――最初はいけ好かない奴だろうと思ってた。マジで。


ディーンはコーヒーメーカーから注いだ黒い液体がなみなみと注がれたカップに口をつけて一瞬眉をしかめた。ついでのカップの中に視線を落として、罪の無いコーヒーを恨めし気に睨む。
…おい、豆ケチりやがったな。
経費削減の一環なのだろうが、何故ここをケチる。労働安全衛生の侵害だ、監督者責任を追及してやろうか、とまでディーンは考えてやめた。追求する前にそもそも事務所側がコーヒーを用意することは労働安全衛生の範囲外だ。よって事務所はコーヒー豆の質を落とすことはその法的義務の範囲外でいかなる責を負うことはない。訴えの法的根拠なし。よって請求は却下。
「やべ、くだらなさすぎる…」
疲れてんのかいやまさかこの程度で、と思うディーンの腕時計が示す時間は深夜2時少し前だ。
事務所に人はいない。日付が変わる頃までは何人かの同僚が明日の公判の準備やらで残っていたが、今はもうディーンしか残っていない。
ディーンもいくつかの仕事を抱えていて暇とはお世辞にも到底言えそうにないが、こんな時間まで残る必要があるほど仕事を抱えているかと問われれば、答えはノーだ。確かにディーンは忙しい。だが事務所の中でもまだまだ新人の部類に入る彼は経験を積むことに主眼が置かれていて、事務所の中で残業が多い方かと言われればそうではない。社会一般平均の労働時間と比べれば多い部類には入るが。

それでも上には上がいるものだ。ディーンは手の中のファイルに目を落とす。
明日やってもいい仕事は今日やらない。そんな信条を持つディーンが明日やってもいい仕事を深夜までやっていたのは理由がある。
ディーンとたいして年の変わらない、一目で実直そうと形容される男を思い浮かべて、ディーンは口元に小さな笑みを乗せた。下心はよく言えばやる気だ、ディーンの場合は。そしてやる気と下心は表裏一体、車の両輪だ。
“この案件、ディーンに任せたいんだ”
そう言われてやる気にならない男がいるだろうか。いや、いまい。
しかし待ち人はまだ出先から戻らない。彼はディーンよりも遙かに忙しいのだ。
だが直帰したという考えはディーンにはない。それは彼の仕事ぶりをディーンが一番よく知っているからだ。一番見ているからだ。彼は仕事に誠実すぎるほどに誠実だ。こんな時間でも必ず戻ってきて、残務の確認をするだろう。ディーンが心惹かれたのは、そんな人間だった。
「しかし遅すぎないか」
そんな事を一人ディーンが呟きながら、もう一口味の落ちたコーヒーを口に含みかけたとき、カチャリというドアを開く音と、もう覚えてしまったほどの馴染んだ足音のテンポが耳に届く。
ディーンの待ち人は通常の労働時間を大幅にオーバーしてようやく戻ってきたようだ。

サムという男はとにかく忙しい。
スタンフォード大学を首席で卒業。ロースクールにトップかつ驚異の点数で入学。元々彼は地方の小さな弁護士事務所にいたが、ボスの熱烈なアプローチによって引き抜かれた。そしていきなりチームリーダーとして州随一の有名事務所に勤務。任される案件多数。当然仕事量も多い。
ディーンもスタンフォードを出ているが、首席で卒業など考えただけでぞっとする――つまりサムという男が法律に関して持つ頭脳はそういうレベルだ。
そんなサムは引き抜かれだけあって任された仕事も多く、加えてその仕事をきっちりこなす。きっちりこなす故に残業も多いのだ。今日のように。昼からの公判をこなし、夕方からは他の案件でクライアントと裁判の方針について打ち合わせ。実に外に出ていたのは12時間と数十分。どう考えてもオーバーワークだ。しかもこれが週5日続く。

