告げる本能を――彼女の言う俄かには信じがたい言葉を真実だと告げる本能だ――それでも否定したい心を抑えてディーンは話を前に進める事に決めた。
余計な事を言えば、再びミズーリのハイヒールのかかとが足にめり込む。それだけは遠慮したい。
「じゃあこの原因は何だ?霊か?呪いか?化け物か?」
「そのどれでもないわ。原因は貴方よ」
貴方って何だ。貴方って。
「じゃあこれは俺が見てるただの夢でしか無いってことか?なんかの拍子に…こう」
こう、何と言うべきなのかさっぱり分からない。
むしろ一体何なのか聞きに来たのはこっちだ。逆に分からなくて当然。むしろ目の前のミズーリだってディーンが作り出した夢の中の創造物でしかないのかもしれないのだ。

「そうじゃないわよ」

ミズーリの言葉に今度こそディーンはビビった。
夢ならばミズーリがディーンの内心を読んだ事もあっさり説明が付く。しかし“現実の”ミズーリもディーンの思っていることをあっさりと暴き出すと言う事をやってのけたのだ。
――絶対的な指標が無い。
何が真実で何が虚構なのか、判断する術をディーンは持たない。



Parallel lines



「じゃあ何だってんだ?」
「だから“現実”よ」
「…おい、ちょっと待て。待て。俺の現実はこれじゃない、サムが居ない」
居ない。この世界には何処にも居ない。なら此れは贋物で、夢だ。
絶対的な指標が存在しないのなら、その指標はたった一人の弟に求めればいい。そうディーンは半ば開き直ったような潔さでこの状況を規定する。ディーンの世界で一つの拠り所は、其処にしかない。
サムが居ない。それだけで十分だ。

「いたんでしょう?」

――おい、とことん見抜く気か。
目の前の存在に少々棘のある視線を送りながら、永遠に目覚めないまま、白い壁に囲まれて眠る姿がぼんやりと思い浮かぶ。あれはサムじゃない。あれは、
「……別人だ」
「いいえ。夢だ、別人だ、と言い張らなければならない理由が貴方自身にあるからよ」

その言葉にディーンの頭の奥で何かが、切れた。

「じゃあ何だ!?こっちが現実で向こうが夢だとでも言うのか!?だから迷ったって何だ!?御託はもう十分だ!!分かるように説明しろ!!」
――サムが夢だと?あの話して笑って、時折生意気な、サムが?"あっち”が夢だってのか。
そんなバカな話があってたまるか。

「そうは言っていないでしょう?どちらも現実よ。貴方の言葉を借りるなら、こっちも向こうも現実だと言いたいの」
「――あぁ?」
ディーンは益々混乱した。ミズーリの言っている意味がさっぱり分からない。
「たまにいるのよ。迷い込んでくる人」
「ちょっと待て、だから分かるように…」
「選びなさい。どっちの世界か。迷い込んだ事を不幸と思わなくていいわ」
「おい!」
「選び取った方が現実。選んだ瞬間に不都合な世界は夢になる。生きなおす、チャンス、なのよ」

待て。これはそもそもミズーリか?
これは俺の知っている“ミズーリ・モズリー”なのか?

「おい、」
「選んだ方が現実になる。貴方が現実だと言う世界の方が、貴方の言う夢の世界よりも不幸なら、選択を変えればいい」

――貴方が夢だと言い張る此処を選べば、ここが現実になる。
――貴方が現実だと言い張る世界に辟易していたんでしょう?
――不都合な世界は夢にしてしまえば、いいの。


待てよ。
だから、これは夢だろう?


いつの間にかディーンは病院に戻っていた。脱走劇には誰にも気がつかれることなく、ディーンに混乱だけを残した。
白い廊下。清浄を示すその色はディーンにとっては静かな死の色だ。病院では碌な事が無い。今までもそうだったのだから、きっとこれからもそうだ。普通に入院して、見舞いの品を持ってきてもらうなんていう常識はディーンには似合わない。そんな人生をディーンは歩んできていない。
ふと前方の病室に看護士や医師が慌しく出入りしている事に気が付いて、ディーンは眉をひそめた。
あの病室は、確か。
「サム…?」
瞬間、駆け出した足は真っ直ぐ目的の病室に向かう。中を覗き込もうとして、病室の入り口でディーンの身体はそれ以上の侵入を許されなかった。
「下がってください!関係者以外は立ち入り禁止です!!」
「俺は兄貴だ!」
ディーンを遮る看護士の肩越しに見えるのは、慌しく動き回る医者と看護士と。そして、異常を告げる心電図と血圧を示すモニターだった。
「サム!」
「病室から出てください!」
「俺の弟なんだ!アイツには俺しか…!」
違う、此れは夢だ。現実じゃない。サムは入院していない。だからこの目の前で死に掛けているのもサムじゃない。夢だ。夢でしかない。ミズーリが何を言おうとも。だから叫ぶ必要も無い。なのに、
――思考に感情が付いてこない。
「サムには俺しかいないんだ!」
だから、サム。

