――ああ仕事辞めたい。辞めないけど。 サムはコーヒーメーカーからカップに注いだ薄いコーヒーに口をつけながら、はぁとため息をついた。時刻は日付が変わるか変わらないかという刻限。いや謙遜した。とっくに日付は変わっている。長針が一回りして、加えてもう一回りしようとしている。そんな時間だ。 既にオフィスには人影はない。当たり前だ、ワーカーホリック気味の弁護士が集まる事務所でもこんな時間まで働く人間もそうはいない。日付けが変わるまでなら急ぎの仕事を抱えている人間の一人や二人はいそうだが、流石に日付けが変わってしまってから残る人間はいない。そんな事をしていれば仕事人間の枠を越えて若干病気だ。 「じゃあ僕は病気って事か」 サムは空しい独り言に乾いた笑いを乗せて、薄暗い事務所の中を歩きながらスーツの内ポケットからカードキーを探す。ついでにもう一口コーヒーを飲む。ここのコーヒーの味が最近落ちた。豆のランクを下げたのだろう。コーヒーメーカーの中で長時間保存しておくと苦味が増して風味が彼方へ飛んでいく。しかも遥か彼方に、だ。嘗てのブルーマウンテンが最近のお気に入りだったというのに、ただのブレンドに変わったような気がする。経費削減の名の下にコーヒーブレイクの質まで落とすとはなかなか姑息な手段を使う、事務所としては儲かっているはずだ、内部留保を増やしてどうする新たな設備投資でもしてくれるのか――と果てしない文句を並べながら、サムは自分のオフィスに戻る。 そしてドアを開けた瞬間、やっぱり戻らない方が良かったと、彼にしては酷く現実離れした事を思った。このまま家に帰ってやろうか、と思ったが、それをしても仕事が溜まるだけだと気がついてガクリと肩を落とした。 「胃が痛い……」 やってもやっても終わらない仕事ほど戦意を殺がれるものはない。もうやる気なくした。そう言ってみたい。言えるものならば。 それはその光景を見ての比喩でもなければ、この状況を嘆いたものでもない。冗談でも何でもなく実際に胃が痛いのだ。しかもギリギリと音が聞こえそうに痛い。薬はあっただろうか。 デスクの上には山のような書類とファイルとバインダーにメモがあった。それは言い換えれば山ほど仕事が溜まっていると言うことだ。昼からの公判と、夕方から他の案件でクライアントと裁判の方針について打ち合わせするために外に出ていた12時間と数時間の間にだ。僕の机の上には異次元空間的な何かがあって、そこから仕事が湧いてくるようなシステムになっているのだろうか、サムはそんな事を大真面目に思ってしまう程度には疲れていた。 出かける前には綺麗だったはずだ。いつもの様に書類もペンも整理整頓をきっちりして、PCを起動させた時にすぐに作業に取りかかれるように…嗚呼、どうしてこうなった。 サムは一応カップを持ったまま、山積みにされた頂に存在しているファイルをそっと開いてみる。その山が崩壊しないように。 そして内容を確認して得心が入った。 「……ジョーか」 丁寧な仕事をどうもありがとう、と投げやりな謝罪の言葉を贈りつつ、内心で気の強い部下の姿を脳内で思い浮かべてサムは一旦ファイルを閉じた。途端にファイルとダブルクリップで留められただけの紙の束がバサバサとけたたましい音を立てて落ちた。嗚呼、やってしまった。ジョー、ファイルを積むときはせめて丁寧に。もうしょうがないけど。 「………」 サムは鞄を応接用のソファに投げた。それはサムらしくないぞんざいな動作だ。そのままチームリーダー足る役職のみに与えられる少しだけ値段の張った椅子(といっても少しばかり値段が張っているだけだ、チームリーダーの待遇が知れる)に腰を下ろす。 静かに目を閉じてサムはネクタイを緩める。兎に角今日の判決についての細かい論証は明日だ。明日と言っても今日だけれど。日が昇ってからやろう。とりあえず今日の公判で精神鑑定に持ち込めただけ成果は十分だろう。検察は過去の虐待の記録を持ち出してくるだろうが、それを逆手に取る。最終的には陪審員に心神喪失状態を印象づけて――、ああそうだ報告書をまとめて、後は、 「おい。ノック、聞こえてるか?」 その声にサムはゆるりと瞳を開いて声の主を見遣ったが、内心飛び上がるほど驚いていた。実は。叫ばなかっただけでも褒めて欲しい。 「ああ、ごめん。考え事してた」 はたしてそこにいたのは一人の男だ。 