――ああ、最悪だ。
ディーンは目覚めたままの仰向けの体勢から微動だにさせず、ぼんやりと奇抜な壁紙が貼り付けてあるモーテルの天井を見た。まるで狩りをしている時の様な鋭さを滲ませて、じっと天井を睨みつけたまま、数回ゆっくりと呼吸に集中し、乱れた精神を整えようとした。が、そのディーンの目的は実にあえなく、そしてあっさりと失敗した。
神様、いや神はいねーから・・・誰だ、誰でもいい、助けろ、つーか助けてクダサイ。お願いシマス。
隣からは規則正しい静かな寝息。
――ああ、ちくしょう。
下半身に残る熱。それは沈殿するかのように積もった想いにの重さに比例するかのようにそう簡単に冷める筈も無く。
「・・・ヌいとかねーと」
小さく呟いてから、その声が聞こえていないかと、ディーンは慌てて隣を振り返り、その寝息が微塵も乱れていない事に安堵してから、己の情けなさに頭を抱えたくなった。



いつ自覚したのだとか、いつからそういう対象で弟を見始めたのだとか、ディーンには明確には覚えていない。
気がついたらそうだった。
もしかしたら純粋な信頼を隠す事無く真っ直ぐな瞳で見上げてくる幼い瞳が惜しみなく注がれていることに優越感を抱いた瞬間から捕らわれていたのかもしれない。
ディーンにとってサムと言う存在は命を賭してでも守りたい存在であって、昔も今もその想いに何ら変わりない。むしろ二人っきりの狭い世界で命を預けあうようになり、四六時中同じ時間を共有する事に何ら違和感を感じない今の方がその想いはずっと強い。

・・・いやいや、真面目に考えてる場合じゃねぇんだよ。

シャワーから勢い良く落下する水に近い温度のぬるま湯を全身に浴びながら、ディーンは乾いた笑いを溢した。
冷水ごときで熱は引かない。当然だ、この感情はかなりの筋金入りで悪魔と戦わせてもきっと勝つ。よく分からない例えだが。男として切ない思いを抱えながら仕方なく自己処理をして、ディーンがバスルームから出ると、ディーンを悩ませている張本人は未だ静かな寝息を立てている。資料を片手に眠る姿は、先まで欲を吐き出していたディーンとは対照的に実にストイックだ。
「・・・・・・」
夢での残像がその穏やかな寝顔に重なる。いつも真摯な光を湛える瞳を情欲に濡らせてみせたらどうなるのか、そんな事を考えるだけで脳の奥がじんわりと痺れる。
「あー、クソ」
ディーンはそう一人ごちて、不埒な想いと夢の残像を消すように目元を覆った。



「ディーン、最近眠れてないの?」
突然のその言葉に、ディーンは慌てて口内のポテトを飲み込んだ。もう少しの所で朝食のプレートの上に鎮座していた小さなポテトで窒息死しそうになる所だった。死因がポテトを喉に詰まらせただなんて笑い話にもならない。
「…あ?」
時間にして数秒、脳内時間にして実に長い時間を過ごしたディーンが言えた言葉は気の抜けた返事で、向かいに座るサムはブルーベリーベーグルというディーンからすれば些かリリカルなものを持ったまま、少しだけ苦笑してディーンを見つめている。
「目の下、すごいクマ」
「あー、そうか?」
弟が言うのだから、案外酷い顔をしているのかも知れない。鏡で顔は見てきたはずなのに、そんな事も気が付かなかった自分自身にディーンは舌打ちをして、油まみれのポテトを再び咀嚼して曖昧に誤魔化す。
「悩み事?」
「毎晩世界平和について考えてると次から次へと問題が出てきて困ってんだ」
「真面目に答えろよ」
「大したことじゃない」
本当に大したことではない。……別の意味ではかなりの大事ではあるが。
「言えないこと?」
気遣われていることが言外から空気を介して伝わり、ディーンはむず痒くなったが、悩み事が悩み事だけにぐっと喉を詰まらせた。
・・・言えるか。というか聞いたら死ぬほど後悔するぞ。
とうとう行くとこまで行って、夢の中でお前を犯しすようになりました、なんて。
告げた瞬間に本気で殴られるか、兄弟として決定的なヒビが入るかのどちらかに決まっている。

