【!】ディーン誕生日。時系列はS6を想定しています。










その日は足下から、服の袖から、首の僅かな隙間から、冷気が音もなく這い上がり忍び込んでくるような、寒い寒い夜だった。外気に晒されたままの頬が冷えて、鼻先が冷たい。すん、と鼻を鳴らして首をすぼめてポケットに手を突っ込む。恐らく今の気温は摂氏5度以下、いや2度程度しかないのではないか。
空を見上げれば、月が煌々と真っ黒に塗りつぶされた世界にぽっかりと浮かんでいる。まるで安い暗幕を背景にしきつめた舞台装置のようだ。風が吹けば闇が波立つような安っぽい闇色。そうなれば月は水彩絵の具で塗りつぶしたムラのある黄色か。そんな事を考えているといよいよこの場所が安い舞台の上のような錯覚を抱く。例えるならば安い喜劇か。
しかし風はなく、闇は波立たずにディーンの頭上に無言で広がっている。どうやらここは現実らしい。現に寒い。どう足掻いても茶番の幕はまだ降りない。

「寒いな」
誰にともなくディーンは静かに呟く。ジャケットにつっこんだままの指先がじわじわと冷えてくる。結局ジャケットから手を出して指先を擦りあわせても、乾いた指先からは熱は少しも生まれない。逆に直接外気に触れたせいで益々指先が冷えた。
結局温度を失ったその部分に熱を灯す事を諦めたディーンはジーンズの後ろポケットに突っ込んだままの銃の存在を確かめた。手持ち無沙汰で手のひらを擦り合わせているよりは恰好もつくだろう。
そしてそっと隣で鍵穴に針金を突っ込んでいる存在を見た。
その男はこの寒さでも何とも感じていないのか、馴染みの薄いストライプが入ったシャツの上にジャケット一枚を羽織っただけの姿だ。首元が何とも寒寒しい。昔から比較的薄着のように見えたが、こいつの場合は寒さがどうという事もなく、単に何も感じていないのかもしれないとディーンは思った。そうだ、何も感じてなどいないのだ。いや、しかし感情が湧かないのなくても寒さは感じるだろう。
いや、しかし。
そもそもこいつを理解しようと考えるだけ意味がない。こいつはサムからサム足る大部分を無くした一部が全部に取って代わっただけの不完全なものでしかない。
こいつはサムから欠いたからこそ完全になったのだと大声で主張しているが、そんなものは虚言だ。欠けた以上は不完全なものだろう。無いものがあるならそれはサムではないだろう。それでも一応サムと呼ぶのは、便宜上サムという名前で呼ぶしか無いからであって、出来ることならこいつをサムと呼ぶことさえやめてしまいたい。不完全で不十分だ。全然足りない。
ましてや魂が無いのなら。

こいつにも温度は無い。喪失しているのは感情という名の人間としての温度だ。

カチャ、と音がしてディーンはぼんやりさせていた意識を戻した。
サムがディーンに目配せをする。管理会社によって施錠されていた鍵が開いたのだ。サムが“立ち入り禁止”と書かれた黄色いテープを破ってから、するりと先に入るのを見て、周囲をもう一度確認したディーンが後に続いた。

ディーンが手元に持ったライトはアメリカの中流家庭のどこにでもあるような白い壁を照らし出している。
外の庭には芝生、外壁は白く、子供部屋は2つ、そして広いリビングには暖炉。絵に描いたような一軒家で、後は犬でもいれば完璧だ。ただこの家には長女の動物アレルギーが原因で犬は飼っていなかったらしいが。
一階をくまなく調べる。特に何もない事を確認して、2階に向かったサムの背をディーンは図らずも追いかける恰好になった。
最近はこの後ろ姿を見ることが多くなった、とディーンは思う。前はそうでなかった。意識していてもしなくとも、サムはすっとディーンの後ろを歩いていたように思うし、それが息のあった二人のタイミングであったような気がする。サムは一歩ディーンの後ろを歩いた。それが正しかったのか、それをサムが窮屈に感じていたのか、今は分からないし知りようの無い事だ。
ただこいつは――この魂のないサムは――自分の方が優秀だと思っている節がある。無意識に人の前に立って歩くのは自信の現れか、それとも使えない兄を先導してやろうとでも思っているのか。考え過ぎか、いや、この男は有能だと自負しているはずだ。その有能さがただの自負ではないと言われれば、言った奴の横顔をはり倒してやる、とディーンは前を歩く背中を見つめながら場違いな決意をする。

