【!】アニメ、ゲーム設定ごちゃまぜです。







 その日、乾燥した喉を整えるためにケホと大きく息を吐き出すと、コロリ、と口の中から彼自身の髪と同じくらいに紅い石が零れ落ちてしまったので、音也はびっくりしてしまいました。

 口から落ちてきたのは真っ赤な真っ赤な石。けれどフローリングの上に転がっているその石はやおら透明度が高く、室内に差し込む太陽の明かりを少しばかり反射して内部までもがキラキラと光っています。
 ただの石が光るものでしょうか。いいえ、光りません。石は本来、透明ではありません。透明で色がついていてキラキラ光っているもの――これは石であっても、普通の石よりももっと価値のあるもの――つまりそれは宝石なのでした。

「え…?なんで…?」
 音也はすっかり驚いてしまいました。当たり前です。宝石です。どうあってもありえません。この部屋にあることも、音也の口の中から落ちたことも、なにもかもがおかしいのです。
 音也は驚いて周りを見回しますが、彼の部屋の中はいつもと同じで何も変わりません。何の変哲もない音也の部屋です。事務所から宛がわれた、音也から見ればちょっと広すぎるくらいの独り暮らしの部屋です。そんな部屋に突然現れた宝石の不思議を解決する手だてを求めたとしても、そんなものがあるはずがありませんでした。
 音也は思わずもう一度周りを見回しました。でもやはり口の中から宝石が落ちてきたこと、宝石が床に転がっていること、この2つ以外は何の問題もありません。言い換えればこの2つの問題だけが、音也の前に鎮座したままです。
「どうしよう…」
 音也はすっかり困ってしまいました。しゃがみこんでその宝石を摘みあげてじっと見つめます。
 ルビーよりは少し色味が薄いそれ。クイズ番組で宝石の種類が出題された経験から、音也はそれがガーネットではないかと推測しました。
「どうしよう…」
 音也はもう一度同じ言葉を口に出します。けれど音也は突然石を吐き出した事に途方に暮れているわけではありませんでした。もちろん宝石を口から出すなんて普通では有り得ませんから、音也は確かに困っていたのですが、それは一番困っている事ではありませんでした。何故なら音也はその現象を知っていたからです。

 それは『もの吐き』と言う病でした。

 感染してしまった人は『もの』を吐く。それは音也のように宝石であったり、人によってはペンであったり、花であったり、果実であったり、本であったり、スプーンであったり、実に様々なものでした。もちろん昔からあった病気ではありません。それはつい最近、ほんの数か月前に、外国の未開の奥地で発見された奇妙な病でした。
 発見当初はその病気が何なのかさっぱり分からなかったそうです。それもそうでしょう。突然人が食べたもの以外の『もの』を吐いてしまうなど、奇妙も、奇妙。どう考えたって異常です。けれどそれは実在の病なのです。

 最初にその病気が発見されたのは、とある大学の教授の調査によるものでした。ジャングルの奥地での研究活動(その大学教授の専攻は人類学だったそうです)の際に知り合った先住民の長老が罹患していたその病気は、原住民の間では神託者にのみに現れる神聖な現象とされ、吐き出された『もの』は神聖なものとして祀られていたそうです。もちろんそれは神のお告げでは無く、現代文明というフィルターを通すと新種の病でしか無かったのですが。
 その大学教授は先住民とのやりとりの後に、なんとか長老が吐き出した翡翠(なんと長老は翡翠を吐き出していたのです)を譲り受け、新種の病の解明のために本国アメリカに帰国しました。
 しかし、問題は大きな発展をみせます。教授に付き添って現地でのサポートをしていた助手が自国に帰った後でペンを吐いたのです。その出来事によってその病気は世界中でまたたく間に大きなニュースになってしまいました。
 新種のインフルエンザが発見されるだけで、パンデミックか、果ては人類滅亡かと言われるような時代です。その後一週間も経たない内に、奇妙な『もの』を吐く人間は助手一人では無く、助手の知り合いの人間や同じ大学で接点のあった何人か同じ症状を発症してしまったので、これは感染する病気なのだと皆が直ぐに気が付きました。テレビで、新聞で、専門家が不安を煽るような事を深刻そうな顔で言えば、皆がそろって怖がってしまいました。

 それから暫く世界中の感染症の権威が昼夜を惜しんで研究をし、CDC(音也はCDCを知りませんでしたが、トキヤがニュースを見ながら教えてくれました。アメリカ疾病管理予防センターというアメリカの権威ある感染症の研究機関だそうです。クイズ番組で出るかもしれないから覚えておくといいですよ、とトキヤは言いましたが、音也には覚えられるかどうかとても怪しいものでした)からこの病気についてある発表がなされました。
 この病気は、言いたい事を言えずに我慢している人間が発症してしまうらしいという事。発症者はそれによって、なにかしらの『もの』を吐いてしまうということ。この病気は感染者が吐き出した『もの』を触ってしまう事で感染するということ。けれど『もの』を触っても、言いたい事を我慢をしていない人は病気のキャリアになるだけで、『もの』を吐く発症者にはならないということ。この病気はどちらかと言えば精神疾患の一種であること。
 治すには、我慢をしていることを漏らすことなくぶちまけるしかない、と言うこと。

