S5とS6の間です




――お前は、そんなもののために生まれてきたのか。そんなはずではなかった。







ふ、と目が覚めた。
月が美しい夜だった。しかし星は見えない夜だった。不思議な夜だった。宵闇の夜だった。静かな夜だった。
「……」
ディーンはむくりと上体を起こしてぼんやりと周囲を見渡す。落ち着いた壁の色、肌触りのよいシーツ、スプリングのきいたベッド、ベッドサイドには小さな観葉植物、壁にかけられている淡い色使いの小さな額縁に入った絵。
一瞬ここは何処だ、そんな事をディーンは思った。夢の続きなのだろうか、とも思った。しかし傍らで静かな寝息を立てている存在を見やって、これが現実だと思い直した。酷く軽薄で幸福な現実だったと思い出した。

久しぶりに夢を見た気がした。
『でもありがと、ディーン』
幾分か幼い顔。夢だが、あれは現実だ。昔の、遠くて近くて、懐かしくて、邂逅にはしたくない、過去にもしたくない現実だ、でも記憶だ。今やディーンしか知らない記憶だ、共有する相手を亡くした記憶だ。静かに佇んで思い出す人間を失くせば、簡単に消え去る映像だ。
右手で顔を覆い、ディーンは深く深く、肺の中の空気を少しも残らず全てを吐き出すように息を吐いた。このまま何もかも出し切って何も残らない体になるように願ったが、空っぽの肺はすぐに新しい酸素を欲しがり、ディーンはその肺の悲鳴のような欲求に負けた。仕方なく空気を吸う。酸素を肺に、そして血中に取り込む正直な身体に自滅したいという薄ら寒い思いなんてこんなものかと自分に絶望しながら。

ディーンはのそりと体を起こして寝室を出る。喉が乾いていた。酷く乾いていた。
窓から差し込む月明かりは朧気でありながら、その存在をしっかりと主張している。眩しい。そんな事を思う。少し前までは夜中に行動していたというのに、月がこれほど明るいなど思いもしなかった。いつも暗く、足下も手元も闇に飲まれそうだったような気がする。いや、心持ちの問題だろうか、きっとそうなのだろう。月夜の夜もあったはずだ、明るい星夜もあったはずだ、気がつかなかったのだ、気がつけなかったのだ。それが何故か酷く勿体無い事の様に思えてディーンは月を見る。
月は無言。星は月光に存在を消され、ディーンは冷蔵庫から出したミネラルウォーターを胃に流し込む。

『でもありがと、ディーン』
夢の中の声がリフレインする。
あんな夢を見たのは昼間の出来事が原因だろう。ディーンはそんな事を思いながら冷蔵庫にペットボトルを戻した。

昼間、近所の子供の――誕生会があった。

子供だけを招いて行われるのが常識的な子供の生誕を祝う会は、何故か子供の親をも集めるものだった。親まで増えれば人数も増えるが、料理の品数も増え、笑顔も増える。それはそれは見事なまでに豪勢なパーティーになった。まるでどこかのドラマから切り取ったように、近所付き合いを通して良好な人間関係を築いている子供の親は皆が知り合いだ。
主役の子供の親は人なつこい年若い夫婦。日曜日、晴れた空、綺麗に刈り取られた芝生、沢山の料理、食べきれそうにない大きな手作りケーキ、子供の笑い声、親同士の談笑。まるで絵に描いたような時間だった。
そんな場所に身を置きながら、こんなものが本当に現実にありえるのかとディーンは驚き、自分がその光景の中の一員であることに今更ながらに気がついて尚一層驚いた。これが健全な生活なのかとディーンは少しだけ苦笑して、観察者であることをやめて、この光景の当事者に戻る。
子供達が運ばれてきた大きな手作りケーキに瞳を輝かせる。ろうそくに灯される明かり。ハッピーバースディを他の子供と親たちが歌う。主役の子供がろうそくを吹き消す。沢山のおめでとうの声。主役の子供が嬉しそうに笑い、両親からの祝福のキスを頬に落とされる。
そして子供が言った。ありがとう、と。
ありがとう、と。