彼もまたサムと同じこの事務所で働く弁護士だ。 年代はそう変わらないが、サムの部下でもある。否、言い換える。サムがあまりに若くしてチームリーダーに抜擢されたため、この事務所の同世代はサムより下の役職にあるというだけだ。 夜中にサムと同じく事務所に残っていたこの男。彼の名をディーンと言う。 ディーンは開けっ放しになっていたドアをノックしているような仕草を崩して、長すぎる両足を動かせてサムの方に歩いてくる。片手にはファイル。 「これ、例の件。指示通りに調停に持ち込んだぞ」 「本当に?ありがとう、助かった。ディーンに任せて良かった」 ディーンからファイルを受け取りながら、サムはほっとしたように息を吐いた。 クライアントから何とか裁判ではなく調停で、と言われていたこの件はなかなかに難しい案件だったのだ。クライアントを訴えた側は民事裁判も辞さない――むしろ裁判で甲乙しっかりつけてやるといった気概で――サムは迷わずこの案件をディーンにふった。ディーンの弁護士としての実力を信用していたからだ。 ただし、このディーンの実力はなかなかに他人から正当に評価されにくい実力ではあったが。 「へぇ。俺って信用されてるんだな」 「…その調子にのる癖がいけないんだよ」 まるで友人のような言葉の応酬。言ってから上司らしい威厳に欠けていたかとサムは思ったが、そんなものは最初から自分にはない。権威主義を振り回す無能にはなりたくないというのがサムの持論だ。別に他人の仕事の仕方を貶めたいわけではないが、虚構の威厳は舐められる…というか虚しい。仕事が回っていけばそれでいいのだ、要は。 報告書にざっと目を通したサムは、ふいに顔をあげた。 「こんな時間まで?」 「サムを待ってた、って言ったら?」 「そういうのは他の女の子にでも言ったほうがいいよ」 ――これだ。これがいけない。 実力はあるのだが、どうも彼は素行が良くないのだ。良くない、といえば聞こえがいいが、実際の所悪い。かなり悪い。 弁護士など高潔な法曹界に身を置いているといっても、所詮は人気商売でサービス業だ。そして信用商売でもある。 ディーンにはその所の自覚が圧倒的に足りない。 クライアントの見目麗しい女性と一悶着あったらしく、事務所側はとんでもない目にあったらしい。その時はサムは前の事務所にいて、引き抜かれる前だったから詳細は知らないが。 ディーンの口の良さとそのルックスでどうにもこうにもいい雰囲気になるらしい、というのは同僚の言葉で、ジョーに言わせれば『女たらしと遊びの恋をするつもりの女が本気になるのよ、バッカみたい』らしいが。 結局、そのクライアントは夫から離婚申し立てをされていた女性で、夫の財力に何としてもしがみ付いて贅沢をしたいと言う一心で離婚を拒んでいたのだが(夫は離婚を望んでいる、よくあるケースだ)、状況は離婚調停になるか民事裁判になるかの微妙な所だった。 結局その一件で、女性の浮気癖が露見する所となり、その後の裁判の流れが非常に不利になったらしい。事務所側、弁護士側にとって致命的なミスだ。 「その案件?次のか?」 「その通り。明日にはミーティングをやる予定だから」 「その資料、ジョーだろ」 サムは曖昧に笑った。肯定のしるしだ。 「他の奴にやらせりゃいいのに」 「仮にも統括者が事件を把握してないなんて体裁が立たないから。それに資料収集はジョーの勉強にもなる」 「真面目すぎるな」 その言葉に答えずにサムは小さく苦笑しながら、コーヒーに口をつけようとした所で、そのカップが不意に取り上げられた。呆気に取られたのは一瞬で、次の瞬間には別のカップが手渡される。 「?」 「唇、荒れてる。胃悪いんだろ。ブラックは良くないなんて基本中の基本だろ?」 「……」 サムはその言葉に何も言えず、渡されたカップに口をつける。ミルクをなみなみと注がれたそれは口当たりもよく、胃に優しい味をしていた。ミルクで眠ってしまったら困る、と思ったのは一瞬でサムは素直にその好意に甘えることにした。砂糖の入れられていないそれは甘さがない分だけ少しだけ苦い。マメな男だ。サムは目の前で人好きのする表情を浮かべる掴み所のない部下を見ながら思う。 たぶんこういう所に世の女性は勘違いをしてしまうのだろう、と。弁護士に頼るという事は何かしら日常に問題を抱えているという事だ。