケットからスマホを取り出した。右に座っているサムからは見えないように左側にスマホを向け、酔って俯いている風を装った。 勘違いであってくれ、頼む、頼む、と念じながらスマホのブラウザを立ち上げる。視界が酒のせいで少しおぼつかないし、左手でスマホを操作するのは骨が折れる。しかもサムに悟らせないようにするにはもっと難しい。僕はテレビで聞いた名前をウェブブラウザに入力して検索をかける。ディーン・ウィンチェスターとサム・ウィンチェスター。一秒が長い。スマホを持つ手に汗を掻いているのが分かる。ずるりと滑って落としてサムに見られたらおしまいになるんじゃないかと妄想したらもっと汗を掻いた。 検索ワードを入力して決定を押す。画面が真っ白になって少しずつ手配写真の読み込みが始まる。早くしろ。どうしてここも電波の入りが悪いんだ。くそ、死ね。携帯会社の奴ら覚えてろよ。必ず苦情の電話をカスタマーセンターに入れてやるからな。 そしてやっとの事で読み込まれた画像に僕は危うく叫び出しそうになった。 「…ッ、」 嘘だろう、マジじゃないよな、そんなバカな。僕がこんなトラブルに巻き込まれるなんて、そんな、まさか。 逃げなければ。安全な所まで逃げて、警察に電話をしなければ。僕はまだ死にたくない。このバーに居る他の奴なんでどうだっていい。左隣で馬鹿のように声を上げて酒を飲んでいる中年のサラリーマンも、後ろで同僚をボロカスに言っている化粧の濃い女もどうだっていい。僕は死にたくない。まだ死にたくない。 スマホの中の手配写真と一致した兄弟――世間を騒がすシリアスキラー――サムとディーンに殺されたくない。 「あ、あの、僕」 用事を思い出したので帰ります。そう言うのにこれほど緊張した場面に僕は出会ったことは今のこの瞬間まで一度も無い。失敗したら死ぬんじゃないか。そういう風にドラマも映画も小説も出来ているのなら、僕の生きる現実は一体どうなるのだろう。僕は死ぬのか。そんな馬鹿な。ありえない。こんな所で。僕がこんな所で終わるなんて嘘だ。 「かえ、帰りま――」 そう言いかけた瞬間、僕の額に何かがつきつけられた。 ゴリリ、と頭蓋に当たる冷たくて固くて、恐ろしいもの。僕の人生ではこんな場面など絶対にありえないもの。それは。 「……え?」 「動かないほうがいいよ」 声は同じだ。だが目の前のサムはさっきまで浮かべていた人畜無害のインテリ風の空気を軽やかに遠くへ蹴り飛ばしていた。愉快そうに口元に笑みを浮かべ、優しげな瞳はなりを潜めている。まるで今までとは別人のような顔をして僕を見て、嗤い、哂っていた。 瞬間、パァン、と石が弾けるような音がした。 「ひ、いっ…!」 「だから動かない方がいいって言ったのに」 しょうがないな、という風にサムは冷えた表情の中で全然残念がってはいない様子で“あーあ”と呟いている。 僕は死んだ、とその瞬間に思った。いやだいやだ!と叫ぶ間も無かった。死ぬ手前とはこういうものなのか。死ぬということはこんなにも怖いものなのか。僕はさっきまで飲んだ酒の事も何もかも忘れて、恐怖の前で意識は極限まで冴えわたる。 けど僕は死んでいなかった。 ドサッと音がしたのは僕の体ではなかったし、火を噴いたのはサムの銃口ではなかった。僕の身体はぬるりとした気持ちの悪い汗を背中と額にびっしょり掻いていたけれど、僕はまだ息をしていた。 は、は、は、と犬が息をしているような不快な音が僕自身から発せられているのだと分かるまで少し時間がかかる。人間が犬畜生のような声を出せるなんて。僕は固まった頸椎をぎこちなく回して、首を後ろに向けた。 「ひっ…」 そこに人が倒れていた。僕の左隣で大声で話していたサラリーマンだ。