『でもありがと、ディーン』

声がフラッシュバックした。その声にディーンは息を詰まらせた。喉の奥に何かがつかえたかのように、く、と喉が鳴く。急速に目の前の光景が色を失っていく。滅失する現実感。呼び出されるのは記憶。
嗚呼、そうだ、そんな言葉を昔。

昔。サムが言った。

あれはサムがいくつの時の誕生日か、ディーンは明確に思い出す事が出来る。あの年は4年に一度の総選挙があり、親父が慌ただしく狩りを続け、二人で居ることが多かった年だ。それなりに成長した二人はジム牧師に面倒を見てもらう事も少なくなり、ディーンとサムだけでモーテルでいくつもの夜を過ごす事が出来るようになっていた年。それでもサムは十分に幼かったのだが。
目の前のモノクロの景色の中、笑顔でケーキをほおばる子供達よりもサムは幼かったのだ。ずっと大人びていて、ずっと現実を知っていて、世界の悪意に気がついていた。
モノクロの景色の中、笑顔で談笑しながらケーキを取り分ける大人達よりも日常の儚さと、闇に潜む非日常を知っていた。
そういう子供だった。そういう子供でなければ生きていけない環境だった。

サムの誕生日だった。

父親はいなかった。もう2週間ほど狩りで戻ってきていなかった。
サムはもうあの年で誕生日を祝われる事を諦めていたようだった。1歳の誕生日には既に母は不在で、数年後には世間では誕生日は祝われて当然のものだと知り、そして幾つかの年月の中で父の居ない誕生日と闇の存在を知り、そしてまたその数年後にはこの家族では誕生日にテレビの中のような誕生日の風景はありえないものだと学び、そして諦めていた。

ディーンはその年も頭を悩ませていた。サムに何をやるべきか分からなかったからだ。子供の持つ金などたかが知れている、子供の思いつく弟へのプレゼントの候補に手が届くわけがなかった。
サムは誕生日の事など少しも口に出さなかった。学校から戻ってくると、テレビを見ているディーンを気にかける事もなく黙々と宿題をする。親父が居ればサムの誕生日だと言って、何かもっと――何がどうなのか分からないが、もっとサムが喜びそうな一日ができあがるのではないかとディーンは思っていた。思わず親父帰ってこないな、とディーンテレビを見つめたまま言うと、転校せずに済むから楽だよ、とサムは宿題のノートから顔をあげずに言った。

そうこうしている内にサムの誕生日になった。ディーンはついぞサムに欲しいものを聞くことが出来なかった。
ポケットの中にはいくつかの硬貨。紙幣は持っていない。渡されていた紙幣は生活費だと厳命されていた。使ってしまおうと何度も思ったが、それはサムが喜ばないような気がした。それより何より、いつもよりも少なくなっている生活費の使い所を父に聞かれるのがディーンは怖かった。ディーンもまだ子供だった。

ディーンはぼんやりとあてもなく夕暮れの町を歩く。サムのプレゼントを求めて。
笑いながら通り過ぎていく自転車に乗ったディーンと同じ年ほどの子供。母親としっかり手をつないで歩いているサムほどの年の子供。母親の面影に少しだけ似ている女性。皆笑っているように見えた。ディーンはそんな夕暮れの光景をすぐに脳内から消す。消し去ってみせた。
お菓子を買おうかとディーンは思った。それともノートか、鉛筆か。ディーンは思いを巡らせる。けれどどれも違う気がした。夕暮れが紫色を纏う。早くモーテルに戻らなければ。今、サムは独りぼっちだ。困ったディーンが思わず立ち止まった時、それが目に入った。
これだ、と思った。