精神的に磨耗していてもおかしくない。そんな所でこんな優しさを見せられれば、縋りたくなる気持ちも分からないではない。だからこそ弁護士には微妙な自戒が求められるのだが。 ディーンはそう言う意味では微妙な綱渡りをしているが、決定的なミスを犯さない要領の良すぎる男だった。 キャリアも経験も、ついでに威厳もある人間の下にディーンを配属しても、逆に反発するばかりでのらりくらりと仕事をこなすが、どうにも素行(とボスは言っている、サムは言いすぎだと思っているが)が直らない。諫めようが怒鳴ろうが関係ない。ならばと事務所でも評判の才色兼備の女性の下につかせても変化はない。能力はある。それは手放したくない。だが素行は直ってもらわないと困る。結局、事務所の所長が散々頭を悩ませて出した結論が、引き抜かれてこの事務所に採用されたばかりの、人好きのする笑みの青年と呼べる男の下につかせる事だった。 事務所の人間は口を揃えて、そんなバカなと言ったらしい。ナメられて終わると。サムも事務所の人間の立場だったならそう言っていただろう。 だがしかし何がきっかけで、何が功を奏したのはサムにも所長にも不明だが、ディーンの気を持たせる行動(サムはこれが一番正しいと思っている)の決定的な部分はなりを潜めた。遊んでいるらしいとはおせっかいな所長の秘書の言葉だが、本当に後腐れない遊びをしているらしい。事務所にとっては万々歳だ。 サムのコーチングの技術が優れているだとか、色々噂はされているらしいが、サムにしてみれば自分のコーチングの技術が突出しているとは思えない。経験も浅いし、何より管理職としての採用を打診されていたわけではないのだ。詐欺ではないのか――法的要件はきっちり満たしている――と思うが、サムはとりあえず黙っている。今のところは。 そんな事をぼんやり考えていたサムは、ふとディーンの気配がすっと近寄ってきた事に気が付いた。 「サム」 「何、」 ふと口元に触れた何か。柔らかく暖かい何か。そして不自然に近すぎる場所にあったディーンの顔。それは一瞬の間を置いてすぐに離れていく。ただ柔らかい感覚だけを残像のように残して。 「………え、」 「口元、カフェオレついてたぞ」 「…そう。」 「そう」 ――嗚呼相当疲れているんだな。サムは自分の状態をそう思う事にした。 その方が、そう考えなければ、精神衛生上、相当に悪かった。それはサムにはありえない事で、あるはずが無いことで、あってはならないことだったからだ。 そしてサムがやはり相当に疲れていたということもある。明らかな現実逃避と事実誤認を引き起こす程度には。しかしそうしなければ、疲労の蓄積されたサムの頭は回線がショートし、ギリギリと痛んでいた胃は益々痛んで潰瘍にもなっていたのかもしれないのだ。 だからサムは記憶を闇の彼方に蹴り飛ばした。渾身の力で。そしてその渾身の力で蹴り飛ばした記憶は、深夜という人間の脳機能の中で些か正常な判断が出来ない時間帯の中であやふやになり、見事にサムから見えないところまで吹っ飛んでいった。 それを人は言う。――黒歴史と。 *** やっぱり転職、しようかな。サムはぼんやりとそんな事を思った。 「……。」 ミーティングは紛糾した。見事に。 サムは徹夜で読み込んだ調書と過去の類似事件の判例から攻めるべきポイントを絞ってミーティングに望んだが、サムが見込んでいた通りに大きな2つの論点で意見がぱっくり割れた。 しかもサムがチームリーダーになった今回のチームはなぜか一癖も二癖もある弁護士ばかりだ。上の作為を感じるのは気のせいか。気のせいではないだろう。 サムとしては公判の成り行きを見てから流動的に戦略を変えていいだろうと考えているが、それを口に出す間もなく、論戦の火蓋はサムの関係のないところで切って落とされた。チームリーダーだったはずなのに何故。 新進気鋭だが若さゆえに少々柔らかさに欠けるジョーと、何故か法曹家でありながら途中の思考プロセスを表面に出さずに結論しか言わないカスティエル(これでどうやって大学の口頭諮問を切り抜けたのかサムは常々疑問に思っている)と、頑固なまでに頑固なヘンリクセン。そしてディーン。 若き弁護士達にこの刑事事件の弁護を任せようという気になった上司の気概には感謝するが、誰だこのチーム構成員を考えたのは。カオスではないか。 