頭から大量の血を流して、白目を向いてスツールから転がり落ちて右足をビクビクと痙攣させている。 死んでいる。僕の目の前に死体がある。殺された体がある。僕を襲ったのは死体への気味の悪さと、自分もああなるのかという恐怖だ。 僕はガクガクと震えながら目の前のものを信じられずに見つめていると、周辺から途端に悲鳴があがり、店の中の人間が出口に殺到する。だがその扉の前に一人の男が立ちはだかる。あ、と思う間も無かった。男が右手に持っていたものを構えると、同時にカウンターの中の瓶が次々と割れていく。出口に殺到していた人間は悲鳴を上げながら、その場にしゃがみこんでうずくまる。 「余計な事されると困るんだよな」 出口に立ちはだかって、そう言ったのはディーンだった。手にマシンガンを持ってて、その銃口から薄い硝煙が上がっている。 「だよね」 サムが後ろで絶命したばかりの肉の塊を見遣って、その手に握られたままの携帯電話を不機嫌そうに足で蹴った。携帯電話はカラカラと地面を転がって壁に激突した。その画面には91とまで入力されていた。 きっと911と入れたかったのだろう。同じことをしようとしていた僕にははっきり分かった。この男はげらげらと話しながら酒を飲んでいたように見えて、きちんと指名手配犯がこのバーに居た事に気が付いていたのだ。 僕の背筋がぬるりと湿る。もしも僕の背中を見ることが出来たならそれはそれはびっちょりと濡れていただろう。僕がもしも気が付いていたとサムやディーンにバレたなら後ろの男のように殺されていたのだ。そして汗をかいていたのは僕の掌も同じで、不意に力が入っているのか入っていないのか分からなくなった掌からずるりとスマホが落ちてガシャンという音を立てて床に落ちた。 しまった。 そう思ったが遅かった。僕の転がったスマホに視線を落としたサムはそれを手に取って、画面をみて心底不思議そうに首を傾けた。僕のウェブブラウザに表示された2人の指名手配犯の写真を見ているのだ。 「ああ、君にもバレちゃったのか」 「この街じゃ随分遅かったな」 そんな風にディーンが言うと、サムは小さく肩をすくめた。 「平和ボケしてるんだろ、住人もどいつもこいつも馬鹿そうだ」 「同感だな」 店の中には割れた瓶からたちのぼる僅かなアルコール臭とつけっぱなしのレコードの音が静かに流れ、喧騒は死んで、床にうつ伏せの客たちが恐る恐る2人のシリアルキラーをのぞき見ている。女の恐怖からすすり泣く声が響く異質な空間に響く。2人はそんな光景をさして興味無さそうに見つめて、次の瞬間、瞳の中に奇妙な黒い光を宿した。 「さぁやるか」 「そうだね」 まるで簡単に仕事を片付けるかとでも言う言葉。けれど僕にはその意味が分かってしまった。 殺される。 今から、ここで、銃の乱射ショーが始まる。 嘘だろ、嘘だろ、こんな、嘘だろ。いやだ死にたくない。俺は死にたくない。でも僕の内心の恐怖など関係なく、ディーンはライフルを再び構え、サムはジャケットの中から拳銃を取り出した。いやだ、死にたくない。あれを撃つとは信じたくない。歯の奥が収まりが悪くなったかのように本能的な恐怖で痛む。いやだ。やめてくれ。他の客もみるみる内に顔を青ざめさせ、ますます床に這いつくばるもの、ドアに向かってなりふり構わず走り出すもの、色んな人間の姿が見えた。僕はもう何もできなかった。生き残る方法を考えていたけど思いつかなかった。 パパパパパパと乾いた音が弾けていく。 僕は地面に伏せる。何がどうなっているのか分からない。けれど何が起こっているのかは分かる。撃たれたら死ぬのだ。 体の何処にも弾が当たらないように小さく胎児のように丸まる。