ふわふわと世界が浮遊しているような感覚。酷く不安定ながらも、何故か底知れない安堵をもたらす其れ。例えば、それはアルコールによってもたらされる陶酔感に酷く似ている。体が静かに重力に従うような感覚。指一本動かしたくない気分にさせる気だるさは不思議と気持ちがいい。
 やはり酔うという感覚に酷く似ている。あまり気持ちよく酔った記憶が無いから想像でしかないのだけれど。
 思考はクリアな様でやはり朦朧としている。どうでもいい記憶が浮かんだり消えたり、幼い頃の他愛も無い記憶や法令解釈の学術対立の論理が不意に思い出される。しかしそんな取り止めの無い記憶の浮遊も不思議と不愉快ではなかった。思考もクルクルとテンポ良く、はっきりと回る。立証過程における陪審員の心証とその関連性――、レポートで提出した確か評価はAプラスだったはずだ。それはどうでもいい記憶。けれど思い通りにならない体とは対照的によく思考が働くのだ。
 少し笑いたい気分になってサムは思った。
 嗚呼、酔っているのだ。
 現実と夢の空間を彷徨っている。きっと、それさえ少し可笑しくて、やはり酔っていると思えるくらいには自分は酔い切れないのだと思うと余計に面白かった。




 ―――Paranoia




 迂闊だったのは自分達ではない。警察だ。

 八つ当たりを承知でディーンは忌々しくミネラルウォーターを引っ掴むと、レジのカウンターに苛立つ感情のままに置いた。ドン、という乱暴な音に店の主人が眉間の皺を深くするが、ディーンの知ったことではない。怒っているんだ、俺は。ついでに言えば一秒一瞬を惜しんで早くモーテルに戻りたいのだ。無愛想な主人に無愛想な態度で料金を支払い、釣りは要らない、と一言告げて、ディーンは足早に店を後にした。

 事の顛末は余りに簡単だ。
 狩り、だ。

 むしろそれを儲からない生業としている兄弟なのだから、何か起きれば必然的にその原因は狩りに帰着するのだが。
 兄弟は仕事に関して常に手を抜かない。今回の狩りにしてもそうだ。万端の準備を整えて、死亡者――しかも無残に内臓を食い散らかされて死ぬという――が多発する森に踏み込んだ。1ヶ月の間に5人もの被害者が出たことを重く見た警察が現場を封鎖してしまったが故に、警察の監視の目と黄色いテープで仕切られた規制線を上手く交わして。

 しかし、だ。
 よりにもよって何を考えたのか知らないが、酒を飲んで悪ふざけをした地元のアホ高校生がディーンやサムと同様に現場に来てしまったのだ。狩りも終盤にさししかかり、獲物を追い詰め、展開はまさにクライマックス。そこに出くわした高校生が化け物を目の前にし、顔を真っ青にして怯えているのにも関わらず、“このアホ高校生どもが!家で大人しくエロDVDでも観てぎゃあぎゃあ騒いでろ!”とディーンが怒鳴ったのも無理は無い…はずだ。
 当然獲物は強い兄弟よりも明らかに弱弱しく怯えの色を見せる高校生を標的に選んだ。当然だ。強者は常に弱者を選ぶものだから。
 そして反射的にサムが高校生を守る事になり、ディーンがとどめをさすことになった。


 そこまでは良かった。
 しかしその結果が少々いただけない。


 ディーンは思考を中断させ、なるべく音を立てないように今晩の宿のドアを静かに開いた。
「サム、大丈夫か?」
 静かに声をかけ、ディーンはサムのベットに腰掛ける。
「ん…」
 ディーンの存在は分かっているのだろう。酷く気だるげに横向きになっていた体を仰向けにし、サムは視線だけでディーンを捕らえる。瞳が少し潤んでいる。ディーンにとって真面目という形容詞がこれほど似合う人間を他に知らないサムが滅多に浮かべることの無い酷く無防備な姿。不意にディーンの背筋が熱く痺れる。
「水、飲めるか?気分は?」
 その言葉にサムは緩く首を振った。水は要らないということらしい。
「…こんな術をかけられた、ら…被害者、は夢見心地の、まま、食われたんだと…、おも、う」
 …だろうな、ディーンは言葉に出さずに素直に内心で肯定した。