 このニュースを聞いた世界中の人は一様に驚きました。我慢をしているだけで『もの』を吐くなんて一体どういうことでしょう。ふざけているとしか思えません。しかしそれは事実でした。
 そんな発表から数か月、発症者は世界中で、もちろん日本でも確認されました。鉄道が行きかい、船は世界中を巡り、飛行機が世界中の空をを遠慮なくびゅんびゅん飛び回る時代です。感染が広がる事は不思議な事ではありませんでした。
 もしかしたら本人も自覚していないキャリアを含めると感染者はもっと多いのかもしれません。けれど発症しない限り病気なのか分からないという事と、感染者の吐き出した『もの』を触らなければ感染しないと言う、目に見える形での感染ルートがあることで、大きなパニックになるような事はありませんでした。世界中の大多数の人が、この病は自分とは関係無いものだと安心したのです。

 もちろん音也にとってもそうでした。予防する手段はたった一つ。感染者が吐き出した『もの』を触らなければいい、ただそれだけなのです。音也の周辺に発症者などいませんでしたし、もちろん変な『もの』を触った記憶でさえありません。もの吐き、とはテレビの中で騒がれる、近そうに見えて遠くの出来事だと思っていたのですから。
 思っていたはず、なのでしたが。
「…あ」
 音也は掌の中のガーネットを見つめて、思わず独り言葉を発しました。
「まさか、あれ…?」

 それは数日前のことです。音也のもとに事務所から届けられたファンレターやプレゼントを見ている時に、一つ、不思議な『もの』があったのです。
 ファンからの贈り物である白い箱の中に入っていたのは、大きな大きな向日葵。ただそれだけでした。
 音也は不思議に思ってその花を持ち上げると、ひらりと一枚の便箋が落ちました。音也が拾い上げたその手紙に記されていたのはこんな言葉でした。
『音也君が好きで好きで、こんな風になってしまいました。なのでこの花を贈ります』
 そんな不思議な一言でした。
 ファンからのプレゼントも手紙も大事にする音也は、その向日葵を花瓶に刺そうとしたのですが、その花は茎も無く、花の部分だけを切り取られたものだったので、花瓶に刺すことはできませんでした。
 そうして音也に贈られた時にはみずみずしい生命力に溢れていた花も、水を得る事が出来ずに数日を経て、すっかり枯れてしまいました。これではどうしようもないので、音也は向日葵の花を泣く泣くゴミ箱の中に入れたのでした。

「うそ、どうしよう…」
 音也はその事を思い出して真っ青になりました。感染したとしたらあのタイミング以外で思いつくものは無かったのです。そして不思議なメモも、もの吐きの女の子が書いたものだとしたら、しっくりくるのです。
 音也は真っ先にゴミ箱に向かい、しおれてどす黒い色になってしまった向日葵を取り出すと、大きな黒いゴミ袋の中に突っ込んで、その口をきっちり縛りました。もし他の人がうっかり触ってしまったら大変な事になるからです。
 どうしよう、どうしよう。
 音也はすっかり混乱してしまって、部屋の中で立ち尽くしてしまいました。この病気は所構わず『もの』を吐いてしまうと、どこかのテレビのニュースでは言っていました。けれど他のニュースでは『もの』を吐く事をある程度コントロールできるとも書いてありました。一度『もの』を吐いただけの音也にはどっちが真実なのかさっぱり分かりません。仕事中は大丈夫なのか、生放送中は、ラジオのゲストの時は、メンバーと楽屋で過ごすときは。うっかり『もの』を吐いて、メンバーを危険に晒すわけにはいきません。メンバーは音也にとっても優しく、困難が音也に降りかかれば親身になって相談に乗ってくれます。そんな仲間達は音也の病気を知れば当然心配するでしょうし、うっかり音也の吐き出す『もの』を触ってしまうかもしれません。
 誰にも迷惑をかけずに隠すにはどうしたらいいのか、音也は必死で考えます。もちろん今すぐ病院に駆け込むべきでしょう。しかし音也にはそれが出来ませんでした。音也の足はぴったりと床とくっついてしまったかのように動きません。
 もしもマスコミに漏れれば。音也の中を一瞬廻った恐怖がむくむくと大きな塊になって、音也の心をすっぽりと包みこんでしまいました。マスコミが報道してしまえば、音也が歌を歌う事なんで出来なくなるに決まっているのです。こんな奇病を持つアイドルの歌など、皆に勇気を与えられるわけもなく、皆を元気にする太陽になんてなれるはずがないのです。もしかしたら皆がそっぽを向いてしまうかもしれない。音也はそんな予感に背筋にどっと汗が噴き出すのを止められません。
 もしも歌を歌えなければ音也は死んでしまいます。仲間と離れ離れになって、アイドルでいられなくなってしまう。そんな想像をしただけで、音也の膝から力が抜けていくようでした。背中がやたらひんやりしている理由が冷や汗のせいだと音也は気が付いていません。ただ、けたたましく鳴る心臓の音が益々音也を責め立てて、ひたすらに混乱させていきます。

