「お前、」
ぽかん、と文字通りの顔を浮かべた兄の表情はまるでらしくなかった。締まった顔を元々浮かべている印象がないが(半分冗談、半分本気だ)、この表情は別だ。
ここまでディーンが呆気にとられて呆けている表情を今まで見た事ない、と他人事の様に思ったサムは、その瞬間、思い出した。

「あ、ビール忘れた」

さもうっかり、と言った表情を浮かべたサムをディーンは呆けたように見つめたのは一瞬だった。
次に浮かべた兄の弟への表情は呆けたものではなく、
「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ!!」
慌てたような、怒った様な、呆れたような、心配しているような、そんな複雑な表情だった。


薄い壁しかないモーテルの一室。ちなみに言うなら午前1時と15分ちょっと過ぎ。
ディーンの怒号がびりびりと響きわたった。







話は一時間ほど前に遡る。
毎度の事ながら狩りで泊まったモーテルの一室。ちょうど簡単な狩りがひと段落した、のんびりとした夜だった。

ディーンはテレビで大好きなホラー映画を。サムはそれを横目で見ながら読書をしていた。
テレビの中では絶叫しながら逃げる主人公。ホラー映画と言っても猟期的な描写は無く、とことん後ろを付け回すような粘着質な恐怖を主体とした作風が印象的で、ディーンもそれなりに楽しんでいるようだった。
テレビの前のソファに沈み込んで、まさにリラックスしていますと体で表現せんばかりの兄の後頭部を見つつ、サムは読んでいた本を閉じた。
ちょうどキリの良いところまで読み終えた。ついでに集中力も切れた。サムは何をしようか考えるが、狩りを終わった後で早々にPCと睨めっこをする気分ではなかったし、音を立てれば兄の映画鑑賞の邪魔になる。今日はこのまま穏やかな時間を楽しんでいたい。
そこでサムは深夜まで開いているマーケットがあった事を思い出した。気分転換という選択肢を見つけたサムはさっそく傍らのジャケットを羽織る。
「ディーン、散歩がてらに買い物してくるけど欲しいものは?」
「ビール」
端的な一言。しかもテレビから目を離さない。見ようによってはぞんざいな言い方にも見えるが、サムにはテレビに熱中している子供にしか見えない。あまり見ることの出来ない、下手をしたら自分しか見ることの出来ない姿にサムはこっそりと笑う。やっぱりたまにはこういう夜もいい。
「はいはい」
狩りをした後でもホラー映画を好き好んで見ているなど、最早職業病ではないだろうか、という言葉をサムは喉の奥に押しとどめて、小さく笑って外に出た。


少しだけ冷えた夜風がちょうど読書で火照った頭を鎮めていく感覚が心地良い。
サムは満足げに歩みを進めながら昼間の記憶を頼りにマーケット向かう。サムはこの街一番の大通りを進んでいたが、夜になれば人通りはほとんどない。
それでもぽつりぽつりと街灯の下に浮かぶ人影はある。食料を求めて歩き回っているホームレス、帰宅を急ぐスーツ姿の男、街灯の下で愛を語らう男女。皆自分の事に夢中で周囲の様子など気にとめる様子はない。
闇の中の人影はそれなりに不気味だ。しかしそれに怯えるような感覚はサムには無い。

闇には人より恐ろしいものが潜んでいる。
気を抜けば誰でも飲み込まれる光の裏側の世界。
其処には人が作り出す憎悪も凶器も凌駕した力が存在している。

サムはそんな事を考えながら歩みを進めていると、目的のマーケットが視界の隅に映った。
買うものはビールと、少しスナックも買っていくのもいいかもしれない。ああ、明日は街を出るのだから長距離走行に備えて色々買っておく必要もあるだろう。そんな事を思っていた時だった。
「・・・?」
微かに何かが聞こえた。
サムは足を止めて周囲の様子を伺う。しかし耳を澄ませても、闇夜に目を凝らしてみても何も見えない。
気のせいか。
過敏なのも職業病かもしれない、こんな風ならディーンの事も笑えないか、とサムが再び足を踏み出した所だった。
―――やはり何か聞こえる。
サムはもう一度足を止めて息を殺した。全身の感覚を使って慎重に音の正体と方向を探る。
何か途切れ途切れに聞こえる音の種類は複数。何かの声に聞こえる。音の抑揚、高さから無機物が奏でる音ではない。方向は―――、

サムは感覚を頼りに裏路地に足を踏み入れた。
無意識にポケットに手を入れ、昼間の狩りで使った聖水を探る。ジャケットから出しておかなかった事が幸いした。手持ちの塩はないが、銀の小型ナイフは持っている。
装備は随分と心許ないものではあるが、聖水と銀があればひとまずの対処は出来るはずだ。欲を言えばやはり鉄と塩は欲しかったが仕方ない。