 今回の獲物は化け物の類で、人間の内臓が大好物という凄まじい嗜好を持った相手だった。警察は猟奇殺人と見ていたようだったが、兄弟の目にはそうは映らなかった。抵抗した様子が無く絶命した被害者。しかも神経系を麻痺させる薬物が投与された形跡もない。大人しく生きたまま内臓を食われる人間などいるはずが無い。居たら恐ろしすぎる。
 案の定、その化け物は食料が暴れないように催眠効果のある術をかけているようだった、という事が分かったのは調べ物の鬼とディーンが揶揄するサムのお得意の下調べのお陰だ。
 結局そのアホ高校生を体を呈して庇ったサムが、見事にその催眠術にかかってしまい、その効果を身を持って体験することになるとは気の毒ではあるが、理性の塊のサムが朦朧とする意識の中でそう言うならそうなのだろう、とディーンは素直に納得した。

 しかしあまりに無防備すぎる。害は無いと分かってはいるが、ここまでだとは思っていなかったディーンはサムの顔を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
「大丈、夫。ほら、…何だっけ、酔ってる感じ、がする。気持ち悪い、とかじゃなくて、気分良く酔ってる感、じ…。気を抜いたら笑いそう」
「おいおい、そこまでスゲーのか。酔ってる感じなのか?酒に?」
「う、ん…」
 最後の言葉は殆ど吐息に近かった。話している言葉も明瞭さに欠けている。口元にほんのりと浮かんでいるのは笑みで間違いないはずだ。こんなサムをディーンは知らない。今まで必死で押さえ込んでいた欲がゆっくりとその姿を確かにしてくるのがディーンにも分かった。熱が、篭る。

 ―――まずい。
 ディーンは反射的にそう思った。

 想像の中で幾度も犯して蹂躙して、かりそめの慰みをディーンにもたらしていた想像の中の弟の姿がフラッシュバックのように脳裏にチカチカと点滅して、目の前の現実の弟と重なる。
 俄かにディーンを押し留める理性が警告音を鳴らす。違う、目を覚ませ、目の前にいるのは現実の弟で、こんな欲を抱いているとは知らないサムであって、夢や想像の中で痴態を曝け出す弟とは別の存在だ、と。
 そう納得させようとしても。兄が弟に抱くには在ってはならぬ想い、それさえ通り越した禁忌に近い濃い欲望がディーンの喉を熱く焼いていく。

「サム、」
 殆ど無意識で耳元に唇を寄せ、ディーンはまるで睦言のようにその名を呼んだ。自分で曝け出した声は、思いの外掠れていて、熱さえ含んでいた。欲情しているのは明らかだった。
「ん、」
 耳にかかる吐息に、擽ったそうにサムが身をよじる。頭がゆるく傾けられて、白い首筋がディーンの目の前に晒され、パサリと乾いた音と共に少しクセのある髪が白いシーツの上に落ちる。

 ―――俺の、ものだ。

 ぼんやり、と他人が囁く言葉を聞くかのようにディーンは思う。何時からこんな想いを抱くようになったのか知らないし、覚えても居ない。兄弟愛とやらの延長線で何か倒錯した想いを抱くようになったのかと、この飢えを誤魔化そうとしたが、兄弟愛の延長線ではない事にすぐに気がついた。

 ―――欲しい。
 それは剥き出しの欲求で、ディーンの偽らざる本音であり欲望だ。

 弟に欲を覚える度、何かを誤魔化すように互いに遊びと割り切った女をつかまえては一夜限りの関係を持ち続けた。しかしその女達は全てかの弟に髪色が似ているだとか、瞳の色が似ているだとか、そういう共通点があることに気がついて愕然とした事をディーンは覚えている。抱いても抱いても飢えは深まるばかり、むしろその事実がそのままサムを欲しているのだと示していて、ディーンをどうしようもなくさせた。
 発散されない欲を紛らわすための代価行為に意味は無い。
 気付くのは簡単だ。けれど欲しいものが手に入る確証は無い。むしろ生きる中で手に入らない方が多い。一番欲しいものであっても。