 治すためには抱えている言葉を吐き出すしかありません。治療薬が無い以上、それしか方法が無いのです。
 けれどそれが不可能な事を音也は知っていました。だから発症してしまったのです。ならば一生この病は治らないということになります。一生、それはまだ若い音也には途方もないことに思えました。何とかしてこの病気と付き合っていかなければならない未来とその恐怖に音也は震えました。
 どうしよう、トキヤ。
 ぐわんぐわん揺れる思考の中で音也が真っ先に思い浮かべたのは、嘗て学園で同室であり、ライバルであり、友人である男の名前でした。いつも音也が頼りにしている相手です。困ったとき、大変なとき、真っ先に助けを求める友人です。
 しかし音也はぐっと唇を引き締めて耐えました。今回は、今回だけは、絶対にトキヤには相談できません。誰よりも、何よりも、一番頼りにしているからこそ絶対に無理だったのです。絶対に言ってはいけなかったのです。
 音也が正直にもの吐きであることを相談すれば、トキヤは心配して、治すために我慢している言葉を遠慮せずに吐き出しなさい、そんな風に言うでしょう。しかしそれは無理な相談でした。トキヤからその言葉を言われたのなら、音也はその場でへたり込むに決まっています。

 そう、音也は告白の言葉を我慢して我慢して、片想いをこじらせるほど、苦しい苦しい一方通行の恋をしていたのです。





 アイドルは恋をしてはいけません。
 音也が口酸っぱく言われ続けてきたことです。アイドルはファンに夢を見せるもの。アイドルの恋人はファン。けれど恋をすることをやめろという事まで酷な事は求めない。せめて片想いくらいは見逃してやろう。それがシャイニング早乙女の言葉であり、早乙女学園の絶対ルールであり、シャイニング事務所の所属の条件でした。
 正直に言って、音也にはその意味が分かりませんでした。アイドルはファンに夢を見せなければいけないのならば片想いだっていけないはずです。恋人をつくってはいけないけれど、片想いはいい。それは一体どういうことなのでしょう。矛盾なのではないでしょうか。
 ファンが夢見て恋するアイドルでいるためには、大好きなアイドルが片想いをしている事だって、ファンからしてみれば十分面白くないことだと思うのです。本当は内心に好きな人がいながら、テレビカメラに向かって恋人はファンだよ、なんていう事自体、音也は裏切りじゃないかと思う時があるのです。だから音也はファンに向かって、皆が大事で大好きで、俺の歌で元気になってね、という嘘偽りない真実を伝えるようにしています。それが応援してくれるファンへの礼儀だと思うからです。
 両想いの相手がいるとファンがそっぽを向くのがアイドルという職業だと言うのでしょうか。だから恋愛それ自体を全て禁止するのが正しいのでしょうか。けれど別の事務所では結婚してもアイドルとして頑張っている人を音也は知っていますし、また別の事務所のアイドルは恋人を公表しないまでも、お付き合いを上手に隠せるなら黙認扱いだと言っている人もいます。シャイニング早乙女が恋愛をすることによるリスクを須らく潰そうとして恋愛を禁止しているとすれば、随分臆病な話ではありませんか。