ディーンのオフィスから少し離れた場所、管理職のみが与えられる個人オフィスに戻ったらしいサムの部屋から物音が聞こえてきているのを確認してディーンはドアをノックする。
だがすぐ聞こえてくるはずの返事は聞こえてこない。その代わりに部屋からはバサバサと紙が落ちる音が聞こえる。ついでにド派手なため息も。
ディーンは首を傾げてもう一度ノックをした。やはり返事はない。無視をされているわけではないだろうから、恐らく気が付いていないのだろう。
「…サム?」
ディーンはそっとドアを開けてみる。無礼は承知だが、そんな事を気にする相手でもない。
するとそこには椅子に腰掛けて目を閉じたままのサムの姿があった。眉間には僅かな皺が寄り、ネクタイはだらしなく緩められている。普段のサムでは中々見られない姿だ。
デスクの上には山のような書類とファイルとバインダーにメモ。いつも綺麗に整えられているサムのデスクらしくない光景が広がっている理由をディーンはすぐに理解した。
ジョーだ。午後からせっせとサムに頼まれていた資料作成をやっていたのは知っていたが、置き方が酷い。マメなのだろうが、最後の最後で大雑把な処理をする所が実にジョーらしい。加えて床にはファイルとダブルクリップで留められただけの紙の束。机の上から滑り落ちたらしい。
ディーンが入り口に立ってサムを見つめているというのに全く気が付かない。相当にお疲れのようだ。

「おい。ノック、聞こえてるか?」
ディーンがもう一度ノックをしながらサムに話しかけると、一呼吸おいてゆるりと開かれる瞳がディーンを捕らえる。
「ああ、ごめん。考え事してた」
ディーンの登場にサムは居住まいを正したが、それでも気だるそうにしている雰囲気は変わらない。それでいいとディーンは思う。自分に誠実な男は他人にも誠実であろうとする。それでは疲れるだろう。職場でも気を抜く場面と環境は必要だ。
サムに近寄ったディーンは、右手に抱えていたファイルをサムに手渡す。
「これ、例の件。指示通りに調停に持ち込んだぞ」
「本当に?ありがとう。助かった。ディーンに任せて良かった」
少しだけ驚いたように瞳を開いて、次にファイルを受け取って、ふっと頬を緩める仕草。そんな何気ない仕草にもいちいち反応してしまうのだから重症だな、とディーンは思う。
先日サムから少しだけ申し訳なさそうな顔でこの案件を頼まれた時の事をディーンはよく覚えている。
”クライアントから調停に持ち込むように言われている案件で難しいと思う。ディーンに頼みたいんだ。”
そう言われてやる気にならない奴がどこにいるのか。ディーンの場合は下心を否めないが、他の誰かに頼んでも結構やる気を出すのではないかとディーンは思っている。
本人は気がついていないだろうが、彼は人望がある。若くして優秀。人使いは荒くなく、部下へのフォローもさりげない。しかもクセが無い。しかし締めるところはしっかり締める。
最初は若すぎる年齢と貫禄がない姿に事務所の中で色々な意見があったものだ。だが、今やサムの下で働きたいと思っている若手も少なくないのだから日頃の行いというものは重要だ。ディーンは今までそんな事を思ったことは無かったが、サムと出会ってからそう思うようになった。ついでにたまには人当たりの良いことをしてもバチは当たらないんじゃないかとも思うようになった。奇跡だ。人生何が起こるか分かったものではない。

ディーンとて最初はいけ好かない奴が来ると思っていた。思っていたのに、だ。

「へぇ。俺って信用されてるんだな」
「…その調子にのる癖がいけないんだよ」
気さくなやりとり。ディーンはこういう時間が好きだ。例え些細な時間でも。この若さでチームリーダーに抜擢されても驕ることを知らない。
そしてそんなサムが誰よりも少しだけくだける相手が自分自身だと言うことにディーンは優越感を抱いている。
ディーンから受け取ったファイルを丁寧に書類が山積みにされた机の上ではなく、デスクの一番上の引き出しに仕舞いつつサムが口を開く。本当ならデスクの上に置きたいのだろうが、如何せん置くスペースが無い。
「こんな時間まで?」
残ってたの?と続いた唇。そういう自分はどうなんだよ、と言わない代わりにディーンは口説き文句のような言葉を口に乗せてみせる。ダメもとで。
「サムを待ってた、って言ったら?」
思いのほか声色が甘くなってしまったような気がして逆にディーンは少しだけうろたえた。そしてうろたえて俺はバカか、と思いなおす。意識しすぎだ、ガキじゃあるまいし。
「そういうのは他の女の子にでも言った方がいいよ」
あっさり玉砕。いや、分かってたけど。
本気だったんだけどな、とディーンは言わなかった。たぶん何を言っても本気にしてもらえないだろうと分かっていたからだ。流石難攻不落の天然要塞。サムを落そうと下心を持った女があっさり玉砕していく姿を知っている分、ディーンは自分の散る姿を誰にも見られずに良かったと思った。ディーンの道ならぬ本気の恋の代償だ。
結構不毛だ。そもそも相手として意識してもらえる所から始めなければいけない。
いや、それもそうか。サムだってそうだろうが、ディーンもゲイでもなければバイでもない。ディーンだって抱くなら柔らかな女の子がいい。
けれどディーンは文字通り落ちた。恋に。恋はするものだと思っていたが、どうやら落ちるらしい。
だせぇ?ほっとけ。

