【!】サム誕生日。ディーン誕生日話から内容が繋がっています。
忘れてたよ。思い出したくなかったから。 この命が重ねた年月は誰かの命の重なりを奪ってきた歴史だから。 覚えてたくなんてなかったよ。泣きたくなるから。 死んでた方がいいって思ってるから。 生きることは絶望ばかりとは言わないけれど、ほんの少しの刹那的な楽しみを除けば連続した絶望ばかり。 いつだって苦しい事の方が多い。 いつだって。いつだって。 「暑い…いやむしろ熱いな」 「あー。うん、暑い…そして熱い」 アメリカは広い。世界有数の国土の広さを誇るこの国の気温は実に多様だ。東部は亜寒帯気候、南部は温帯湿潤気候、フロリダの端はサバンナ気候、西部はステップ気候、太平洋沿岸は地中海性気候に属している。…だったはずだ、確か。 よくよく考えてみれば、熱帯や冷帯の気候を除けば気候帯のほとんどを網羅しているではないか。ミドルスクールの時に学んだ雨温図まで頭の中に浮かんでくる。ついでに地域の気候を生かした農産品まで思い浮かんでくる。よくテストに出た。 話が逸れた。暑いという事を言いたいだけで気候について論じたいわけでは無いのだ。 どうでもいい事をつらつら考えている事は疲弊している証拠だ。いよいよこの暑さに脳がやられはじめたのかもしれない。嗚呼ぞっとしないではないか。 「やっぱり世界は確実に破滅に向かってるよな」 心底うんざりした調子でディーンが呟く。暑さのせいでその横顔に覇気は無い。 「地球温暖化で?」 「そう、地球温暖化で天災と疫病が増えて、生物の分布図が変わった諸々で人はそのうち死ぬ」 「人口増大でエネルギー問題と食糧問題で第三次世界大戦の勃発で人類が死ぬ方が早いかも。核戦争、新型生物兵器、人間を滅ぼすのは人間とかいうオチ」 「お前、映画の見すぎじゃないのか」 「ディーンの方こそ。ニュースの受け売りすぎるだろ、それ」 「暑いな」 「うん、暑い」 今日のカンザス州は予報では30度だったが、午後2時を過ぎて南中高度後の太陽が地表を容赦なく焼き、35度の猛暑になろうとしている。これは朝の予報を大幅に上回る気温で、昼のニュースでは水分補給を、と呼びかけていた。すでにこの気温のせいで何人か熱中症で緊急搬送されているらしい。 そんな中でも朝から快調に州道を走っていたインパラは、突然の熱波にも怯むことなく、太陽にじりじりと焼かれたアスファルトの上を走っていた。クーラーを入れたことでエンジンの回転数が若干上がってはいたが、何も異常のない走りだった。インパラの強さは並ではないのだ。 だが突然。カンザスの真ん中。周囲に何も無い開けた州道の真ん中でインパラは突然そのエンジンの動きを止めた。 いや、動きが止まったというのはいささか誇張が含まれているかもしれない。正しくはディーンがアクセルを踏んでもスピードが上がらなくなった。加えて水温メーターの白い針がCから離れ、Hの方にぐんぐん傾いていく。とどめは慌ててディーンが路肩に車を止めた後、ボンネットの隙間から静かにたなびくように白煙が上がり始めた事だ。 これらの事を鑑みてはじき出される答えは一つ。――オーバーヒートだ。 愛してやまないインパラの異常事態にディーンは傍目から見ても明らかに焦っていた。おいおいおい、どうしたんだハニー、と呟きながら暑さのせいではない汗を額にかいていた。つまり冷や汗だ。 オーバーヒートの原因はいくらか考えられる。それこそ軽微なものから車にとって致命的なものまで様々だ。 ボンネットを開けて注意深く中を覗き込みインパラの心臓部を調べ上げたディーンはまじかよ、と呟いた。クーラントが漏れていたのだ。 ラジエター逝ったら厄介だ。修理に時間とかなりの費用がかかる。ますます冷や汗をかいたと呟いたディーンが調べた結果、ホースの亀裂が原因でラジエターに問題はないらしい。ホースの交換のみでインパラは動くだろう。まさしく不幸中の幸いだ。 ディーンがインパラを丹念調べている間、サムは助手席のドアを開けて、ぼんやりと車もほとんど通らない景色を眺めていた。