 そんな事を音也はレンに言った事があります。何の折だったでしょうか、音也はあまり覚えていませんが、偶然ロケバスでレンと二人きりになった時があったのです。音也はその時、さも思いついて話し出した風を装ったのですが、今思い出すと、ずっと前からレンにこのことについてどう考えているのか聞きだしたかったのかもしれません。
 このことについては、何についても分かりやすく教えてくれる真斗ではなく、ましてや理想よりも現実と現状をと適切に勘案できるトキヤでもいけなかったのです。いえ、そんなものは建前で、音也にとってはトキヤだけは絶対にダメだったというのが正しいでしょうか。
 ――そう、イッキの言う通りさ。最初から恋愛禁止令なんてね、破綻してるんだ。破綻していると分かっているからこそ、指摘されるとボスは怒るのさ。
 音也の疑問に、レンはそんな言葉をウインクと一緒に寄越しました。
 音也は思いがけない言葉にびっくりしてしまって、ぱちぱちと瞬きをしながらレンを見つめ返した事を覚えています。
 ――おかしいと思わないかい?アイドルは恋愛をしてはいけない、というのはビジネス上の話としては分かるけれど、要はイッキの言う通り、バレないように上手くやればいいと言う話だろう?もちろん雑誌に載って痛手を負う事はあるだろうけど、それは自己責任だ。ましてや恋愛してボスの怒りに触れた時はこの業界から追放になることもある、なんて幾らなんでも横暴さ。だって恋愛をすることと、この業界にいられなくなることは全く別の問題だろう?要はボスの気にくわないかどうかの話だ。こんなのは気ままな専制政治と同じだと思うよ、俺はね。
 続けられた言葉に音也はますますびっくりしてしまいました。レンならば、アイドルだから恋愛出来ないのは仕方ない、と言うとは思っていませんでしたが、ここまではっきりとシャイニング早乙女の考えを否定する事を言うとは思っていなかったからです。レンはシャイニング早乙女の方針に反発していないように見えていましたし、彼の事をボス、と呼んでいて尊敬しているように見えたからです。
 ――ん?意外そうな顔だね?イッキ。俺もボスのいう事がおかしいと思う事は結構あるんだよ?まぁ俺に弊害が無いから気にしないだけで。そういう所は狡い大人とたいして変わらないのさ。俺が思うに、ボスは恋愛するアイドルに対して何かしら過去の禍根があるんだろうさ。憎悪にも似た何かさ。きっと恋愛に対する過剰な反応と排他的な姿勢はそこからきてるんじゃないのかな。
 後半の話になってくるとレンは少し難しい言い回しをしたので、音也は少し首を傾げました。けれどレンの言いたい事は大体わかったので、神妙に頷いて見せると、こんな事を言うのはイッキだけだから内緒だよ?と、そんな風に言いながらウインクをしたレンは、最後にいたずらっ子のように笑ったのでした。



 何故か音也はそんな事をぼんやり思い出しながら、一生懸命鍵を鍵穴に押し込もうとしたのですが、中々上手く行きません。鍵が滑って鍵穴に上手く刺さらないのです。それはどうやら音也自身の手が動揺で滑っているからなのでした。
 けれど気が動転しきっている音也はその事に気が付きません。今日に限って何故こんなに鍵を閉めるのに苦労しているのだろうと思っているほどで、鍵につけているおんぷくんのキーホルダーも鍵が滑るリズムに合わせてせわしなくかちゃかちゃと揺れます。
 宝石を吐いた音也が自失状態から回復し、飛び出した事務所の寮の廊下には音也以外の誰の姿もありませんでした。
 それもそうでしょう、まだ夕方の4時です。同じフロアに住んでいるメンバーは当然のことながらまだ仕事がある時間ですし、音也はたまたま昼からオフだったので、音也自身もこの時間に寮にいるのはとても珍しい事でした。しかし誰の目も無い状況は今の音也にとってはそれは有難いものです。そう思うと余計に、誰かに会う前に今から音也が向かおうとしている場所に早く行かなければと気が逸りました。
 カチャっとやっと鍵が回る音がして、鍵を閉める事に成功した音也は大きく息を吐きました。そうしてポケットに鍵を仕舞いながら顔を上げようとした、その瞬間でした。
「音也?」
 音也の心臓は驚きのあまり、一瞬くるりと裏返りました。思わずポケットからキーを落としたほどで、それは音也の足にぶつかり床を滑り、音也の目の前に立つ人間のまで転がっていきました。
「ト、キヤ…」
 そこにはトキヤがいました。
 いつも通りの隙のない造形の整った顔は音也を見て、少し驚いたように丸くなっています。
「何処かに行くんですか。今日の夕飯は一緒に……って、どうしたんですか、そんなに焦って。というか何ですか、そのマスクは」
 そうでした、音也は思い出しました。今日はトキヤも夕方には仕事が終わって、オフの音也と一緒に夕飯を食べる約束をしていたのでした。メニューは音也がねだってリクエストしたカレーです。つい昨日の事だったのにどうして忘れてしまったのでしょう。トキヤのその右手にはスーパーの袋が握られていて、中からはにんじんのオレンジ色がちらちらと見えています。
 トキヤは音也の顔を暫く見つめていましたが、何も言わない音也に焦れたのでしょう、先に足元に落ちているキーを拾おうとしてその膝を曲げました。
 ダメだ、咄嗟に音也はそう思いました。
 音也はもの吐きの発症者です。吐いたものを触らなければ感染しないとはいいますが、それは絶対でしょうか?間違いなく、例外なく、そうなのでしょうか?数か月前に発見された新種の病だと言うのに、絶対などあるのでしょうか?さっきまで音也の持っていたキーをトキヤが触って絶対に大丈夫だと言う保証はあるのでしょうか?
「…、っ!」
 トキヤがキーを拾う寸前、音也は弾かれたように素早い動きでキーを奪いました。そして驚くトキヤに構わずに、三歩大きく距離を取りました。
「音也?」
 音也の様子に純粋に目を丸くしているトキヤに音也が申し訳ないなと思ったのは一瞬の事でした。音也の顔はすぐに真っ青になってしまいます。どうしてこのタイミングでトキヤに会ってしまったのでしょう。もの吐きを発症して一番最初に、よりにもよってトキヤに。音也の心はすっかり方々に乱れきってしまいました。
「ごめん!ちょっと今から用事が…、お、俺、急に用事が入って行かなきゃいけないんだ。ごめん、カレー、俺から誘ったのに…、た、食べられなくて…」
「いえ、理由があるなら仕方ありませんが…。音也、大丈夫ですか?あなた、顔色が…。それにそのマスク、調子が悪いのですか?風邪ならば早めに休んで…」
 つん、と音也の鼻の奥、そして目の下が熱くなりました。慌てて音也はマスクの下で唇を噛みます。音也がマスクをしているのは、もしも何かを吐き出したとしても咄嗟にマスクの上から押さえれば、誰にも見られずに済むかもしれないという音也が思いついたせめてもの対処でした。もちろん風邪なんかではありません。
 音也はトキヤの返事として、小さく首を振りました。
 今、トキヤの低く、それでいて優しく響く声に促されてしまっては、何を言ってしまうか音也自身にも分からなかったのです。よしんば変な事を言ってしまわずとも、声の調子でトキヤが何かを気付くかもしれません。何故かそういう事に関して、トキヤは名人級の腕前を発揮するのです。それではいけません。もの吐きだとトキヤにバレてしまってはいけません。誰にもバレてはいけません、それが音也の恋です。それが音也の飲み込んでいるものです。
 ごめん、もう一度そんな風に音也は言って、トキヤの焦ったような声に構わず、その場から慌てて走り出しました。



