【!】2期5話後のお話です。







「…音也が?」
その言葉に思わずチェックをしていた譜面に書き込みをしている手をトキヤは止めた。
トキヤの目の前に立っているのは翔だ。いつも快活な表情を浮かべるのが常の彼その表情は、怒っているでもなく、困っているわけでもなく、強いて言えばどんな表情を浮かべていいものか分からずに困惑しているような――眉間の皺だけでなく、その眉も寄せた表情を浮かべている。手元はそのまま翔の落ち着かない心情を表しているかのように、暫し腰に当てたかと思うと今度はその手は一瞬宙を迷って最後には頬をかく。
しかしそれを指摘するより前に翔の言葉に少なからず動揺――もしかしたら翔よりも動揺していたかもしれないのはトキヤも同じだ。
「実は俺も聴いたのはさっき、那月とかからでさ」
そんな風にトキヤに続けた翔が一人で譜面と向き合っていたトキヤの元を訪れたのはほんの五分前の事だ。

『あのさ、ちょっといいか』
ボイストレーニングを終え、譜面チェックのために共有スペースとして解放されている会議室に篭っているトキヤを珍しく翔が訪ね、酷く言いにくそうに切り出したのは音也の事だった。
春歌が道に迷って偶然福祉施設で音也に会ったこと。そこで音也が子供に囲まれてバザーの準備をしていたということ。
そして「七海にも言っちゃったし、隠してたわけじゃないんだけど」と音也が学生時代の同じクラスメイトに告げたのは、共にデビューした仲間が今まで知らなかった彼の生い立ちについてだった。

「だからさ!バザーを手伝ってやろうかな、って思ってさ」
一通り話した後、寮への引っ越しの際に倉庫で見つけた着ぐるみがあるのだ、と翔はトキヤに告げた。那月がそれを来てバザーに着ていけば客寄せ程度にはなるだろうとも。
「別にどこで育ったとかそんなんどーだっていいんだよ、ただ音也が頑張ってるみたいだからさ、なんか手伝えねぇかって思って」
「そういうことでしたか…」
そうしてやっとトキヤは翔が此処にやってきた目的の主題を捉えて小さく頷いた。
翔の気質を考えれば決して人の事を吹聴することはないだろう。もちろんそれは翔に限ったことではないが。バザーの手伝いをしたい、というのが話の趣旨でそれ以上でもそれ以下でもない。それはとても翔らしい気質だ。
そんな風に考えるトキヤに、このことはもうトキヤ以外全員承諾済みで後はトキヤがどうするかだけなのだと、翔は告げた。
「あれ、でもその日、トキヤって仕事あったか?」
「いえ、何とかなると思います。…私も行きます」
そうトキヤが告げると翔は嬉しそうに笑う。年も同じとあって音也と翔は仲がいい。その笑顔は友人に何かしてやろうというまっすぐな感情そのままの笑顔だ。トキヤはそれを少し羨ましく思う。

トキヤはもう既に、面と誰かに向かって純粋に音也の事を友人だ、とまっすぐな言葉を唇に乗せるには――自分の内面に渦巻くものは綺麗なものではなく、そして臆面もなく外に出せるようなものではなくなってしまっている。

それから幾つか当日どうするかのプランを聞いて、翔は最後に「練習してたのに邪魔して悪かった」と律儀な言葉を残してドアに手をかける。邪魔と言うほどではないし、邪魔をするというのならまさしく音也ほど騒がなければ邪魔では無い、と自分の中の基準がとうとう一人の人間になってしまったのではないか、と考えながらその背中をなんとはなしに見つめていると、そのまま出ていくかと思っていた背中は動きを止めて、酷くバツの悪そうな横顔がトキヤに向けられた。
「あの、さ…トキヤはさ、知ってたか?同室、だっただろ」
悪いことを聞いていると思ったのだろう。音也に対して。その問いにトキヤは曖昧に首を振った。
その動作は酷く自分らしくないものだ、とトキヤ自身すぐさま気がついたが、翔は「そっか、変な事聞いた」と言って今度こそ部屋を出ていった。普段の翔なら気がつけたかもしれないトキヤの変化も今の彼は気がつかなかった。それがトキヤには有難い。