いやだ、こわい、死にたくない。悲鳴が響く。聞いた事も無いような重い悲鳴を断末魔と呼ぶことも僕は気が付かずに、肩や足を小さく小さく丸めて、何処にも凄まじい速さで移動する鉛の弾が当たらないように念じた。上から木片がパラパラと降って、僕の頬をちくちくと刺激する。それが机が銃弾で抉られたものだと僕はすぐには気が付けない。そうしてまた声がまた一つぶった切ったように突然消えていく。 どれくらいそうしていたのか分からない。分からないけれど、ずっと連射していればライフルの弾なんてすぐになくなるし、オートマチックの拳銃ならばなおさらの事だ。だからそんなに時間は経っていないのだろう。 静かになった空間の奇妙さに僕は体を起こすまでにたっぷり20秒はかかった。このまま何もかもをじっとやりすごしたかったけれど、何もしない事で被る不利益もまた僕は怖かったのだ。目を開いて、唇を大きく開けて静かに深呼吸を2回繰り返した後、僕はそろそろと顔を上げた。 上げた、けれど、僕はその途端に思いっきり吐いた。 アルコールなど吹っ飛んだと思っていたけれど、酔いはさめても胃の中にたっぷりとアルコールは残っていて、僕の胃袋は店の惨状を見た事で盛大に拒絶反応を起こした。 僕の目の前にあったのは人間の残骸だ。目を見開くもの、逃げようとしたままの体勢で後ろから撃ち抜かれたもの、なすすべもなくカウンターに上半身をもたれかからせるもの。血、血、血、血。死体、死体、死体。気持ちのわるいもの、ただの汚い肉になったもの。そればかりだった。 幸か不幸か、生き残ってこの地上の地獄絵図に直面しているのは僕だけだった。げぼげぼと何回かに分けて今まで飲んだアルコールを床に吐き出しながら、胃液とアルコール臭と息苦しさで涙が零れる。 「な、なんでこんな…」 こんなのは人間の所業じゃない。ひとしきり吐いた後で思わずそう呟くと、愉快そうな声で返事があった。 「どうしてこんな事をって?ディーン聞いた?こいつこんな事聞いてるよ!」 馬鹿だねこいつ。振り返った僕の目の前でサムは愉快そうに笑う。こんな死体ばかりの場所でサムは愉快に笑っている。ディーンは血の匂いをものともせずに、割れた戸棚の中で一つだけ無事だったウイスキーのボトルをラッパ飲みしている。 「そんなの理由が無いよ。シリアルキラーに理由を求めるって、あれだね。猫にどうして寝るのって聞くようなもんだよ。ねぇそう思わない?ディーン?」 「なんだその例え?」 ディーンがからかうように言うと、当のサムはまるで子供のように少し頬を膨らませる。 「意味が無い、ってことだよ」 奇妙な疎外感。それに既視感を覚えた僕はその正体を悟る。昨日のカフェで感じた疎外感によく似ている。しかし何もかもが違う。 なんだ、なんだ。なんだこれ。僕の知っていたサムは今この瞬間は何処にもいない。礼儀を知っていて、控えめで、賢そうで、なんだか親しみの持てそうな男なんて何処にもいない。 カップを持っていた手、握手の時に暖かった手は今やただ冷たい人殺しのシリアルキラーの手。その手再び僕の眉間に銃口を僕につきつける。 ほろ暗い穴。その穴から吐き出さる鉛玉が僕の眉間を貫くと死ぬ。僕は死ぬ。死んだらどうなるのか分からない。神の庭なんてない。いやそうじゃない。僕はただ死にたくない。死にたくないだけだ。ただただそれが嫌だ怖い。怖くて僕の膝が震える。 「井の中の蛙、って言葉、知ってる?」 そうサムは僕に聞いた。僕に優しく話しかけた声は今や冷たく、無邪気で残酷な響きを持つだけだ。 そしてしゃがみこんだまま動けない僕の目の前に屈みこんだサムは、僕の眉間に押し付けていた銃をぐりぐりと動かし、容赦なく痛覚を刺激してくる。