所詮は叶わぬ夢だったのだ。
叶わぬ夢、叶うはずのない夢を追いかけていた、――それは鮮やかすぎる程の無意味な夢。
しかし夢は夢で正しい。所詮は夢。これは正しい、のだ。





地の底は業火か、何もない灰色の荒廃の地か。

そんな想像はあくまで人間が作ったイメージの中に終始するものだったらしい。サムはもう見慣れた、見慣れすぎた風景をぼんやりと見渡しながら幾度目かの同じ感想を抱く。
周囲には身を焼く業火は無く、また所々に枯れかけた草があるような荒廃の地でもなかった。
可笑しな事に緑があった。思ったほど暗くも無かった。檻の中はサムの想像とは少し違い、何時かに天国で観たガーデンを少し寂しくしたような風景だった。生い茂る草が無い分、視界の中で邪魔にはならない。ただ草と呼ぶには丈が大きく、木と呼ぶには幹が無い、そんな植物が邪魔にならない程度に配置されていた。しかし緑だけの場所ではない。サムが座る場所が欲しいと思えば木製の少し古いチェアも出てくる。不思議な場所だった。
恐らく檻といってみても、ここは地獄。ルシファーの王たる場所だ。ルシファーが望めば何でも出来るのか、堕天使が故に観る者によって風景が変化するのだろうとサムは思っている。それとなくサムはルシファーにその事を聞いてみたが、魔王は“天の様に見る者によって変化する虚像は嫌いだ。此処には真実しか無いよ、サム”と言ったが、真実はサムには分からない。サムは真実など期待していなかった。

兎にも角にも不思議な場所だ。
見渡す度に何度も思う同じ感想をそれでも繰り返すのはサムにはそれ以外にする事が無いからだ。巡るだけの同じ思考を何度も何度も何度でも繰り返す。それは心的な虚弱状態を示すことにサムは気がついていたが、そちらに思考を移すことだけは余りある時間の中でも、流石に止めておいた。思ったら最後、どこまででも果てなく墜ちる思考は危険だとサムの本能が告げていた。終わらない時間の中で正気だけは失いたくなかった。まだ、自分は自分で居たかった。

だが、果たして自分とは何だったろうか?

閃くように突然湧き出た壮大な疑問にサムがのろのろと思考を動かせるのと“サム”という落ち着いた声色が響いたのはほぼ同時の事だった。サムはのろのろと顔を上げて、ゆっくりと歩み寄ってくる地獄の王を見る。誰かなど考える必要は無かった。此処はサムともう一人しかいない。そんな不毛の場所だ。
「…何」
「随分な言葉だ」
「僕に何を期待しているのか知らないけど勘違いも甚だしい」
そのサムの言葉にルシファーは口元を困ったように引き結んで肩をすくめてみせた。サムが何度か見たことのある仕草は、この場所に来てからもう何度見ただろうか。サムは考えようとして止めた。思い出してどうなる、どうにもならない。
「サム、言い争いはやめよう。この場所は時間だけはある。縦横の時間軸だけではない、同心円状に広がる時間空間だ。もっと時間を有効に使おう」
「だから会話を?同心円状に広がる時間が無限にあるからこそ、時間を有効に使う必要性を論じる意味合いが分からない」
サムは呆れたように呟いて見せても目の前の相手にそれほど効くとは思っていない。昔は、そう昔だ――もっと突っかかるような物言いをしていたような気もするが、気のせいだっただろうか、どうだっただろうか。思い出せないが、それでも魔王との会話は終わらない。事実だ。こうやってまた時間を無為に過ごす。これもいつもの事だ。

「この場所が気に入らないかい?」
「当たり前だ」
どんなサムの言葉にもルシファーは今まで一度も気分を害した様子を見せたことは無い。ただ何時も決まって少し肩をすくめてみせ、それでも楽しそうに会話を続ける。むしろサムとの会話を楽しんでいる風さえあった。時に議論を吹っかけられる事もあった。そしてサムはルシファーへの苛立ちから議論に応じ、ルシファーはサムの意見を楽しそうに聞いては持論を持ち出す。
ルシファーはサムにYesと言わせようとしていた頃の様な、反論を防ぐように追い込む言い方はしなかった。この場所に来てからは、ルシファーはサムとの会話を純粋に楽しんでいるようだった。自らとの同一を望みながら、否、望むが故にサムとの差異を埋める楽しさを見出していたのかもれない。どちらにせよ、それはサムには少しも楽しいものでは無かったけれど。