ぽつりぽつりと会話を交わしながらサムがカップになみなみと注がれたコーヒーに口をつける。ディーンはそれをさっと奪い取り、代わりに違うカップを渡す。
「唇、荒れてる。胃悪いんだろ」
「……」
ディーンがサムに渡した中身はカフェオレだ。中に注がれている液体は黒々としたものではなく、灰色のそれ。
サムはそんなディーンの行動に一瞬だけ不思議そうな顔をした。次にディーンとカップを交互に見て、おずおずとカップに口をつける。何故胃を荒らしているのが簡単に分かったのが疑問に思っているようだったが、ディーンは沈黙で遣りすごす。気になっているからです、とはとてもじゃないが言えない。
最近忙しさのあまり胃を荒らしているらしい原因は何も多忙だけではあるまい。変わり者が多いこの事務所で人を束ねなければいけない一方、上の要求にも縛られる中途半端な地位はストレスもたまる。現に、顔面に表面だけの笑みを浮かべながら口元をひきつらせているという実に器用な姿をディーンは何度か見ている。
ディーンはサムを見る。カップに口をつけている口元に目が自然と奪われる。

その時のディーンの心の中に湧いた感情を言葉にしてみるのなら。それは例えば衝動だ

「サム」
「何、」
ディーンはそっと唇の端をかすめた。…唇で。
「…え、」
「口元、カフェオレついてたぞ」
嘘だ。唇の端にカフェオレなんてついていない。
何が起こったのか分からない顔を浮かべて、それでもサムはぎこちなくこくりと頷いた。どうやら完全に思考回路がショートしているのか、どう考えても誤魔化せるはずのないディーンの言葉にサムは納得してみせたようだった。サムが疲れていてくれた事と何でもない風に言って見せた自分をディーンは褒めちぎった。ナイス俺。
「……そう。」
「そう」
ぱちぱちと瞬きをするサムにディーンは殊更何時も通りにそう答えた。

でもやっぱり気が付いてくれても良かったんじゃないのか、とも思う自分に、やっぱバカだろ俺、とディーンが思ったのも事実だった。全く人とは矛盾の生き物だ。


***


弁護士はストレスが溜まる。いや、どんな仕事でもストレスは溜まるものだが、必死で法廷で弁論を交わしても負ければクライアントから罵声を浴びせられることもあるし、刑事事件の弁護をやろうものなら時に逆恨みもされる。不可抗力でトラブルに巻き込まれることも少なくない。裁判官に思わず悪態をつきそうになった事もあるし、そりゃないだろ陪審員、と言いたくなった事も数多。裁判での負けは弁護士としての評価に関わるわけで、弁護の腕が正当に評価されるわけではない。まぁ裁判の勝ち負けが弁護士の評価をする唯一正当な手法だ、と言われればそれまでだが、それでも裁判をする前から明らかに負けの公算が高いものもある。
ディーンも過去トラブルに巻き込まれた事がある。
勘違い女にとんでもない目にあわされた。少しは自分にも軽率な点はあったかもしれないが、それでもあの一件は女の多大なる勘違いが問題をややこしくしたのだろうと思う。過ぎたことをガタガタ言っても仕方ないが。

「胃が痛い」
「そりゃストレスだ」
はー、とため息たっぷりに独り言のように呟くサムの視線は遙か彼方を見つめている。完全に疲れきった社会人だ。このまま世捨て人になって、何処か遠い田舎の州で田舎暮らしでもしそうな風貌にも見える。