「彼には誰も居ません!!」

看護士の言葉に、ディーンは一瞬だけ絶句した後、目を剥いた。

――何、言ってんだ。
電子音が響く。死を告げる、電子音が。
――なに、ぬかしてんだ、よ。
――サムには俺が居るじゃねーか。
――サムには俺が、要る。
響く、電子音。それは聞きなれた音。
病院は救われる場所では無い。ディーンにとってはそれが事実だ。病院は死んで逝く、場所。
その電子音の音は、死を告げる合図。別離を示す音。
ディーンの世界をまた一つ崩していく、音だ。
けれど“これ”は違う。“これ”は明らかに間違っている。幾ら病院が救われる場所でなくとも、サムは此処で死んではいけないのだ。それだけは、ダメ、だ。
間違ってる。夢だ。夢でも認めない。

『――違うでしょう?』
小さくなっていく電子音をBGMにして、遠くで声が聞こえた。誰の声は知らない。知る必要も無かった。
『“サムには俺が居るじゃねーか。サムには俺が要る。”それは貴方にとって都合の良い理由。本当は、“俺にはサムが、要る。”じゃないの?』

――うるせぇ、黙れ。
これは、夢だ。
こんな世界は夢以外の何物でもない。




「ディーン?」
「サム…?」
ディーンの目に飛び込んできた弟の姿は日の光をバックに浴びて、その輪郭は淡く輝いていた。
買い物をしに行っているサムを待っている間にインパラの中で居眠りをしてしまったらしい。今更ながらその事に気が付いて、ディーンは小さく唸った。
「魘されてたよ?また夢?」
助手席に乗り込みながらサムが口にした問いかけに敢えてディーンは答えなかった。
ゆるゆると手を伸ばして、その頬に触れる。

――温かい。

「ディーン?本当に大丈夫?」
ディーンのらしくない突然の行動にも、サムは驚いた様子も無く、じっとしていた。ただ、真っ直ぐディーンを見つめる表情に、心配の色を滲ませてはいたが。
「サム、」
「うん?」
その安心させるように紡がれた穏やかな声を聴いた瞬間、ディーンはその存在を腕の中に閉じ込めていた。
それは無意識にも似た、激しい衝動。
「ディーン…?」
腕の中の存在は少しだけ驚いたように身じろぎしたが、大人しくディーンの腕の中に存在していた。いくらインパラとはいえ、車の中だ。抱き合うには少しだけ、狭い。
けれど今はその窮屈な感覚さえディーンを安堵させる。

温かい。
声が聞こえる。
視線は惜しむ事無く注がれる。
――其れだけの事が、こんなにも。

「お前には俺、しかいないよな?」

「…兄貴?」
「たった二人の兄弟、だろ?」
サムには俺が居るじゃねーか。
サムには俺が要る。
嗚呼、違う。――そんなのは建前だ。

“俺にはサムが、要る。”
たぶん、それだけだった。

ディーンが内心に抱える途方も無い執着を知らぬまま、サムはディーンのすがるような声に対して、ふ、と息を吐いた。ディーンは此れを知っている。サムが笑っているときの癖、だ。
「そうだよ。前にも言ったの忘れたの?」
その言葉は何時かの狩りが終わった後の言葉だ。少し照れたような弟の表情をディーンはまだ覚えている。忘れるつもりも無かった。
「だよな。そう、だよな。そうだ」

どっちを信じればいいか、なんて簡単な話だった。

「ディーン、本当に大丈夫?夢は?」
「ああ、もういいんだ。たぶん、あの夢はもう見ない」
「?」

“――どちらか選びなさい。”

「…選んださ」
「え?何か言った?」
「何も」
不都合な世界、天秤にかけて幸福と言われるような世界、辟易している世界。それらは選択する際の絶対指標にはなり得ない。最初から分かっていた事だった。
基準は一つ。過去にも未来にもそれは変わらない。
絶対普遍の、何にも揺るがない基準。
それは腕の中の存在にしか無い。

だからあれは夢だ。
心理学者なんかが聞けば、色んな講釈を披露してくれるであろう、人の脳が見せた夢でしかない。
ただ、それにディーンが振り回され、キレただけだ。
可笑しいことは無い。夢なのだから。所詮は何でもアリの世界だった。それこそが夢。

「あれはただの夢でしかなかったんだよ」

ディーンは晴れやかにそう言って、ディーンの世界を規定する存在をもう一度抱きしめなおした。