足音が遠ざかった事を確認してトキヤは譜面の間に挟んだままだったチラシを引き出した。この前音也に廊下で渡されたものだ。
そこには子供の手書きでバザーを告げる大きな見出しがある。中身を塗ったのはペンだろうか、それともクレヨンだろうか、子供が書いたと一発で分かるが、真っ直ぐでポップなイラストがプリントの中で踊っているのは微笑ましい。そしてその下には大人の文字で――職員の文字だろう――バザーの開催場所と日時が書かれている。一番下にはその収益金は施設運営に使われます、と小さく。
その文字を目で追いながらこのプリントを渡してきた音也の表情を思い出す。

『トキヤ!』
練習室を出て、かけられた声に振り向いた。耳の奥の鼓膜をとろりと震わせるその声をトキヤが聞き間違えるはずがない。
音也はいつもと同じ、ひとなつっこい笑みを浮かべていた。誰もが警戒心を解くと誰かが――学生時代だったか、それとも事務所の売り出しのキャッチコピーだっただろうか、それとも駆け出しとは言え早くも音也のファンになった誰かが称した言葉か、いや全部かもしれない――太陽だと表した表情だ。その手の中にあった段ボールの中には不要品を寮から回収したのか、様々な玩具が入って音也の歩みに合わせてカラカラと音を立て、中身は振動でゆっくりと混ぜられてていた。
その時トキヤはその表情にほんの少し苛立った。笑顔か、玩具同士がぶつかる音か、段ボールの中で能天気に収まっているように見える玩具たちそのものにか。どちらにしろ、それは誰しもが日常の中で抱える少しのささくれだ。
それはもちろんトキヤが音也を蔑ろにしているわけではなく、ましてや嫌っているわけでもない。むしろ全く逆の感情からくる、実に不可解な感情だった。それこそ学生の頃から感じてはトキヤを時に唸らせてきたものだ。
良かったら来ない?と渡されたチラシ。ニコニコと笑う笑顔。そしてその後、どう言ったのだったのか。そこまでトキヤが考え、瞬間。ザッと体温が下がったような気がした。
児童福祉施設、バザー、笑顔、その文字を見た瞬間。駆け出しの重要な時期に何を。けれどボイトレをしていたわけじゃなかったのか、なのにあんなに伸びやかに音也の歌は上達するのか。
そんな風に思った自分は何か、投げつけてはしまわなかったか、言葉を。音也に。
――ボランティアでも始めたのですか。
――あなたは悩みがなさそうでいいですね。
そんな言葉に音也はきょとんとした表情を浮かべ、どうしたのトキヤ、と言った。逆にトキヤを心配するように。

あの時、聞けば音也はなんと言ったのだろう。何故貴方はここのお手伝いをしているのですか。そう言えば音也はどう答えたのだろうか。トキヤは想像してみる。
音也はきっと隠すつもりはなかったはずだ。聞けば言っただろう、そのバザーをやっている場所は育った場所だと。音也はその事を恥じてもいないし、引け目を負うてもいないからだ。当然だ、そんな事で人の価値は決まらないし、そんな風に彼を想像することが音也の立つ位置を少し上から見ているようで、トキヤは想像することさえ嫌悪する。
しかし。音也にかけたトキヤ自身の言葉は、あれは。
知っていたか、と翔はトキヤに聞いた。音也が今回初めて語った事をトキヤは知っていたのか、と。同室だったし、お前たち仲いいから、そんな言外のニュアンスもトキヤは正しく受け取って、そしてトキヤは首を振った。それは間違っていないし、嘘でもない、けれどそれはあくまで控えめな否定だ。