今回サムとディーンを含めたチームが任された案件は今後の類似事例で判例となるかもしれない重要裁判だ。
若手チームに任せたボスの思い切りのよさにはディーンも内心舌を巻くが、リーダーたるサムのストレスは半端なものではない。
チームの面々は優秀だがユニークなのだ。新進気鋭といえば聞こえはいいが少々気の強いきらいがあるジョーと、議論の途中で何もかもをすっ飛ばしていきなり結論を言い出すカスティエル(ロースクールの面接どうしたんだ)と、驚くほど頑固なヘンリクセン。
公判を前にして、2つの論点で意見がぱっくり割れたミーティングは紛糾した。サムが言葉を話しこむ余地も無ければ、おいおいもう少し落ち着けよと言うディーンの言葉は三人によって瞬殺された。お前ら俺の話を聞けよ、一言だけでいいから。
公判の成り行きを見てから流動的に戦略を変えていいだろうと思っていたディーンも流石に終わりの見えないミーティングにイライラし始めていた頃だった。
サムが不意に声を張り上げた。ピタリと議論を止めてサムを見た三人とディーンを見て、声のトーンを少し落としてサムはこう言った。
『これ以上は平行線だ。過去の判例からしてもどっちに転ぶか分からない微妙なケースだ。故にこの判決が今後の先行判例になる可能性もある。着眼点を変えよう、検察をあっと言わせるような何かを見つける。明日のミーティングまでにそれを各自考える事。後はジョー、君は判例をもう一度読み込んで多角的な視点から議論出来るように。キャスはその…結論に至った経緯を話してくれると助かる。他の皆の力が必要なんだ。誰一人の知恵が欠けても勝ちに持ち込めない』
頼りにしているから、と続けたサムの隣に座っていたディーンは気が付いていた。

サムがみぞおちの辺りを手で押さえている姿を。

それが先のサムの胃が痛い発言に繋がる。
ディーンはと言えば、今回の案件で役に立ちそうな判例があった事を思い出し、サムのオフィスまで借りにやってきていた。重箱の隅を突付くような判例でディーンはそんな詳細な判例集を持っていない。だがやはりサムは私物としてオフィスに置いているようだった。
「えっと、この辺りに置いたはずなんだけど…」
サムが本を探してデスクの中を探す。本来ならすぐに見つかるであろう本も、机の上の書類のおかげで作業効率を著しく削がれている。流石に昨日といっても今日だが、残業ついでに処理する事は流石のサムでも出来なかったようだ。当たり前だ、そんな事をしていたら確実に死ぬ。
不意に弾みでデスクの上の書類がバサバサと雪崩を起こした。
そんな姿を見て、思わず“あーあ”と言わなくてディーンは正解だと思った。怒った所を見たことが無いサムの眉間に一瞬だけ明らかに皺が寄った。たぶんこれは怒っている。
だがサムは次の瞬間には疲れたように肩を落とした。しして長い長い、それはもう長いため息をついた。
そしてサムはうなだれたまま、こう言った。
「もう辞めようかな」

――何だって?

ディーンは思わずサムを凝視した。サムは自分が言葉を口に出している事にさえ気が付いていないのか、一人呟くように言葉を続ける。
「もっと穏やかな民事だけを扱う小さな州の事務所に…ああそれいいかも残業ないし」
「それは困るな」
ディーンは思わず言っていた。
「え、」
「事務所移られたら困る」
サムが驚いたようにディーンを見る。ディーンはもう一度、声に出して言う。
「あー…もしかして声に出してた?」
「あーもう辞めようかな、あたりから」
それ全部だ、と頭を抱えたサムにディーンはそっと嘆息したのは一瞬で、やはり次にはそれは困る、と思った。事務所が有能な人材を逃して困るだとか、そういう理由ではもちろんない。
困る。他の誰でもない、ディーンが。
ディーンは知っている。サムが引き抜かれる前にいた事務所は小さな事務所で扱っていた案件もこの事務所ほど大きくないと言う事を。だからこそ有能な人材が埋もれていたのだと言う事も。