手伝える事もないし、どうせ手伝おうにもディーンがサムに愛車を触らせるとは思えなかったからだ。 暑い。正午を過ぎて太陽は南中している。雲ひとつ無い快晴の空には太陽が真っ白な光をこれでもかと発している。今の時点でこれだけ暑ければ、あと数時間は気温は上がり続けるだろう。早く車の中に乗ってクーラーの厄介になりたい。 しかし。しばらく待ってみてもエンジンの水温メーターは下がらない。水温メーターが一時的に下がってくれさえすれば、最寄のガソリンスタンドまでインパラを走らせる事が出来ると言うのに、だ。 じりじりと気温が上がる中でエンジンもかけずに二人でインパラの水量メーターを見続ける。不毛だ。エンジンをかけられないのならば、エンジンに負荷をかけるエアコンをつけるなど以ての外。暑いと不平を漏らしたサムにディーンは何時になく不機嫌な様子で「クーラーなんてつけるわけねぇだろ。インパラのエンジンを焼きつかせるつもりか」と言い、サムはその兄の様子に文句を引っ込めた。 しかし待てど暮らせど上がりきったエンジンの温度は下がらず、インパラを直そうにも工具も何もない。 携帯の地図アプリで最寄りのガソリンスタンドの検索をかけてみれば、そこまでの距離はおよそ5.2キロ。 結局インパラを此処に置いて、ガソリンスタンドまで歩いて工具やらクーラントやら諸々を調達するしかなくなった。 人間の歩くスピードはおよそ時速4キロ。単純計算で1時間15分のウォーキングだ。この暑さの中では狂ってると言いたくなる過酷な道のりだ。 「暑い。…加えて熱い」 そして冒頭の時差やら人類滅亡のくだりに戻る。 気温は暑いだけでなく、もはや熱いのだ。何もかもが。アスファルトからの照り返しを考えると、体感温度は35度を越えているだろう。視線の先では空気が熱で歪み、遠くの景色が細やかなさざ波のようにゆらゆらと揺れている。目線の先を見ることに嫌気が差して、視線をアスファルトに落す。しかしスニーカーの靴底が感じているであろう熱せられたアスファルトの温度をうっかり考えてしまって気が遠くなる。 しかもまだ3キロ程度しか進んでいない。しかし気温は上がる。熱い。 「悪魔とで天秤をかけても、やっぱり悪魔の方が世界を滅ぼす方が早いか」 「何の話?」 ディーンの呟くような言葉にサムはゆらりと視線をあげる。 「さっきの人類滅亡の云々だ」 「ああ。その話、」 生返事をしながらサムはぼんやり思う。二人でわざわざスタンドに出向かなくても、一人はインパラで待っていればよかったんじゃないかと。何故二人でこんな場所を歩いているんだろう。 こんなにも熱い場所を。 「まだ5月の2日だろ?おかしいだろ。暑すぎる」 「ああ、うん。まだ5月になったばかりなのに」 力なく返事をしながら、サムはふと考える。 5月2日。何か特別な日じゃなかっただろうか。 何だったのだろう。よく思い出せない。けれど何かの日だったように思う。何だっただろうか。 「サム、見ろよ」 急に活力を取り戻したディーンの声に、サムは再び落としていた視線を上げた。 ディーンの指差す先には一軒の建屋。その外装は見慣れたよくある形をしている。 「バー?」 「ビールおごってやるよ。今日はお前の だろ?」 「え、なに?何だって?よく聞こえない」 ごうごうと音がする。ぱちぱちと何かが爆せて、散っていく音がする。何かが叫ぶ声。これは悲鳴だろうか、うめき声だろうか。そんな声が聞こえる。その声の合間を縫うように、囁くようで少し笑っているような声が聞こえる。 忌々しい声が耳元でほんのり優しく告げる。まるで睦言のように。愛しいものに微笑みかけるような声で。たっぷりと甘さを混ぜ込んで。 『サム、ここが地獄だ。ここがサムを永遠に閉じ込める業火の檻だ』 暑い。熱い。暑い。熱い。あつい。 火が見える。遠くでゆらめくかがり火の様に。 ――それは地獄の業火に焼かれる夢。叫んでも誰も助けにきてはくれない悠久の断罪だ。 「おい、サム?」 