たぶん、まだ最後の一歩を踏み出す勇気が無いんだ。 ――もう少し待って欲しい。 ――もう少し甘えさせて欲しい。 多分何処かで気が付いていた。 けれど静かに、そっと、柔らかく閉じ込めるように、視界から目線を逸らせるように、視界に入らないように、この感情の器に緩く封をしてしまったのは何故なのだろう。 ――たぶん、まだ最後の一歩を踏み出す勇気が無い。 その優しさに、最後まで裏切らないでいてくれるという暖かさにどうしようもなくすがっている。 ふと目を覚ますと静かな水音が聞こえた。 一瞬だけ雨かと思ったが、そうではないことに直ぐに気が付いた。その音は外からしているのではなく、バスルームの方から漏れ聞こえてきたからだ。 心地よい水音をBGMにしながら、サムは寝起き特有の気だるさを持て余すように天井に視線を向ける。今日のモーテルの壁紙は少し…否、かなり独創的だ。典型的な幾何学模様だが、いっそ毒々しいまでのバイオレットが見ているものの視神経をチクチクと刺激するかのように存在を主張している。昨日は気がつかなかった。狩りで疲れていたのだろう。もし気が付いていたら、気分は降下していただろう事が想像できて、サムは気が付かなくて良かったと思いなおした。 ベットサイドのデジタル時計に視線を向ける。時間は早いとは言えなかったが、眠りに付いた時間を考えるともう少し眠っていても良い様な気がする。 サムの方が早く起きる事が常であるのに、兄の方が早く起きるのは珍しい。昨日、正確には日付けは変わっていたから今日になるのだが、シャワーを浴びずに二人とも眠ってしまった。もしかしたらその心地の悪さに兄は目を覚ましたのかもしれない。 凝った体を持て余して、サムが寝返りを打とうとして手に資料を持ったままである事に気が付いた。普段から真面目、カタブツ、と兄に揶揄されるが、それも頭ごなしに否定できないな、とサムは内心で苦笑したが、改めて資料をテーブルに置きなおすのも面倒でそのままの体勢を維持する事にサムは決めた。 水音はまだ聞こえている。 静かに泣くような雨に似ているその音。昔は雨が好きではなかった。 父の不在時に聞こえる雨音は理由も無く幼かったサムの心を不安定に揺り動かしたのを覚えている。けれどその揺れる心をそっと支えるように何時も傍に居てくれた存在もサムは覚えている。成長した今、雨への恐怖は薄れ、傍に居てくれた存在の暖かさと優しさの記憶ばかりが残って、それもまた別の意味でサムの心を揺り動かし、そしてそっと支え続けている。 水音はまだ聞こえる。 その音に酷く安堵しながらサムは再び、意識を深く沈めた。 何時からなのか、その線引きをサムは出来ないで居る。 恐らく線引き自体が無意味なのだろうと思う。其れは酷く曖昧で、ある日突然実が弾ける様に気が付いたわけではないからだ。 兄弟愛と情愛の境界は明らかだ。けれど強すぎる兄弟愛から別の愛へと緩やかに形を変えていく過程が如何して見えるのだろうか。 サムの気が付いた愛は、そういう想いだ。 「ディーン、最近眠れてないの?」 サムの疑問は数日間暖めてきたものだったが、兄には突然の事だったらしい。ぐふ、とくぐもった音を立てながら咀嚼していたポテトを喉の奥でひっくり返しかけている。少し息苦しそうに顔を顰めながらも、兄がポテトを嚥下するのを待ってサムは口を開いた。 「目の下、すごいクマ」 一瞬、何の事か分からずに“あ?”と呟いた兄に少し笑ってサム自身が目の下を指して苦笑すると、ディーンは僅かに苦い顔をして明後日の方向を向く。 「あー、そうか?」 誤魔化そうとしてもバレバレだよ。 と告げることをサムは止めた。その代わりに朝食のブルーベリーベーグルの一欠けらを口に放り込んでから、何も知らない弟の表情をして静かに兄の深層に居座っているものを聞きだそうとしても結局はいつもの軽口に強引にかき消されてしまった。 本人曰く、“大したことではない”らしい。 …大事にしか見えないのに。 そもそもクマを作っている事自体がおかしいのだ。精神の不調が睡眠に反映されやすいサムとは違って、ディーンは基本的に何処でも何時でも眠れる。それはハンターとしてのスキルの一部になるのだが、サムから見ればディーンのそのスキルはレベルが高すぎる。つまり悪く言えばいっそ清々しいほど寝汚い。 その兄が、だ。そのディーンが眠れていないというのは“大したことではない”とするにほどには軽くみることは出来ない。 けれど、 その睡眠不足の原因をサムは気が付き始めている。 サムはテイクアウトのコーヒーを買いに向かう見慣れた背中をぼんやりと見遣る。 見慣れた背中。そう、見慣れた、背中なのだ。 いつも背中を追いかけていたような気がする。 事実、背中を追いかけていたのだろう。 いつも護っていてくれた事を今なら分かる。幼い時はそれが当たり前だと信じて疑っていなかった。生まれた時から、物心付いた時から、その兄弟愛は深く根ざし、時にはケンカや文句でコーティングされながらも惜しみなく与え続けられていたのだから。 しかし年月を経て、憎みあう兄弟姉妹がいることも知ったし、血を分けたもの同士であっても鬱積した思いが積もって命を奪う事も知った。生まれたときから注がれていた愛を一般的な兄弟愛と相違無いとサムが信じてもおかしくない環境で育ったのは事実だったが、社会一般というものを知るようになって兄弟というのは、自分達のようでは無い事にも薄々気が付くのは避けられない事だった。 そしてその家族に向けられる愛情であると信じていたものが、そういう類のものではない時が付いたのは何時の事だっただろうか。 もう思い出せない。思い出す気も無かった。 そしてありえないと否定する気持ちは最初から無かったのだから。 兄は最初から優しかった。 その容貌や、ふるまい、口の利き方、話の誤魔化し方で、その本質は隠されていたが、それはいつでもサムには水の底でそっときらめく珍しい宝石の原石のように柔らかい光が降り注ぎ続けていた。 怪我をすれば怪我をしたサムと同じくらいに顔を青ざめさせていたし、もっと酷くなればその表情は作られたもののように固くなっていた。悩んでいる素振りを見せれば、そっとその内容を聞きだそうとしたし、害をなそうとする者がいれば排除しようとした。 そう思うサムの言葉を兄は真っ向から否定するだろう。 ケンカは日常茶飯事だったし、時には殴り合いのケンカに発展した事だってある。 けれどディーンはサムに対して世界の何より優しかった。 そういう意味ではディーンという存在はサムの中で明らかに『特別』だった。 その“特別”の意味をサムは今まで考えた事も、意識に遡上させることも無かった。何故なのかは分からない。もしかしたら本能で知ることを恐れていたのかもしれない。 “特別”の本質が兄弟愛では無い事に。 けれど気が付かないなら気が付かないでサムの世界は変わる事は無かった。兄が大切な事には変わりないし、頼りにしていた事も事実で、姿が見えなければ不安になった。 愛だと知る必要が無かった。サムの世界はそれで閉じていて、とても狭いものだったからだ。気が付く要因がそもそも少なすぎた所か、要因そもそもが存在しなかったのだ。 だからサムの世界は変わらなかった。気が付かないまま、ゆるゆると兄弟の時間が過ぎるはずだった。 しかしサムは唐突に知ることになる。 兄の愛が情愛を含むものだと。 それはやはり雨の日だったと思う。 ざぁざぁと強く降る雨に州道で土砂崩れが起こったとかでモーテルに缶詰にならざるを得なかった日のこと。 サムは時間を持て余して超常現象の情報を載せている口コミサイトを眺めていて、ディーンは何も無い小さな街に閉口して雑誌を気だるそうに眺めていたはずだった。 恐らくサムは珍しい午後特有の雰囲気に呑まれてうたた寝をしてしまったのだと思う。その辺りの記憶は定かではない。 ――おい、こんなトコで寝るな。風邪ひくぞ ゆらゆら揺らめく意識と睡魔の間。おぼろげなディーンの言葉は確かにサムに届いていた。けれど瞼を開く事は出来なかった。もちろん返事も。眠かったのだ。 ――サム?…っつたく ディーンの吐息に近い声と雨音が緩やかに交わって、静かにサムの鼓膜を揺らす。 ――好きだ それは確かにサムの耳に届いた。 夢うつつに聞いた幻聴だと言ってしまうには、意識がありすぎた。ディーンの声が明瞭過ぎた。 天気予報を完全に無視をした突然の雨よりも、整備の甘い州道の突然の土砂崩れよりも、何よりも突然の出来事が降りかかった瞬間だった。 知ってしまった言葉を、聞いてしまった言葉を無かった事には出来ない。 ディーンはそういう意味でサムを愛していたのだ。 むしろディーンの言葉よりも、“自分がディーンの言葉に驚かない自分”にサムは驚いていた。その事にサムが思い至った瞬間、聡い頭脳は一つの事実に到達した。 サムはディーンのその思いに感化されたかのように、胸の内にひっそりと抱えていた想い箱の鍵をそっと外した。そしてその存在を確かめたサムは静かに思ったのだ。 ――このままでいい。 そっとサムは思い、けれど静かに、そっと、柔らかく閉じ込めるように、視界から目線を逸らせるように、視界に入らないように、この感情の器に緩く封をしてしまった。これ以上何かを望む事で、引き換えに何かを失うのは耐えられそうに無かった。 母は顔しか知らない。父の優しさを失って初めて気が付いた。大切に思う存在は突然に喪う。そういう危うさを隣り合わせにして抱えて生きるしかなかった。 ――特別にすることで何かを失うなら、今のままで十分だった。 ディーンはサムに優しく在り続ける。それは時を重ねるごとに表立って言う事が出来ない分、そっと秘められた優しさの重さが増す。それは本当に居心地が良かったのだ。 けれど。 時折、ディーンが熱が篭った瞳を向けられている事に気が付いた。 ディーンの女遊びが極端に減った事にも気が付いていた。 兄のその想いが優しいだけではない熱情も募って来ているのも知っていた。 たぶん、まだ最後の一歩を踏み出す勇気が自分に無い事にサムは気が付いていた。 ――もう少し待って欲しい。 ――もう少し甘えさせて欲しい。 まだ最後の一歩を踏み出す勇気が無い。 その優しさに、最後まで裏切らないでいてくれるという暖かさにどうしようもなくすがっている。やはりその枠を何処まで広げても弟という立場で甘えるのだろう。 けれどそれだけでは駄目なのだ。 相手の愛に甘える事が愛ではない。ディーンがサムを大切に想い続けてくれるからこそ、彼が享受している甘い苦味を汲み取らなければならない。 そんな努力もしないで、僕も愛している、など告げるのは詭弁でしかない。 ブルーベリーベーグルを食べ終えてサムは席を立った。カウンターが混んでいる。その上、レジが故障している様でディーンの並んでいるその場は酷く混雑している。さっさとコーヒーを諦めるだろうとサムは踏んでいたが、今日のディーンはどうしてもコーヒーが飲みたいらしい。ジャスチャーで先にインパラに戻っているように示す姿にサムは素直に頷いた。 その背中を見る。 どれだけ年月が経ってもその背中は変わらない。 大きく、縋る事を赦し、守ってくれる背中。そして愛してくれる背中。 愛に劣情を伴うのが常なのだとしたら、サムは其処に至るまでどうしても時間がかかってしまう。 ―――もう少し待って欲しい。 たぶんもうすぐ追いつくはずなのだ。 理性だとか躊躇だとか、サムの足元を規定し、時にサムの行動を制限するそれらのものが崩れてしまった時。 きっとディーンの抱える愛という美しい言葉に付随する、決して美しくない感情も全部まるごと受け止めて、誰よりも愛しているんだと告げて。 きっと二人で顔を見合わせ、少し照れながらも、笑うのだろう。 |
貴方の愛への報い方