音は途切れ途切れながらもまだ聞こえる。
そしてうっすらと街灯が届く程度のほろ暗い闇の中に蠢く何かの影。

気配と呼吸を完全に殺してサムが近寄り、その正体を見極めようとして、サムは自分の目測が誤っていたことを悟った。
闇夜の中には異形の者がいたわけでは無かった。
「・・・・・・・・・・・・人?」
拍子抜けして、思わず思っていた事が口を突いた。
言い切るには早急かもしれなかったが、やはり人だ。複数。たむろっているだけの人間ならば首をつっこむ必要はない。突っ込んでいく必要が無い。
そうサムは思ったが、声はそんなたむろっている類のもではかった。声は言い争っているようだった。低い男の中に高い声が混じってる。
人影の動きは何か揉めているように見える。いや、揉めている。暗闇に目を凝らすと、闇に馴染んだ目は状況を把握するのに役立った。
――女性に男たちがからんでいる。
女の方は苛立ちもあらわに、男たちに怒鳴りながら振り切ろうとするが、その振りあげられた手は男たちにつかまる。
薄目に見える女性の顔にはっきりとした怯えが走った。
―――いけない。
そう思った瞬間、サムは踏み出していた。

「それ以上やると犯罪だ」
話して分かる相手ではないだろう、そうサムは長年の経験から分かっていたが、それでも一応警告する事に決めた。
「何だぁ?お前」
男が5人。女が1人。やはり、どう見ても、どう解釈しても、
「・・・・やっぱり人間か」
少し拍子抜けしながら、サムが意外そうに呟くと、血気盛んな男達は突然の乱入者の様子に意味も無く血圧を上げたようだった。
「何言ってんだ!」
男5人で女性1人を取り囲んで、そっちこそ何やってんだ。…と、サムは思ったがこれ以上男達のテンションに油を注ぐ真似をしなくてもいいだろうと男達の言葉を無視して、事態を把握しきれていない女性の方に口を開いた。
「今のうちに逃げて」
「え、あの」
「僕は大丈夫だから」
相手が霊なら“振り返らずに真っ直ぐ前だけを見て逃げて”と言うだろうし、悲しい事にその台詞の方が言い慣れているため、その台詞は若干サムに違和感を残す。
しかし相手を安心させるために笑いながら言うのには成功したようだった。女性は慌てた様子で男達の間をすり抜けていった。
「てめっ、勝手な真似しやがって」
男達がぞろりとサムを取り囲む。

男は5人。
銀も聖水も必要なかった。
というか素人相手に手加減ってどうすればいいんだっけ?
血気盛んな男たちに囲まれながらそんなズレた事をサムは思っていた。






「サミー、お前なぁ。銃を持っていけ銃を」
「ビール買うのに銃も要らないかと思って」
サムを無理矢理座らせてディーンはがっくりと肩を落した。自分でやると言い張るサムをこれまた無理矢理押し留めて、ディーンは包帯を手に取った。無意識に零れるのはため息だ。ちなみに声が少し抑え気味になっているのは、さっきのディーンの怒号で隣の部屋から文句を言われた事が原因だ。

映画が終わって数十分。遅いと思っていたのだ。
サムがディーンに買い物を告げて出かけたのは映画がまだ中盤だった頃だったはずだ。それが映画が終わっても一向に帰ってくる気配がない。時間と共にディーンの中から映画を見終えた心地よい余韻は吹っ飛び(ディーンにとってホラー映画はあくまで楽しむ対象だ)、弟に対してのみ触手を動かす心配性の虫が騒ぎ出した。

嫌な予感というものは大抵どんどん膨らむものだ。
弟に関しては絶対に待ちの姿勢をとらないディーンは完全に焦った。携帯電話はつながらない。心配性の虫は大騒ぎである。
とうとう短すぎる忍耐が擦り切れ、ディーンが勢い良く愛用の皮ジャンを羽織った所だった。がちゃり、とゆっくりドアノブが回って待ち人が姿を表したのは。
しかしディーンは次の瞬間、安堵の息を吐くどころか、呆気にとられる羽目になる。

戻って来た弟は目立った傷こそ無いものの、明らかにぼろぼろになっていたからだ。

「普通の人間だったから拍子抜けして」
「その人間の方が怖い場合を身を持って知ってるだろ。忘れたとは言わせないぞ」
「ん、まぁ、ね」
サムが苦く笑うのは、二人とも猟奇殺人を楽しむ変態が起こした事件に巻き込まれた事をよく覚えているからだ。
しかし帰ってきて開口一番、ビール忘れた、はないだろう。ビールなんかどうでもいいから何があったか説明しろ、と詰め寄ったディーンにサムがおずおずと告げた話は人助け。人助けのような仕事はしているが、珍しく相手は人間ときたもんだ。
「手加減が難しかった」
なんつー感想だ。しかし事実でもある。
こんなかすり傷、放っておいても治るよ、と言う弟をディーンは無理矢理にベットに座らせても、先までの出来事の余韻が抜けていないのかぼんやりとした表情のままだ。
着衣の乱れは5人を相手に立ち回った所為で、かすり傷は加減具合を模索しながら相手をねじ伏せたための不可抗力だったようだ。