知っているのだ。ディーンは会った事がある。
前の事務所にいた頃のサムと。

あれは忘れもしない、勘違い女の件だ。
夫から離婚申し立てをされていた女は夫の財力に何としてもしがみ付いて贅沢をしたいと言う一心で離婚を拒んでいた。離婚案件で金持ちが持ち込んでくるケースとしては少なくない。
状況は離婚調停になるか民事裁判になるかの微妙な所。できるだけ有利な条件を夫側に飲ませるためには夫側の都合で離婚したいという流れに持っていかなければならない。
幸いにも夫側の弁護士は女と離婚するための正当な理由を主張する証拠を掴む事が出来ずに手を拱いていて、これで何とか切り抜けられそうだとディーンは安心していた。
だが女が厄介なことを始めた。
何を勘違いしたのか女はディーンに色目を使い始めた。要はそういう女だった。そういう事なのだと今なら言えるが、当時は随分と手を焼いたものだ。ディーンは相手にしなかったのだが、逆にディーンのそんな態度が女を益々熱中させてしまったらしい。家にまで押しかけられ、無理矢理にキスをされた瞬間を女を張っていた向こう側の弁護士が雇っていたカメラマンにばっちり押さえられ――その後の協議がこちら側の圧倒的不利に転んだ。最悪だ。
もちろんディーンの潔白の主張は認められるべきものだ。ディーンは謂わば被害者でもある。
だが公私共に清廉潔白である事を求められるべき弁護士がこういう形であれ、すっぱ抜かれてしまった事についてはディーンも事務所からキツイ注意をくらった。
本当にろくでもない。
この一件で何やら女を誑かしてしまうディーン、という印象が事務所内に決定付けられてしまった上に、何より最悪だったのは、人づてにサムに知れてしまった事だ。
どうせなら自分から説明してしまいたいが、サムがその件について聞いてこない以上、自分から話を振るのは変だ。どう考えてもおかしい。
話が逸れた。
とにかくその件が全部解決解決した日の事だ。結局ボスもディーンに付いて(といってもボスは見ているだけで特に何もしなかった、何しに来たんだよと突っ込みたかった)裁判所に来ていた。事務所としては打撃を負ったが最後は何とか上手くまとまり、かろうじて体裁は保てた。
かろうじて上手くまとめた案件にディーンが弁護士って怖ぇ等と考えながら、ぼんやり座っていた時だ。
『疲れてるみたいだね』
そう声をかけてきたのがサムだった。

あの時のサムをディーンは忘れたことは無い。きっとずっと忘れない。サムが覚えていなくとも。
「なぁサム。お前、どれだけ人気があるか知ってるか?」
「は?」
言うが早いか、ディーンはサムの肩をそっと押した。
がた、ん。
静かな音。部屋に落ちる沈黙。何が起こったのか分からないのか目を見開いたままのサム。ばさばさとファイルがデスクから落ちる。

声をかけてきた男が一目で弁護士だと分かったディーンは思わず愚痴っていた。その時のディーンは自分が思う以上に疲れていて、誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
『とんでもないクライアントに引っかかってな。やってられねぇな』
ディーンの一言に、それはとんでもない目にあったね、と続けたサムは次にこう言った。
『でも、ありがとうって心から言われる仕事もこの世の中、そんなに多くないんじゃないかな』
思わずディーンはサムを見た。サムは窓から外を見ていた。そしてサムは次に公判があるから、と言ってその場を去っていった。
今になってディーンは思う。あの頃のサムも色々思うところはあったのだろう。この仕事は楽な仕事ではない。あの一言も本当は自分に言い聞かせるものだったのではないか、と。
だがその時のディーンにはそんな事を思う余裕は無かった。
その一言に目が覚めたような気がして、そのままサムの背中を見ながら思ったものだ。あんな台詞を説得力を以って言える人間がいたんだな、と。
そしてそのまま当時は名も知らなかった男に興味を持ったディーンが、公判の傍聴に参加し、そしてボスもそんなディーンにつられて気まぐれに傍聴をした事で、サムの弁論に惚れ込んだと言うオチだ。

あの日からディーンはサムが気になり、もしやと思ったときには戻れない所まできてしまった。
今まで恋を“して”きたディーンが、恋に“落ち”たのだ。
する恋は止められるが、落ちた恋からは容易に這い出ることは出来ない。

「……」
「……」
サムはディーンを見つめていた。
ディーンはサムを押し倒したままの恰好で、サムを見つめていた。
パサパサと落ち続けるファイルに気を取られたらしいサムの視線が一瞬逸れる。だがディーンは其れを許さず指を顎にかけ、そっと視線を戻す。サムはされるがままだ。

もういいか、と思った。
別に我慢しなくても、と思った。

「人気なんだよ、事務所では人望あるし、クライアントから色目使われるし。まぁ気が付いてないだろうけどな。いつもはらはらしてるこっちの気にもなってくれよ。ワーカーホリックだし、疲れてても笑うし、ストレスはため込むし、挙げ句の果てには胃は痛めるし。過労死なんて笑えねぇ」
「何を、」
その先をディーンは言わせなかった。重ねた唇の間でその言葉を溶かした。

「目が離せないんだよ」
辞められて会えなくなるかもしれないと思うくらいなら、ここは攻勢に転じるべきだとディーンは判断した。やっぱり放っておけないし。恋に落ちてしまったのだ。ストーン、と。見事に。這い出る方法は見つからない。


さてはて。目を白黒させたままの存在が下す恋のジャッジメントは此れ如何に。








転職させません。









前作のディーンサイドも読みたいという有難いお言葉を頂いたので調子に乗りのりましたスミマセン…!