『サム、一人だったわよね?』 「――――」 その言葉に、サムは思わず絶句した。 スピーカー越しに告げられた言葉は、サムが幼い頃から叩き込まれた生業への世界へ誘う、不思議そうな声色だったからだ。 少女は常にサムの隣に居た。ましてやサムがジェシカに会った時には真横に立って、会釈までしていたのだ。 普通の人間なら見えていて当然の少女。 けれど、その少女はサムには見えて、ジェシカには見えない。 そもそも好奇心があり、人懐こい言動をするジェシカが少女に声をかけなかった事がおかしかったのだ。裏を返せば、ジェシカが反応しなかったと言う事は、反応する対象が知覚されなかった、という事を示していたというのに、サムは気がつかなかった。 『サム?どうしたの?』 「…ごめん、ありがとう」 まだ何か言いたげな携帯電話の向こうの相手との会話を些か強引に終了させて、サムは通話ボタンを切った。小さな電子音と共に沈黙した携帯電話をポケットにしまいながら、サムは少女を静かに見つめる。すると、少女もサムの視線に気がついたのか、真っ直ぐサムを見返してきた。 「どうかしましたか?」 その瞳に邪悪なものは感じられない。ただサムの雰囲気が僅かに変化した事に対する疑問が浮かんでいるだけだ。 「…君は、誰?」 サムの静かな問いかけに、少女が僅かに瞠目する。サムはその僅かな変化を見逃さなかった。 「な、何を言っているんですか。名乗ったじゃないですか、私は、」 「ううん。聞きたいのはそこじゃない。君がどうして“此処”に留まっているのか知りたいんだ」 「―――、わ、私は」 少女の声が揺れた。 「君はこの世のものじゃないね?」 サムの疑問の形の問いかけは、確かな肯定を孕んで少女の鼓膜に届く。見破られないと思っていたのか、まさかこれほど落ち着き払って指摘されるとは思っていなかったのか、少女はサムの言葉に確かに驚いていた。 「――!、」 「大丈夫。僕は怖がらない」 追求したいわけじゃない。恐怖という感情はサムにはありえないものだったし、ましてや異質なものだからと言って排斥するつもりもない。サムは幸いな事にそういう存在に慣れていた。それはサムが忌み嫌い、そうして逃げ出してきたハンターと言う生き方の経験のおかげだった。それは皮肉と言えば、皮肉なものだったが、今はその事について如何こう考えるつもりは無い。 怯え始めている少女を安心させるようにサムは優しく言葉を紡いだ。 「君は悪い存在じゃないのは分かるから」 昼間見えてるから悪霊じゃない。そうサムが内心で付け加えているとも知らず、少女は安心したように小さく息を吐いた。 「…いつもこうなんです」 サムは少女の言葉を近くにあったベンチに座って、静かに聞いていた。言葉を発した少女もサムの隣で、地面につかない足をゆらゆらと揺らす。 「必ず迷う?」 「はい。たまにあなたのように私を見つけてくれる人がいるんです。中には親切心で案内してくれる人もいたんですが、必ず迷ってしまって、今まで目的地に辿り着いたことがありません」 「きっと君と行動してしまうと、君を悩ませている不思議な現象に引きずられるんだ」 ――どうして一部の人間にしかこの少女が見えないのか。 サムには見えて、ジェシカには見えない。この二人にどんな違いがあるのかサムには分からなかったが、それは後で考えればいいことだとサムはその回答を頭の隅に追いやった。 「君はお母さんの家に行ったことはあるの?」 「生前、という意味ですか?」 「うん」 「一度だけ。けど今となっては記憶が曖昧で、だから地図も…。あの日もそうでした。新しい道が出来ていたので、其処を通ろうと思ったんです。その方が時間も短縮できるし、分かり易いと思って、念のために地図も持って家を出たんです。お話した通り、母を驚かせようと思ったんです。新しい道は分かり易くて、昔、通った道より快適でした。