 もしかしたら平日の夕方なんて事務所の社長室にシャイニング早乙女はいないかもしれないと思いましたが、その神出鬼没のボスはその部屋に居ました。秘書の人は何時になく慌てた音也の様子から何かを感じ取ったのか、それともマスク姿のせいなのか、逆に心配されてしまい、アポイントメントが無いのにも関わらずあっさりと部屋に通してもらいました。
「Mr.イットキ、部屋に入る前はまずノックをしてクダサーイ」
 音也が転がり込む様に部屋に入っても、シャイニング早乙女の様子はいつもどおりでした。しかし流石の音也も今日ばかりは何時もの調子で返事をすることができません。何時もの調子のシャイニング早乙女がただそこにいるというだけで、非日常に気が動転していた音也の肩の力がふっと抜けきって、思わず近くのサイドテーブルに手をついてしまったほどです。
「おっさん…俺」
 音也が発した途方に暮れたような声は、まるで施設にいた頃に寮母さんに縋ったその時の声に似ているなと音也は他人事のように思いました。
 そんな音也の姿を見て、シャイニング早乙女はどう思ったのでしょう。音也にとってシャイニング早乙女は不思議で奇抜、そんなイメージだったので、もしかしたらこの病気も気が付いているかもしれないと思いましたが、それはもちろん音也の考えすぎでした。いかにシャイニング早乙女と言っても超能力者ではないのです。
 シャイニング早乙女は音也の途方に暮れている様子に尋常ではない何かを悟って、何時も浮かべている笑顔をすっかり引っ込めてしまいました。
「音也、どうした」
 席を立って音也の所に歩いてくるシャイニング早乙女の姿。その大きな姿に音也の肩から力が抜けて、次にぐにゃんと体の芯が抜かれてしまったようになって、その場にへなへなと座り込んでしまいました。今まで気を張っていたものが全て抜け落ちてしまったかのようです。
 座り込んだ音也の頭の中にぼんやりと浮かんできたのはトキヤの顔でした。手に持っていたスーパーの袋の中に赤色が見え隠れしていた人参。白いパックが見え隠れしていたのはきっとお肉。黄色い箱に赤のラインが入っていたのは市販のカレーのルーに違いありません。音也が食べたいと言ったから、仕事帰りにわざわざ材料を買って帰ってきてくれたのです。トキヤは優しい人なのです。現にさっき会ったトキヤの表情は何時もの様子とは違う音也を気遣っているものでした。
 そんな事を考えた瞬間、喉元を競り上がってくる違和感に音也は眉を寄せました。咄嗟にマスクの上から手で口を覆ったのは殆ど無意識でした。
 コンコン。乾いた咳が二回。
 そして音也がそうっとマスクから手を離し、耳にかかっていたマスクごと外すと、マスクと一緒にぽたんと落ちたのは真っ赤なガーベラと真っ赤なルビーでした。それを見たシャイニング早乙女のサングラスの奥の目が僅かに見開かれます。
「それは…。音也、お前…まさか」
「歌わせて!」
 音也はシャイニング早乙女のジャケットを掴み、まるで縋るように叫びました。
「言わない!告白なんてしない!そんなのそもそも出来ないんだ!俺はアイドルになったんだ!片想いならいいんだろ!?バレないようにする!絶対に誰の前でも吐いたりしない!だからおっさん、歌を、歌を、」
 シャイニング早乙女はこの業界でもかなりのやり手なのです。こんな奇病を患っていると分かれば全ての仕事を取り上げられるかもしれません。音也は誰にも言わずに黙っている事も考えましたが、それはできませんでした。音也はもう社会で働く一人の人間です。勝手な判断をしてはいけないこともしっかり学んでいましたし、自分の行動が世間に影響を及ぼしてしまうことも知っていました。だからこそ、社長だけに音也は全て話すつもりでやってきたのです。
 しかし、どんな奇病になってしまっても音也にだって譲れないものがあるのです。それは歌です。仲間と走るアイドルという道でした。
 例え歌を奪われたとしても、シャイニング早乙女と戦う事も辞さない。そんな心意気だけで、いいえ、音也にはそんな心意気以外には何も無かったのですが、それだけを強く決意していました。それが音也の混乱の中の一つの明確な想いでした。
「俺はこんな変な『もの』を吐くけど、絶対誰の前でも吐かない!誰にも危険を与えたりしない!俺は飲み込める!我慢できる!我慢は慣れてる!だから、だから…!」
 音也はどうしてあの時、あの向日葵を触ってしまったのだろうかと初めて後悔しました。あんなのは事故のようなもので、例えもしあの花が慎重なトキヤに送られたとしても、トキヤでも避けようが無かったでしょう。けれど時間を巻き戻せるなら、あの向日葵を触らずにいたかったのです。絶対に無理だと分かっていても。そうすれば音也は向き合わずに、今も素知らぬ顔をして生きていくことが出来たのです。トキヤの前で友人の顔をして、トキヤのカレーを食べる事が出来たのです。
 けれどもうそれも上手くいくか分かりません。なんせ音也はトキヤの恋の吐露を宝石と花で代わりとしてしまっているのですから。だとしたら音也は守らなければなりません。アイドルの場所を、思う感情を歌えるステージを、仲間とトキヤと肩を並べられるこの世界を。
「この場所だけは奪わないで…!」
 その願いはたった一つの、音也の生きる意味でした。