目が覚めたのだと瞬時に悟った。耳の奥で心臓が激しく暴れている音が聞こえる。ドッ、ドッ、と聞こえるその音は内なる響く悲鳴のように胸のうちを激しく叩いている。出してくれとわめき立てる様に。 「…ディーン」 体はベッドに縛り付けられたかのように動かない。指先は錆びた針金が芯となっているかのように、少し動かすのにも酷く苦労した。ぼんやりと見上げたクリーム色の天井は黄ばんで少し四隅が汚れていて不快な気分になる。 「派手にうなされたぞ。大丈夫か」 「…夢見が悪かったんだ」 今何時、と唸るように聞くと、返ってきた言葉は11時前。のろのろと頭を動かし、ヘッドボードに置いたままの腕時計を確認するとディーンの言うとおりの時間だった。珍しく随分眠っていたらしい。 ぐ、と腕に力を入れて上体を起こす。肩甲骨の上あたりの筋肉が酷くだるく、膝の後ろに汗をかいているのかジーンズの感触の中にひんやりとしたものが交じっている。 「この部屋、暑い」 じんわりと首の後ろ辺りに汗をかいている。体の内側から火照るような感覚は、熱の吐き出し方を間違えているようで気分もあまり良くなかった。 「そうか?いい天気だぞ。ほら」 ディーンが窓のカーテンをめくる。窓は開けてあったらしく風がゆるやかに吹き込んでくるが、それよりも目を刺すような光に瞬間的な不快感が一気に上昇した。差し込む太陽の光は夢の中の白い太陽を思い起こさせる。 「…シャワー浴びてくる」 じっとりと火照った体に、湿った汗が冷えて体の表面の温度を奪う。着ていたTシャツもじっとり重みが増していた。汗を掻いていたのは膝の裏側だけではなかったようだ。 行儀が悪いと知りつつも、シャツを脱ぎ捨てながらバスルームに入る。しかしバスルームに入った途端、思わず足が止まった。 「ディーン。バスルーム、異常に暑くない?」 「あー?そうか?」 バスルームから顔を出して問いかけた言葉に対するディーンの返答はそっけないものだった。 熱い。気のせいではないはずだ。 バスルームが異様に暑い。 バスタブは濡れていないし湯気もない。直前までディーンがここで湯を使っていたというわけではないはずだ。しかしバスルームにむっと篭るのは熱をもった空気だ。 例えばそれは使い終えたバスルームに篭る熱のような、例えばそれは火を使った時に空気中に飛び散る熱波の様な。例えばそれは。例えば、例えば。 バスタブに近寄りながら、そっとコックを捻ってみる。 「…っ!」 暑い。――熱い。 触れていた手を思わず引く。コックが燃えるように熱い。蛇口からは温度調整もしていないというのに、もうもうとした湯気を纏った熱湯が滴り落ちている。 床のタイルさえもじんわりと熱を持っているような気さえする。空気が持つ熱が1℃、2℃上がっていく。熱で呼吸が苦しい。 「ディーン、給湯が変だ」 給湯だけじゃない。何もかも、変だ。 「ああ、ボイラーが壊れたんだろ」 「…ディーン?」 ベッドに寝転がっているとばかり思っていたディーンが何故かバスルームの入り口に立っている。腕を組んで、体をドアにもたれかけさせて、サムをじっと見ている。少し笑いながら。 変だ。 何か、変だ。 「暑いのは慣れてるだろう?」 「なに、が」 声が掠れた。納まっていたはずの心臓が暴れる。出してくれ、逃がしてくれと、胸の内側を叩く。首の後ろが暑い。シャツは脱いだはずなのに、何故か湿った感覚がする。体が火照っている。 何を言っている。何を言いたいのか。ディーンは一体何を。 「ビール飲むか?」 ディーンが腕を差し出した。何故かそこにはビールの瓶があった。そんなものさっきディーンは持っていただろうか。 「何を、何を言ってるんだ、ディーン」 ぼこり、とディーンの持つ瓶の中で気泡が弾ける音がした。濃い飴色の中でぼこぼこと空気が激しく、異常なほどに強く弾ける。これはビールの炭酸が抜けていくそれではない。そんな生易しいものではありえない。まるで。 まるで沸騰しているような。バスタブの中で滾る熱湯よりも激しく、沸点さえ飛び越えていくような。 