壊れた感じです。苦手な方はご注意を。
理不尽な現実に翻弄されているのは、だぁれ? 首を絞められていた――ような気がした。 緩やかな意識の覚醒。たゆたう安息の場所から呼び戻される眠りからの脱却は、時に穏やかでもあり、不機嫌なものでもある。まだ眠りの中に居たいと言うのに覚醒は何時だって無理矢理で、安寧の場所にしがみつく事を赦してはくれない。眠りの世界から現実へと至るプロセスは何時だって理不尽で、自分の脳が自分の意識を裏切る瞬間でもある。それが目覚めというものだ。 ――だが、目覚めとは息苦しいものでは無かったはずだ。 サムは息苦しさで睡眠からの覚醒を余儀なくされた。それは人間の生理機能から言えば異常事態で、睡眠状態という人間の最も無防備な瞬間を突かれた違和感だ。しかし息苦しいと言っても、死ぬという程ではなく、緩やかに呼吸を阻害されていると眠りの底で気がつく程度の息苦しさ。胸の上に何か乗っているのだろうか、と目を開けようとする瞬間に働いた希有な思考能力でぼんやりと思ったが、胸部に重さは感じない。違和感はもっと違う場所から。それは例えば首。首が絞めて、直接気道を圧迫するようなそれに似ている。否、首を絞められているのか。そうなのだろうか。だとしたら何故。 起き抜けの酷くぼんやりとした意識のまま、違和感の正体を探るためにサムはゆるゆると瞳を開ける。 そこに居たのは兄だった。 ただ兄がそこに居て、サムを覗き込んでいた。不思議なほどその表情は穏やかで、何時もならディーンよりも遅く寝ていたサムをからかうであろう、そんな言葉も無い。ただサムを見つめて、少し口元を緩めている。ただそれだけだった。嗚呼変だな、とサムはぼんやり体を起こすわけでもなく、目を開けたままの体勢のままにぼんやりと思う。変だ。ならば何がどう変なのか、サムは考える。だが起き抜けの鈍った思考力と、酸素が脳に十分回っていなかった愚鈍な状況とが相俟って、ディーンの違和感のある妙な表情に対する明晰な分析は叶わなかった。 それどころか、やわやわとした酷く不可解な違和感さえも曖昧になっていく。夢うつつの状況だったからだろう。そしてサムは兄の行動に対する貴重な分析の機会と、そして気がつけたはずの決定的な何かを見落とした。 その結果、兄の出現に霞んでいた息苦しさが今更ながらに思い起こされて、サムは反射的に大きく深呼吸をする事になった。やっと肺にたどり着いた酸素のお陰で、その違和感も最初から無かったかのように徐々に拡散していく。 サムはのろのろと上体を起こしながら首に手をやる。何も異常は無かった。着衣に乱れもない。ならば夢だったのだろうかとサムは思う。だが夢の内容さえ、むしろ夢を見ていたかどうかも記憶にない。夢を見ていたような感覚は無かったが、夢など曖昧なものだ。もしかしたら見ていたのかもしれない。最初から夢など見ていなかったのかもしれない。こればかりは考えても分からない。 ディーンがサムを呼ぶ。サミー、と。サムはそんなディーンを見ながら、どうしたの、と聞いた。己自身でもどうしたの、とは抜けた言葉ではないかと思ったが、口から突いて出た音は引き戻せるはずがない。ぼんやりと未だはっきり覚醒しない頭を引きずりながらサムはぼんやりとディーンから視線を移して室内を見遣った。変哲のないモーテルの部屋。昨日狩りから戻ってきてそのままチェックインした部屋だ。何時も辟易する変な壁紙も無く、インテリアも奇抜でない。サムの普通という基準に叶った部屋には朝の光が差し込んでいる。ディーンが開けたのだろうか、カーテンは開けっ放しになっていて、部屋の中が酷く明るく感じられた。酷く清々しい、自分たちには似合わないのではないかと思うほど太陽の光は部屋に差し込み日焼けしていない壁紙の白に反射して、目に痛いほど明るく、そして白みがかっていた。 兄はただそんなサムを見ながら、よく寝ていたな、と言って何故か満足そうな表情を浮かべていた。 次の日も息苦しさで目が覚めた。 ――また首を絞められていたような気が、した。 ゆるやかな息苦しさよりはもう少し強い其れ。違和感に自分の眉がしっかり寄っていることを眠りの中から完全に覚醒しないままでもはっきりと分かった。苦しい。くるしい。明確な息苦しさを自覚しながら昨日までとは違う違和感に、サムは夢の淵から自らを無理矢理引き起こした。 う、と漏れた声は自分が実際に発した声だったのか、夢の中で発した声だったのか、ただ思っただけのものだったのか。サムには分からなかったが、昨日よりはずっと強い意識を伴って瞳を開けた。その瞬間、酸素が急激に肺に滑り込んできたような、変な感覚がした。