 トキヤの何処が好きですか?そう聞かれたら音也は少しだけ考えて、こう答えるでしょう。全部だよ、と。
 全部、全部って何だろう、と音也は考えます。
 今まで中学生の頃、音也は何度も女の子から好きです、と告げられた事がありました。もちろん人から好きだよ、と言われて嬉しくないはずがありません。少なくとも音也は与えられる好意を迷惑だと思った事は一度もありませんでした。
 けれど、その後に女の子と付き合うという流がしっくり来なかったのです。もちろん音也は女の子が好きです。白くまろやかな頬は可愛らしいなぁと思うし、朝一生懸命セットしたのであろう艶々した髪は好ましいものですし、細い肩は大事にしてあげなくちゃと言う気を起こさせます。女の子の小鳥の囀る様な可愛らしい声を聞いていると音也の心も癒されます。
 けれど付き合うとなると音也はよく分かりませんでした。いいえ、告白してきた女の子を唯一の女の子に出来るかどうかと言うとそれはもっと良く分からなかったのです。好きと言われてありがとう、と伝えるだけで音也は満たされると言うのに、どうしてその先のステップを進まなければならないのか、理屈では分かっていても、音也の感情がついてこなかったのです。
 だから音也は告白されるとありがとう、と伝え、気持ちは嬉しいけど付き合えないんだ、と答えるようになりました。同級生の男の子からは勿体ないだとか、女の好みがうるさいんだと色々言われましたが、音也は適当に言葉を濁す事を選びました。同級生たちはそんな音也の様子を見て、やっぱりこいつは恋よりもサッカーと歌の事しか考えてないんだな、と笑ってくれました。

