エラー/エラー 







―――たぶん最初から間違っていたんだ、
真っ赤な血の海の中で笑う笑顔に世界の間違いを知った。






その日、サム・ウィンチェスターは赤い紅い血溜まりの中に、浅い呼吸のまま横たわっていた。ひゅうひゅうと漏れる音は肺が十分に酸素を取り込んでいない証。静かに笑っているのは何の証だったのか、ディーン・ウィンチェスターは今も図りかねている。

『―――たぶん最初から間違っていたんだ』
穏やかに紡がれたのは、彼が彼自身の不在証明を試みている言葉。
黒塗りの銃はてらてらと奇妙に輝いていて、恐る恐る触れてみれば赤かった。
『たぶん、生まれてきたのが間違いだったんだ』
その時、何と答えたのかよく覚えていない。自分に関する記憶は酷く曖昧なくせに、弟の一言一句、行動、表情の一つ一つは覚えているのに。
『生まれてこなければ、悪魔の標的にならなかった。母さんは死ななかった。親父はハンターにならなかった。ジェシカは殺されなかった。ディーンは無関係でいられた』
とくり、と静かに流れるように血が零れていく。それはディーンが今まで見てきたどの終焉とも違っていた。今まで見てきた終わり、は血飛沫を床に残し、臓物を撒き散らし、床に絶叫の爪あとを残し、顔面に恐怖を刻み付けていた。
『生まれてこなければ良かった。僕の存在で多くを狂わせた。ごめん』
だからこんな穏やかな顔と、こんな静かにとくとくと緩やかに床に広がっていく赤い命の雫を、ディーンは知らない。
こんな終わり方は、しらない。
『ディーン、…奪ってきてばかりでごめん。何一つ与えられなくて、ごめん。遅いかもしれないけど、返すから、ディーンの人生を』

どうして笑っているのか、どうして謝っているのか、何を返すのか、どうして返されるのか、
ディーンには分からない。何一つ。

『兄貴は正しいよ。“弟じゃなかったら狩ってた”は、すごく正しい』
善と悪が曖昧になってしまった灰色の世界で紡がれる“正しさ”は何処までが真実なのか、疑問に思う。
けれどディーンにとって弟は常に真実であり続けた。絶対で在り続けた。生きる目的で在り続けた。

全ての、拠り所だった。

『ディ、ン…、最期に、約束』
血溜りがゆるゆると広がる。どこまでも正確な円を描いて、止血しようと足掻くディーンの手をてらてらと濡らし、ひざまずくその足を染める。赤は美しく、何処までも残酷だった。
『生き返らせたり、するな。』
温もりが、消える。
命が、消える。
『それをしたら、絶対に許さない』

そうしてずるりと愛しい手が、血溜りに落ちて、ばしゃりと奇妙な音を立てた。




―――そうして世界は終わり、彼のカウントダウンが始まる。




それを間違いだと弟は言った。
生まれてきた事が間違いだったと、生を受けた命の始まりから全て間違っていたのだ、と弟は言った。
それが最期に弾き出した弟の短かった生の答えだとしたら、どれだけ哀しい事か。
何のために生きてきたのか。それはこんな終わりを迎えるためでは決して無かったはずだ。

なのに。

自分の弟以上に善を求め、素直に生きた人間をディーンは知らない。
自分を救うためだと言いながら、自分の命を犠牲にしようとまで赤の他人を救おうとしてきた優しい人間をディーンは知らない。
誰のせいにもせずに、じっと絶望に向き合ってきた強い人間をディーンは知らない。

本当は誰よりも幸せになるべき人間だったはずなのだ。
弟の悲劇は彼が原因で招いた事など一つもなかった。ただの一つも無かった。

力を手に入れてしまったのは、悪魔がその血を何も知らない幼子だった弟に飲ませた所為。
母が死んだのはあの日、不幸にも子供部屋に踏み込んでしまった所為。
恋人が死んだのは、野望を遂行しようとした悪魔の所為。
救えない命があったのは闇に潜む異形の力の所為。
兄が地獄に堕ちる経験をしたのは、取引をした兄の所為。
天が冷たいのは、慈悲を知らない所為。

弟の所為だった事は一つも無かった。弟は弟なりに考えて、自分を取り巻く環境の中で善を貫こうとしただけだった。

“弟じゃなかったら狩ってた”
その言葉を突きつけられても、その場で激昂もせずに瞳を揺らせていた。
酷い言葉だったと今だったら言える。言うべきではない言葉だったと今なら分かる。何処までも孤独で、何処までも優しい、救いを求めながら自己犠牲の塊のような存在を理解してやれるのは、自分しか居なかったのだと、今も昔も知っていた。
自分は正しくなんてなかった。笑って肯定されたくなどなかった。間違っていたと罵っても良かったのだ。
最期に全部を許して、最期に全部を消して、逝ってしまった。

何が弟の運命を狂わせたのか――悪魔だ。
何が弟を救うおうとしなかったのか――天使だ。
弟は悪魔に抗った。その悪しき力を使ってまで悪魔に抗った。
弟は天に祈った。善なる存在は人を見守っていて、いつか救いの一欠けらでも落としてくれるのではないかと、祈っていた。信じることは哀しいと知っていたから祈っていた。

しかし悪魔は何処までも狡猾で、天使は何処までも正義と神の名の下で自己中心的だった。
弟は利用された。その両者の間で。
神は人を救うなど誰が言った?ただ神の創造物をモノとしてしか見なさず、全体を守れるなら一部が壊れてもいいと考えていたではないか。

弟を少しも救わなかった。
慈悲の一欠けらさえ、其処には無かった。

悪魔も天使もルシファーも神も本質は変わりはしない。
自分の目的のためなら、何処までも手駒を使い、手駒はゲーム盤から弾かれれば終わる。一瞥もくれてやることはせず、駒は堕ちて壊れる。
其々が、各々の目的と自分勝手な正義を振りかざして生きているというのなら、人間が其れに倣って何が悪い。

ディーンの正義は弟にしか無かった。
ディーンの生きる目的も弟にしかなった。
ディーンの真実も弟にしかなかった。
ディーンの絶対は神にない、弟にしかない。

―――ならば壊してしまえ。
ならば、善も悪も壊してしまえ。

ディーンのたった一つの正義を貶めた悪を壊せ。
ディーンのたった一つの生きる目的を見捨てた善を消せ。

在った“筈”の生活なんて要らない。在った生活を返せ。

「サム、お前は誰よりも生まれてきて良かった人間だ。」
―――そして、誰よりも生きていて良かった人間だったんだ。



そしてディーン・ウィンチェスターは立ち上がる。
サム・ウィンチェスターを奪った全ての利己的な存在に、自分の破壊された利己的な願いの報復のために。

溢れる憎悪から生まれる破壊衝動を糧にして。









エラー/エラー
(何が間違いだっていうんだ、間違っていたのはお前じゃなくて世界なのに)