「こういうのは祝ってほしいの?」

「…は?」
その声にディーンはぼんやり見つめていたはずの後ろ姿が残像だったことを知る。それは記憶の中で霞み、目の前には暗い階段で振り返りディーンを見つめる数段上に立っているサムだ。偽物の。
「だから。これ」
ディーンの如何にも聞いていませんでした、と分かる言葉に不快そうな表情を浮かべたサムが指さしたのは階段の壁に飾られた写真達だった。
その中の一枚を指差すサムの視線を辿ると、ライトブラウンの額縁の中には微笑む家族写真がある。父親と母親と姉妹。ゆるくウェーブのかかった女――恐らく姉だ――が肩までかかったストレートの髪が美しい妹を抱きしめている。幸せそうな家族の光景だ。
写真の真ん中にはケーキ。大きなバースデーケーキには蝋燭が16本。言うまでも無く、鮮やかな誕生日の光景。
この幸せそうな家族全員がこの家で殺された。どうやら状況から狼男の仕業と考えて良さそうだったが、二人は推理を補強するために、夜も深い寒空の下、惨劇の舞台をチェックしに来ている。求める本命は狼男が残した爪痕だ。
ディーンは足を止め、写真をもう一度確認して――そしてもう一度聞いた。
「祝って欲しい、って…誕生日が、か?」
「そう」
「さぁ…どうだろうな」
サムの言葉の意図が分からずにディーンは返答を曖昧に誤魔化して済ませた。全く答えに為っていない。
誕生日だ。子供なら盛大に祝って欲しいだろう。プレゼントにケーキにチキンが欲しいだろう。
それは生まれてきたことを祝福して欲しいという意味合いよりはケーキを食べたいと思う即物的な願いの方が割合は多いのかもしれない。だが祝って欲しくないなど、反抗期を迎えた子供が口に出すようなものだ。普通の子供なら祝って欲しい。それが少し照れくさくとも。
そういう意味で答えるならば、サムの問いにはイエスと答えるべきだ。
だがしかし、サムが聞きたいのはそういう意味ではないはずだ。純粋に真面目に、生まれてきたことを他者に祝って欲しいかと聞いているのだ。誕生日がこうあるべしだとか、人はこうしてくれるだとか、そういう事をディーンに聞きたいわけではない。
誰しも今に満足できてない。強欲だからだ。だがディーンの属する今の30代が素直に家族に誕生日を祝って欲しくないかと言えばもちろんそんなことは無いだろう。

ましてやディーンであれば。
ましてやディーンが祝われたいのか、と聞かれれば。

だがディーンはそこまで考えたが、意図を聞き直すのはやめた。その方が楽だからだ。
そして聞き直してまで相手の正確な意図を探る必要性がディーンに見つける事が出来なかった。眼の前の男はやっぱり弟ではないからだ。本音を零せば弱みを握られるような気がして気に食わない。
「ふぅん、」
ディーンの返事にサムはさほど興味を示した風でもなく、小さく呟きながら他の写真もさほど興味を示さずに眺めて指で弾く。ディーンはその仕草に眉を顰める。
そして、この写真は妹の誕生日のものだが、この家族が死んだのは姉の誕生日だった。パーティーの最中に襲われて、心臓を引き摺りだされた。
「で、誕生日に死んだわけだ。生まれてきたことを祝いながら死んだ?」
それって皮肉だけど正しいし、正しいけど間違ってるね。とサムは言う。サムの顔をして、サムの声で。
「おい、お前」
――不謹慎だぞ。
そう言いかけたディーンの言葉はしかしサムの冷たい一瞥の前に綺麗にたたき落とされた。