…途中まで順調でした。だけど念のために地図を確認しようと思って、立ち止まったんです。地図で道を確認して顔を上げたら、突っ込んでくる車が目に入りました」 「その場所が君がいつも戻ってくるこの場所?」 こくり、と少女が頷く。此処が少女の死んだ場所なのだろう。そして少女は未だに動けずにいる。 「気がついたら此処にいました。それからどうやっても進めません。迷っていつも此処に戻されます」 「…なるほど」 「けれどもういいんです。ご迷惑をおかけました。私から離れれば、もう迷いませんから」 身を引こうとする少女をサムは手で制した。 例えば。この少女の身元を調べて、遺体を火葬すれば少女は迷いから解放されるだろう。その方法も経験もサムにはあった。ただ、それは手っ取り早さと引き換えに、強引な魂の消失を意味する。もし父親なら、兄なら、遺体を燃やせばいいと言うだろう。そう言う姿が簡単に目に浮かぶ。 けれどサムは脳裏に浮かぶ二人の言い分にさえ耳を貸したくはなかった。救う方法は燃やすだけではない。少女は迷っているだけだ。悪さを働いたわけでもないし、罪があるわけでもない。彼女は狩りの対象ではない。そう思いたい。 それにサムは少女の話から気がついた事があった。この推測を試してみる価値はある。 ―――救うことは出来る。 「まだ方法はある。少し気がついた事があるんだ」 「え?」 「君が生まれたのは?」 「1984年です」 「事故にあったのは?」 「1994年ですけど、それが何か関係あるんですか?」 「ちょっと待ってて」 そう言ってサムは携帯電話を取り出した。不思議そうな少女の視線を受け止めながら携帯電話をネットに接続する。PCがあればもっと確実だっただろうが、この場合は携帯電話でも代用できるだろう。 「こっちだ」 サムは携帯電話のディスプレイを見ながら少女を誘導するように立ち上がって、細い路地に足を向けた。 「ちょっと待って下さい。こっちはメインストリートじゃないですよ。どうしてこんな道を行くんですか?」 遠回りですよ、と続けた少女の言葉には返事をせずに、サムは進む道を見据えながら口を開いた。 「総じてこの世の存在じゃなくなったものは、新しい情報に適応出来ない事が多いんだ。それを思い出して気がついた」 「?…何をですか?」 「君が事故に遭った時、通ろうとしていたのは君が過去に通った事のない道だ。新しい道だからね。君が事故に遭ったのは1994年。それを考慮して、その当時に作られた道を候補から除外して、昔からあった道だけを捜してみると…」 ほら、とサムは少女に携帯電話を見せた。そこにはダウンロードした地図が表示されている。ただし、表示されているのは1994年以前の道だけだ。 サムと少女が進むべきは古い道。新しい情報ではなく、古い情報を基にした、少女が適応できる道だ。遠回りになるが、少女を導くには必要な作業でもある。 「父とケンカしたって言いましたよね」 「うん」 「今思えば後悔しています。理由も思い出せないような些細なものだったんですが、家を飛び出してしまいました」 「うん」 だから彼女は迷った。父親とケンカをしたせいで戻る場所を、見慣れぬ道で進む場所を、その二つを少女は失っていた。進むことも。戻ることも出来なくなっていた。 ―――それが今も彼女を縛っている。 「今まで黙っていたんですが、私が見える人にはある共通点があるんです」 「え?」 呟かれた言葉にサムは思わず聞き直した。後で考えればいいと思っていた疑問の答えがいきなり目の前に飛び込んできて、サムは面食らった。 「…迷っている人、です」 「え?」 「迷っている人だけが私に見えるみたいなんです。道に迷う私と波長が合う人だけ、です」 「…僕は迷ってない」 咄嗟に唇に載せた否定の言葉が僅かに震えてしまった事に少女は気がついただろうか。