「だって今日はお前の だろう?」 まるで。 ぶわりと風が吹き込んできた。 窓が開いている。開けた記憶はないのに、何故。外から熱を孕んだ風が吹いている。 窓の外は焦土だ。火が燃えている。誰かが笑う声がする。誰かの絶叫が聞こえる。助けてくれ、こんな檻から出してくれ。戻して欲しいのだと、誰かが血を吐くように叫んでいる。 ディーンが口を開く。微笑みながら。 『サム、ここが地獄だ。ここがサムを永遠に閉じ込める業火の檻だ。』 しかしその声はディーンの声ではない。ディーンの唇から発せられるのは兄の声ではない、優しい睦言だ。 『生まれてきてくれてありがとう、サム』 コーヒーの中にありったけの蜂蜜を溶かした様な、どろりとした愛の言葉。 熱い。暑い。熱い。暑い。熱い。あついあついあついあつい。 炎が見える。ちらちらと、ひらひらと。 ――それは地獄の業火に焼かれる夢。叫んでも誰も助けにきてはくれない悠久の断罪。 もう消してほしい。一片の欠片もなく。逃げられないならいっそ、跡形もなく。一切の無へと。 こんな自分など、無かった事にして欲しい。 「おい!おい!サム!起きろ!」 は、と当たり前に吸えるはずの酸素が無い。 息が苦しい。吸っても吸っても苦しい。肺が空気交換を忘れているのではないかと思う。いや、それとも空気のない場所に放り出されたか。それとも首を絞められているのか。死ぬんじゃないかと意識の片隅で思うと恐怖が増した。 は、は、と必死で息を吸う。それ以外は何も考えられない。苦しい、ただ苦しい。視界がにじんでよく見ない。水の中から太陽を眺めているように、光が眼の中に煌めいてひたすらに眩しい。 「落ち着け。落ち着けサム。息を吸わずに吐け」 声が聞こえる。誰かに肩をゆさぶられているような気もする。強く、強く、ゆさぶられて、声の方に意識を向ける。視界は相変わらず開けず、声の主の顔が分からない。はっ、はっ、と聞こえる微かな音が自分のものかもしれないと思うともっと混乱した。 「俺の言葉に合わせて呼吸しろ。さぁ息を吐け。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて」 ――吸って、吐いて、吸って、吐いて。 背中をさすられながら優しく促される声に必死で縋る。溺れたものが藁に縋るようにしがみ付いて、言葉の通りに呼吸を合わせた。 すると不思議な事にだんだん息苦しさが薄れてくる。まだ息は少し苦しかったが、酸素を求めて喘ぐほどではない。心臓は暴れていたが、耳元で鳴るような音は身を潜め、どくどくと心臓があるべき場所で脈打っている感覚に戻る。 「…は、」 次第に周囲の音がテレビのボリュームを徐々に上げるように戻ってくる。 気温、風、空気、重力、それらを一気に感じて初めて、ここがもうさっきまでのバスルームとは違う場所に居たのだと――あれも夢だったのだと悟った。 「サム、俺が分かるか?」 「ディ、…ン」 至近距離に兄の顔があった。 周囲の景色が色を伴って鮮やかに戻る。ああ、ここはインパラの中なんだと、ぼんやりと思う。 ディーンは運転席ではなく、助手席のドアの外から助手席の自分をしっかり覗き込んでいる。ディーンの肩越しに白く発光している太陽と、薄い青をした空が見えた。 前髪をそっとはらわれて、そのしっとりとした前髪の動きに額に汗をかいていたのだと知る。目じりをそっとぬぐわれて泣いていたのだろうか、と思う。 ディーンだ、ディーンが居る。 そう思うと強張っていた全ての力が吸い取られたように抜けた。どっと汗が噴き出す。 「あつい、」 一言。やっとのことで一言だけ、そう言った。 囁くような掠れた声は自分のものだと理解するのに少しだけ時間がかかった。おぼろげにしか見えないディーンの表情がその瞬間、くしゃりと泣き笑いのように歪んだ。 そしてやんわりと抱きしめられた。小刻みに震えているのは自分の体なのか、ディーンの身体なのか。 「ああ、太陽のせいだな」 どういう意味だろう。