「誕生日に何の意味がある?サムは生まれてきた事に感謝なんてしたこと、一度も無い」

「――そ、」
それは、――それは。
「それはお前の感情だろ」
みっともなく声の音程が少し上がった。ディーンはそんな声の自分を哀れに思う。
「僕には感情はないよ。知ってるくせに」
は、とサムがディーンを見て器用に哂う。しれは今までに見たことのない嘲りの表情だった。
サムの頬の筋肉はこんな表情も可能にするのか、とディーンは驚いたほどだ。心底人を馬鹿にしたような表情はサムが嘗て浮かべたどれとも違う。今のサムは誰かに理解を求める必要が無くなった分、それを無くしたサムはどこまでも自信に満ち満ちて、晴れ晴れとしているように見えた。
「これは僕が記憶しているサムの感情だ。“ディーンの欲しいサム”の遺した感情だよ」
カッとディーンの頭に血が上った。
寒かったはずの首筋が燃える様に熱い。なのに手先だけは冷えたままだ。
一瞬だけこいつの頭をぶち抜いてしまえ、という声が耳の奥で響く。それは酷く蠱惑的な誘惑だ。
だがディーンはそれを押しとどめた。殺してはサムの魂を納めるものがなくなってしまう。
「それでもディーンの誕生日はサムは祝うだろうから、そういうことしないとな、とは思ってた。疑われないために」
じゃあ今が魂のないサムだとディーンが愚鈍にも気がつかないままであれば、こいつは誕生日にそしらぬ顔をして、兄貴誕生日おめでとう今年はもっといい一年になるようにああでも面と向かって言うのは恥ずかしいな、という白々しい言葉を言うつもりだったのだろうか。
言うつもりだったのだろう。保身のためなら何でもやる。理由は単に保身のためだ。分かりやすく、これ以上分かり難い答えは無い。
ディーンは喉の奥で小さく唸る。
「今は?祝うつもりでいるのか」
「まさか祝ってほしいの?僕に?」
サムは仰々しく驚いてみせる。少しだけ目を見開いてディーンを覗き込む。
「お前だけには絶対にごめんだ」
「残念。たった一人の弟なのに」
酷く演技めいた言葉と表情をディーンは睨み上げて、その襟倉を掴んで壁に押し付けた。壁のフォトフレームが少し揺れてカタンとささやかな音を立てる。
「全部正しく言い直してやろうか。お前は残念だとも思っちゃいないし、俺はお前を弟だとも思ってない」
お前はサムじゃない。そんな意味を存分に十分に含ませた言葉で言いきってやったが、目の前の存在はそんな事は微塵も気にかけてはいない。いや、気にかけるような価値もさほども無いと思っているのだ。サムはディーンの言葉に満足そうに口元を綻ばせている。
「魂が無いってバレて面倒だな、と思うことはあるけど。こういう誕生日とか、無意味な事をしなくてすむから楽だよ。家族ごっこは時間の浪費だ」
そう言ってサムは襟倉を掴んだままのディーンの手を振り解いた。これ以上どうしようもなかったディーンもその手を大人しく引っ込める。
「お前、殺してやりたいくらい生意気だよ」
「それはどうも。でもこれが僕だ。強くなったんだよ、僕は」
――ディーンを気にとめる必要もないし、ディーンは僕を理解する必要もないだろう?
――それってすごく楽だ。お互いに。ディーンもそう思ってただろ?
そう言って昔のサムのように朗らかに笑ったのだ。この寒さをもろともしていないような顔で。一点の曇りもない、心底楽しそうな表情で。

そんな話をしたのが、テレビの中でニューヨークで年明けの馬鹿騒ぎが垂れ流されていた時だ。
心臓のあたりが誰かに握り込まれているような気がするという言葉を思う程度には、ディーンにとってとても寒い夜だった。
何時までも手先の冷えが納まらなかった夜だった。


***


「そっか、今、2月だっけ?」
サムがぽつり、と外の景色を見つめながら言った。
晴れた空の下のシンガーオートは今日もどうみても廃車の道を辿るしかない車が何十台も積まれていて、薄い色をした空の下でボンネットが太陽の光を反射して光る。窓から差し込むそれがとてつもなく眩しい。
「何だいきなり」
入ってきたドアを閉め、口につけていたミネラルウォーターのキャップから口を離してディーンはサムに問う。
ディーンが喉の渇きを覚えてキッチンで水を拝借する前に見た弟は大人しくベッドに入っていたというのに、短い時間ですぐこれだ。普段俺に落ち着きが無いだとか大人しくしてろとか言うお前はどうなんだよ、とディーンは一人ごちる。
「いや、誕生日過ぎたなぁ、と思って」
「誰の?」
と言いながらディーンはペットボトルをサムに手渡す。
「ボケた?」
「ボケてねぇよ。失礼な奴だな。いきなりなんだよ。毎年気にかけてるような日じゃなかっただろ」
「うん、まぁそうなんだけど。…そうなんだけどさ」
サムが水を飲みながら困ったように小さく笑う。サム自身もどう言おうか分からずになんとなく浮かべた表情。ディーンはそれをひどく人間らしいと思う。
「いいから寝ろ。らしくない事考えていると熱が上がるぞ」
ディーンはサムからペットボトルを受け取ってからベッドの側に立っていた体をベッドに再び押し込めた。サムは子供じゃないんだから、と今度はさっきとは違って拗ねたように苦笑する。それに構わずにシーツの上から不審に思われない程度にディーンはサムの肩を宥めるように2回軽く叩いた。
「ホントにマジ子供じゃないんだから止めろって。ディーンも熱あるんじゃないのか」
「熱があったらお前みたいに黙って無理しない」
「嘘吐け。絶対に無理するのがディーンだろ」
「人の揚足を取るな、病人」