ディーンはため息をついて席を立つ。ディーンのプレートは空で、サムの朝食も残り一口と言った所だ。
「何処いくの?」
小さく首をかしげた弟にディーンはカウンターを視線だけで示す。
「テイクアウトでコーヒー。お前は?」
「ああ、僕はカフェモカで」
今日、二人はこの町を出る。次の狩りは既に見当をつけてしまっているから、ひたすらインパラのアクセルを踏み込むだけだ。決して短くは無いドライブのお供をディーンは眠気覚ましの苦いコーヒーに、サムはチョコレートの風味が付いた甘いエスプレッソコーヒーを選んだようだった。
「…本当に甘いの好きだな」
「…うるさい」
小さく呟いてから面白くなさそうな表情を浮かべる姿が実年齢よりも随分幼く見えて、ディーンは少し笑ってカウンターに向かった。



「…珍しい」
インパラに戻ったディーンは助手席を見つめてしげしげと呟いた。
弟が寝ている。
「サムー?」
確かに待たせた自覚はある。先にインパラに戻っているように視線だけで言ったのも自分だ。しかし珍しい。
「甘ったるいカフェモカだぞー」
時間にして15分。ディーンがカウンターに並んでいた時間は、言い換えればサムがディーンを待っていた時間だ。
しかし15分という些か長い時間にも理由がある。運悪くカウンターが混んでいた上に、レジが故障したとかで店内が混雑を極め始めていたのだ。
いつものディーンなら店の混雑具合に閉口して、さっさとコーヒーを諦めただろうが、雑念を振り切ろうとするあまりにいつもより意固地になっていた。ディーンにしては律儀に並んでコーヒーとカフェモカを手に入れることに成功した自分を褒めてやりたいくらいだ。

右手にコーヒー、左手にカフェモカ。
「サミー?」
弟は起きない。

ディーンはとりあえず運転席に滑り込んでしげしげと弟を観察する。
弟の手元には次の狩りの資料。読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
「本当に真面目だな」
それに驚くほど娯楽に対して淡白だ。
ディーンのように遊びと割り切った夜遊びもしない。元々そういう性質なんだろうとは思うがディーンにはそんな弟が不思議だった。
―――しかしそれも少し前までの話だ。
ディーンが本格的に自覚してからは途端に割り切った遊びにさえ妙な罪悪感が付きまとうようになった。誰に対する感情なのかは全く以って不明。むしろ罪悪感を持つ事自体が不可解以外の何物でもない。
焦がれているんだろうという自覚はあった。認めていないだけで。
そうして夢での深層心理からの啓示でディーンは認めざるを得なくなった。

本気はいつでも弟にあった。
守るための全ての労力も、其れに伴う努力も、その原動力になる想いも。
当然過ぎて気が付かなかった。

「参った…」
放って置けば激情を堰き止めている堤防は決壊してしまうだろう。そもそもその堤防自体が強い作りになっていない。かと言って傷つけるつもりも毛頭無い。
まさに八方塞。しかも悩みの内容は青臭いガキのようだ。と、思ってみても実際の所、この懸案はガキのようだと切り捨てて、衝動のまま走り出すにはあまりにもディーンの人生に影響を及ぼす重大事項だ。

カップを置いてディーンは静かな寝息を立てる弟を覗き見る。
未だに真面目な学生の印象を与え続けるサムのチェックのシャツの第一ボタンが外れている。隙の無い完璧さの中のほころびにさえ、否応無くディーンの劣情を煽り続けるのは惚れた欲目というものだろうか。ディーンには良く分からない。しかし時折、潔癖なまでの真面目な弟の思考回路が羨ましくもあり、時折嫉ましくもあった。
――弟は欲の発散をしなくとも良いんだろうという確証に近い想像がディーンにはある。
ディーンのように懸想相手に無意識の世界でまで欲情してしまうような、想いのかけ方はしないのだろう。サムの愛し方はきっと優しい。そっと静かに相手に寄り添うような愛を注ぐのだろう。
ただただ、降り注ぐ愛。
それは相手に何も望まない慈愛にも似ている。

その愛はディーンが抱えている奪うような其れでは決してない。

「起きろー。…襲うぞ」
気配に聡い弟が無防備に寝顔を晒すのも世界で自分だけ。
それは極上の優越感をもたらしながらも、ディーンに醒める事無い熱を与え続ける。まるで飴と鞭のような拷問だ。

「なぁお前も同じ気持ちになれよ」
――俺を好きに、なれよ。
――俺みたいにどうしようもない欲を抱えてしまうような所まで堕ちてこい。


それはまるで祈りにも似ていて、ディーンは小さく哂った。





prayer