やんわりとした拘束に包まれながら、今はどういう状況だろうと考える。 そうだ、思い出した。 カンザスに狩りに向かっていたはずだ。平坦な道を走る安定したエンジン音と変わり映えのしない景色、途切れた会話。気が付いた時にはうとうとしていた。 そこから先の記憶は無い。本格的に眠り込んでしまったのだろう。 じゃあ何でインパラは動いてなくて、ディーンは運転席にいないのだろう。 のろり動かした視線の先には錆びれた町の雑貨店。ここは店の駐車場か。近くの土の上に投げ出されたように転がっている茶色の紙袋からは少しの食料品と飲料水、そしてカロリーの高そうなチョコレート製品が覗いていた。 「買い出し…行って、た?」 「よく寝てたから起こさなかったんだ。窓を開けたから良かったかと思ったんだが、直射日光が差し込んでたら当然暑いよな。無精しないでクーラーつけておけばよかったな。悪かったサム、」 ぼんやりとディーンを見る。そしてゆっくりとその頬に手を伸ばして見る。ディーンは少しだけ不思議そうな顔をしていたが、動かずにじっとしていてくれる。 触れてみたディーンの額も頬もさらりとしていて汗をかいてはいない。その手をぎゅっとディーンが握りこむ。ディーンの掌は少しひんやりして心地が良かった。自分だけがこんなにも、熱い。 「サム?本当に大丈夫か?」 「クーラント、」 「なんだ?」 「インパラのクーラント、漏れてない?」 「どうした急に…。漏れてないぞ。なぁサム、本当に大丈夫か?」 「ディーン、」 ぼんやりと兄を呼ぶ。ディーンはどうした、と言いたげに眉をほんの少し上げた。 「…あつい」 暑い。熱い。 ――地獄はとても、あついんだ。 そうぼんやり口に出すと、ディーンはまた泣きそうに顔を歪めた。 いくら気が動転していたとは言え、よくよく考えれば随分と無防備になってしまっていたものだ。あれはきっと寝ぼけていたようなものだ。ほんの2時間前のことだが、思い出すだけで顔から火が出そうなほどに恥ずかしい。 夢を見て、兄に縋るとは。もう子供でもないというのに。 思い返すだけで何と言う失態をおかしたのだと自分を責めたくてたまらない。 「もう大丈夫だって。少し夢見が悪かっただけだ」 ディーンに向かってこう言うのはこの2時間で何度目だろう。考えてみるが余りにも無駄でやめた。 結局自分がどう言おうと、ディーンはチェックインしたモーテルから一歩も出ようとしないのは同じなのだ。 「青い顔で脂汗浮かべてたくせに何言ってる。そもそも今日は俺がもう狩りをしたくない気分なんだよ。運転しすぎた」 「嘘だろ」 「嘘じゃねぇよ」 嘘だ。 いつも運転している行程で疲れたとは兄にしては何とも苦しい言い訳ではないか。と思ったが、これ以上突いてもディーンは何も言わないだろう。 不意に落ちた沈黙の間に、つけっ放しのテレビからニュースを伝える地方局のアナウンサーの機械的な声が部屋に響く。 ――今日のカンザスシティは異常な暑さとなり、午後2時には35度の猛暑日を記録しました。5月にこの気温を記録したのは実に…―― ニュースの中では病院に熱中症で搬送された人数が読み上げられている。うち死亡者は数名。入院している人数はもっと多い。画面の中では州で一番大きい病院が中継で映し出されている。 「どうりで暑かったはずだ。異常気象だぞ。まだ5月だってんのにどーなってんだよ」 「…そう、だね」 ディーンの言葉に返事をしながら、この暑さがあの悪夢の原因だったのだろう、と思う。日中のインパラの中のラジオもこのニュースは流れていたはずだから、浅い睡眠を繰り返していた時にこの音を無意識に拾って夢の中に登場させたという所がおおよその所だろう。 「あ、ヤベ。氷忘れた」 もうテレビのニュースに興味が無くなったのか、冷蔵庫を覗き込みながらディーンが言う。兄はどうやらウイスキーの水割りを飲みたいらしい。机の上には安いウイスキーのボトルがビニール袋から出されたまま、置きっぱなしになっている。