「この場所を出れば、同質、を求められるだろう?サム」
「――何だって?」
「上の話だよ。地上の人間達は何故か同質を尊ぶ。異質を認めようと軽々しく呟いては異質を排他しているという、……私からすれば奇異な状況だが。サム、君はその同質を求むる社会で異質を持て余していたのだろう?」
「…もういい」
サムは思わず立ち上がった。これ以上この男と何も話していたくはなかった。一刻も早く、こんな意味の無い会話を終わらせてしまいたい、今更異質だとか同質だとか議論してどうなる――此処には同異も何も無いくせに。サムの頭の中を占めたのはそんな感情ばかりだ。
サムはルシファーを背にして歩き出す。そんな明らかに気分を害した様子のサムを見てもルシファーは少しも動揺した様子は無く、むしろサムの背中に声をかける余裕さえあった。
「ここは君の異質を排他する者はいない」
「でもお前と僕しかいない」
「外的刺激による精神的圧迫もまた無いと思うがね」
その言葉にサムは立ち止まり、ルシファーの方に振り向いた。
「僕の人生を管理してきたお前という存在が、僕にとっての一番のストレッサーだ」
「嗚呼、それは残念だ」
そうしてルシファーは少しも残念そうな表情を浮かべずに肩をすくめる。それも何時もの事。



ルシファーの姿も声も聞こえなくなった所までサムは歩き続け、ようやく立ち止まった。
景色に変化は無い。少しの緑と僅かな静寂が占める空間にサムは突っ立ったまま、ぼんやりと考え込む。
言わなければ良かった。言ってしまったせいで意識せざるを得なくなった。
“僕の人生を管理してきたお前という存在”
忘れていたのに、思い出さないようにしてきたのに意識してしまった。自分の生い立ちが悪魔に管理されてきたという事に。ああ、墓穴だ。忘れていられれば再びこんな感情に見舞われることも無かったのに。遠くなっていた記憶を引き戻す作業は、今のサムにとってはただ苦痛でしかない。

此処に来てどれだけの時間が経ったのかサムにはよく分からなかった。地上での一ヶ月は地獄での十年。もしかしたら檻の中では時間の流れがもっと違うのかもしれない。どれだけの時間が経ったのかが、サムにはよく分からなかった。檻の中で過ごして一ヶ月そこそこなのか、もう何十年、下手すれば百年単位の時間が経っているのかもしれないが、それをサムが知る術はない。そして今までの自分でいられているのかも。比較でしか物事は捉えれない。そして比較対象になる指標自体がこの場所にはないのだ。

そもそも自分とは何だったのか。

遠くなった記憶の中では、生まれた瞬間から悪魔にやんわり管理されてきた人生を送ってきた、と記憶している。何処からが自分の力で手に入れたものなのか、何処からが悪魔によって与えられたものなのか――サムという人間を構成するに足るものが悪魔の手によってなされたという、サム自身のアイデンティティの根幹を揺るがされ、自分というものが曖昧にされたままこの檻に堕ちた。どれだけ足掻こうにもサムが足掻いてきたのは小さな枠の中の話で、サムの足掻く枠よりもより大きな枠――運命という名の枠が――サムの想いも努力も何もかも絡め取って覆い隠した。

サムはぼんやり自分の両手を見て、不意に悪魔に与えられたものでなく、自分で手に入れた人間関係を数えてみようと思い立った。それはとても名案のように思えた。そしてサムはまるで子供のように指を広げて指折り数えてみる。
最初は母親、次に父親、そしてボビー、エレン、ジョー、アッシュ、キャス…は天使だからまた立ち位置が違うだろうとサムは数に入れるのを控えた。そして最後にディーン。たった一人の兄だった。
数えてみれば数は7つ。両手で数えられる程度が、どこまでも自分らしいような気がしてサムは気が抜けたように少し笑ってみせる。何もおかしくはないが、兎に角笑いたい気分だった。
そして指折り数えた中から今はもう居ない存在を外していく。母親、父親、エレン、ジョー、アッシュ、皆死別だ。全部悪魔に殺された。
結局、折り曲げた指をまた伸ばすと、折り曲げられている残りの指はたった二本になっていた。二本の内、一本はボビーと、残りもう一本は、
「ディーン、」
久しぶりにその名を呼んだ気がする。ここに墜ちて話す相手はルシファーしかいなかったから、その名を呼ぶことも無かった。久方ぶりに呼んだ名は懐かしくさえ在った。