「サム」
「う、ん…」
 むずがるように何度か瞬きをして、閉じかけていた瞳がぼんやりとディーンを捉えた。

 その瞬間、ディーンは、捕えられた。

 今まで必死に押し留めていた何かがプツリ、と焼き切れた音を確かにディーンは聞いた。
「お前が、悪い」
 ―――狼の前で無防備になるな。
 まるでレイプ犯のような理論だ。サムに何の落ち度は無い。ただそこに存在していて、勝手に理性をぶつりと焼き千切ってしまう事しか出来ない自分が悪い。ディーンは分かっていた。
 しかし止まらなかった。
 シーツの上に力なく放り出されている手を取り、その甲に小さなくちづけを落す。
 流れるようにそのままディーンは薄く開いて酸素を取り込んでいる唇に自分のそれを重ねた。触れるだけのキスは、それだけでもディーンから雑念と僅かな躊躇を取り払うのは十分だった。子供のようなキスは、日常では許されない、禁忌。

 唇を離してサムを覗き込むと、夢の世界の入り口に立っているのか、この事実を現実と把握していないのか、薄い色素に彩られた瞳が揺れている。酷く安堵すると同時に残念だとも思った。サムの意識がはっきりしていればどうなっただろうか。その前にサムの意識がはっきりしていれば、ディーンはこんな行動に移さなかっただろうから、その仮定に意味は無い。
 静かに欲望のまま再び唇を重ねる。今度は、深く。
 ゆるかな、けれど深く相手の口内を探るキスは日頃の自分から考えれば、酷く臆病なキスに思えた。相手を探るように忍ぶキス。初めてキスする臆病なガキじゃあるまいし、とディーンは自分が可笑しかった。
「ん、」
 くぐもった声。それはディーンの想像を遥かに超えていく扇情的なものだった。触れ合った部分から甘く痺れる。劣情が膨れ上がる。

 ―――思いのまま、口内を蹂躙してしまおうか、そんな想いが背筋から這い上がってくる。

 もし、このまま感情に任せて全部を奪いつくすような舌の絡ませ方を一方的にとはいえ、してしまえばもう止まらない。酷く気だるそうな体と、朦朧としている意識を良しとしてサムの全部を奪う事は容易に想像できた。無理矢理に喘がせて、奪いつくす。それほどのギリギリの理性の崖の上に立っている自信がディーンにはあった。
「ふ、」
 執拗に嬲る様なキスの合間にサムが苦しげに酸素を吸い込む声が聞こえた。無意識の行動で漏れる声と、生理的に滲んだ目じりの涙。

 冷や水を浴びせられたかのようにディーンは我に返った。

「ディ、…ン?」
 ぼんやりとした視線がぼんやりとディーンを捕えていた。その瞳の色と様子だけでサムが現状をぼんやりとしか把握していない事はディーンにも分かった。
「夢だ、」
 強く拳を握り締めて、劣情をやり過ごす。爪が手のひらに食い込んでいたが、それくらいしなければ正気を保てそうに無かった。
「…?な、に?」
「全部、夢だ。明日になれば、全部元通りだ」
 心にも無い事をディーンが言い聞かせるように話す。奪いたいんじゃない、欲しい。こんな形で欲は発散できても、二度と今までのようには戻れない。二人で培ってきた今までの居心地の良い何かを壊す程の度胸が、ディーンには無かった。
「だから、寝ろ」
「ん、」
 その言葉をそのまま信用した様子のサムは、ディーンの声に誘われるように静かに瞳を閉じた。

 それを見届けてから、ディーンは深く深く息を吐いた。
 すでにぬるくなってしまったミネラルウォーターを喉に無理矢理流し込んでも、この飢えだけは潤す事は出来なかった。
 明日になれば、サムは何も覚えていない。
 よしんば、何かを記憶していても曖昧な記憶は形を成さない。
「クソ、…」
 壊す度胸も無いくせに、これからも妄想の中でディーンはサムを犯し続ける。ディーンの好きなように喘がせ、思いのまま蹂躙し、しどけなく乱れた姿を思い描く。それは手酷い裏切りのようにも思えた。しかしどれだけ押さえ込もうとしても、目茶目茶にしてしまいたい破壊衝動にも似た欲望はこれからも冷めない。むしろ酷くなったのは明らかだ。この欲望を消そうとするのはもう不可能だ。


 昇華できない情を抱え込んだまま、頼むから爆発だけはしてくれるな、と念じながらディーンはまた深く息を吐いた。