「ただいま」
おかえり、ディーンの方を一瞬だけ見てそう言ったサムは今日は宿題をしていなかった。テレビのチャンネルをさして面白そうな顔をするでもなく次々と変えている。
「学校どうだった」
「普通だよ」
結局面白いチャンネルが無かったのか、堅苦しいニュース番組で落ち着いたサムはぼんやりとテレビを眺めていた。
ふうん、とディーンは気取られないように白い箱を後ろ手に隠す。買ってきたのはいいものの、どのタイミングで渡せばいいのか分からず、ディーンは今更ながらに思案する。そもそもサムは今日が自分の誕生日だと気がついているのだろうか。サムは何も言わなかったし、ディーンも何も言ってこなかった。
「なぁサム、」
言いかけてディーンは何となくサムのバッグに目をやった。中途半端にファスナーが開いているそこから、サムの持ち物とは到底思えないカラフルなそれが覗いていた。
――バースデーカードだ。
急に胸が苦しくなってディーンは思わずそれをバッグから引き抜いた。カードに何人からの拙いメッセージが書いてある。
何で、そう思った。こんな生活だ、警戒するに越したことはないだろ、親父からもそう言われてるくせに。それに。お前の誕生日は俺しか知らないのに、お前の誕生を祝うのは。
ディーンは少し掠れた声で聞いた。
「お前、これ」
「クラスから貰った」
「お前、自分の誕生日言ったのか」
声が不機嫌に沈む。なのに心臓は何故か不自然な鼓動の打ち方をしている。何なんだ。
「転校日初日に担任の先生に言わされた」
そうか、と言ってディーンは心臓が少し収まるのを感じる。他に何かを貰った様子はない。ディーンは胸をなで下ろす。サムが貰ったのはおめでとうの言葉くらいだろう。だったら。
「これ、」
ディーンは後ろ手に隠していた白い箱をそっと差し出した。どんな顔をしていいのか分からなかったのだから、相当に変な顔になっていたはずだ。そしてサムは一つ瞬きをした後、その箱を受け取って中を開いた。
「ケーキ、だ」
ディーンが買ったのはケーキだった。
ホールケーキは生憎手持ちでは間に合わなかった。だから持っている硬貨で買えるだけのケーキを買った。ショートケーキ、タルト、チーズケーキ、そんなケーキ達を。
まじまじと箱の中を見つめているサムを見ていられなくて、ディーンは明後日の方向を向いて、早口で言葉を紡ぐ。
「他に。何か、欲しいものあるか」
金はもう無いけど、と付け足したディーンにサムは箱の中のケーキをじっと見つめたまま、一言だけ、言った。

「普通の誕生日」

え、とディーンがつぶやく。意味もなく心臓をわし掴みにされたような息苦しさが襲う。サムの言う意味がディーンには良く分からない。普通の誕生日。親父がいる誕生日だろうか、ホールケーキのある誕生日だろうか、綺麗にラッピングされたおもちゃがいっぱいある誕生日だろうか。ディーンにはそれくらいしか思いつかなかった。
言葉に詰まるディーンに気がついたのか、サムはゆっくりと顔をあげてディーンを見る。そしてやんわりと笑った。
「でもディーン、ありがと」
弟ににしては行儀の悪い仕草で生クリームを指ですくって舐めたサムが“おいしい”と呟く。とりあえずディーンはほっと息をつく。
ディーンも一緒に食べよう、僕だけじゃ食べきれないよ、そう言ったサムと分けあって、ディーンはケーキを食べた。

――そんな誕生日だった。



あの時のサムの言葉、あの時の表情。今になってその意味が分かった。やっと、分かった。
サムの欲しかった誕生日はこれなのだ、とやっと分かった。
邂逅が終わり、目の前の景色に色が戻る。モノクロから色彩の溢れる日曜日の午後に。サムの欲しかった光景に。
日曜日、晴れた空、綺麗に刈り取られた芝生、沢山の料理、食べきれそうにない大きな手作りケーキ、子供の笑い声、親同士の談笑。――まるで絵に描いたような時間。
サムはそんな時間が欲しかったのだ。今になって、やっと、その光景の中に身を置いて、やっと分かった。