まるでやっと呼吸を赦されたよう、な。それは常ならばあるはずの無い、在ってはならない感覚だった。 やはり其処には兄がいた。そして昨日と同様、じっとサムを見ていた。 そしてやはりサムは尋ねた。どうしたのディーン、と。聞いてからやはり拙い言葉だと思った。具体的な内容を内在せず、限定した意味を含まない、その問いかけは下手なものだ。だがサムの脳内に浮かんできた言葉はそれだけだった。ただ、その“どうしたの”には、サムにとって実に多くの意味を内在していた。 どうしてまた僕を見ているのディーン、どうして昨日と同じ風なのディーン、どうしてまた息苦しいんだろうディーン、何か変な事でも起こってないディーン、何か知らないのディーン、何かおかしいよねディーン。 ディーン――ディーン。 そんな疑問が短い言葉の中に全て詰まっていた。そしてそんなサムの疑問はある程度ディーンに伝わっているはずだった。具体的な根拠等何処にも無かったが、サムはそう思った。共に過ごしてきた時間は伊達ではない。むしろサムの生まれた時から兄はずっと傍に居て、あらゆる危機を共に乗り越えてきた。時には衝突を繰り返しながら。だからこそ、目線だけでも、短い言葉だけであったとしても、上手く意志の疎通を重ねてきた。そして、そういう時にディーンがサムの言葉を履き違えた事は無かった。だからこそサムはサムの疑問を丸ごとディーンが解決してくれるものと、何故か思い込んだ。その時だけは何故か盲目的な程に信じきっていた。例えば――悪夢に魘されていたぞ――であるとか、――お前がマヌケな寝顔をしてたから鼻をつまんでやったぞ、どうだ苦しかったか――そういう類の言葉をくれると信じていた。 しかしサムの瞳に映るディーンはまた不思議な表情を浮かべていた。 昨日のように穏やかな表情では無かった。何故か泣きそうな表情を浮かべて、サムを見ていた。 だからサムはもう一度聞いた。どうしたのディーン何か変な顔してるよ、と聞いた。しかしディーンはそんなサムの問いには答えずに、おはようサミー、とだけ言った。 何故か首元がひりひりと、痛んだ。 そしてまた次の日。サムは目を開いた。 ――首を、絞められていたからだ。 呼吸が出来ない苦しさとは、途方もない恐怖を伴っている。それは呼吸という人間の生命維持の根幹をなすものであるが故に、それが不能となる事への本能的な畏れなのだろうか。しかしそんな思考に今は何の意味もない。今はただ苦しい。呼吸が出来ないという事実が、呼吸を求める本能的な行動が、全ての理性的な思考を奪っていた。 苦しい。苦しい。くるしい、くるしい、くるしい、息が出来ない。 サムは目を開けた。夢の中での強烈な感覚がもたらす原因は、もしかしたら悪夢ではないか、目を覚ませば全てが終わるのではないかと思っていたが、その苦しさは目を覚ましても変わることはなく、目が覚めたことで現実を受け入れざるを得なくなり、苦しさは余計に増した。 とっさに息苦しさの原因を生み出している、首に絡みつくそれに手を添えていた。覚醒しながらも意識が遠のくという相反した状況に置かれながらも、己を叱咤するように無理矢理にうっすら開けた視界の先。生理的な涙で滲む遠い視界の先。 ――そこに兄が、いた。 嗚呼そうか、とサムは思った。 その瞬間、サムはこの数日の異変の意味を全て悟った。そうか、全ては気のせいなどではなく、全て、そう全て。 ぎりぎりと圧迫される首はそのまま気道への圧迫に繋がり、吸おうとした酸素はどれだけ足掻いても肺に届くことはない。気道に微塵の空気の通り道がないイメージがぼんやりと脳内に浮かぶ。細胞が一つ一つ死滅していく音が聞こえる想像をする。は、と聞こえた音は自分が息を吸おうとしているのか、吐こうとしているのかさえよく分からなかった。首から上の血管がじんじんと痺れる。脳の奥がじりじり痛むような未知の感覚。心臓の拍動に合わせて、どくりと脈打つ血液の悲鳴が聞こえたような気がした。脳の奥がじわりと霞み、苦痛だけだった感覚が波を引くように静まっていく状況にサムはいよいよ危険を感じるが、警鐘を鳴らすはずのその脳の機能から低下しているのだ、危機感も現実感をそぎ落としたかのように心許ないものに変わっていく。 サムはぼんやりとディーンの顔を見た。霞んでいくはずの視界でその姿は何故かはっきりと網膜に焼き付いた。 兄の表情。それは。 その表情に、ならいい、とサムは思った。もういい、とも思った。 そう思った瞬間にディーンの手に添えていた自分の手はずり落ちて、シーツの上にぽたりと落ちた。