 早乙女学園に入ってからは告白されることはありませんでした。恋愛禁止令があったのですから。学園の学生は皆夢を追いかけて来た事もあって、そうそう恋にうつつを抜かすことなんてありませんでしたし、恋を選んだ人は学園を去って行きました。学園に在籍すると言う事は恋と夢を天秤にかける事が求められる事と同じでもありました。
 そうして音也と言えばその校則に疑問を感じながらも、告白されて断ると言う一連の流れが無くなったことで、少しばかり安心していたのも事実でした。アイドル養成校だけあって、女の子の目鼻立ちが整っている子が多いのと同じくらい男の子も目鼻立ちが整っています。その最たる例が音也にとってはトキヤの顔でした。これほど寸分の狂いもなく配置された顔があるなら、女の子は皆そっちにいってしまうだろうと思うのと同時にそれは音也が女の子に告白されて断ると言う、嬉しいのに何処か申し訳なくなるイベントが無くなると思ったのです。
 けれど音也は、なんということでしょう、そこで恋を――音也からすっかり遠ざかるはずのものにすっかり足を掬われてしまったのです。
 嬉しくて少し気まずい恋の相手に選ばれない場所で、音也は恋の相手を選ぶ側になってしまいました。
 しかも恋をした、ただそれだけではありません。音也が恋に落ちてしまった相手は、同室の相手で、ライバルで、男だったのです。二重苦、三重苦では済まない、男女の恋さえ認められない環境の中で、世間ではまだまだ認められないスタートに踏み切るのも躊躇う辛い恋でした。
 その時音也は気が付きました。中学生の頃、告白してきた女の子たちがその先を望む気持ちを。それはきっと手をつなぐ事だったり、特別な話題を共有する事だったり、他の友人よりも優先する特別だったり、もっともっと多くを望む気持ちだったのです。
 こんな気持ち、愛の告白だけで終わるわけが無かったのです。それはとても強いもので、いつもより沢山泣いたり、笑ったり、ワクワクしたり、苦しくなったり、わがままになったりする、そんな気持ちなのでした。相手の全部が好きになって、相手の全部が欲しくなる、そんな気持ちです。そして中学生だった頃の自分は恋が何たるものなのか、恋の歌をギター片手に歌っていたのに知らなかった事にも気が付きました。音也は改めて、あの頃告白してくれた女の子たちに申し訳なかったな、という気持ちを強くしたのです。

 音也はようやく恋を知りました。
 けれど音也はそんな強くて大きい気持ちを飲み込んでしまうことに決めたのです。
 ごくんと恋心ごと飲み込んで心臓よりももっと奥、臓腑の下の方に隠してしまうことにしました。この想いは相手を幸せにすることはありません。アイドルは恋愛禁止、下手をすれば業界追放。それどころかこの国では片想いも許されない同性に対する想い。何事にも潔癖のきらいがあるほど厳しくストイックなトキヤの事ですから、音也の事を迷惑に思う事も簡単に想像できました。そんなのは音也は耐え切れません。トキヤの傍で笑って、歌って、お小言を言われて、トキヤに構ってもらえる場所を失う事はどうしても出来なかったのです。
 だから音也は何もかもを飲み込んで、友人として能天気と言われるほどに笑い続ける事に決めたのです。






「――ものはき病ですね」
 そう告げられた言葉に音也はとりあえず「…はい」という何ともどっちつかずな言葉しか返すことが出来ませんでした。口から宝石と花を吐きだすなど、ものはき病以外にありえないと最初から分かっていた事なのですから。

 昨日の夕方、事務所で音也が途方に暮れて零した悲鳴めいた本音を聞いたシャイニング早乙女の対応は、それはそれは早いものでした。その場で携帯を開いて何処かに電話を掛けたかと思うと、社長は音也に朝になればこの場所に行くように、とある有名な大学病院の名前と大学教授の名前をしたためたメモを渡しました。
 その病院の教授は感染症研究では国内の先陣を切っている人物で、ものはき病でも国内の事例を取りまとめているのだそうです。
 きっとお前を助けてくれるだろう、ともシャイニング早乙女は言いました。
 シャイニング早乙女は音也にアイドルの仕事を自粛しろとは言いませんでした。音也の必死の嘆願のおかげなのかは音也には分かりません。ただ、他人に感染させないように気を付けろ、それが出来なければ仕事は控えさせる、と重く言っただけでした。