嗚呼、兄はどうしているのだろうか。サムは思う。
サムにとっては遠き日に告げた言葉は、地上のディーンにはごく最近の言葉。欲しかったものを手に入れて幸せな毎日を送っているのだろうか。いや疑問に思うまでも無い、幸せな日々を送っているのだろう。檻から出ていない自分という存在が何よりの証拠だ。サムは気が付いていた。
――サムという存在が檻の中から出てしまえば、ディーンという男の平穏な日々は終わる。
だからこの穏やかな終焉の見えない檻の中で、サムは静かに終焉を待つ。だれも巻き込まず、誰も死なず、誰も不幸にさせないためには檻の中は最適だった。魔王を閉じこめながら自分も閉じこめておこうとするなら、この場所は最適だ。あまりにも。正しい。これは余りにも正しかった。

だからきっと所詮は無駄な努力だったのだろうとサムは思う。
ルシファーの言うとおりサムは同質を望んでいた。ハンターではなく、ただの人間として穏やかで平穏な日々を送って、静かにベットで死ぬ。そんな誰にでもありそうな人生と終わりを望んでいた。だからそう在る自分になろうと努力した。サム自身、何処かで自らに運命付けられた異質を排除しようとしていた。
しかし、その努力が如何だったというのだ。
プロセスの健全性をどう担保しようにも結果がこれだ。恐らくどんなルートを辿るにしても、最後にはサムは地獄の檻にたどり着くように出来ていたのだろうと今になって思う。何を言い訳してみても、恐らくこの結果を回避する事は不可能だった。小さな、ほんの些細な捻れが重なり、それが大きくなり修正が効かない場所まで来てしまった。間違いは何処にでもあったし、間違いは何処にもない。全ては予定調和の中だった――サム自身の力ではどうしようも無かったし、兄は巻き込まれただけだったし、父親は父親としての責を果たそうとしていただけだった。

だたそんな人間の思惑を凌駕するほどの力が働いていたというだけの話。サムが追いかけたのは夢。叶うはずが無いから夢と呼べる、そんな架空のおとぎ話を信じていた。サムは自分が何なのか分からない。自分を構成してきたあらゆる出来事は悪魔の手のひらの上だったのだから、自分が何だったのか分からない。
だからこそ、たぶんこの結果は正しい。とても正しく、何処までも正しい。そう出来ている。
昔の自分は今の自分を見てどう思うのか、サムは思い出そうとしたが出来なかった。それでいいとサムは思う。あの頃にも、どの頃にもサムは戻れない。知ってしまった事実を無かった事には出来ないし、変わったかもしれない自分を取り戻す術も知らないし、変わったのかどうかがそもそも分からない。

ぼんやり見つめる先は果て無き檻の中。檻の枠がどうなっているのか、鉄の檻のようなものを想像していたサムにはそれを見たことはない。枠はどこにあるのか、その枠はどんな形をしているのか、檻とはそもそもどんな構造をしているのか、サムは知らない。知ったところで意味はない。
「………」
自分が変わったのか、それとも昔の自分のままなのか。自分が何かに変わってしまったのか。どれだけ考えてみた所で、何度考えてみた所で、矢張りサムには何も分からずに、知る術もなくただ、檻の中の狭く広い世界を見渡す。

見渡した先の緑の奥、その瞳に移る景色が一瞬灰色になり――荒廃した光景を映し、所々業火があがる――そんな幻覚とも現実ともつかない光景の中にいる自分が見えた気がしたが、またすぐに緑の何時も通りの景色に戻って、サムはそれを気のせいだと思うことにした。