知ってはいなかったが、薄々勘づいてはいた。正しい答えはこうだ。

トキヤは音也と一年同室だったのだ。例えトキヤがHAYATOとして部屋を不在にしている時間が多かったとしても、トキヤが本拠を置いていたのはあの場所だったし、HAYATOとしての活動を優先させるために使っていたマンションはあくまで仮初だった。
ごくごく短い休みしかなかった学園の夏期休暇も音也は泊まりで帰省することはなかった。帰らないのですか、とトキヤが聞けば、顔は出すけど一日だけね、と音也は笑って言っていた。太陽のような、まさしく今まさに一十木音也のファンがもてはやす表現のままに。
“顔は出す”
トキヤは音也のその言葉に首を傾げた記憶がある。一つしか年の違わない音也にトキヤが言えたことではないが、それは普段の音也からすると随分大人びた言葉遣いだった。
実家に帰省する事に対して帰る、と音也は言わなかった。トキヤも既に家を出ていたからそのニュアンスはよく分かる。
顔を出す、それはもう家を出て、そこに戻る予定のないものの言葉だ。
そんな風に思えば疑問はいくらでも出てくる。音也は携帯電話を持ってはいるけれど、その連絡を友人間以外で使っている様子はあまりなかった事。あの頃はHAYATOの仕事に忙殺されていた事もあり、自分の知らない所で家族と連絡をとっていたのだろう、と現実味のないことを信じ込もうとしていた。音也の性格を考えれば友人とやりとりする時間に一回も家族とやりとりしないなどありえないと気が付いていながら。
考えればおかしい、と引っかかっていた事はいくつか出てくる。音也に送られてくる荷物にしてもそうだ。見た記憶が無い。
早乙女学園に入学するのは作曲家コースよりもアイドル候補生が相対的に人数は多く、アイドル候補なのだから当然その年齢は低い。所属している学生に対して実家から月に一度何らかの荷物が寮に送られてくるのをトキヤは何度か見かけている。荷物は盗難防止のため、一つの場所に管理され、学生が引き取る仕組みになっていて、それは玄関の傍だったからだ。小さい頃に上京してきたトキヤにも頻度は少ないけれど何回か送られてきていた。食料品だとかそういうものだ。
数が少なかったのは、それはトキヤ自身が不要だと親元に告げていたからで、それでも親は子の心配をするものなのだから何かしら送るのだ、と言われてなるほどそういうものかと思っていたのだ。生活に苦労してやしないかと親はどうあっても子を心配するものなのだと。
音也は人望があり、学園でも常に人の輪の中にいた。そして一人で消費するには量が多すぎるものや、ナマモノで腐らせてしまいそうだから手伝ってくれと――何人かの友人から実家から送られてきたものを譲り受けていた。もちろん食材だとかを音也がもらっても上手く処理出来ずに最終的にはトキヤが面倒を見て、調理してやっては「ねぇトキヤも一緒に食べよう」と最終的には二人で食べていたのだが。
「親が送りすぎるんだよ、要らないっていってるのに」そんな風に愚痴る同級生の言葉を「そう言わずに。きっと心配なんだよ。親って子供を心配するものだろー」そんな風にいつもニコニコしながら音也はその話を聞いていた。
――そう、ただ聞いていただけだ。