 そうして世間の出勤時間よりも随分と早い時間、音也は一人早朝の電車を乗り継いで大学病院を訪れました。音也は入院施設もある大きな病院は母親の事を思い出して好きではありませんでしたが、そこはぐっと我慢をしました。
 通用口から入り、人の姿の無い閑散とした病院内の診察室の一つに通された音也は、一見医者には見えない優しそうな表情をした教授に一連の症状の説明をし、吐いたガーネットとルビー、そしてガーベラを見せると、その医者は納得したように頷いて、冒頭の一言を言ったのです。
 音也はきっと余程不安そうな表情をしていたのでしょう、上品な髭を蓄えた教授は安心させるように表情を少し和らげて続けました。
「きっと知っているとは思うんだけれどもね、この病気には治療薬というものは無いんだ。今も無い。外国の研究所で研究は進んでいるけど、まだ形にさえなっていないし、そもそもこの病気のメカニズムもよく分かっていない。治療薬が出来るとしたら何年も先の事になるね。分かっている事は、病原菌の保有者の中でも我慢して我慢している人だけが発症して、どうしてか何故かありえない『もの』を吐いてしまう。一十木君の場合は紅い宝石と紅い花だね。治すには我慢している言葉を言うしかない。いや、違うね、正確に言うのならば『そうやって行動した人のみが治っている』という事しか確認できてないんだ」
 その言葉は藁をもすがる思いでこの病室を訪れた音也の眉をすっかり下げさせるには十分な言葉でした。つまり音也が知っている以上の事は明らかになっていないのと同じことです。
「俺、それだと困るんです!何とかして吐く回数を減らすことはできませんか。このまま吐くと仕事にも、」
「……一十木君、この症状を治したいとは?」
 教授の瞳の優しげな表情の中には直接の解決方法を選ぼうとはしない音也の真意を探る色が見え隠れしていました。音也は目を逸らします。だって無理なのです。例え目の前の教授にも、病気を治す鍵を持つトキヤにも、信頼のおける仲間にも、それは誰にも言えない事でした。
「…思いません」
「じゃあ少し話を変えよう。実はね、手立てはゼロと言うわけでは無いんだ。ある方法で発症した人も若干の症状の改善が見られたんだ。例えば一つ例を挙げると、上司に対して言いたい事を言えないままで我慢してもの吐きになってしまった男性は、専門家の人との面談を受けて、考え方と、自分の思う事を伝える方法を訓練したんだ。すると少しずつだけなんだけど、吐く頻度は落ちてきているんだね。これが今最ももの吐きに対して有益なやり方と言えるんだ」
 それを恐らくカウンセリングと言うのだろうと音也は思いました。施設に居た時に、どうしようもなく泣く子や、どうしようもなく体調が悪くなってしまう小さな子達がいました。その時は必ず優しげな顔をしたおばさんが施設にやってきて、別室で話をしていたのです。それがきっとカウンセリングと言うものなのだろうと音也が知ったのはずっと後、学園に入ってから色んな環境で育ってきた人と切磋琢磨する中の事です。
 音也はすっかりがっかりしてしまって、手立てはゼロじゃないという教授の言葉に乗り出しかけた身を引きました。
「俺の場合は無理です」
 音也は言い切りました。ダメ、でもなく、嫌、でもなく、無理、なのです。それは音也にとって無理な話で、恋心を抱えて殺そうと足掻いている人間が、誰かと話をすることで解決を望むなどありえないからです。カウンセリングの中で一緒に吐く頻度を減らすトレーニングをするなど、それはもう土台無理な話なのです。
 なおも頑なに首を振った音也に教授は優しく続けました。早乙女も心配していたよ、と。
「一十木君、君の職業が世間一般よりは多少特殊なのは分かっているつもりだよ。けれどね、もの吐きに関わらず、心が弱った人が体調を崩して気持ちが悪くなったり、食べたものを吐いてしまう、というのは珍しい症状じゃないんだね。病名をつけて色々分析するのは容易いんだけれも、私のあまり好きじゃない症状の解釈をすると、吐くと言うのは我慢し続けている事を言えない代わりに体が反応してしまう症状だと明言する医者もいるんだ」
 それでも音也は首を振りました。
「でも俺はまだ大丈夫です。昨日も吐いたのは二回だし、俺、昨日の夜、対処方法も見つけたんです。少し気持ち悪いと思った時に喉の奥をぐっと飲み込むようにすると、宝石も花も吐かないで済む事も気が付きました」
「それでもね、それでもだ、一十木君。今はそれで対処できるかもしれない。でも吐きかかったものを…体が一生懸命吐こうとしているものを、余計にもう一度飲み込んでいる事には変わりないんだよ」
 教授の言う事は最もな事でした。しかし音也はそれに頷くことは出来ないのです。

 教授は音也の固い意志を変える事は出来ないと分かったのか、この程度の吐く頻度ならば仕事をしてもいいが、病状が重くなれば色々と考えなければならない、くれぐれも注意をすることを強く言いました。
「俺…そのままの生活を送っていてもいいんですか?」
「今の段階では感染初期で一日の嘔吐回数が少なければ日常生活の中で対処してもらうようにしているんだ。感染者を全員入院させることは現実問題不可能で、キャリアの数を入れると途方もないからね。その代わり必ず吐き出したものを他人に触れさせないようにしてもらわなけれなならない」
 その言葉を聞きながら、音也はもしかしたらもの吐きの感染者は世間一般で思われているよりずっと多くいるのではないかと思いました。遠い病気だと思っていても、いつも仕事をしているスタッフさんや、街ですれ違う人、そんな人たちにも広まっているのかもしれない、と。そういう人たちも皆日常の中を生きているのでしょう。ある人は我慢をぶちまけて治し、ある人はカウンセリングを受けて症状を改善し、ある人はそのまま放置して効果薬を待ち続けているのでしょう。
「一十木君、何度も言うけれど、吐きそうになってぐっとこらえれば確かに吐かない。そうしてやり過ごしている患者さんを一十木君以外に私は沢山知っている。けれどね、この病気は本当に分からないことだらけなんだ。我慢し続けた人の行く末さえまだどうなるのか分かっていない。だからね本当に、どんな病気でもそうなんだけれどね、何事も、」
 そうして一拍置いて、教授はこんな風に音也に告げました。

 ――拗らせてしまうのはね、本当に、良くないんだ。




【中編に続く】