日中に立ち寄ったあの店でちゃっかり購入していたようだ。 「じゃあ僕が買ってくる」 ちょうどいい、気分転換もしたかった所だ。そう思ってインパラのキーを持って立ち上がる。 「ダメだ」 瞬時にキーを奪われた。しかもひったくるように。 「……なんでだよ」 「なんでも。いいか、買ってくる間大人しくしてろよ。昼間汗かいたんだから水を飲め水を」 「あ、おい!ディーン!」 パタン、と目の前でドアが閉まる。部屋に残されたのはサムと、ディーンが置いていったミネラルウォーターのペットボトルだけだ。 「何なんだよ、一体」 必要以上に過保護なのは昔から変わらないが、最近――正確には地下の牢獄から戻ってきてから――輪をかけて酷くなっているような気がするのは気のせいではないはずだ。かといって不思議と怒る気にはならなないし、嘗てのように認めてくれていないんだと不機嫌になるつもりもなかった。 それはきっとあの顔のせいだ。 時折見かけるようになった――例えば今日、あの逆光に照らされて歪んでいたディーンの表情のせいだ。 夜風に静かにカーテンがはためいている。風通しがいい方が気分もいいだろうとかなんとか言いながらディーンが開けたものだ。決してお前のためだと言わなかったのが兄らしいというべきか、弟の性格を熟知しているというべきなのか、どちらにしろ肯定してしまうのはあまり面白くない。 ディーンが置いていったペットボトルに口をつけながら、ぼんやりと外を見る。無味無臭の冷えた水の感覚を喉に受けながら見つめる暗闇に堕ちた世界は、何台か車は通っていくが決して騒がしいものではなく、かと言って静かすぎるほどでもない。 チカリ、チカリ、とテールランプの明かりが道向かいの暗闇の中で不気味に点滅している。 赤い光。まるで炎よりも温度を凝縮されたような不気味な血の色にも似ている。毒々しく、零れたばかりで酸素と結合していない新鮮な血。生ぬるい温度さえ感じる。まるで自分の臓腑から堕ちていくような。暗闇の中で誰かがにやりと笑っているような、不気味な赤。 ぞくりとした。けれど何だか熱い。あるはずのない熱風を感じる。 『おめでとう、サム。生まれてきてくれて』 ――呪いの祝福が、聞こえる。 「おまっ、サム!何してんだ!」 何が、と言おうとして、傍らを通り過ぎていくディーンの体から起こった風が頬に当たって背筋がぞくりと冷えた。 寒い。 どうしてだろう、と考える前にディーンがリモコンを奪い取った。ピ、という音で静かな風音が止まる。ああクーラーをつけていたのか、いや、クーラーをつけたのだった、といまさら思い出す。 じゃあディーンはこんなにも早く戻ってきているのだろう、と思う。ついさっき出て行ったばかりのはずだ。なのにその手には氷の入ったビニール袋が握られていてる。いくらなんでもおかしい。 そうして時計を見てみて驚いた。ディーンが出て行った時間から、もう30分経っている。 30分もぼうっとしていたのか。 「設定温度が15度?馬鹿、いくらなんでも冷やしすぎだ!風邪ひくぞ!」 「あ、ごめん。なんとなくつけちゃって」 それは半分純然たる事実で、半分は完全な嘘だ。 熱い気はしたが、暑くは無かったし、クーラーを入れた記憶は酷く曖昧だ。それを言えば目の前の兄が酷く心配するのは分かりきっていたから黙った。 恐らく外の空気を入れて少しでも部屋の中の気温を下げようとしているのだろう、部屋中の窓を開けてディーンはふー、と深く深く息を吐いた。 「サム」 ゆっくりとディーンが向かいのベッドに座る。マットがディーンの体重を受け止めてゆっくりと沈んでギシと音を立てた。 「お前大丈夫って言ってたよな」 言った。確かにそう言った。 もう一度ディーンはふー、と息を吐く。その表情に何故か急に不安感を煽られた。降って湧いたかのように突然に。ディーンは怒っているのだろうか。それとも呆れているのか。不気味に思っているのか。うんざりしているのか。 “あの時”の様に。失望させただろうか。 今さらながらに寒い。