サムはもう出なくなった声で静かに、いいよ、と言った。もういいよ、もういいんだよディーン、と言った。言ったつもりだった。もちろん声にはなっていなかったし、唇も上手く動いているか自信は無かったが、その瞬間ディーンの瞳が激しく揺れ動いた。 次の瞬間、首を圧迫していた手が緩んだ。思わず反動で吸った空気が勢いよく肺に届いてサムは数回激しく噎せた。げほげほと首を押さえて、肺から動脈に酸素が取り込まれ、静脈から溜まりに溜まっていた二酸化炭素が吐き出され、空気交換が無事再開される歓喜に全身が震える。殊更落ちついて呼吸をするべく何度か呼吸を繰り返した後、サムはディーンを見遣った。 ディーンは呆然とした表情のまま、そこにいた。緩くサムの首に手をかけたまま、サムを凝視したまま其処にいた。 激しく動揺しているのか、兄は何か言おうと唇を動かそうとした、のだろう。しかしそれは言葉にならずに、ディーンの額から汗が一筋流れ落ちて、サムの額にぽたりと落ちる。兄は何も言わない――否、言えないのか。この状況を作り出しているのが自分だとは未だに信じ切れていないらしく、まるでサムよりも遙かに驚いているかのように見える。手は震え、顔面は白を通り越して青くさえあった。激しい後悔の色と取り返しの無い事態を今更に実感したかのようなその兄の姿にサムは憶測を確信へと至らせる。 そう、兄は“知らな”かったのだ。 ――首を絞めていた事を。 だからサムは自分の呼吸が落ち着き、何とか話せる所までせわしなく動く心臓が静まりかけるのを待って、緩やかに口を開いた。 「ディーン。僕を、殺したい?」 その瞬間、ディーンの肩が大げさな程に震えた。ディーンは何回か吸えてもいないというのに呼吸を吐いて、違う違うんだサム違うちがうサム、と早口で呟くように、言った。サムは悟る、今この瞬間ディーンを分かっているのはディーンよりも己なのだと。そう悟った。ディーンはサムを見たまま、違う違う違う違うんだちがうサムサムサム、と壊れたレコードのような言葉を繰り返している。サムはそんな兄を見る。兄はサムを見ながらも、まるで見えるはずのない自分の深淵を突きつけられたかのように、ここではない何処かを見つめているような不思議な色をしていた。サムはそんな兄に酷く申し訳ない気持ちになって、ゆるゆると片手をディーンの頬に触れさせた。それは少し冷たかった。サムが手を触れさせた瞬間、ディーンの表情が歪んだ。それは懺悔と後悔と狂気と歓喜に満ちあふれた、不思議な表情をしていた。 「違うんだサムお前を殺したいわけじゃないんだ。違うんだサム信じてくれ、殺したいんじゃない何時だって俺はお前が必要でお前がいないと息さえ満足に出来ないどうしようもない奴で、この瞬間もお前を信じて、……違うそんな建前じゃなくて。本当は本当はサム、俺はお前を独占したくて、それが出来たら他は何も要らない必要ない。お前を俺しか見ないようにどこかに閉じこめて終わらせて俺しか知らないように俺だけを刻み込んで突き上げてどろどろにさせて俺がいないとだめなどうしようもない人間にしたい、そうしたいそうしてやりたいそう出来れば俺はおれは、サム…なぁサム、俺はおかしいのか、お前は手に入らないのにお前をどうにかして手に入れたい手に入れたくて仕方ない、こうやって首を絞めればお前の命丸ごと手に入れたような気になって優越感に浸る俺は狂っているのかサム、お前が息苦しさに眉をしかめる姿にさえ安心する俺はおかしいのか狂ってるのか普通じゃないのか、俺はお前しかほしくないのに。お前を殺せば生きていられないのにこんなことをしている俺はマトモなのか狂ったのかどうなのか、教えてくれ、もう俺じゃ何も、なに、も、」 分からない、と続けたディーンの言葉は酷く甘い愛の科白だった。少なくともサムにはそうとしか聞こえなかった。 サムは何も言わずに空いていたもう一つの手もディーンの頬に触れさせて、両手でそっとディーンの顔を包み込んだ。ディーンは未だサムの首に手をかけてはいたが、それはもう添える程度の力しかない。 もう一度サムは先のディーンの血を滲ませた様な束縛の言葉を反芻し、その意味をじっくりと考える。酸素が十分に行き届いた頭はサムにそれを可能にさせていた。故にサムは考える。その言葉の意味を。ディーンが本当に何を望んでいるのかを、どうしたいのかを。サムはゆっくりディーンを見た。その瞳の中に滲むのは狂った輝きだった。それを知っていて、気がついていて、サムはゆっくりと口を開いた。そして聞いた。柔らかく、優しく、少し微笑んでみせて、サムは聞いた。 じゃあ一緒に終わりたい? と、サムは聞いた。