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夢を見ているのはだぁれ? 崩壊、崩落、瓦解、そういうものは突然やってくるものだとディーンは信じていた。それは過去の経験から照らし合わせても明白で――それは母の死だったり、闇に潜むものが牙を向く瞬間の息もつかせぬ勢いだったり、悪魔が笑いながら突きつけた作為的な運命であったり、天使の無機質な思惑であったり、まるで何処かの映画のようなシナリオを擬えた世界の崩壊であったり――こんな風に普通の人間ならばまず経験しないであろう、諸々の崩壊という名の希望を殺す数々の出来事に直面したディーンの精神は人しか持たぬ学習能力という力を発揮して、崩壊とはある日突然にやってきて全てを飲み込む蓋然性さえ揶揄するものだと信じていた。 しかし突発性を伴わない崩壊、言い換えれば、それは穏やかな崩壊と名付ける事の出来るそんな事態がある事をディーンはその時初めて知った。それは知ったと言うには穏便な響きで、どちらかというと気が付いた――そんな言葉が正しい。 ディーンにとってそれは当初、さして気にするような事ではなかった。 世界の破滅は免れ、天使は天に、悪魔は地に戻った地上。そんな場所で、それでもディーンとサムはハンターとして、天使曰く地上の汚れた空気を吸っては吐いて、悪魔曰く人間の欲まみれの世界で生きていた。右手には銃を、左手にはナイフ。互いの背中に互いの背中を預けて。旅の隠れた立役者は愛用のインパラ。BGMは何時ものクラシックロック。疲れた体を癒すのはモーテルのスプリングのあまりきいていないベッド。そんな生き方を選んだ。いつも通りの、あまりにいつも通りの、天使と悪魔を排除した元の、ほんの少し前までの他者から見れば普通でない生活。しかしそれはディーンにとって普通だった。天使と悪魔の莫迦らしい戦いが無いだけマシで平和という感覚の麻痺した言葉を呟ける普通の日々。 そんなある日の朝。 ディーンはいつものように出発の準備を整え、忘れ物がないかバスルームをチェックしていた。次に向かう町はまだ未定。軽快にハイウェイを飛ばして、その途中で情報収集をして狩りに向かえばいい。奇妙で非現実的な話など探せばいくらでも。闇に潜むものは突然に。だからこそハンターが居るんだ、とディーンは内心で嘯いてみせる。嗚呼そう言えば冷えてきた、ならばとりあえず西に向かおう、と考えながらディーンはベッドで武器を確認しているはずのサムに声をかけた。サムそろそろ出るぞ準備はいいか、と。だが何時もの弟らしくなく、すぐ返ってくるはずの返事は無く、ディーンはひょっこりとバスルームから顔を覗かせた。おいサム聞いているのか、と言う言葉と共に、もしかしたらインパラの方に荷物を詰めていて此処にいないのだろうか等と考えながら。 だがサムは居た。ベッドの上に銃を広げて、そこに居た。 ただおかしかったのは、ぼんやりとした瞳を浮かべて、此処でもなく何処でもない場所を見つめていた。ただぼんやりと。ただただぼんやり、と。 その時ぞくりと震えたディーンの背筋が意味する所は何だったのか。今でもディーンはあの瞬間から緩やかに糸が綻ぶように始まっていた崩壊の音のない音をしっかりと捕らえていたならば、と思うが、全ては仮定の話で意味は無い。とにかく、ディーンはその震えを無視してもう一度呼びかけた。おいサム、と。すると次の瞬間にはサムは完全にサムだった。サムは振り返って、どうしたのディーン何か間抜けな顔してるけど、と言って何時もの顔で少しおかしそうに笑った。そうしてサムは鞄を持って立ち上がり、早く行こうモタモタしてると置いてくよディーン、と言った。 それは違和感として認識してはならない光景だった。少なくともそれを違和感と認めてしまうわけにはいかなかった。まるで無意識に崩壊の糸口を自ら掴みに行ってしまう事を忌避するかのように、ディーンはそれを違和感と認めてしまうわけにはいかなかった。だからこそサムはただぼんやりしていたのだと、どんな人間でもそんな瞬間があるだろうとディーンは納得してみせた。納得して見せた筈だった。 だが次の違和感も静かにやってきた。 それは最初の時と同じように、サムがぼんやりとディーンの言葉を聞き逃す程度のもの。そんな事が2、3回続き、そうして気がつけばその回数は両手で数えるには足りなくなっていた。しかしこれと言ってサムが狩りの時に致命的なミスを犯すわけでもなく、ただモーテルに居る時やバー、インパラの中でふっとそんな姿を見せるだけだった。そしてディーンが声をかければ、いつもの理性的で少し生意気な弟であり続けた。それがディーンに安堵と油断と事態を把握するまでの遅延をもたらせていた。ディーンの知らない所で、或いは無意識の深層で抑えている日常の中、ハンターという二人きりに近い世界で、それでも二人きりではいられない世界で綻びは毎日のように広がっていた。