ぞっとするほど静かに笑っていながら、僕を果てしなく蔑んでいる。まるで虫を見るかのように。 「君はさ、自分が殊更優秀で、色んな事を自分で出来ると思ってるみたいだけど、」 「ひ…ひっ、」 何か言いたいのに、なんとかサムの機嫌を取って殺されないようにするべきなのに、僕の喉からは、ひぐ、ひぐという間抜けな声しか出ない。懇願してでも、何をしてでも死なずに済むように、プライドも何もかも捨てて、目の前のサムに気に入られたいのに、死ぬかもしれないという恐怖で動けない。目の前のサムは今この瞬間にもそんな僕を不快に思えば殺すことが出来る。引き金を引けばすぐだ。 「君はプライドが高い割に能力が無い。中途半端な会社にしか就職できなかった事を自覚しながら、それでも負け惜しみのように醜いプライドを振りかざす。君はさ、世間を知らなさすぎるし、多様な価値観を馬鹿にしている。自分の持つ価値観が絶対で、それにそぐわない行動をとる人間を馬鹿だと思う傲慢で愚かで、小さな人間だ。そういう人間がこの世で最も馬鹿なんだって知ってる?君はつまらない人間だよ、本当に矮小で卑屈で頭が固く、貧相だ。無害そうな顔をして内心は不服ばかり。愛想の良い顔をしながら、その顔の下では人を批判してばかり。今の現状に不服ばかりを申し立てる。どんな環境でも満足できない強欲さは君から豊かさを奪い、人間として頭を悪くさせる」 何かを言われている、それは僕をとことん侮蔑する言葉だと分かるのに、理解が追い付かない。サムの言葉の半分も意味を捉えきれない。生き残りたい、生き残りたい、そんな渇望が生き残るための判断力をぶっ潰していく。 「夢を追ってチャレンジ、おおいに結構だと思うよ。どんな職業でもいいし、満足できる生き方のために不安定な雇用に甘んじるのもおおいに尊重されるべきだ。そういう生き方をする彼らは君が一生かかっても知らない景色を見ているよ。例え失敗して夢が叶わなくても。経験は土壌を豊かにする肥だ。生きていくためのね。君が切り捨てた経験とはそういう土壌の話だ。土壌が貧相な君の中は上から粗悪な化学肥料をまくばかりで痩せた植物しか育たない。…ねぇ僕の話、聞いてる?」 「ひ、あう、う」 ガクガクと僕は首を振る。嘘だ。何も僕は理解できていない。首を振った反動で視界が揺れて益々何も分からなくなる。 「君は就職してもこのままだ。今度は会社と言うフィールドで君の貧相な人間性がいかんなく発揮される。個人プレーの学校でない分もっと厄介だ。君の実力に伴わない思い上がりが君を益々貧相に、仕事のできない人間にしていくんだ。そして君は馬鹿だからそれを会社や上司や同僚を馬鹿にして心を慰める。人を貶め、世間の価値観の中で君は自分を高めるしか出来ない。まるで自慰だね」 どう思う?と聞かれても僕には何も分からない。何を聞かれているのかさっぱり分からない。僕の見知っていた言語はただの音の羅列に成り下がってしまっている。 「だから」 ゴリ!と今まで一番強い力が僕の額にかかる。痛い。とても痛い。血が出ているかもしれない。しかしそんなこと以上に怖い。ただ恐ろしい。何故こんなことに。僕は今からでもサムの機嫌を損ねずに何とか媚びて生き残る方法を探さなければと思っているのに、何も思い浮かばない。 「君の茶番を僕が幕を引いてあげるよ。君の名前がついた茶番なんて誰が見ても面白くないし、主演の君も舞台から降りたいだろ?可哀想に。馬鹿だな。茶番を馬鹿にしながら、実の所その真ん中にいたのは君だ!」 サムが笑う。 僕も恐怖でつられて笑う。そしてサムが僕を殺そうとしているのだと分かって気が抜けたように笑った。