サムには分からなかった。ただ淡々と、少女は言葉を続ける。 「言い換えると、帰る場所を探している人、です」 「――――」 サムは今度こそ絶句した。 帰る場所を、探す? その言葉は責めるかのようにサムの脳内を駆け巡る。ぐらぐらと回る視界は何を意味するのかサムには分からなかった。 「心当たりはありませんか?」 心当たり、は。 そう思った瞬間、少女の視線はサムを通り越して道の先を見ていた。 「?どうし、」 「おかあさん…」 呟いた刹那、少女は走り出した。方向はサムの携帯が示す、少女の母親の家へ。けれど地図を読むのをサムに任せていた少女はその場所を知らないはずだった。少女の後に続いて慌ててサムも走る。 そして少女の背中に追いつき、目的の場所を見た途端、サムは絶句した。 迷いから抜け出し、やっと辿りついたそこは、空き地、だった。 少女の目指した母親の家が在った場所は、雑草が所々生えている更地へと変貌し、売り地を示す看板がポツリと佇んでいた。 「そんな」 サムは小さく呟いた。 時間は無情だ。彼女の母親がどうなったのか、サムは知らない。けれど少女が求めた存在はこの場所に無い事だけは明らかだった。 サムは少女を見やる。慰めの言葉を見つけられないまま。 けれど少女は落胆しては居なかった。涙を流してはいたが、それは失望の涙ではなかった。空き地の一点を見つめたまま、泣いていた。 笑顔を、浮かべて。 「おかあさん…!!」 驚くサムを尻目に少女は走り出した。そして空き地の真ん中に走り込んだ瞬間。 その姿がふっと掻き消えた。 その場にはサムだけが残った。 ただ、サムだけが、最初から1人だったかのように、取り残されていた。 その後、サムは図書館で少女の事とあの場所にあった家の事を調べた。 やはり少女は1994年、歩道に突っ込んできた自動車にひき殺されて死んでいた。運転手の居眠り運転が原因で、即死だったらしい。 そしてあの家に居たはずの彼女の母親も、死んでいた。押し入り強盗に射殺されたと当時の新聞で大々的に報道されていた。少女が死んで半年も経っていない頃に起こった悲劇だった。 サムには見えなかったが、あの場所に彼女の母親が居たんだろう、とサムはそう結論づけた。 母親が死した後も子供を待っていたのかどうなのか、サムが知りようも無い。 けれど彼女は迷いから解放された。あの笑顔を浮かべながら流していた涙の美しさだけで、それを証明するには十分だった。奇妙な出来事ではあったが、事の顛末はサムに柔らかい感情を残した。 けれど。 “迷っている人だけが私に見えるみたいなんです” 迷いを指摘されて、サムは迷いを知った。むしろ意識から殺し続けていた迷いが、ここぞとばかりに、そろそろと脳内の一角を陣取ってしまった。 迷ってはいないはずだった。 むしろ人生の迷いを払拭するために、この地へ来た。生き方を決めた。一人で生きていける方法を探した。それが決別を意味するものであったとしても。 帰る場所、それは物理的な地域を示しているわけではない。母親が帰る場所だったあの少女のように、求める人が帰る場所になる事だってある。 そう知った瞬間から、サムはたった一人の兄の事をぼんやりと思い出しては、それを意識の外に追いやる事が多くなった。 違うと否定すれば、否定するほど、相反した矛盾に気がつく。堂々巡りだった。 そうして程なくして、サムはジェシカと付き合うことになった。運命という言葉ほどではないが、それはごく自然の事の様な展開。 けれど彼女がサムの帰る場所に成り得たのか、その判断は難しかった。 それでもサムは彼女を大切に思っていたし、共に居れば楽しかったし癒された。 けれど、やはり時に思い出す、口の悪いながらも心根の優しい兄を思う時。 彼には帰る場所があるのだろうか、サムはそんな事をぼんやりと思った。 |
get lost
参考:化物語/西尾維新著