それは突然では無かったが故、ディーンは何かが壊れていく音だと気が付かなかった。崩壊とはディーンにとって常に何時でも突然のものであり、そうあらねばならぬものだったからだ。 だが、それはやってきた。糸はゆっくりゆっくり綻んで静かにちぎれる時がやってくる。そしてやってきた。 インパラを運転していたディーンはサムに次の町へのルートはこのままで良いのか聞こうと考えた。この先は道が大きく二股に分かれており、幹線道路が大きく二つに分岐するからだ。助手席の弟に眠った気配はない。むしろ先まで小さなイタズラ合戦と言う名の子供っぽいやりとりをしていたのだから、サムはむくれて外を睨んでいると思っていた。だからディーンは聞いた。おいこの先はどっちだ、と。ただそれだけを。 弟から返事は無かった。その反応に、ディーンはまだむくれているのか子供だな、と思っていた。しかし違っていた。全ては思い違いだった。ディーンがサムを見遣るのと同時にサムもゆっくりとディーンを見た。その瞬間、ディーンは息をとめた。 ぼんやりしているサムの瞳が何も映していないのにも関わらず、焦点が合っていないように見えるのにも関わらず、――希望を携えていないにも関わらず、その瞳はディーンを確かに捉えていた。 今まで何処でもない場所をぼんやり見つめていた瞳がディーンに確かに向けられ、サムは酷く幼い仕草で、何もかもが疑問に思っている子供のようにことり、と首を傾げた。瞳の色、そのままに。 『…でぃーん、なぁに?』 ―――だめだ。そう思った。 その瞬間、ディーンは緩やか過ぎて気が付かなかった、穏やかな崩壊という名の瓦解を知った。崩壊とは突然ではない事を悟った。そして本能で、このままではいけない、と思った。それは今まで感じたどの危機感よりもずっと強く、ずっと恐ろしく、息さえ出来ないのではないかと思える衝撃だった。 ディーンはハンドルを切った。スピードを落とさずに、めいいっぱいハンドルを切った。タイヤはアスファルトの摩耗で激しい音を立て、急激な遠心力でトランクの中から何か転げ落ちるような物音が聞こえたが、それでも構わなかった。そしてアクセルを踏んだ。力一杯。めいいっぱい。力の限り。弟を脅かさないものだけの空間が確保される場所に向かって。此処ではない、何処かへ向かうために。 ディーンが選んだ地は長閑な田舎だった。そして選んだ家は日当たりのいい、長閑な田舎の中古で売りに出されていた一軒家だった。値段の割りにいい家だったのは立地条件が故に評価額が下がったのだろう。バーもない深夜営業のマーケットもないそんな街。しかしそんな必要以上に他者に干渉しない風土と点在する家々の距離感が良かった。ディーンは此処を定住の地に選んだ。 ディーンは望んで弟以外の全てを捨て、欲しかった全てのものを手にした。 サムの穏やかな崩壊は益々進んだ。 それはまるで崩壊と言うよりは退化に近い様子で、酷く舌足らずな様子でサムはディーンを呼ぶ。それはまるで小さな小さな頃、サムがディーンの後ろを付いて服の裾を掴んでいた頃、ただ二人で静かに寄り添っているだけで世界が完成していた頃に似ていた。 そして同時にサムはよく眠った。日当たりのいい、リビングと呼べる場所に置いたソファでうたた寝をする姿は酷く無防備で、ディーンの庇護欲を強烈に駆り立てた。開け放ったテラスからは穏やかな風が吹き、カーテンを揺らす。その風はサムの前髪を揺らせて、差し込む太陽の光はディーンよりも明るい髪色をもっと明るく見せて、ただただ穏やかな時間が過ぎる。何をするわけでもなく、何をしなければいけないわけではない。ただ太陽の光が欲しければカーテンを開けて、風が欲しければ窓を開ける。ぬくもりが欲しければよりそう生活。そこに恐怖も闇に潜むものも、悪魔もなければ、天使も神も無い。むしろそんなものはこの二人きりの生活と天秤に掛ければ、屑のような些細で気に留めるまでの無い矮小な存在に成り果てた。 穏やかで、気がついたときは既に手遅れだったその崩壊、又は瓦解という名の変化。そんなサムの変化をディーンは危険だとは思わなかった。恐れだとも思わなかった。焦ることもしなかった。そうだと受け入れてしまえば、それは酷くディーンの心にすとんと落ち着いて、ただただディーンは穏やかに壊れていっても、それでも無欲な所は変わらないサムを何処までも甘やかした。サムはそれに呼応するかのようにディーンの姿がないときょろきょろと辺りを見回して、でぃーんどこ?と小さく呟く。ディーンは家の何処にいてもその声を聞き漏らさず駆けつけた。舌足らずで依存を示す、その声がディーンはたまらなく好きだった。 それでもサムは稀に何時ものサムに戻った。 でぃーん、でぃーん、と呼んでいた声が、不意に知性の色を纏って、ディーン、と呼ぶ。そして変わらぬサムがディーンに言うのだ。