手の先が温度を失っている。 「違う、悪い、違うんだ…そういう事を言いたいんじゃないんだ」 がしがしと乱雑に頭を掻くディーンを見る。そしてその顔を覗き込んで息が詰まった。 ディーンが泣きそうな顔で、苦しそうに眉根を寄せている。 「なんでディーンがそんな顔してんだよ」 「お前こそなんでそんな顔してんだよ」 どんな顔なのか分かるはずがない。自分の顔は見えないし、何時だって自分の事は一番見えない。自分が正しいのか間違っているのか、そんな簡単な事でさえ今まで見えてこなかったのに、いまさら自分の何が分かるというのだろう。 「誕生日おめでとう、サム」 聞きなれた声だ。過剰な重さの無い優しい言葉。炎の中で聞いた声とまるで違う、その言葉の何と正しいことか。 ぶわりと視界が暖かいもので潤む。ゆらゆらと景色が像を上手く結ばなくなる。目の奥が熱い。胸の奥がぎゅうと締め付けられた。 「ビール奢ってやる、って約束しただろ?」 ディーンの指差す方には何本かのビール瓶が置かれている。氷の袋の隣に。 「…うん、そうだったね」 「まぁどうせお前の事だから忘れてただろうがな」 忘れてたよ。思い出したくなかったから。この命が重ねた年月は誰かの命の重なりを奪ってきた歴史だから。 覚えてたくなんてなかったよ。泣きたくなるから。死んでた方がいいって思ってるから。 生きることは絶望ばかりとは言わないけれど、ほんの少しの刹那的な楽しみを除けば連続した絶望ばかり。 いつだって苦しい事の方が多い。いつだって。いつだって。 今だって。 でも覚えてた。 ディーンがビールを奢ってやるだなんて、柄にも無い事を言うから覚えていたんだ、ディーン。 「泣くなよ」 「泣いてない」 ぼた、とシーツの上に一つ、二つ、染みが出来る。瞬間的に視界が明瞭になるが、次から次へと溢れてくるものでまた視界はゆらゆらとおぼろげなものになる。 ふわりと窓から心地よい風が吹き込んでくる。寒くもなく、暑くもなく、もちろん熱くも無い、心地よい風が。 「なぁサム、きっとお前は、」 「うん、…うん、」 生まれて来たことなんで喜んではいない。生まれてこなければ良かった。 年に一回、生まれて来た事をこれほど恨んだ事はない。年月の分だけ喉を掻きむしりたいほどの罪悪感が背中を焼く。後悔がひたひたと後ろから付いてくる。逃げるな、忘れるな、と。喪われた命はお前が生まれたせいなんだと、遠くから声が聞こえる。利用されるために生まれてきたのだと、誰かが軽薄に告げてくる。利用され、搾取されるためだけに生かされているのだと、笑い声が聞こえる。呪われた血統、穢された血。 けれど、ディーン。ディーンだって、きっと。 「俺はお前がいて嬉しいよ」 笑おうと思って失敗した。きっと奇妙な表情をディーンに晒した事だろう。目の前のディーンは困ったように笑っている。 「お前自身がどう思っていようと、俺はそう思ってる。お前が居て良かったんだと」 ああ、だから自分たちは。 だから自分たちは愚かにも何度でも互いを呼び戻す。自然の摂理に、神の定理に背いても。自分の命を簡単に捨てて相手を助けようとする。 自らの命を祝えない代わりに、相手の命を祝う。 熱を出した日の事を思い出す。ディーンがお前の誕生日にはビールを奢ってやる、と言った日の事を。 あの時ディーンの誕生日を祝えずに過ぎていったことを少し惜しいと思ったのは、そういう理由なのかもしれない。そういう事を分かっていた。ディーンがディーン自身の命を祝えない事を知っている。 あの時ディーンの顔が泣きそうに歪んでいた事も知っている。 だから。 「ありがとうディーン」 生まれて来た事ではなく、祝われる事に感謝を。お前などいなくて良かったと言われない事に願いを。 たぶん誕生日の理由など、それだけでいいのだ。この日がディーンにとって意味があるのなら、サムにとっても意味がある。ディーンの生まれた日がサムにとって確かな意味があるように。 たぶん今ここに自分がいる理由など、それだけでいいのだ。 |
願いの温度