静かに聞いた。優しく聞いた。笑って聞いた。宥める様に聞いた。サムにはディーンはそれを望んでいるような気がして、ならなかった。そのサムの言葉にディーンは驚いたように暫し瞠目した後。 ――笑った。 見惚れる程の整った顔立ち。其処に浮かんだ笑みがどれだけ美しくとも、それでもやはり、其れは壊れて、いた。その何処か壊れた空気からディーンが戻ってくる事も、戻ろうとする事も無く、ディーンは優しく笑って、サムの首を柔らかく撫でて口を開いた。 ああ、お前が終わる瞬間には俺も終わりたい。俺が終わる瞬間にはお前も終わってほしい。 と、ディーンは言った。まるでサムが自分の本音を当ててくれた事に喜んでいるようにも、見抜かれた事を残念がっているようにも見えた。サムが初めてみる不思議な兄の笑みだった。 そうか、壊れているんだ、とサムは思った。崩壊している。気が付かなかった。けれどもう自分も何処か壊れているんじゃないかとサムは思った。兄の独占の言葉は、純度の高すぎる愛であり、独占であり、束縛であり、独りよがりな理論であり、それはサムを殺す可能性をそのまま内在している。 そしてサムが告げた言葉は殺されることさえも是とする狂った許容の言葉だ。しかしサムは殺される恐怖を微塵も感じない。死にたくはないが、殺されたくないとも思わない。そして兄にならそれでもいいのではないかと思った。兄にはその権利があるような気がした。そしてサムには其れを委ねる事さえ甘い事に思えた。 償いをしたいのだろうか、とサムは自問自答する。あの結果的に裏切ってしまった過去の過ちを何とか許されたいと思っている拙い手段だったとしたら、それもまたディーンへの裏切りだ。だからサムは考える。この感情の意味を。ディーンになら殺されても、むしろ一緒に終わっても、閉じこめられても、飼い殺しにされてもいいのではないかと思ってしまう意味を。けれどその答えは出ない。ああもっとシンプルに考えればいいのではないかとサムは思う。 そう。首を絞められ、死ぬかもしれないと思ったときに咄嗟に何を考えた?それは恐怖か嫌悪か逃避か、兄弟として何かが壊れた決定的な音だった? 否、そのどれでも無かった。 ――いい、と思った。 これが答えだ。たぶん壊れている、普通という指標を当てはめれば狂っている。サムは普通をよく知っていた。自分には得られないものであるがゆえに、その基準を熟知していた。だから分かる。 これは普通では、ない。 サム愛してるどうしようもなく愛してる全てが欲しいお前を俺にくれないか、と告げる兄の言葉を聞きながらサムは思う。数分も経てば、何事もなかったかのようないつもの兄弟に自分たちは戻るのだろう。くだらない言い合いをしたり、バーで飲んだり、狩りをしたり。何も変わらない二人の風景。インパラに乗って次の街を目指す。そして悪霊を狩る。 しかし夜になればディーンはサムの首を緩やかに絞めるのだろう。 何かが壊れていた。けれど何が壊れているのか、壊れてしまっている二人では答えは永遠に見つけ出せないのだろうとサムは思う。この何かが壊れた状況を誰かに指摘されたとしても、きっと理解さえ出来ないのだろう。愛を囁いたのはディーンで、その倒錯している愛を享受すると決めたのはサムだ。 だから何時か息が止まって終わる日が来るのかもしれない。もしかしたら緩やかに絞められ続けて、柔らかな苦しみの中に漂うだけなのかもしれない。そのどちらでもよかった。 そう。きっと。 自分が終わればディーンも終わる。ディーンが終わる時には自分はディーンに連れられて終わる。どうあっても二人は同時に終わり、片方だけがこの残酷で誰も助けてくれない無関心の香り漂う狂った世界に残る事は無い。互いが互いを見つめたまま終わるのだ。 その後に残るのは持ち主の居なくなったインパラと偽造のID、狂ったように詰め込まれた銃に刃物だけ。たったそれだけ。他に遺すものも遺されるものも、何かを供えられる事も在り得ない。 その持ち主であるはずの自分達は誰にも見つかることなく、ひっそりとこの世界から姿を消して、そこには生きた証も残らずただ狂愛の残像だけが漂って消える。インパラは塗装が剥がれ、中の鉄は酸素と結合して錆びて朽ちて、其処には草木が芽吹く。何も生み出さなかった二人が遺した無機質な物体から緑が芽吹いて花が咲く。嗚呼、何て皮肉で倒錯した世界。 そんな無意味な想像をしてサムは小さく笑った。 ――ねぇ本当に理不尽な現実に翻弄されているのはだぁれ? |
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