サムの鼓膜には論争が届き、視線を遠くに遣れば、ミーティングルームのガラス張りになった外側では同僚達が興味深そうに視線を送ってきている。完全に他人事だ。いや、他人事なんだけど。 「――とにかく!」 サムは声を張り上げた。胃が痛いのだ、正直オフィスに早く戻りたい。ごめんこんな上司で、恨むなら事務所を恨んで欲しい。 その声に今まで議論に熱中していた視線がサムの方を向く。 「これ以上は平行線だ。過去の判例からしてもどっちに転ぶか分からない微妙なケースだ。故にこの判決が今後の先行判例になる可能性もある。着眼点を変えよう、検察をあっと言わせるような何かを見つける。明日のミーティングまでにそれを各自考える事。後はジョー、君は判例をもう一度読み込んで多角的な視点から議論出来るように。キャスはその…結論に至った経緯を話してくれると助かる。他の皆の力が必要なんだ。誰一人の知恵が欠けても勝ちに持ち込めない」 頼りにしてるから、そう続けてサムは、ギリギリ痛む胃の悲鳴を聞きながら精一杯微笑んだ。 ――嗚呼、胃が痛い。 「胃が痛い」 「そりゃストレスだ」 オフィスに戻りながら呟いたサムの言葉に律儀に返事が戻ってくる。ディーンのものだ。 ミーティングの最中に珍しく何かを考え込んでいる様子だったこの男にサムが声をかけると“気になる事例を思い出してた。判例集持ってるか?”と来た。普通弁護士ならば判例集持ってるんじゃないだろうか、とサムは思ったが、重箱の隅をつつくような事例だったためサムの私物としてオフィスに鎮座しているものしか無かったのだ。 ディーンを待たせてサムはデスクの中を探る。この辺りに入れてあったはずだ。しかし無い。そしてバサバサとファイルが降ってくる。ああジョーか。もう何も言うまい。サムは一際大きなため息をついた。 あーもう辞めようかな。もっと穏やかな民事だけを扱う小さな州の小さな法律事務所に…ああそれいいかも残業無いし。 「それは困るな」 「え、」 「事務所移られたら困る」 「あー…もしかして声に出してた?」 「“あーもう辞めようかな”あたりから」 ほとんど全部だ、というか全部だ。サムは自分の失態に小さく肩を落として、これはいよいよ本当に疲れていると悟る。内心の呟きが声に出ているなど相当だ、まずい。 休みが無くて使いどころの無い口座に振り込まれるだけの給料は山ほどあるし、有休も哀しいかな全く消費していない。これは少し休んだほうがいいかもしれない。 「…なぁサム。お前、どれだけ人気があるか知ってるか?」 「は?」 がた、ん。 サムは目を剥いた。これは夢だろうか。実は本当は昨日の夜からまだ目が覚めてなくて、ソファで仮眠をとっている時に見る、よくありがちな意味不明の夢だ。きっとそうだと思いたいが、……いや現実逃避はやめよう。これは夢じゃない。 デスクの上に何故かディーンに押し倒されているのは夢、じゃない。現実だ。 ばさばさとファイルがデスクから落ちる。サムはそれに気を取られて思わず視線を遣ったが、ディーンの指が顎にかかり、視線を戻される。何だろうこれ。男の視線は熱っぽい色を灯し…え、本当になんだろうこれ。 「人気なんだよ、事務所では人望あるし、クライアントから色目使われるし。まぁ気が付いてないだろうけどな。いつもはらはらしてるこっちの気にもなってくれよ。ワーカーホリックだし、疲れてても笑うし、ストレスはため込むし、挙げ句の果てには胃は痛めるし。過労死なんて笑えねぇ」 「何を、」 言っているんだ、と言いかけたサムの言葉は音にならなかった。それは実にありがちな展開だったからだ。フィクションの世界ではありがちすぎて、ノンフィクションではありえない事。 ――唇を塞がれていた、それもしっかりと。 「目が離せないんだよ」 唇を離して壮絶なまでに微笑んだ男の顔に、サムは彼方に蹴飛ばしておいた記憶のボールがこっちに戻ってくるのを見たような気がした。嗚呼蹴り飛ばして戻ってこないようにしたのに何故戻ってくる。向こうに壁でもあったのか。 ああ困ったな。 ――本当に転職、しようかな。 |
転職、します。
サム可愛い!(合言葉)
ムパラ後のお茶会の別れ際に話題に上った部下ディーン×上司サムです。
萌えワードばかりだったというのに、私が書くと残念な結果に…!むしろD→Sじゃ…(うわぁ)
精進します。サムに悪戯したい(合言葉その2)