やたら苛立つ。
それは目の前の弟に対してではない。

「手加減しなくていいだろ。思いっきりボコっちまえ」
まず一目見て、柔らかい面影を残すサムが体術に優れていると分かる人間は少ない。いや、見た目ではまず分からないだろう。どう見てもインテリの類に属している。これは雰囲気なのだから仕方ない。
だから不用意に狙われやすい。
客観的にみればそれだけが理由とは言い切れないが、ディーンはそれを信じて疑わなかった。
「クズ野郎は半殺しにしとけ」
「大けがさせるよ」
サムもディーンも人間の急所を知っている。人を殺すのは力ではない。いかに的確に相手の急所を攻撃するか、で決まるのだ。訓練を受けて体術に明るい人間ならまだしも、街でたむろっている殴りあい程度の喧嘩をしたことのないチンピラなら、サムとまともにやり合えば大怪我をするのは間違いない。
それをディーンは知っているが、納得いかない心持に素直に従って、弟の言葉を肯定しなかった。
「ああいう奴らは半殺しにならないと何時までも図に乗ったまんまなんだよ」
ディーンは不機嫌そうに言ってみせながら弟の顔を見ようとして、その表情を見て一瞬だけ固まった。

――なんて顔、してんだ。

サムの顔を見つめるディーンに、サムは一瞬だけ不思議そうな顔をしてから首を傾ける仕草を見せた。
弟は恐らく自分の表情に気がついていない。
「お前、なんて顔してんだ」
「え、殴られてないけど」
「違ぇよ」
何で、お前が苦しそうな顔してんだ。
弟は本能的に恐れているのは、誰かを傷つけるということをディーンはよく知っている。必要以上に自分以外の人間が傷つくのを怖れている。例え、どんな人間でも。
付いていってやればよかった。
ディーンはそう思う。ならサムの代わりに相手の肋骨の一本や二本へし折ってやったというのに。
そうすればサムはこんな表情を見せずに、ディーンの行いに小言の一つでも溢して終わっていったはずなのだ。

「とにかく隙を作るな」
かろうじてディーンが言えた精一杯の感情の欠片は酷く分かり難いもので、額面通りの解釈しかしなかったサムは案の定少し笑っただけだった。
「隙があって巻き込まれたんじゃないよ。自発的に」
「自発的ってな、」
言えない言葉を飲み込む代わりに、ディーンは絆創膏を些か乱暴に貼り付けた。

「ああ、映画どうだった?怖かった?」
今の今まで映画の内容を完全にすっ飛ばしていたディーンは、弟の言葉で記憶の彼方に飛んでいた記憶を手繰り寄せた。
「大したこと無かった」
「本物見てるしね」
「分かってないな。フィクションを楽しむのがホラー映画の醍醐味だろ」
「それはディーンだけ。普通の人は恐怖を楽しむんだよ」
サムの呆れたような表情と言葉を受け流して、ディーンは常人の感覚に首をかしげながら、恐怖とやらを考えてみる。

――本物の恐怖を知っている。
それは異形の者でも、武器をもった人間でもなんでもない。
ディーンにとっての純粋な恐怖。それは喪失の予感をかぎとったあの瞬間。
ぞわりと瞬時に背中を這い上がって、脳を真っ白に染めあげ、根こそぎ呼吸を奪って息の根を止めるような恐怖がそこにはある。
そしてディーンはそれを知っている。
背中を真っ赤に染め上げる赤。ゆっくりと崩れ落ちた体。消えていく呼吸は喪失の象徴。
あの日、ディーンは確かに限りなく純度の高い恐怖を実感したのだ。

「今日は映画より怖い思いもしたしな」
「え、今日の狩り、怖かったの?」
ディーンは曖昧に笑って、弟を少しだけ小突いた。その仕草を純粋に解釈したサムは、楽しそうに笑う。
それでよかった。勘違いしたままでいい。
あの日、腕の中で確かに呼吸を止めた瞬間の恐怖が巣食っている等、弟は知らなくていい。

戻ってこない姿を探し、戦慄した僅かな瞬間、確かなあの日の恐怖への予感が其処には在った。そしてこれからも、そのトラウマのような恐怖はディーンの中から去ることは無いのだろう。
けれど弟はそれも知らなくていい。

「お前、トラブルに巻き込まれやすい体質なんじゃないのか?」
「・・・・ディーンにだけは言われたくない」

……今度から買い物にもついていくか。
20歳を越えた弟への過剰な庇護欲隠そうともせずに、トラウマを回避するためには少々地味な事をディーンは静かに思った。






実は恐怖の意味を知っているんです。