「……ッ」
いてもたってもいられずトキヤは席を立つ。譜面のチェックはまだ終わってない。心の中はまるでおもちゃ箱をかき混ぜたように混乱している。このチラシを渡してきた時の音也が持っていた箱の中身を激しく揺らしたかのようなイメージが脳内で付きまとう。カチャカチャ、ガタガタと。
学生時代から気になっていた。音也の事が。あらゆる意味で。
快活な笑み、人を引き寄せる圧倒的な輝き、裏表のない表情、存在するだけで人の警戒心を融かしてしまう天賦の才。歌を歌いたくとも事務所の方針で歌えず、学園では歌に心が無いと言われ、疲れ果てていたトキヤにとってその姿は柔らかい所を侵す強烈な毒であり、救いだった。まるで砂漠の真ん中で方向もわからず途方に暮れた旅人が目印の星を見つけた瞬間のように。
トキヤにとって音也の持っていたものはトキヤが持て得ぬものでもあったし、捨ててきたものでもあった。それでも1年の生活の中で折り合いはつき、この学園で得られないだろうと思っていた貴重な出会いとそれによる成長でここまで来た。
けれど焦りは尽きない。上を目指そうとすれば障壁と視界にちらつくのは音也の姿だ。本当は最近また歌がうまくなった音也に焦っていた。テクニックの話ではなく、輝きの意味で。
歌っていた音也を外のメンバーと見てしまったせいもある。メンバーが揃って音也の成長を認める言葉を臓腑におさめてしまえば、自分一人だったなら内心で抑え込んでしまえた色々な感情を収納するスペースはなくなる。
歌っていた歌は学園にいたとき音也が作った歌だ。部屋で何度か練習しているのを聞いたことがあったが、あれより何もかもがますます磨きがかかっていた。誰もが惹きつけられる。もちろんトキヤも。
それはボイストレーニングなのか自主レッスンなのかと考えてみても、結局マスターコースでも同室になった音也はいつもどおりだったという記憶しかない。

そして焦って、音也の事に気をとられ、まっすぐ駆けてくる顔を見て、
――悩みがなさそうでいいですね。
あの言葉だ。

そんなわけがない。音也は能天気でいいよなーと学生時代、Aクラスの誰かが音也に告げるのを食堂の溢れる音の中から拾い上げて、そんなはずがないと憤慨していたのは他でもない、自分だ。
最悪だ、とトキヤは部屋から出ることも出来ずに眉頭を摘んで深く息を吐いた。考えすぎだと、ほかの誰かが言うだろう。あの程度の事は二人の間では形式化されてもいるし、互いに分かってやっている部分もある。
例えば本人である音也でさえも「気にしてないよ、どうしたの?」――そんな風に言うだろう。

けれど、あれを言った自分自身をトキヤは確かに後悔していた。

◆◇◆

片づけがあるから、とバザーが終わっても施設に残っていた音也が寮に帰ってきたのは22時を回った所だった。
トキヤと音也の同室である嶺二は地方ロケで数日不在にしていて、HAYATOとしてのキャリアはあっても一ノ瀬トキヤとしては駆け出しアイドルのキャリアをスタートさせたばかりのトキヤも今日は仕事はない。施設に駆けつけるまでに必死で終わらせたあの仕事が今日の仕事だ。

「トキヤ、いたの?」
「居てはいけないんですか?」
「わわっ、そういう意味じゃないって」
部屋に入るなりトキヤの姿を見て目を丸くした音也に、トキヤが夕飯の事を聞くと夕飯も全部向こうで済ませてきた、と早口で告げた音也は何かをしていないと落ち着かないとでもいう風に部屋でも動き回っている。それはいつもの落ち着きのなさではなく、どうしていいのか分からない。そんな動きだ。
音也はいつもよりずっと早口で今日の事を話す。トキヤから見えるその横顔は確かに笑顔だ。
「みんなに子守歌歌ってよ、なんて言われちゃってさー。結局消灯までいちゃって。こんなに遅くなっちゃった」
俺の曲は子守唄に向かないのばっかだからさー、と音也は独り言のように話す。
「…音也」
トキヤはチェックしていた譜面を置いて音也を見る。音也はトキヤを振り返らずに冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してキャップを捻る。ビキキというキャップが切り離される音が静かな部屋に響く。
「今日はありがとね、トキヤ。仕事あったのに。みんなすっげー喜んでたよ。クマかわいかったって」
また会いたいって言ってたよ、そんな風に横顔で笑いながら音也は一口水を飲んではまた口に水を含む。それが三回。
「…音也」
「あとみんなにもきちんとお礼言わなきゃだよね。時間が時間だし、明日でいいかなぁ」
「――音也」
思わず殊更低い声を出してトキヤがその名前を呼ぶとピタリと音也の動きが止まった。不自然なほどに減った水の量が音也の困惑を示しているようで、トキヤは思わずソファから立って音也の前に立った。
「その…トキヤ、俺…」
こういう雰囲気になりたくなかったのだと音也の困惑した表情でまざまざとトキヤは思い知る。
音也はこれを嫌がっていたのだと。この何とも言えない微妙な空気を嫌っていたのだ。だから音也が言わなかった事も、水くさいですねと笑って流そうとしたのもトキヤの本心だった。けれどどうしても引き留めたくなる。本当はどう思っていたのかとその奥を覗いてみたくなる。水と一緒に飲み込もうとしたものを見たくなる。