どうしたのそんな顔をして、と。そしてそれから変わらぬ風に話をして、互いに憎まれ口を叩きながら取り留めのない話をする。インパラの事、テレビでやるらしい面白そうなホラー映画の話、他愛の無い思い出話。そしてもうやってこない全米を移動するはずの未来の話。それでもサムが見知らぬ家に居る事に一切の疑問を呈してこないのは、サムの緩やかな崩壊を示しているのだろうとディーンは思う。そしてまた数時間、あるいは数日経てば、またサムはディーンをでぃーん、と呼ぶのだ。 そうしてあるいは夜。サムは悪夢に魘された。 ディーンが魘されるサムを起こすとサムは決まって、瞳の奥を悲しみの色に染めあげながらこう言った。僕に悪魔の血が流れているってみんな言うんだ。世界を混乱させて、みんなが死んだのは僕のせいで、僕がみんな壊した。ごめんごめん、ごめんなさいごめんなさい。とぼろぼろ涙をこぼしながら、ディーンと今は生きていない者に、そして世界中の人間に謝った。血を吐きそうなほどの後悔を告げて、ただ謝る。そしてこうとも言った。あの女悪魔よりディーンを信じてた。でもあの時はあの方法しか思いつかなくて、裏切るつもりも見下したつもりも、何時だってディーンが正しかったのに、あんな事を言うつもりじゃ無かったんだディーン、ごめんごめんごめんなさい、赦されなくてももうこの方法しか知らないんだ、とただ贖罪の言葉をただただ壊れたレコードのように繰り返しては告げる。 ディーンはその度にサムを抱きしめる。静かに背中を撫でて、泣き続ける弟に、大丈夫だお前は何も悪くない俺はもう怒ってないお前がそうやって謝ってくれてるのを知ってるからもういいんだサム大丈夫だから、と優しく告げる。そして額にキスを落とし、睡眠薬を口に含んでサムに口移しで飲ませる。涙と謝罪が落ち着く頃にはサムには睡魔がやってきて、そのままディーンの腕の中で静かに眠る。そしてディーンはその額に再び唇を寄せて、おやすみサミーと優しく告げる。 そして数時間後には弟の言葉に猛烈な歓喜を抱きながら、ディーンは悪夢の事は何も覚えていないサムと優しい夜明けを暖かな太陽の光の中で迎えるのだ。 これを不幸だと誰かが言うのだろうか。たまにディーンは思うが、そんな事は最早どうだって良かった。今日もサムは笑っている。心から嬉しそうに、とてもとても幸福そうに笑っている。太陽の光に包まれたリビングの中できらきらと光の粒に囲まれて、髪を太陽の光に透かせて、ねぇでぃーん、とディーンを呼ぶ。笑っている。ならばいいじゃないかとディーンは思う。何がおかしくて何が悪いんだ、と逆に問うてやりたいくらいだった。 でぃーんと呼ぶサムも、ディーンと呼ぶサムも、夜中に謝るサムもディーンにとっては等しく全てサムだ。どれもがサムで、少しサムの中で均衡が崩れてしまったのだろう。だからこうなった。柔らかく何処かの歯車の噛み合わせが悪くなって、穏やかに崩壊の道を擬えている。今までがそもそも過酷過ぎて、今までその両足で立てていた事こそ褒めて遣るべき程の事だったのではないかと思う。ディーンも苦しかったがサムも苦しかった、自ら背負わなければ為らないものが増え続け、誰も味方してくれない世界で、それでも贖罪を求めて背中に重いものを背負い続けて、あの過去と直面しながら残りの生を生きるには弟にはあまりにも酷すぎる。ならばこうやってサムが笑っていて何が悪いのだとディーンは思う。もう十二分に苦しんだ。弟は解放されても良い。 たぶんサムは幸せな夢を見ているのだろうとディーンは思う。時折悪夢に魘されながらも過酷な過去はサムの中では所詮夢でしかない。もしそうでないにしても、その時は抱きしめて額にキスをして、抱きしめて、そして唇に静かにキスを贈って、また抱きしめる。そしてサムが静かな眠りに落ちるならそれでいいとディーンは思う。その姿でディーンも満たされる。 そしてディーンもサムに与えられた夢の中で現実を生きる。それは至上の幸福だった。ディーンもまた優しい世界で呼吸をする。ずっと欲しかった弟と自分だけの純度の高い世界。他者という不純物の無い、とてもうつくしい世界。 ディーンは望んで弟以外の全てを捨て、欲しかった弟という名の全てを手にした。 それはディーンの本当に望んだ世界。穏やかな崩壊を始めた弟を箱庭に閉じこめたディーンの罪。ディーンも何処かで己自身が壊れていく音を聞きながら、弟がひたすらに自分だけを見て、自分だけを頼り、自分だけに縋る幸せな現実に浸る。 ディーンも笑う、穏やかに笑ってサミーと呼ぶ。誰にも邪魔されない世界で、サムの信頼を全て独占して、サムの世界を自分自身で覆い尽くす。幸せだ、何処までも幸せだった。優しい太陽、穏やかな風、笑う弟。それは夢が現実になった、幸福な夢。ディーンが手に入れた至上の崩壊。 ――ねぇ本当に夢を見ているのはだぁれ? |
daydream.