笑いたくもないのに、笑い声だけが僕とは別の意思を持って暴発しているようだった。気持ちが悪かった。 ――そうか僕の人生の方が茶番だったのか。 ひぃひぃと笑い続け、目尻から涙が零れる。死にたくない死にたくない死にたくない僕はまだ死にたくないお願いだ殺さないで。 ころさないで。 *** ディーンは乾いた音を一つ聞き届けて、ラッパ飲みしていたボトルの中身がまだ半分程度残っているのにも関わらず放り投げた。それは空中で幾分かの中身を飛び散らせて床に当たって砕けた。飴色をした瓶が砕け、中身が飛び散って、床に広がる血の海の中に溶けた。 ああ、随分汚い光景だ。ディーンは不快感に鼻を鳴らした。 人を殺している瞬間はスカッとするけれど、それが終わった光景というのはどうにも汚くていけない。床や壁に散る血を汚いとは思わないが、間抜けな顔をして死んでいる人間の顔は滑稽すぎて不快なのだ。動かない肉の塊はまるで精肉所で天井から吊るされている豚や牛や鶏の死体の汚さによく似ている。 「随分長いご講釈だったな」 ディーンがそう言うと、サムは振り返って少しだけ唇の端を歪めた。ディーンはそんな弟を目を細めて見つめる。こんな汚い景色の中でもサムが立っていると別の景色に見えるのは不思議だ。汚い肉塊よりも弟を見つめてしまって、汚いものが見えなくなる。 「そう?まだ言い足りないけど?」 サムは瞳を歪めて床に転がる死体の頭――サムがさっき一発頭に撃ちこんだ青年のものだ――をぐりぐりと踏みつけていた。 「僕、ああいう人間を見ていると一番腹立つんだよ。コイツの名前なんだったけ?あ、聞いてないか。知ってても意味ないけど」 「お前の腹の立つポイントがよく分かんねぇな。あんなんほっときゃいいだろ?」 わざわざ最後まで生かして話す価値も無い男だった。ディーンはそう思う。と、言ってもカフェで見かけた程度で顔見知りでも何でもないのだが。サムは偶然何度か会っていたようだったが、ディーンは一目見てあの大学生が気に入らなかった。サムに懐いていたような視線が酷く気に食わなかったからだ。出来ればあのカフェでぶっ放してしまいたいくらいに苛立っていたが、何も気が付いていないサムに説明するのも面倒だったし、逃げる手間が増えるのも面白くなくてその場はやり過ごしたのだった。 そしてサムには珍しく、随分苛立っている。殺すことに理由なんてない2人には、苛立って人を殺すなんてことも無い。殺したいから殺すだけで、それは喉が渇いたから水を飲むと言う論理とほぼ同一でもある。そんなサムでもあの青年の事が心底嫌いだったのか、随分饒舌だった。その分怯えた青年の顔が面白くもあったし、泣き顔が醜くもあった。 「それが僕とディーンの違う所なんだよ。それで僕たちと社会が違う所は、」 そう言ってサムはディーンを振りかえる。その顔にあるのは心底楽しそうな笑みだ。 僕たちは人生をくだらない茶番と知りながら、きちんとその真ん中で踊ってる事だよ。 そう言ってサムは笑う。床に転がる死体に目も向けず、壊れ果てた室内をものともせずに、血しぶきを背景に背負って。人生は所詮押し並べて茶番だと笑う。どんなに高潔に生きても、どれだけ狡賢く生きても、真面目でも、ふしだらでも、地味でも、きらびやかでも、必要とされていてもも、忌み嫌われていても。人は80年経てば死ぬし、働き盛りでも脳卒中でも簡単に死ぬし、交通事故で子供は死ぬ。 ましてや殺人犯にかかれば理不尽に命は虫けらのように奪われる。こんなもの茶番と呼ばすになんと呼ぶ。理不尽さが渦巻く世界は最初から最後まで茶番だ。 それはそれは、確かにその通りだ。 言い得て妙だとディーンもまたサムの顔を見て楽しげに笑った。 |
愚者の談話