あの時バザーで穏やかに笑っていたのも音也だ。気にして欲しくないと言ったのも音也だ。全然暗い話じゃなくて、と七海に語ったのも音也だし、本当は言いたかったんだけど、とすまなさそうにトキヤに語ったどの音也にも嘘はない。
深刻じゃないし、気にして欲しくないし、気にしてないし、言いたかった――でもどうしても言えなかった。
そんな風に散発的に落ちた音也の言葉の中に潜む矛盾を持つのも音也だ。
それをとてもトキヤは愛おしく思う。そして一つ一つを拾い上げたいとも思う。

音也はライバルだ。性格も逆で腹も立つし、一年の寮生活で面倒を持ち込まれる事もあった。でもどうしょうもなく気になっていた。
ライバルだからその先に進まれそうになると焦るし、みっともなく感情がぶれる。腹が立つのは感情が揺さぶられるほど重要な場所に音也がいるからで、面倒なのは音也そのものの存在に対してではなく、それに構いたくなり、どんな面倒も引き受けてしまう自分自身の面倒さだ。トキヤは本当はずっと前から分かっていた。
認めることで変質する何かが怖かった。トキヤだけだから教えるね、そんな風にあの甘やかな声で一番最初に――それは学園生活でどうして貴方は帰省しないのですか、でもいい、正月になぜ一人で中身のない漫才ばかりを見て大げさなほどに笑い転げているのですか、でも、他の学生が親から送られる荷物を受け取っている姿を見つめる横顔にささやかな、音也を見つめる人間にしか分からない変化を追求することでも、きっかけは何でも良かった――俺の育った所は、なんて音也から最初にひっそり隠していた部分を教えられて、その喜びを感じるであろう自分自身が怖かったのだ。際限ない予感に怯えていた。
そんな面倒なことを知りたくない、と強がりで蓋をしてしまった。中に詰め込まれたものは激しく振ると異質な音を立てるし、優しく扱えばどこまでも優しい、玩具のような温かみを持つ、誰もが大事にしたくなるもの。友情の形のままだと見ない振りをしていたかった。
どれだけ強く蓋をしたとしても開ければ、疾うに中身は変質していたというのに。

「すみませんでした」
「……何が?」
トキヤが思わず謝ると、音也は心底不思議そうにトキヤを見つめ、キョトキョトと瞬きをきっちり三回繰り返した。
その反応も実の所分かっていた。きっと音也は何も気にしていないだろうと。だからトキヤは話した。少し苛立っていたこと、あの言い方はさすがにまずかったのだということ。隠すことは、隠しすぎる事は時にその間に生じた諸々を取り戻すのに時間がかかるとトキヤはHAYATOの経験を通して学んでいたからだ。
「そんなの。…そんなの全然、俺は」
「貴方がそう言うだろうとも私は分かっていました。でも私は私のためだとしても言いたかったんです」
音也の奥まで透けて見えそうな紅い瞳の中に映るトキヤ自身の姿は実に情けない顔をしていた。まったくもって酷い顔だ。どうしようもないほど。