ボトルを受け取った際にさりげなく触れたサムの指先はしっとりと熱を持っていた。その感覚を誤魔化すようにディーンは指を拳の中に握りこむ。
未だに余韻でじんと指が痺れるように感じるのは自分の指が単に冷えているだけなのか、サムの体温が高すぎるのか。しかししっとりとした手の感触を考えると汗ばんでいるサムの体温は確かに常よりは高いのだろう。
つまりサムの体調があまり良くないのだ。
サムは数日前から微熱を出していた。久方ぶりに戻ってきた体が魂の納めどころを模索しているのかもしれない、とはディーンから話を聞いたボビーが電話の向こうで発した言葉で、何とも無いよ疲れが溜まっていただけだよ、と白々しい嘘をついたのはサムだ。
大丈夫だというサムを勢いで言い負かしたのはディーンで、弟を案じた兄は狩りを中断してボビーの家に戻った。そうしてサムを寝かしつけようとして今に至る。寝かしつけた、と表現すればまたサムは子供扱いしてと怒るだろうが。

「お前本当に熱いな」
微熱程度だと言う話を疑いたくなるほどじわじわと熱がサムからディーンの指先に移る。数日で熱は下がるだろうという根拠のないボビーの見立てに本当にそうなのか、とわめき散らしたくなる程度には。
サムは目を閉じて息を吐く。その額にディーンは恐る恐る手を伸ばす。触れてもサムは消えないという確かな証が欲しかった。

暖かい、と思った。熱が灯る指先を持て余して、冷えた指の感覚に閉口していた数ヶ月前の寒い寒い夜を思い出す。
――不意に大声で泣きたくなった。
凍えた夜から、反射した太陽を眩しいと思えるような陽のあたる場所で、泣きたいほど眼の前の弟に縋って、何かを言えたら、と思った。
あの夜、言えずに飲み込んだ数々の事を。喪ったと思い乗り越えてきた、かりそめの永くて儚い生活の中で抱えた感傷を。

湧きあがる感情を飲み込む。思わず、く、と喉が鳴ってディーンは少し焦ったが、サムは幸いにもそんなディーンの様子に気が付かなかった。
「お前の誕生日、」
「なに?」
「今度の誕生日、お前にビールでも奢ってやるよ」
その言葉にサムは息を吐くだけの小さな笑いを零した。口元に浮かんでいるのは仄かな、そして確かな笑みだ。
「何でディーンの誕生日の話をしてたのに僕の誕生日の話になってるんだよ。まだ先だ」
「…将来の展望を立てるように方針を転換したんだよ。そうした方が生き易い」
「なにそれ」

お前が、よろこばないから。
お前はたぶん、ここにいることを少しだって喜んじゃいないから。

俺だって自分の誕生日なんて喜んじゃいない。この数年は恨んでさえ居る。
幾度と無く生まれない想像――無への希求を続けてきたことか。そして夢想だと知って打ちのめされた。生きていなかった事には出来ないし、ましてや今生きている事を無かったことにしても遡及効果は絶対に生まれない。死んだ命も帰ってこないし、犯した間違いも無かった事にはならない。ましてやこの身をやわやわと締めあげるような重い後悔も無かった事には出来ない。
ただぬかるんだ足跡は絶対に残るのだ。乾いても風化せずに、足跡は干乾びて其処に在り続ける。

それでも俺はお前を呼び戻したし、お前だって幾度と無く俺を呼び戻そうとしただろう?

お前は俺の誕生日を恨まない。俺が自分の誕生日を恨んでいたとしても。例えサム自身が自分の誕生日を恨んでいたとしても、自分の誕生日を意味の無いものだと考えていたとしても、だ。
サムは絶対に俺の誕生日を恨んだり、蔑ろにしたりしない。
そして俺はお前の誕生日を恨んだことなんて一度だって無かった。ただの一度も。どんな日も。

「治ったら」
サムがぽつりと口を開いた。お前まだ寝ていないのか、とディーンは言いかけたが、聞き取れなかった言葉を追いかけて、無意識に聞きなおしていた。
「あ?」
「治ったら、ビール奢るよ。どっか飲みに行こう」
そう言ったサムの口調は少し早い。照れているのだ。
「…どうせならバーボンにしてくれよ」
「肝臓壊すぞ」
サムが僅かに苦笑しながら言う。
その声も目を閉じたままの表情も、生まれてきた日を意味の無い太陽暦の指標にすぎないと断じる響きは何処にも無い。自分の弱さを――自分の誕生日を祝えないままでも――他人の生まれてきた日までも押並べて祝う価値の無いものだと思ってさえいないのだろう。

それはとても幸福な事だと思うのだ。
中身のないおめでとうという言葉を孤独の中で聞くよりも、ずっと、ずっと。
ディーンの指先は、今日はとても温かい。



指先の温度