親父のいる誕生日だけでは何か足りなかった。ケーキだけでも足りなかった。言葉だけでも足りなかった。あの時、幼かったサムが欲していたのはこの光景だったのだろう。この雰囲気と空気だったのだろう。そしてそれが手に入らない事も知っていたのだろう。
0歳の時に母を失った。1歳の誕生日には既に母は不在で、数年後には世間では誕生日は祝われて当然のものだと知り、そして幾つかの年月の中で父の居ない誕生日と闇の存在を知り、そしてまたその数年後にはこの家族では誕生日にテレビの中のような誕生日の風景はありえないものだと学び、そして諦めていた。
そして自分の誕生日から半年たてば母の命日だ。サムは毎年自分の誕生日に何を思っていたのか。手に入らない光景を思って何を考えていたのか。知らない誕生日の在り方に何を考えたのだろう。
父は母の復讐を思い、不在がちだった。兄はハンターという生き方が家族の形として当たり前だと考えていた。サムの想いを汲むことは、そんな余裕はあの時どこにも無かった。

たまらなかった。

サムを思う。ディーンはひたすらにサムを思う。サムはそれから誕生日を忘れたかのように振る舞い、反抗していった。何を思っていたのか。本当に家族に反抗したかっただけではないのだろう。ディーンの知らぬ感情がそこには転がっていて、反抗というささやかな攻撃で自分の中に折り合いを付け、誰も拾いきれなかった一つ一つの想いをサムは蹴飛ばして、そして諦めていったのだろう。

皮肉だった。
サムから与えられた今でそれを今知る。サムの存在と引き替えに、サムの感情を今やっと知る。
サムを思う、ディーンはサムの生まれてきた事を思う。
ディーンはサムが生まれてきて嬉しかった。とても嬉しかった。存在してくれていて嬉しかった。もちろん喧嘩もした、衝突もした、決定的な離別の一歩手前まで進んだ。それでもディーンはサムが必要だった。今も。それでもサムは自分の生をどう思っていたのか。あの誕生日の日でさえ、悪魔が見張っていたというのなら、あのカードは純然たる人間の好意で構成されているのだろうか。ディーンがそう思うのだから、サムは今までの人生の様々な局面を思っては疑念に奥歯を噛みしめていたのではないか。
友人でさえ嘘だった大学時代。恋人との出会いを仕組まれ、その死でさえ予定調和の中。
サムはそんなもののために生まれてきたはずではなかったはずだ。世界の破滅を救うために存在を消すために、諸悪の根源を殺すためだけに生まれてきたわけではなかったはずだ。


お前はそんなもののために生まれてきたのか。そんなはずではなかった。


こんな光景があの時お前は欲しかっただろう。気がついてやれなくて悪かった、ごめんな、サム。
もし今でも間に合うなら。気味が悪いと言われても。それでも間に合わないとは思いたくないんだよ、なぁサム。俺はまだ諦めてない。
「はい、ディーン。ケーキよ」
手渡されるケーキを見つめる。あの時買ったものより少し形は歪だったが、それは何故かずっしり重かった。



『でもありがと、ディーン』
声が聞こえる。リフレインする。
月は無言。星は月光に存在を消され、ディーンは弟を失った。取り戻すと誓いながら、今に迎合していた。穏やかな今に迎合しながら、ディーンはサムを望み続けていた。
そんな自分に腹が立った。今もサムを取り戻せない自分に。気が付かなかった小さな出来事を掬い上げては後悔ばかりしている自分に。救い様が無い。サムがいた頃はそんな事を思わなかった。俺ばっかりが何でだ、と思うことも多かった。サムを失って記憶を美化していると認めてしまえば、サムのいた光景は過去になっていると認めているような気がした。それだけはどうしても許せない。サムを過去にするのは自分でも絶対に許さない。
だから思い出せ、生意気な弟の姿を思い出せ、そして腹が立つくらいがちょうどいい。
けれど自己嫌悪は誤魔化せず、ゆるゆると脳の後ろの方が締め上げられているような気がする。


月は無言。星は月光に存在を消され、ディーンは弟を失ったまま。
今も失ったままだ。





見つけたいのだと咽ぶ其れ(嗚呼、何て滑稽な)