けれど。そんなトキヤに音也は静かに笑った。

トキヤは思わず息を飲む。それは太陽のような笑みじゃない。誰もがほめたたえ、ステージ上の音也に求め、そして音也自身もみんなに届けたいと言っているものではない。花開くそれに近かった。施設に着ぐるみを着て現れた友人たちを見つけて驚き、そして安心したように浮かべた笑みよりもっと深く、ほろりと零れるようなそれだった。
「トキヤは本当に優しいね」
こつん、と肩にあたったものは音也の頭で、肩口に乗せられているものが音也の額なのだと理解した瞬間にトキヤの体温は沸騰した。けれどそれを悟られるわけにはいかず、必死にトキヤは押し込む。動揺も慕情も何もかもを、息を飲んで歯を少し喰いしばって。
「みんなに気を使わせたくないし、俺はそんなこと気にしてないから、って言ったのはホントの気持ち。でも気にしてないなら本当は学園にいたときに言うチャンスっていっぱいあったんだよね」
「別に言わなければいけないものでもないでしょう」
くぐもった音也の声にトキヤは答える。そういうものだと思ったからだ。音也の抱えているものは他人から無理に暴かれていいものでは無い。トキヤがHAYATOであることを隠して学園に通っていた事とはその根本が違う。
「でもさ、気にしてない、とか暗くない、って言いながらたぶん言えなかったのは…俺…」
少しの振動がトキヤの肩に伝わる。声もずっと小さくくぐもっていた。
きっと、ずっとこんな風に音也は小さく怯えていたのではないかとトキヤは思った。ずっとこんな風に、学園にいた頃からお盆だ正月だと寮の人間が減ることにも、明日の授業の事やサッカーの約束以外で送るメールの先も通話の先もない事も、他の生徒が大きな段ボールを文句を言いながら部屋に運んでいるのを見ている時も、きっと音也の中心はこんな風に誰にも見せずに小さく震えていた。

――無理に言わなくていいですよ。
そんな風に音を唇に乗せる前に前に気がつけばトキヤは音也の背中をぽんぽんと叩いていた。

完全に無意識だった。トキヤは自分の行動に愕然と驚くが、肩に乗る控えめな重みと暖かさ、触れた背中の馴染み方に動く手が他の何かの力が働いたかのように止まらない。
ぽんぽん、と背中を優しく叩くたびに音也の体から緊張が解けていく。そのこともトキヤに手を止める意思を完全に奪っていく原因の一つだ。音也が小さく息を吐く。そっと。そしてまたほんの少し、かかる重さが増える。心地のいい重みだ。
「なんか今俺すごく安心してる。なんて言ったらいいんだろう、すごく安心してるんだ。トキヤに言えて良かった」

――私もとても安心しています。
伝えれば音也はどんな表情をするだろうか、トキヤは想像してみる。想像してみてもそれはやはり所詮想像で、トキヤはトントンと叩く手を止めなかった。
“トキヤに言えて良かった”
それは言い換えればトキヤに言えなかった理由は音也が何かしらトキヤを重要な位置に置いているのではないか。そんな予感にトキヤの内面がゆっくり震え、さざめく。肩は音也の体温と重みが心地よく、低体温気味のトキヤの手も音也に優しく触れるたびにほんのりと体温を戻していく。

音也が持っていた段ボールの中の玩具たちが不意に脳内に浮かんだ。響くのはガタガタという耳障りな音ではない。蓋のない中身を覗き込めば色とりどりの玩具たちがコトン、コトンと優しい音を立てて触れ合っている。それを音也が抱えてこちらに向かって走ってくる。
そうして与えられる音也のほんの一欠けらの特別が、トキヤの閉じて押し込めていたものたちをゆっくり開かせていくのだ。